文化祭を前日に控えた木曜日は、午後七時までの居残りが許可されていた。
なんとか二人で段ボールドームの組み立てを終えたけれど、最後の仕上げとして、窓に暗幕を張る作業が残っている。
倉庫の奥から引っ張り出してきた暗幕を窓際ではたいて、風に通して……なんて作業を繰り返しているうちに、いつのまにか夕空には、一等星がぽつんと灯っていた。
窓の向こう、中庭を挟んだ向かいの校舎にも、まだ準備に追われている人たちがいるんだろう。四角い明かりが、夜の校舎に浮かんでいる。
「なぁ、やっぱ代わるよ。見ててすげー怖いんだけど」
「大丈夫! でも、もし墜落しそうになった時は、巻き込まれないように俺のこと避けてね」
「松田はいつからそんな無謀なパイロットになったの? ……まあ、アスパラでも俺が下でちゃんとキャッチしてやるから安心して」
柏木くんは、あのアスパラ発言を相当気に入ったらしい。笑いながら「はい」と暗幕を手渡され、俺はカーテンフックを一つずつ穴に差し込んでいく。
ただ布を取り付けているだけなのに、腕はじんじんと痺れるほど重かった。もし柏木くんが手伝ってくれていなかったら、中途半端なまま本番を迎えることになっていたかもしれない。
「……お疲れ。すげー頑張ったじゃん」
「柏木くん、手伝ってくれてどうもありがとう」
脚立から降りて振り返ると、満面の笑みを浮かべた柏木くんが、ハイタッチを求めて両手のひらを向けていた。
慣れない俺がぎこちなく「イェーイ」と手を合わせに行くと、パチンという乾いた音の代わりに、ぴたっ、と柔らかく手のひらが重なり合う。
そのまま自然な動作で指を絡められ、こてんと首を傾げた。ハイタッチって、こんなに密着するものだっけ?
そっと握り返すと、柏木くんは途端に目を泳がせ、慌てるようにするりと手を離した。
「……試しに、電源つけてみる?」
「あ、その前にちょっと……柏木くんに、ひとつお願いがあるんだ」
「ん、なに。いくらでも聞くけど」
柏木くんの写真を見せてもらってから、ずっと頭の中から離れずにいるアイディアがあった。それを提案するタイミングは、きっと今しかない。
「もし良ければなんだけど、柏木くんが撮った写真を、何枚かこのドームの中で上映させてもらえないかな」
「……え、文化祭で、ってこと?」
やっぱり、嫌だったのかもしれない。
どう説得しようかと言葉に詰まり、口を開きかけたまま、逃げるように視線を床へと落とす。
ひと呼吸置いてから、拳をきゅっと握りしめて、俺はもう一度顔を上げた。
「あの、柏木くんの星景写真……あんな風に空気まで写せるのって、本当に星が好きな人にしか出来ないと俺は思ってて」
「マジで? まさか、そこまで気に入ってもらえるとは」
「冷やかされたりしたら嫌だなっていうのは分かる。でも、それだけで隠しておくのは絶対に勿体ないよ。もっと沢山の人に見てもらう価値があると思う。だから……」
「……いいよ。全然いいよ」
断られるかもしれない、と身構えていたのが拍子抜けするほどの即答だった。
「むしろ俺の写真なんかでいいの? って感じだけど……そんなふうに言ってもらえて嬉しいよ。松田がそこまで気に入ってくれたなら、ぜひ使ってほしい」
「本当に!?」
飛び上がりたいほど嬉しい。けれど、目の前の柏木くんは、俺以上に嬉しそうな表情を浮かべている。
この最高の写真を、最高の形で投影したい。
気合を入れ直して、柏木くんの撮影データをパソコンへと転送する。プロジェクターの歪みを丁寧に補正し、ドームの丸みにぴったり合わせていく作業を、柏木くんは「すげぇ」と感嘆の声を漏らしながら見守っていた。
「よし、これで大丈夫だと思う。柏木くん、電気を消してもらっていい?」
「オッケー。いくよ」
パチッ、と柏木くんがスイッチをオフにすると、部室が真っ暗闇に包まれた。窓を覆った暗幕の効果は文句なしだ。
