時は大正八十年、帝都・東京。
大正浪漫華やかなりし浅草には日本最古のエレベーターを擁する凌雲閣がそびえ、モダンな煉瓦のビルが立ち並ぶ銀座には服部時計店の時打ちの鐘が鳴り響き、ネオン煌めく港区には東京タワーが夜空を輝かせる。
その足元を闊歩するのは古式ゆかしい袴姿の女学生、インパネスの書生、断髪のモダンガール、アイビールックのシティーボーイ、ソバージュに肩パッドで風を切るボディコンギャルと、文化と流行の百花繚乱。
そんな煌めきと混沌の魔都を鮮やかに駆ける一人の怪盗が、世間を賑わせていた。
その名は三代目二十面相。
あの二十面相の名を借りた不届者とも、正式な孫とも定かではない。
先日も上野の博物館から金の王冠を盗み出したという。
テレビも雑誌も新聞も、正体不明、神出鬼没の大怪盗の話題で持ちきりだ。
だがそんな怪盗の横暴も魔都市の絢爛も、遠く名古屋にまでは届かない。
名古屋の武家屋敷跡地に立つモダンな洋館に暮らす朝倉夕花は、女学校に遅れまいと朝から大忙しで、新聞に目を通す時間もなかった。
慌ただしく家を出る直前に、玄関そばのガラスケースを鏡代わりに、前髪とセーラー服のスカーフを軽く整える。
いつ見ても埃一つついていないガラスケース。
その中には、亡き母である女優・朝倉妙子の写真と形見の真珠のネックレス、そして数々のトロフィーが飾られている。
映画賞の授賞式での煌びやかなドレス姿、宣材写真の微笑みは、永遠に若く美しいまま。
でも、このガラスケースの中に、夕花が向けられてきた、母としての表情はひとつも残っていない。
朝倉妙子は、端役だった新人時代に偶々ある女優の代役として抜擢されたのを機に銀幕スタアへと駆け上がったシンデレラ。
そして、若くして撮影中の事故で亡くなった悲劇のヒロイン。
妙子が所属している事務所はその頃大きな借金を抱えており、タイミングよく妙子の事故死で保険金を得たと言う。
妙子の死は本当に事故なのか、という噂は幼い夕花の耳にまで届いた。
父を知らず母を亡くし一人きりになった夕花は、そんな噂から逃げるように、母の付き人だった志歩を養育者にして、東京から名古屋の別宅へ移り住んだ。
元は妙子の出世作となった映画のロケで使用した屋敷で、思い入れがある屋敷が売り出されると聞いた妙子が、いつか朝倉妙子記念館にするのよ、などと冗談めかして購入していたもの。
玄関のガラスケースは、その言葉がけして冗談ではなかったことを窺わせる。
窓のステンドグラス、天井のシャンデリア。
映画の中で主人公が輝く舞台としては申し分ないが、吹き抜けのロビーは冬場は寒々しく、豪奢な螺旋階段は朝の忙しい時に駆け降りるには不便。
住人は二人なのに部屋数が多く荷物も少ないため、がらんとしている。
それでも、生活の端々で美しい屋敷だと思う程度に愛着はある。
「いってきます、お母さん」
写真の母にそう声をかけて、急ぎ足で玄関を出た。
「いってらっしゃいませ」
「いってきます」
外の掃除をしていた志歩と言葉を交わし、早足で学校へと向かう。
角を曲がりかけて、飛び出してきた男性にぶつかりそうになった。
「失礼」
短く低い声がしたと思ったらあっという間に駆けていく。
近所で見たことのない顔だな、と思ったけど、遅刻しかけていることのほうが大事だから、夕花もそのまま角を曲がって学校を目指した。
息を切らして教室に入ると、クラスメイトの真子が手を振っている。
「おはよう」
「おはよう夕花。走ってくるなんて珍しいわね」
「少し寝坊してしまって」
そう答えて鞄を置くと、隣の席から里穂が話しかけてきた。
「見た?今朝の新聞」
「もちろん!二十面相でしょう?」
真子が声を弾ませて答えたが、夕花は困って微笑むことしかできなかった。
「私、寝坊してまだ目を通していないの」
「じゃあこれ、読んでちょうだい!切り抜いて持ってきたのよ」
「ありがとう」
里穂から受け取った今朝の新聞には、二十面相が大阪の百貨店からサファイアの指輪を盗み出したと大きく報じられている。
昨日の朝に予告状が届き、厳重に警戒されていたにも関わらず、警備員に扮して盗み出すと言う大胆な犯行だったという。
「珍しいわね、大阪に二十面相が現れるなんて」
「珍しいも何も、初めてのことなのよ」
夕花が目を通した切り抜きを、今度は真子が受け取って目を通す。
「やっぱり二十面相も、新幹線で大阪に移動したのかしら?」
ふと漏らした夕花に、真子は少し考えて答えた。
「高速道路をスポーツカーで走っていて欲しいわ。ポルシェか、フェアレディも素敵ね」
「いいえ二十面相様ですもの、きっと自家用のヘリコプターよ!」
真子の意見に、里穂が熱っぽい声で反論した。
「に、二十面相様…?」
里穂の勢いに、夕花は面食らってしまう。
「二十面相様は、犯行の前に必ず予告状を出し、どんなに厳重に警備してもどこからともなく現れてお宝を盗み、逃げる時は煙のように消えてしまう
。ハンググライダーやヘリコプターで空を飛ぶこともあって、地上から追いかけることは難しいの。スポーツカーももちろんお似合いでしょうけど」
「里穂ったら、ずいぶん詳しいのね」
「うふふ、実はね…見てくれる?」
里穂が鞄から分厚いノートを取り出した。
今までの二十面相の記事を切り抜いてスクラップブックにしたものだった。
先日の上野の博物館の件はもちろん、銀座の宝石店や会社社長の邸宅、画家のアトリエとその犯行現場は様々だ。
一枚、望遠レンズで撮影したらしい二十面相の姿が映った写真がある。
目元をマスクで隠し、全身真っ黒なスーツ、マントが風に翻って、まるで映画のワンシーンのようだ。
もちろん顔は映っていないが、映画俳優のようなスタイルで見栄えがいい。
夕花が、ビデオで見た母の映画の共演者を思い出しても、その中の誰よりも脚が長い。
「犯行の前には必ず予告状を寄越して完璧に盗み出してしまう、変装の名人で素顔は誰も知らないけどたいそうな美男子だという話よ」
「誰も知らないはずなのに…」
夕花は思わず苦笑したが、里穂は夢を見るような顔で熱く語っている。
「どんな風にも化けられると言うことは、元のお顔が整っていなければ無理なことでしょう?土台がいいからその上にどんな扮装も乗ると言うことよ」
里穂の言い分に、なんだか納得してしまいそうになった。
「神出鬼没、眉目秀麗、その上華麗で完璧な犯行。そりゃあファンもつくでしょうね…あら、これ」
夕花の次にスクラップブックをめくっていた真子が、あるページを指差して声を潜めた。
そこには、会社社長の別荘から著名な画家の絵を盗んだ時の記事。
「この絵を盗まれた方、お父様の知人の知人なんですって。なんでも、この絵には大きな保険がかかっていて、大金を手にしたらしいわ」
「そんなことがあったの?」
「何年か前に海外のオークションで購入して、あまりにも高額だったから話題になったんですって。それで、万が一を警戒して早くから保険をかけていたようよ。まさか二十面相が盗むとは思っていなかったそうだけど」
真子の父親は大手銀行の重役だから、二十面相が目をつけそうなお宝を持つ人と接点もあるだろう。
「大阪に二十面相が現れたということで、いつ名古屋のお屋敷に忍び込まれるかわからないと、宝石や財産を持つ人たちは保険屋に殺到しているんですって」
「それは…保険屋が儲かるわね」
夕花の呟きに、里穂と真子が吹き出す。
二十面相の華麗な犯罪など、女学生にとっては遠い国の出来事だ。
「名古屋に現れるとしたらやっぱり松坂屋かしら」
「名古屋城かもしれないわ」
「金鯱が盗まれたりしたら一大事ね」
そう冗談を交わして笑い合った。
遠い国の出来事だと思っていたから。
学校を終えた夕花が帰宅すると、志歩が一人留守を守っているはずの屋敷が騒々しい。
玄関は開け放たれ、やけに人が出入りしている。
「夕花」
驚き立ち尽くしていた夕花にそう声をかけたのは、しばらくぶりに見る知った顔だった。
「…伊東のおじさま」
若い頃の朝倉妙子が主演した映画で国際的な賞を受賞し、その後もいくつもの名作を生み出した映画監督。
妙子が撮影中の事故で亡くなった時も、監督をしていたのは伊東だという。
責任を感じた伊東は、夕花が生活に困らないよう、妙子の財産を管理する弁護士を采配してくれた。
いわば恩人である。
名古屋へ引越ししたのも、伊東の助言だった。
一人娘の夕花が、妙子の遺産を相続したと知られたら身の危険があるから、東京から離れて静かに暮らした方が良いと。
時折訪ねるから安心して欲しいと。
名古屋での生活に慣れたここ数年は顔を見ていなかったが、連絡もなしに訪ねてきたことは初めてだ。
「どうされました?突然。この人たちは…」
「いや突然すまなかったな。その、知り合いが、朝倉妙子のファンで。どうしてもあの真珠のネックレスがみたいと言われてしまって」
「あの真珠ですか」
玄関のそばにあるガラスケースに飾られている真珠のネックレスは、ただの思い出の品ではない。
朝倉妙子が国際的映画賞を受賞した作品の中で身につけていたもので、その知名度も合わせて価値が高いという。
この名古屋の邸宅を購入した時に、妙子自ら職人に依頼して、簡単に割ることのできない特殊なガラスケースを作り、しまい込んでいた。
いつか朝倉妙子記念館にした時の目玉として。
それを知っているのは夕花と志歩、そして伊東だけ。
それを今更、わざわざ他人に見せびらかす理由がわからなかった。
それに朝倉妙子のファンだというなら、真珠よりも先にこの屋敷自体に興味があるはずだ。
映画のポスターにも使われた、妙子の儚げな美しさをより冴えさせた窓のステンドグラスに興奮しないはずがない。
それなのに、誰もがガラスケースの中の真珠に夢中になっている。
「あの、女二人の住まいなので、知らない男の方が出入りされるのは不安です」
夕花は精一杯遠回しに不満を訴えたが、伊東はそんなものは関係ないという風に鼻を鳴らしただけだった。