ドームの内側に潜り込み、身を寄せ合うように、柏木くんと体育座りでぴったり隣に並ぶ。
しん、と静まり返る無音に緊張しながら、キーボードのエンターキーを押した次の瞬間、プロジェクターから放たれた強い光が、ドームいっぱいに広がった。
「……うわぁ」
思わず声が漏れた。深い深い、吸い込まれそうな夜空の青。柏木くんが切り取った星空のきらめきが、頭上から足元までをぐるりと包み込んでいく。
その景色は、これまでの苦労が全部吹き飛ぶくらいに、最高に綺麗だった。
「柏木くん、自分で言うのもなんだけど、これって大成功じゃない!?」
ピロン、と静かなドームの中に、軽やかな電子音が響く。
横を見ると、柏木くんがスマートフォンをこちらに向けていた。レンズの小さなガラスが、プロジェクターの光を反射してキラリと光る。
「え、柏木くん。もしかして、俺のことを撮った……?」
「うん。バッチリ撮った」
「なんで!?」
「松田がめちゃくちゃいい顔をしてたから」
柏木くんはスマートフォンをワイシャツの胸ポケットに収めると、星明りの中でじっと俺の顔を見つめてきた。
さっきまで吹奏楽部の合奏や、廊下を駆けていく足音、笑い声が響いていたはずなのに。まるで柏木くんと星空にふたりだけで放り出されたみたいに静かだった。
教室で偶然目が合った時とは違って、肌が粟立ち、指先が緊張で冷えていくのが分かった。なのに、なぜか頬だけはずっと熱いままだ。
「松田のいろんな表情を見るたびに、頭の中でシャッターが鳴り続いてる」
はっきりと言い切られて、口をぽかんと開いたまま固まってしまった。
何か相槌を打たなきゃいけないのに、「そっか」も「そうなんだ」も違う気がして、頭の中で言葉が激しく追いかけっこしている。
「…………てか、そろそろ、休憩しよう。俺、さっき購買で色々買っといたから」
「あっ、うん、そうだね。お腹が空く時間だし」
気まずさを誤魔化したくて、わざと明るい声で返事をすると、柏木くんはドームの外に置いてあったスクールバッグを引き寄せた。
おにぎりと、少し冷めてしまった肉まん。それから、自販機で買ったらしいコーンスープの缶を、一つひとつ手渡してくれる。
「うわ、すごい。和食と中華と洋食、全部集めたみたいな並びだね」
「よくよく考えたら、俺、松田の好きなメシは知らないなと思って。とりあえず、まんべんなく買ってきたつもり」
「全部、好きなものばかりだよ。これはもう、世界を統べしラインナップ!」
「っふ、あははっ! なら良かったわ。手当たり次第に突っ込んできた甲斐あった」
おにぎりのフィルムを剥きながら、ふと見上げると、プロジェクターにはさっきと違う星空が映し出されていた。
宵の口の空のてっぺんには、夏の大三角が名残惜しそうに輝いている。もぐもぐと口を動かしながら見つめていると、すぐ隣から視線を感じた。
「食ってる時の松田、やっぱすっげぇ可愛いよな」
「えっ、俺が気づかないうちに、『意味が分かると怖い話』でも始まった?」
「違う。なんかカワウソの仲間みたいに見えるんだよ」
「柏木くん、カワウソの仲間には『ラーテル』っていうのがいるんだよ。ライオンの群れに一匹で突撃できるくらい強いんだ」
「何それ、松田最強じゃん。まぁ、おっとりしてるようで、意外と男気あるけどさ」
俺が何か喋るたびに、柏木くんは「ははっ」と声を上げて笑う。
こんな他愛のない話でいいなら、いくらでも笑ってほしい。柏木くんが笑ってくれるだけで、自分の心まで柔らかく緩んでいく。それだけで、普段はからかわれる俺の「天然」も、丸ごと肯定されているような気がした。
「一週間、俺の地味な作業に付き合ってて、退屈じゃなかった?」
「退屈だったら毎日来ないって。最初は壊した申し訳なさもあったけど……プラネタリウムが完成するのを、松田の隣で見届けたくて」
「さっき、柏木くんがすごく嬉しそうに笑ってくれたの見て、心の中でガッツポーズしちゃったよ」
「そんなに俺、笑ってた? 松田のガッツポーズとか、あんまイメージ湧かないけど。どんなん?」
「こうして、よっしゃー! って」
両手でぎゅっと拳を作って、胸の前で何度も小さく腕を引いて見せる。
またさっきみたいに笑ってくれると思ったのに、柏木くんは不意を突かれたように黙ってしまった。
「柏木くん?」
「……やっぱり松田と居る時だけ、子供の頃の自分に戻れる気がする」
「子供の頃、って……?」
「相手にどう思われるかなんて考えずに話せるっていうか。そのまんまの自分で居られる」
柏木くんの切なげな横顔から、ずっと置き去りにしてきた寂しさみたいなものが、痛いほどに伝わってくる。
床に置かれた手を温めるように、俺は両手でそっと包んだ。
「本当は、手伝ってくれた時からずっと気になってたんだ。柏木くん、いつも無理して、周りに合わせてるように見えるから。大丈夫なのかなって、勝手に心配で」
「いや、平気だって。無理っていうか、周りに合わせて『擬態』してるだけだから」
「でも……それって、いつか疲れちゃうんじゃないかな」
「……俺は松田と違って、星景が好きなことも、写真家になりたい夢も、周りにバカにされるのが怖いだけだよ。……幻滅した?」
「するわけない。俺が言いたいのはそうじゃなくて……っ」
「中途半端な気持ちで揺らいでるのがダサいのは、誰よりも自分が一番よく分かってるつもりだから」
苦しそうに吐き出された本音が、胸の奥にずしんと重くぶつかる。
いつも完璧で、格好よくて、遠い存在だと思っていた柏木くんの脆い内側に、かさぶたみたいな傷がある。
気づいた時には、包んだはずの手にぎゅっと力を込めていた。
「北極星だって、本当は揺れてるんだよ!」
柏木くんが目を丸くし、あっけにとられたように俺を見る。
突拍子もないことを言い出した自覚はあったけれど、一度あふれ出した言葉は、もう自分でも止められなかった。
「北極星は絶対に動かない星だって言われてるけど、本当は揺れてる。それが小さすぎて、学術的にはなかったことにされているだけで」
「……松田?」
「だから、その、俺が言いたいのは……。星だって揺れるんだから、柏木くんの気持ちが、グラグラ揺らいだりしたって、全然いいんだよ。そういう人間らしいところも含めて、そのままの柏木くんがいい。そう思う人が、きっと沢山いるよ。俺も、そのうちの一人だし!」
見渡す限りの星空の中で、柏木くんが小さく息を呑んだのが分かった。
「俺の夢はね、じいちゃんと同じ大学院を出て、天文台の職員になることなんだ。もしその夢が叶ったら、柏木くんの写真を天文台の展示室で一番いい場所に、圧倒されるくらいでっかく飾るって約束する! 俺は柏木くんの夢を絶対に笑ったりしないよ、だから……」
熱くなりすぎたことに気づいて、ぱっと手を離した。
それなのに、離したはずの手のひらは、いつまでもぽかぽかと温かい。
柏木くんが苦しそうな顔をしているのは嫌だ。だから、どうにかその痛みをすべて取り除いてあげたい一心だった。
「……ありのままの柏木くんでいいんだよ。そのままでいてほしい、って思う」
励ますつもりだったのに、急に鼻の奥がつんと痛んだ。視界に広がる星々がぼんやりと滲んで、揺れている。
伝えたい、分かりたい、柏木くんの全部を受け止めたい。
いつから俺は、こんなに柏木くんのことばかりを必死に考えるようになったんだろう。
その声が聞こえると自然とそっちを振り向いてしまうし、校門で別れた後も、家に帰ってからも、柏木くんの存在は胸の中で消えないまま、ずっと優しい星あかりみたいに残り続けている。