「いや実はな。今日は夕花に縁談を持ってきたのだ」
「縁談…ですか?」
「ああ、お前ももうすぐ16だろう」
「おじさま、私先月17になりました」
数年会わないだけで歳も忘れられてしまったらしい。
母が存命の間は、夕花の誕生日にはケーキやプレゼントを贈ってきた人が。
「そうだったか?まあいい。志歩に身上書を渡してある」
「私、まだ結婚なんて考えていません」
学校の同級生には親が決めた許嫁がいるとか、高校を出たら結婚が決まっているという話は聞いているが、夕花自身は結婚というものに関心がない。
そもそも母親が未婚で夕花を産んでいる。
「まさか断るつもりか?」
「はい、突然言われましても困ります。私、成績は良いんです。先生からも、このまま頑張れば、学校が推薦してくれて就職も出来ると。そうすれば、例えお母様の遺産が尽きたとしてもなんとか生きていけます」
「高卒の女の稼ぎでこの家は維持できない。税金でいくら取られると思っている?」
ぴしゃりと言われて返す言葉がない。
この屋敷の価値も、税金をいくら払っているのかも、毎月志歩にどれくらいの給金が出ているのかも、夕花は教えてもらっていない。
全部、この伊東が選んだ弁護士にまかせてある。
「腰掛けで二、三年働いて結婚するくらいなら、今のうちにいい家に嫁いだほうがお前も幸せだろう?」
人の幸せを勝手に決めないで欲しい。
夕花は玄関に視線を送る。
まだガラスケースに人が群がっている。
「あの中にある真珠を手放せばお金に」
「バカなことを言うな!」
伊東の怒声に肩が跳ね上がる。
「あ、あの真珠はな、妙子の個人の資産ではないのだよ。あくまでも映画会社が妙子に貸しているもので、いずれは返す契約になっているから、勝手なことはできないのだよ」
猫撫で声に背筋が寒くなった。
そんな話は知らない。
母は名古屋に居を構える以前はあの真珠をよく身につけていた。
元が映画で使ったものだとしても、買い取るなりして母のものになったのだと理解していた。
だからこそ、簡単に取り出せないガラスケースに収まっているのだと。
「実はな、夕花の縁談がまとまるまで黙っているつもりだったが…この屋敷の維持費や女学校の学費は、妙子が生前に買っていた株の利益で賄ってきたのだ。それが先日の大暴落で価値が下がり…ようするに、この館もお前の学費も、維持できる金がないのだよ」
「そんな」
株価が暴落したというニュースは知っていたが、それがこんなにも自分の生活を直撃するとは思ってもいなかった。
足元が崩れていくような、すべての未来が暗く閉ざされたような気がした。
「女学校には先ほど退学届を出した。来週には豊田に引越しを」
「待ってください。豊田ですか?」
名古屋から小一時間ほど離れた産業の街だ。
「豊田は自然豊かな良い街だぞ。秋は紅葉が見事で、妙子とも映画のロケをしたことがある」
そんな話を聞きたいわけではない。
「来週とはなぜ、そんな突然に」
「…だから、株が暴落したと言っているだろう!?」
伊東がまた声を荒げる。
「この屋敷を売って、家財も売って、株の損失を補填して、ようやくお前の嫁入り道具が揃えられるのだ!」
「そんなこと聞いていません、嫁入り道具もいりません!それに、母の遺産は私が相続したのではなかったのですか?おじさまがおっしゃったのではないですか、母の遺産を相続したのが子供だと知られたら危険だと、だから名古屋に移住するようにと!」
夕花も負けじと言い返した。
この屋敷は自分が相続したから住めているのだと、今の今まで信じていたのだ。
「この屋敷は売りません、私が、絶対に売りません」
「どんなに売りたくなくても差し押さえられるのだよ。株の暴落でできた負債を埋めるためにはそれしかない。住むのは勝手だが、借金が増え続けるだけだ」
どんなやりくりをしていたら、そんなに突然借金まみれになることがあるのだろう。
「あと三日ある、三日で荷物を纏めておけ!」
そう言い切ると、伊東は玄関にいる男たちと何か話した後、ゾロゾロと出ていった。
どうしたらいいかわからなくて、涙が出てきそうで、それを隠すために深く頭を下げる。
傍目には丁寧な見送りに見えたかもしれない。
あれほどの品なら数千万に、という会話が微かに聞こえた。
夕花に断りもなく、売るつもりだろうか。
この屋敷を、あの真珠を、株を相続したのは夕花ではなかったのか。
子供だった夕花には誰も教えてくれなかった。
大丈夫だから任せておけと、伊東が、言ったのだ。
ふらつく足で靴を脱ぐ。
二階で物音がした。
「志歩?」
いつもなら玄関で迎えてくれる志歩の姿が見えない。
手すりを握りしめながら螺旋階段を上っていく。
心臓の鼓動が壊れそうに早い。
そんなはずはない。
信じさせて欲しい。
物音は二階の奥、夕花の部屋から聞こえる。
「…志歩」
半開きのドアから覗くと、志歩が、クローゼットに頭を突っ込んでいるところだった。