堰を切ったように目頭が熱くなり、涙がぽろぽろと頬を伝い落ちた。こんなつもりじゃなかったのに。自分でももう、何が何だか分からない。
ただ、胸の奥がぎゅうっと切なく締め付けられて、涙がどうしても止まってくれなかった。
「ご、ごめ――」
慌てて制服の袖で目を擦っていると、視界がふっと暗くなり、気付いたら俺は柏木くんに抱き寄せられていた。
背中に回された、大きな手のひら。
プロジェクターの光がふっと消え去ったドームの狭い闇の中で、どうしていいか分からなくなった俺の両手は、二つの身体の間で、小さな拳をぎゅっと握りしめることしか出来なかった。
「悪い、泣かせて」
「か、柏木くん……」
「松田がそこまで必死に、俺のこと考えてくれてたなんて思ってもみなかった」
耳元で囁かれる低い声が優しくて、涙がまた溢れ出す。
それを柏木くんは、撫でるようにそっと親指で優しく拭ってくれた。
――キーンコーンカーンコーン……。
下校を告げるチャイムの音が鳴った後、さわさわと砂が流れるようなノイズと共に、黒板の上のスピーカーから校内放送が流れてきた。
『えー、生徒の皆さん。完全下校五分前になりました。各教室は施錠をして、速やかに職員室へ鍵を返却しに来てください』
アナウンスが終わると、柏木くんはゆっくりと身体を離して、ふう、と息を吐き出した。
さっきまでの、世界に二人きりしかいないような、息が詰まりそうなドキドキも、一気に現実に引き戻されていく。
「……一旦、出ようか」
黙って天井の星を見上げていた柏木くんは、ドームを出て椅子にまとめておいた荷物を手に取ると、ブレザーを羽織って部室の出口へと向かった。
からからに渇いた喉のまま、おぼつかない足取りでその後を追う。
「あのさ、松田」
顔を上げた先――柏木くんが、こっちを振り向いて言った。
「明日……文化祭が終わったら、残って俺のことを待っててほしいんだけど」
「え……?」
「松田にちゃんと言いたいことがあるんだ。明日の放課後、もう一度、二人だけで話そう」
目を瞬かせる俺に、柏木くんが甘ったるい笑みを浮かべて返事を待っている。
その背中の向こうでは、強く光り出した本物の星たちが、静かにきらきらと輝いていた。
なんとか二人で段ボールドームの組み立てを終えたけれど、最後の仕上げとして、窓に暗幕を張る作業が残っている。
倉庫の奥から引っ張り出してきた暗幕を窓際ではたいて、風に通して……なんて作業を繰り返しているうちに、いつのまにか夕空には、一等星がぽつんと灯っていた。
窓の向こう、中庭を挟んだ向かいの校舎にも、まだ準備に追われている人たちがいるんだろう。四角い明かりが、夜の校舎に浮かんでいる。
「なぁ、やっぱ代わるよ。見ててすげー怖いんだけど」
「大丈夫! でも、もし墜落しそうになった時は、巻き込まれないように俺のこと避けてね」
「松田はいつからそんな無謀なパイロットになったの? ……まあ、アスパラでも俺が下でちゃんとキャッチしてやるから安心して」
柏木くんは、あのアスパラ発言を相当気に入ったらしい。笑いながら「はい」と暗幕を手渡され、俺はカーテンフックを一つずつ穴に差し込んでいく。
ただ布を取り付けているだけなのに、腕はじんじんと痺れるほど重かった。もし柏木くんが手伝ってくれていなかったら、中途半端なまま本番を迎えることになっていたかもしれない。
「……お疲れ。すげー頑張ったじゃん」
「柏木くん、手伝ってくれてどうもありがとう」
脚立から降りて振り返ると、満面の笑みを浮かべた柏木くんが、ハイタッチを求めて両手のひらを向けていた。
慣れない俺がぎこちなく「イェーイ」と手を合わせに行くと、パチンという乾いた音の代わりに、ぴたっ、と柔らかく手のひらが重なり合う。
そのまま自然な動作で指を絡められ、こてんと首を傾げた。ハイタッチって、こんなに密着するものだっけ?
そっと握り返すと、柏木くんは途端に目を泳がせ、慌てるようにするりと手を離した。
「……試しに、電源つけてみる?」
「あ、その前にちょっと……柏木くんに、ひとつお願いがあるんだ」
「ん、なに。いくらでも聞くけど」
柏木くんの写真を見せてもらってから、ずっと頭の中から離れずにいるアイディアがあった。それを提案するタイミングは、きっと今しかない。
「もし良ければなんだけど、柏木くんが撮った写真を、何枚かこのドームの中で上映させてもらえないかな」
「……え、文化祭で、ってこと?」
やっぱり、嫌だったのかもしれない。
どう説得しようかと言葉に詰まり、口を開きかけたまま、逃げるように視線を床へと落とす。
ひと呼吸置いてから、拳をきゅっと握りしめて、俺はもう一度顔を上げた。
「あの、柏木くんの星景写真……あんな風に空気まで写せるのって、本当に星が好きな人にしか出来ないと俺は思ってて」
「マジで? まさか、そこまで気に入ってもらえるとは」
「冷やかされたりしたら嫌だなっていうのは分かる。でも、それだけで隠しておくのは絶対に勿体ないよ。もっと沢山の人に見てもらう価値があると思う。だから……」
「……いいよ。全然いいよ」
断られるかもしれない、と身構えていたのが拍子抜けするほどの即答だった。
「むしろ俺の写真なんかでいいの? って感じだけど……そんなふうに言ってもらえて嬉しいよ。松田がそこまで気に入ってくれたなら、ぜひ使ってほしい」
「本当に!?」
飛び上がりたいほど嬉しい。けれど、目の前の柏木くんは、俺以上に嬉しそうな表情を浮かべている。
この最高の写真を、最高の形で投影したい。
気合を入れ直して、柏木くんの撮影データをパソコンへと転送する。プロジェクターの歪みを丁寧に補正し、ドームの丸みにぴったり合わせていく作業を、柏木くんは「すげぇ」と感嘆の声を漏らしながら見守っていた。
「よし、これで大丈夫だと思う。柏木くん、電気を消してもらっていい?」
「オッケー。いくよ」
パチッ、と柏木くんがスイッチをオフにすると、部室が真っ暗闇に包まれた。窓を覆った暗幕の効果は文句なしだ。
ドームの内側に潜り込み、身を寄せ合うように、柏木くんと体育座りでぴったり隣に並ぶ。
しん、と静まり返る無音に緊張しながら、キーボードのエンターキーを押した次の瞬間、プロジェクターから放たれた強い光が、ドームいっぱいに広がった。
「……うわぁ」
思わず声が漏れた。深い深い、吸い込まれそうな夜空の青。柏木くんが切り取った星空のきらめきが、頭上から足元までをぐるりと包み込んでいく。
その景色は、これまでの苦労が全部吹き飛ぶくらいに、最高に綺麗だった。
「柏木くん、自分で言うのもなんだけど、これって大成功じゃない!?」
ピロン、と静かなドームの中に、軽やかな電子音が響く。
横を見ると、柏木くんがスマートフォンをこちらに向けていた。レンズの小さなガラスが、プロジェクターの光を反射してキラリと光る。
「え、柏木くん。もしかして、俺のことを撮った……?」
「うん。バッチリ撮った」
「なんで!?」
「松田がめちゃくちゃいい顔をしてたから」
柏木くんはスマートフォンをワイシャツの胸ポケットに収めると、星明りの中でじっと俺の顔を見つめてきた。
さっきまで吹奏楽部の合奏や、廊下を駆けていく足音、笑い声が響いていたはずなのに。まるで柏木くんと星空にふたりだけで放り出されたみたいに静かだった。
教室で偶然目が合った時とは違って、肌が粟立ち、指先が緊張で冷えていくのが分かった。なのに、なぜか頬だけはずっと熱いままだ。
「松田のいろんな表情を見るたびに、頭の中でシャッターが鳴り続いてる」
はっきりと言い切られて、口をぽかんと開いたまま固まってしまった。
何か相槌を打たなきゃいけないのに、「そっか」も「そうなんだ」も違う気がして、頭の中で言葉が激しく追いかけっこしている。
「…………てか、そろそろ、休憩しよう。俺、さっき購買で色々買っといたから」