足元に、無惨に壊された母の鍵付きジュエリーボックスが転がっている。
志歩が、かつて母のものだった高級ブランドのハンドバッグを掴んだままこちらをみた。
十年一緒に暮らしてきて、見たことのない形相をしてきる。
「約束が違う!」
夕花が言葉をかける前に、志歩が吠えるような大声を出した。
「あんたを成人まで面倒を見たら、一生分の報酬を出すと!あの大嘘つきめ!全部あの男のせいだ!」
「…あの男?」
「あんたを成人させたら金も結婚相手も用意する約束だった!それを、一緒に豊田に行けだなんてやってられない!これ以上、あたしの人生、あんたたち親子のために棒に振りたくない!」
「…あなた、何の話をしているの?」
夕花の問いに、志歩はハッと我に帰った。
「っと、とにかく、これは退職金よ、私が貰うはずだったお金の代わりよ!」
志歩が、右手に金のネックレス、左手にバッグ鷲掴みにして喚く。
「今日でおさらばよ、あんたはせいぜい豊田で年寄りに可愛がってもらうといいわ!」
まだ身上書も見ていない夕花の嫁ぎ先は、どうやらかなり年上だと伺える。
別に、志歩にどうしても一緒に嫁ぎ先に来て欲しかったわけではない。
母の付き人時代から長く働いてくれたのだから、二度と会えなくてもどこかで幸せになってくれれば良い。
ただ、もう少し穏便に、できればお互いを思いやって別れたかった。
「…ええ、今までよく働いてくれたもの。好きなものを持っていって。お元気でね」
夕花がそう言うと、志歩は足元に転がっていたブローチも引っ掴むと、恨めしそうに顔を上げた。
「あんたのその物分かりのいい態度、母親にそっくりよ」
言い捨てると、バッグを抱えて、螺旋階段を猛然と駆け降りていった。
玄関を飛び出ていく背中を窓から見送る。
名古屋に来てから、静かに、お互いを気遣いながら暮らしていると思っていたのは夕花だけだったのだろうか。
ため息を吐いて床に目を落とす。
母が愛用していたジュエリーボックスは空になっていた。
ネックレスとブローチ、あとは指輪が入っていたと記憶しているが、すべて志歩が持ち出したのだろう。
「…このジュエリーボックスが、一番高価なのに」
シンプルな鍵付きジュエリーボックスだが、名高いブランドのものだ。
「いつか、修理してもらえるといいのだけど」
外れた蓋を拾い上げて、形だけでも元に戻した。
開けっぱなしになっているクローゼットの中身を確認する。
夏の制服と外出用のワンピース、普段着のブラウスやスカート。
夕花の私物がなくなった様子はない。
高価な服やバッグを持っていないことは、志歩もよくわかっていただろう。
お小遣いなどもらったことはなく、学校で必要なものや、最低限の衣服は志歩が購入していたのだから。
志歩が使っていた部屋を覗くと、大急ぎで必要なものを持って出たらしく、荒れ放題になっていた。
ドアを閉めて、次は物置に向かう。
ここには母の出演作の台本や雑誌、ビデオテープが保管してある。
「さすがに、豊田には持ってはいけないわ」
この家が数日後には売りに出るという話が本当なら、どう処分されるのだろう。
売り物になるとも思えないし、適切な場所に引き取ってもらえることを願うしかない。
ふと、一本のビデオテープに目が留まった。
パッケージには、美しいステンドグラスを背にした朝倉妙子。
この屋敷を舞台にした映画。
「これだけは、持っていようかしら」
プラスチックのケースに入ったビデオテープを手に、自室に戻る。
そこでようやく、制服を着替えもしていないことに気がついた。
先ほど荒らされたクローゼットを開けて、ブラウスとスカートに着替える。
「…物分かりがいいところが似ている、ね」
志歩の最後の言葉が蘇った。
確かに、この屋敷を出ることを受け入れて、荷物に思い出のビデオテープを入れようとしているのは物分かりがいいのだろう。
子供の頃から選択肢などなく、ただ受け入れる人生だった。
母は留守がちで、付き人の志歩やマネージャーの言うことを聞くようにと躾けられてきた。
母を亡くしてからは、伊東に言われた通りに名古屋に移住し、指定された学校に通った。
そうするしかないと、諦めて受け入れてきた。
壊れたジュエリーボックス、ビデオテープ、外出用のワンピース。
それらを風呂敷に包むと、もう他に持ち出したいものなどなかった。
風呂敷をベッドに置いて、通学鞄から教科書とノート、筆記用具を出して机に向かう。
必要ないと分かっていても、宿題を終わらせたかった。
ほんの些細な、現実への抵抗。
それが終わると、螺旋階段を降りてキッチンに向かう。
元々は来客と食事するための食堂があり、その準備をするためのキッチンだったが、二人で使いやすいようにキッチンに小さなテーブルと椅子を二脚置いているから狭苦しい。
今朝まで、志歩が食事を用意してくれていたテーブルの上に、大きな封筒がポンと置かれている。
おそらく、結婚相手の写真。
断ることもできないなら、見ても見なくても、結果は変わらない。