「あっ、うん、そうだね。お腹が空く時間だし」
気まずさを誤魔化したくて、わざと明るい声で返事をすると、柏木くんはドームの外に置いてあったスクールバッグを引き寄せた。
おにぎりと、少し冷めてしまった肉まん。それから、自販機で買ったらしいコーンスープの缶を、一つひとつ手渡してくれる。
「うわ、すごい。和食と中華と洋食、全部集めたみたいな並びだね」
「よくよく考えたら、俺、松田の好きなメシは知らないなと思って。とりあえず、まんべんなく買ってきたつもり」
「全部、好きなものばかりだよ。これはもう、世界を統べしラインナップ!」
「っふ、あははっ! なら良かったわ。手当たり次第に突っ込んできた甲斐あった」
おにぎりのフィルムを剥きながら、ふと見上げると、プロジェクターにはさっきと違う星空が映し出されていた。
宵の口の空のてっぺんには、夏の大三角が名残惜しそうに輝いている。もぐもぐと口を動かしながら見つめていると、すぐ隣から視線を感じた。
「食ってる時の松田、やっぱすっげぇ可愛いよな」
「えっ、俺が気づかないうちに、『意味が分かると怖い話』でも始まった?」
「違う。なんかカワウソの仲間みたいに見えるんだよ」
「柏木くん、カワウソの仲間には『ラーテル』っていうのがいるんだよ。ライオンの群れに一匹で突撃できるくらい強いんだ」
「何それ、松田最強じゃん。まぁ、おっとりしてるようで、意外と男気あるけどさ」
俺が何か喋るたびに、柏木くんは「ははっ」と声を上げて笑う。
こんな他愛のない話でいいなら、いくらでも笑ってほしい。柏木くんが笑ってくれるだけで、自分の心まで柔らかく緩んでいく。それだけで、普段はからかわれる俺の「天然」も、丸ごと肯定されているような気がした。
「一週間、俺の地味な作業に付き合ってて、退屈じゃなかった?」
「退屈だったら毎日来ないって。最初は壊した申し訳なさもあったけど……プラネタリウムが完成するのを、松田の隣で見届けたくて」
「さっき、柏木くんがすごく嬉しそうに笑ってくれたの見て、心の中でガッツポーズしちゃったよ」
「そんなに俺、笑ってた? 松田のガッツポーズとか、あんまイメージ湧かないけど。どんなん?」
「こうして、よっしゃー! って」
両手でぎゅっと拳を作って、胸の前で何度も小さく腕を引いて見せる。
またさっきみたいに笑ってくれると思ったのに、柏木くんは不意を突かれたように黙ってしまった。
「柏木くん?」
「……やっぱり松田と居る時だけ、子供の頃の自分に戻れる気がする」
「子供の頃、って……?」
「相手にどう思われるかなんて考えずに話せるっていうか。そのまんまの自分で居られる」
柏木くんの切なげな横顔から、ずっと置き去りにしてきた寂しさみたいなものが、痛いほどに伝わってくる。
床に置かれた手を温めるように、俺は両手でそっと包んだ。
「本当は、手伝ってくれた時からずっと気になってたんだ。柏木くん、いつも無理して、周りに合わせてるように見えるから。大丈夫なのかなって、勝手に心配で」
「いや、平気だって。無理っていうか、周りに合わせて『擬態』してるだけだから」
「でも……それって、いつか疲れちゃうんじゃないかな」
「……俺は松田と違って、星景が好きなことも、写真家になりたい夢も、周りにバカにされるのが怖いだけだよ。……幻滅した?」
「するわけない。俺が言いたいのはそうじゃなくて……っ」
「中途半端な気持ちで揺らいでるのがダサいのは、誰よりも自分が一番よく分かってるつもりだから」
苦しそうに吐き出された本音が、胸の奥にずしんと重くぶつかる。
いつも完璧で、格好よくて、遠い存在だと思っていた柏木くんの脆い内側に、かさぶたみたいな傷がある。
気づいた時には、包んだはずの手にぎゅっと力を込めていた。
「北極星だって、本当は揺れてるんだよ!」
柏木くんが目を丸くし、あっけにとられたように俺を見る。