夕花は、中身を見ないことにした。
冷蔵庫を開けると、昨日の残りの煮物が鍋のまま冷えていて、炊飯器にはご飯が二人分残っている。
志歩が、朝炊いたもの。
今朝まではいつもどおり、ここで二人で夕飯を取るつもりだったのだと思い至って、唇を噛んだ。
鍋の煮物を温め、茶碗一杯分のご飯に塩をかけて夕飯を済ませた。
ご飯の残りはおにぎりにして冷凍庫へ。
冷蔵庫には梅干しや漬物、ジャム、使いかけのバターが入っている。
これらをどうするべきなのか、考えそうになって頭を振った。
そんなのは、勝手に家を売った人がどうにかするべきだ。
やかんに湯を沸かし、温かいお茶をいれる。
ゆっくりとお茶を飲み干して、息を吐いて目を閉じた。
一人きりの屋敷は不気味なまでに静まり返り、微かな家鳴りも大袈裟に聞こえる。
食器を洗って水切りカゴに伏せ、キッチンを出た。
螺旋階段の前を素通りして応接間に入る。
この屋敷を舞台にした映画の中では、革のソファーと重厚なテーブルがあった応接間。
今は掃除用具がぽつんと仕舞われている。
雑巾と洗剤を探してホールに戻ると、ガラスケースを丁寧に吹き上げた。
昼間の男たちが無遠慮に触ったであろう指紋の痕を一つ一つ消していく。
ガラスケースの中の真珠は、夕花の気も知らず、シャンデリアの光をきらきらと跳ね返す。
その横で、母の写真はこんな時でも綺麗だった。
「…これで、お別れなのかしらね」
毎朝見慣れていたはずのネックレスを、改めて目に焼き付ける。
ガラスケースを拭き終わると、今度は家中の床を雑巾がけした。
広い屋敷に別れを告げるためなのか、現実逃避なのか、夕花にもわからない。
ベッドに入っても眠れないことはわかっていた。
かといって、起きていても余計なことばかり考えて、自分を責めてしまう。
無心になって床を磨いて、空の端が白んできた頃。
体力を使い果たして、夕花は自室の床に倒れ込んだ。
二度と目覚めなければいいのにと、捨て鉢なことを願いながら眠りに落ちた。
太陽の光が窓から差して、夕花は重たく張り付いた瞼を開く。
「いたたた…」
床で眠ったことなんて今までなかったから、体のあちこちが痛い。
時計を見ると、とうに登校時間は過ぎている。
「…学校」
退学届を出されてしまったから行かなくてもいい。
友達の顔を見るのは辛い。
だけど、お別れが言えないのはもっと辛い。
夕花は身体を引きずるように風呂場に向かい、汗と埃をシャワーで流して、制服を着た。
昨日磨いたガラスケースを鏡代わりに、前髪とスカーフを整える。
制服も、通学路も、教室も今日が最後。
ちょうどお昼休みで、みんなお弁当を食べている時間。
緊張を感じながら扉を開く。
振り返った真子と里穂が目を見開いた。
「夕花!?退学届を出したと聞いたわ、どうしたの?」
もう噂が広まっているのかと内心驚いた。
「急にお嫁入りが決まってしまって。お別れを言いにきたわ」
「…そう、それは…いい話、なのよね?」
真子が苦しげに顔を歪める。
この友人に、同情も心配もさせたくなかった。
「そうなるように頑張ってみるわ」
提出するつもりだった宿題が入った鞄がズンと重い。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。
「それじゃあみなさん、お元気で」
精一杯笑って、教室を出た。
本当は職員室に寄ってお世話になった先生にも挨拶するつもりだったが、夕花の退学を漏らしたのはおそらく担任だと思うとそんな気はなくなってしまった。
下駄箱からローファーを出して履き替える。
そのまま、上履きを目についたゴミ箱に捨てた。
本当は鞄ごと捨てていきたかった。
校門を出て、振り返らず、家と真逆の方向へ当てもなく歩き出した。
帰りたくない。
一人であの広い屋敷で、伊東の迎えがくるのをただ待つなんて耐えられない。
「…グレてしまおうかしら」
街に繰り出して、ゲームセンターやディスコに行ってみようかと思ったが、性格上、どちらも一人では楽しめそうにない。
お芝居でも観てみようかと、母親が昔出演したと言う劇場まで来てみたが、入場料が高く断念した。
夕花の小さながま口の財布には、修学旅行の時に土産を買うために渡されたお金の、わずかに残った小銭しか入っていない。
書店や雑貨屋をあちこち彷徨った末に、友人たちと数回、放課後に寄り道したデパートの屋上遊園地に行き着いた。
一番安いシェイクを買ってベンチに座る。
平日の午後だからか、人もまばらだ。
夕花の心を映すかのような曇天。
名物の観覧車も、客がいないのか止まっている。
着ぐるみのパンダが、風船の束を手にウロウロと歩いていた。
中のアルバイトが長身なのか、パンダの足が不釣り合いに長い。
つい目で追っていると、ふとパンダが立ち止まった。
真っ直ぐに、夕花が座るベンチの方に歩いてくる。
ずい、と赤い風船を差し出された。
「…くれるの?」