突拍子もないことを言い出した自覚はあったけれど、一度あふれ出した言葉は、もう自分でも止められなかった。
「北極星は絶対に動かない星だって言われてるけど、本当は揺れてる。それが小さすぎて、学術的にはなかったことにされているだけで」
「……松田?」
「だから、その、俺が言いたいのは……。星だって揺れるんだから、柏木くんの気持ちが、グラグラ揺らいだりしたって、全然いいんだよ。そういう人間らしいところも含めて、そのままの柏木くんがいい。そう思う人が、きっと沢山いるよ。俺も、そのうちの一人だし!」
見渡す限りの星空の中で、柏木くんが小さく息を呑んだのが分かった。
「俺の夢はね、じいちゃんと同じ大学院を出て、天文台の職員になることなんだ。もしその夢が叶ったら、柏木くんの写真を天文台の展示室で一番いい場所に、圧倒されるくらいでっかく飾るって約束する! 俺は柏木くんの夢を絶対に笑ったりしないよ、だから……」
熱くなりすぎたことに気づいて、ぱっと手を離した。
それなのに、離したはずの手のひらは、いつまでもぽかぽかと温かい。
柏木くんが苦しそうな顔をしているのは嫌だ。だから、どうにかその痛みをすべて取り除いてあげたい一心だった。
「……ありのままの柏木くんでいいんだよ。そのままでいてほしい、って思う」
励ますつもりだったのに、急に鼻の奥がつんと痛んだ。視界に広がる星々がぼんやりと滲んで、揺れている。
伝えたい、分かりたい、柏木くんの全部を受け止めたい。
いつから俺は、こんなに柏木くんのことばかりを必死に考えるようになったんだろう。
その声が聞こえると自然とそっちを振り向いてしまうし、校門で別れた後も、家に帰ってからも、柏木くんの存在は胸の中で消えないまま、ずっと優しい星あかりみたいに残り続けている。
堰を切ったように目頭が熱くなり、涙がぽろぽろと頬を伝い落ちた。こんなつもりじゃなかったのに。自分でももう、何が何だか分からない。
ただ、胸の奥がぎゅうっと切なく締め付けられて、涙がどうしても止まってくれなかった。
「ご、ごめ――」
慌てて制服の袖で目を擦っていると、視界がふっと暗くなり、気付いたら俺は柏木くんに抱き寄せられていた。
背中に回された、大きな手のひら。
プロジェクターの光がふっと消え去ったドームの狭い闇の中で、どうしていいか分からなくなった俺の両手は、二つの身体の間で、小さな拳をぎゅっと握りしめることしか出来なかった。
「悪い、泣かせて」
「か、柏木くん……」
「松田がそこまで必死に、俺のこと考えてくれてたなんて思ってもみなかった」
耳元で囁かれる低い声が優しくて、涙がまた溢れ出す。
それを柏木くんは、撫でるようにそっと親指で優しく拭ってくれた。
――キーンコーンカーンコーン……。
下校を告げるチャイムの音が鳴った後、さわさわと砂が流れるようなノイズと共に、黒板の上のスピーカーから校内放送が流れてきた。
『えー、生徒の皆さん。完全下校五分前になりました。各教室は施錠をして、速やかに職員室へ鍵を返却しに来てください』
アナウンスが終わると、柏木くんはゆっくりと身体を離して、ふう、と息を吐き出した。
さっきまでの、世界に二人きりしかいないような、息が詰まりそうなドキドキも、一気に現実に引き戻されていく。
「……一旦、出ようか」
黙って天井の星を見上げていた柏木くんは、ドームを出て椅子にまとめておいた荷物を手に取ると、ブレザーを羽織って部室の出口へと向かった。
からからに渇いた喉のまま、おぼつかない足取りでその後を追う。
「あのさ、松田」
顔を上げた先――柏木くんが、こっちを振り向いて言った。
「明日……文化祭が終わったら、残って俺のことを待っててほしいんだけど」
「え……?」
「松田にちゃんと言いたいことがあるんだ。明日の放課後、もう一度、二人だけで話そう」
目を瞬かせる俺に、柏木くんが甘ったるい笑みを浮かべて返事を待っている。
その背中の向こうでは、強く光り出した本物の星たちが、静かにきらきらと輝いていた。