シェイクを持っていない方の手で受け取ると、パンダがぺこっと頭を下げてまたウロウロと歩き出した。
薄灰色の空の下、赤い風船がふわふわと揺れているのをぼんやり眺める。
パァン、と破裂音がして身を屈めた。
どこかで風船が割れたようだ。
辺りを見渡したが、風船もパンダも姿がない。
不思議に思っていると、従業員が数名、慌ただしく事務所から出てきた。
館内放送のチャイムが鳴る。
『館内トラブルのため、本日は全館閉館となります。お客様にはご迷惑をおかけいたします。繰り返します…』
「屋上を閉鎖します、非常階段で降りてください!」
警備員が声を張り上げる。
風船とシェイクを手にしたまま、追い立てられるように非常階段を降りる。
鞄をベンチに置き忘れたことに気がついた。
戻ろうかと振り向いたが、後ろから従業員が急かしてくるから、階段を降りるしかない。
あとでサービスカウンターに問い合わせして、明日取りに来ることはできる。
とは言え、提出し損ねた宿題と筆箱しか入っていない鞄だ。
幸い、家の鍵と小銭入れはスカートのポケットにある。
非常階段を降り切ると、道の真ん中に人だかりが出来ていた。
「号外!号外!二十面相の予告状だよ!」
無数に伸びる手に奪い取られたのか、号外新聞がバラバラと宙を舞った。
夕花は片手にシェイク、片手に風船を持ったまま、足元に舞い落ちてきた号外を拾おうとしたが、横から伸びてきた手にサッと奪われてしまった。
だが、大きな見出しは目に焼きついた。
『三代目二十面相、オリエンタル百貨店に予告状』。
オリエンタル百貨店。
すぐ後ろの、夕花がさっきまでいた場所。
振り返ると道路に面した入口はシャッターが閉まっていて、野次馬らしき人たちが集まり始めている。
号外を求める人が増えてきたのか、後ろからぶつかられて手から風船がすり抜けた。
転びかけてバランスを立て直す。
その拍子にシェイクのカップも道に転がって、通り過ぎる誰かに踏みつけられる。
百貨店の警備員が出てきて、号外を配る人やシャッター前の人だかりをなんとか整理しようとしていた。
巻き込まれる前に、夕花は人波に逆らって歩き出す。
手ぶらになって身軽だった。
このまま、家ではないどこかに行ってしまいたい。
だけど、電車代すら持たない夕花は、一人で大きく静かな屋敷に帰るしかなかった。
『三代目二十面相が、今夜オリエンタル百貨店の美術画廊から掛け軸を盗むと予告状を出しました。警察は厳重警戒しており、名古屋市中心部では交通規制も行われています…』
テレビのニュースはどこも二十面相の予告状の話題で、明日の天気さえわからない。
一人で炊いたご飯と冷蔵庫の漬物という食事をしながらチャンネルをあちこち変えたが、オリエンタル百貨店の前から生中継する映像ばかり。
リモコンでテレビを消すと、屋敷中の窓の鍵を確認して、螺旋階段を上り、滅多に入らない書斎のドアを開けた。
屋敷の中で一番広くて日当たりがよくて、見晴らしがいい窓。
窓を開けると、強い風が吹いた。
遠くに名古屋中心部の夜景。
空は曇っていて、月も見えない。
パトカーのサイレンが鳴っている。
手すりを握って、遠くの喧騒に目を凝らした。
空に、何か動く影がある。
影、いや、闇がかたまりになって移動している。
グライダーだ。
近づいてくる。
闇が降ってくる。
思わず後ずさると、ふうわり、と、音もなく闇は目の前の手すりに着地した。
「こんばんは、レディ」
低く心地良い声。
漆黒のスーツにマント、黒いレースのアイマスク。
その奥に麗しい瞳がある。
「…こんばんは」
乾いた喉からなんとか声を絞り出した。
三代目二十面相に違いない。
オリエンタル百貨店からグライダーで逃げてきたのだ。
それが、なぜここに。
「失礼、私としたことが目標を誤ったようです」
「…目標?」
「ああ、お気になさらず。すぐに退散しますので」
ドンドンドン、と玄関の扉を叩く音が階下から響いた。
「ここでお待ちください」
言い残して、螺旋階段を駆け降りる。
玄関をあけると、警察官が二人、手帳を手に立っていた。
「夜分遅くに申し訳ない、近くで二十面相のものと思われるグライダーが見つかった。庭などに潜んでいないか、調べさせてもらいたい」
「まぁ怖い。どうぞ、庭はこちらから…」
「お嬢様、どうしましたか」
しらを切って玄関を出ようとした夕花の背後から、知らない男性の声。
振り向くとそこには、年齢は伊東より上、細いメガネをかけた白髪のダンディ。
黒いスーツに蝶ネクタイをしている。
その黒いスーツは、先ほど空から降っていた美しい男が身につけていたものと同じにみえた。
「執事の田中です。ご用件は」
執事の田中を名乗る男は、スッと夕花の前に出て対応を引き受けてしまった。
「近くで三代目二十面相のものと思われるグライダーが発見されました。近隣のお宅の庭や物置を調べてまわっています」
「なるほど、お嬢様は中でお待ちください。夜は冷えます」
「ええ。頼んだわ」
咄嗟に、鷹揚なお嬢様の受け答えをして玄関を閉めた。
足音が庭の方向へ遠ざかる。
庭と言ってもこじんまりしたもので、母が好きだった薔薇が植えてある程度だ。
それでも気にはなるもので、庭がみえる縁側のカーテンを開ける。
警察官が懐中電灯で庭を隅々まで照らして、人気のないことを確認したらしく敷地から出て行った。
このあと隣近所を同じように捜索するのだろう。
玄関の鍵をかける。
気持ちを落ち着かせるためにお茶を淹れようとキッチンに入った。
「いや助かったよ」
執事の田中から素顔に戻った二十面相が、夕花の椅子に悠々と座っていた。
「助けるつもりなどありませんでした。本当に変装がお上手なのですね」
口答えしてお茶の支度をする。
やかんに湯を沸かして、急須に緑茶の茶葉を入れた。
「ついでに、私の分もお願いしていいかな」
「ここは喫茶店ではありませんので」
「つれないな。素敵なお茶菓子があるのだけども」
お茶菓子、という単語につい振り向くと、二十面相は漆黒のスーツの内ポケットからまるで手品のようにどら焼きやカステラ、そして鬼まんじゅうやういろうといった名古屋銘菓まで出してみせた。
夕花が以前、お友達のお家でいただいて感動した老舗のどら焼き。
無言で、伊東が来た時だけ使っていた来客用の湯呑みを用意した。
急須に湯を注いで蒸らし、湯呑みに注ぐ。
「粗茶ですが」
謙遜でもなんでもない、安物のお茶を出す。
二十面相は美人画の傾国の美女のように微笑んで、湯呑みに口をつけた。
夕花が、志歩が座っていた椅子に腰掛けると、マジシャンがトランプを並べるかのようにお菓子が並んだ。
「お好きなのをどうぞ」
勧められて、迷わずどら焼きを選ぶ。
今朝からシェイクとご飯と漬物しか口にしていない。
どっしりとしたあんこを抱いた柔らかな生地が身体に染み入る。
「ああ、美味しい」
「良かった、賄賂だと思ってね」
不穏な単語に咽せる。
どら焼き、カステラ、名古屋銘菓。
もしかしてこれらの出所は。
「オリエンタル百貨店、なかなかいい品揃えだったよ」
「な、なんてこと…」
「君が気に病むことではない」
盗品だとわかっても、どら焼きはちゃんと美味しいことに少なからずショックを受ける。
こういう時は味もわからなくなるものだと思っていた。
緑茶の香りが沈黙と共に流れる。
「貴方は、食べないのですか」
「お気遣いどうも」
二十面相は涼しい態度で、安い茶を音も立てず啜る。
美しい人が手にすると、古いだけの茶器も高価なアンティークにみえるものだと思った。
「…貴方が食べないのなら、カステラもいただいていいかしら」
食べてしまったらもう、一個も二個も同じだ。
二十面相がふわりと笑う。
「好きなだけ、召し上がれ」
お言葉に甘えてカステラの封を切る。
口に広がる卵の風味とザラメの食感。
これは絶品だ。
「そんなに美味しい?」
「ええ、とても」
「一口失敬」
言うなり鮮やかな手つきで、夕花の手元からカステラを一欠片奪って口に入れた。
「これは絶品」
どんなお菓子よりも甘い微笑み。
なんという大泥棒。
「さて、そろそろお暇するよ。ご協力有難う」
そう言って立ち上がると、胸元から一輪の赤い薔薇を出した。
「これはお礼」
どうやって仕舞っていたのか不思議なくらい瑞々しい薔薇だ。
「…きれい。でもお花は」
顔を上げた時には、二十面相の姿はそこになかった。
辺りを見回しても影もない。
「お花は、困るのよ」
明後日この家を出た後、誰が花瓶の水を替えるのか。
押し花にするにも時間が足りない。
コップに水を汲んで薔薇を差す。
それを持って部屋に戻ると、窓辺に置いた。
雲が途切れて、月明かりが薔薇を照らす。
昨日は床で気絶したのに、今日はベッドでちゃんと眠れそうだった。
目覚ましをかけていないのに、いつもどおりの時間に目が覚めた。
窓辺の薔薇が朝日を浴びて輝いている。
「…夢じゃなかった…」
急いで着替えると螺旋階段を駆け下り玄関を出て、郵便受けの新聞を取る。
昨日の二十面相の犯行が大きく取り上げられていた。
オリエンタル百貨店の屋上からグライダーで飛び立つ二十面相の写真が大写しになっている。
ソファーに座って記事を読もうと玄関に戻って鍵をかけ、靴を脱いだ直後。
ドンドンドンドン、と玄関を乱暴に叩く音が響いた。
「二十面相が出るぞ!」
伊東の声だ。
「…えっ」
新聞を持ったまま、玄関の鍵を開ける。
「どうしたのですか伊東様」
「どうしたのではない!これを見ろ!」
伊東が突き出してきたのは、白地に金の縁どりがされた便箋。
タイプライターでこう書かれている。
『今夜、朝倉妙子の形見の真珠のネックレスをいただく』
「…真珠とは、あの真珠のことですか」
「それしかないだろう!なんと恐ろしい、今すぐあのガラスケースから真珠を出してどこかの金庫に」
「あのガラスケースは簡単には開かないのです。母が、そのように作ったはずです」
夕花は不思議なほど冷静だった。
ああ二十面相は、昨日このネックレスをみて次の獲物にしたのだと。
伊東に売られるくらいなら、二十面相の手に渡って欲しいとすら思った。
「この予告状はどこに?」
「新聞受けに刺さっていたのだ、きっと昨日オリエンタル百貨店で盗みを働いて、次にこの屋敷に目をつけたのだろう」
「新聞受けに…?」
ついさっき、夕花が見た時には新聞しか入っていなかった。
見落としたとはとても思えない。
「こうしちゃおれん、すぐに知り合いに頼んで厳重に警備をしなくては」
「その前に警察ではないですか?」
「バカを言うな!まんまとオリエンタル百貨店で二十面相を逃した警察に何ができる」
伊東は勝手に玄関をあがり、黒電話の受話器をとった。
「私だ。今すぐ朝倉の屋敷に来い。ああ、そうだ。忘れるなよ」
何かを指示して電話を切ると、懐から封筒を出した。
「明日引っ越す準備は出来ているな?これを持って役所に行き、戸籍謄本をもらってこい。婚姻届に必要だ」
「今からですか?役所はまだ開いていないのでは」
「いいから今すぐにだ!役所が開いてないというならこれで喫茶店でも行ってこい!」
万札を渡されて驚いた。
金額だけではなく、まるで夕花を追い払いたい、ここにいては邪魔だと言わんばかりの態度に。
「ところで、志歩はどうした。志歩にも用事を頼みたいのだが」
「…志歩ですか」
一昨日逃げました、と言いかけた夕花の視界を、見慣れたエプロンが横切った。
「どうしました?」
志歩が、まるで今さっきまで掃除をしていましたと言う様子で、そこに立っている。
「おお志歩、少し頼みたいことがある。夕花、お前は役所に行きなさい」
「役所なら私が行きますが」
「私が志歩に用があるのだ。夕花、早よう行きなさい」
犬を追い払うような手つき。
こんな男を信頼して母の遺産のすべてを預けていたのかと思うと絶望する。
「お嬢様、役所の近くの喫茶店は早くから開いています。たまにはゆっくりモーニングをするのも良いものですよ」
志歩にまで言われて、夕花は仕方なく部屋に戻り、外出用のワンピースに着替えた。
万札を折りたたんで小銭入れに仕舞い、ポシェットに入れた。
「…お嬢様、ね」
志歩の言葉を反芻して、思わず笑ってしまった。
本物の志歩は、夕花のことを『夕花様』と呼ぶのだ。
「それではいってきます。書類をもらったらすぐに戻りますので」
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
玄関で志歩に見送られ、外に出ると、伊東が何やら男たちと話し合っている。
「狙いはあのガラスケースだ。まずは二階の窓を封鎖して、侵入を防ぐ」
「役所に行ってきます」
「ああ、ゆっくりしてきて良いぞ」
こちらに目もくれず屋敷の間取り図を手にああだこうだと言っている。
確かに二十面相は二階の窓から入ってきた。
でもそれを知っているのは夕花しかいないし、今更二階の窓を封じたところで意味がないことも、夕花だけはわかっている。
でも、教えてあげる必要はない。
夕花は予定外に手に入れた大金でせいぜい豪華なモーニングを楽しもうと、市役所を目指した。
開店直後の純喫茶は、常連客で賑わっている。
彼はもテレビも新聞も、二十面相の話で持ちきりだ。
夕花はカフェオレとトーストとゆで卵、さらにサラダにヨーグルトまで注文した。
贅沢な朝ごはんで嬉しい。
食べながらテレビや話し声に聞き耳を立てていたが、誰も彼も、オリエンタル百貨店の話はするのに、朝倉妙子の屋敷に予告状が届いたことは知らないのだ。
「オリエンタル百貨店から盗まれた掛け軸だが、噂では元々は盗品だったらしいぞ」
「噂だろう?二十面相を義賊にしたいファンの妄言だよ」
「今回も誰も顔は見れなかったのか?さぞ美男子なんだろうな」
「屋上に逃走用のグライダーが隠してあったのに、従業員が気が付かないものかね」
「あ、あれ見ろよ」
全員がテレビに注目して、夕花も釣られて顔を向ける。
生中継のカメラがとらえた、屋上から飛び立つグライダー。
一緒に風船が舞っている。
「なんでも、イベントで子供に配るための風船の中に隠してあったらしいぞ」
オリエンタル百貨店の屋上。
風船。
そういえば、パンダの着ぐるみに赤い風船をもらった。
「…お仕事中、だったのかしら」
やけに頭身の高いパンダの正体にまで気がついてしまった。
8時45分、市役所が開いた。
名古屋市役所は歴史ある重厚な建物で、廊下を歩いているだけで背筋が伸びる。
窓口で封筒の中身を確認すると、すでに記入された請求書と夕花の保険証等が入っている。
保険証は、志歩がずっと保管していた。
夕花はあまり病院に行かなかった、否、お金に気を使ってなかなか行けなかったから、いつ伊東の元に渡ったのか定かではない。
夕花の後見人は弁護士の高橋の名前になっている。
顔すら見たことがない。
何もかも任せていたのが悪かったとしても、あの時の夕花には選択肢すらなかった。
粛々と手続きをして書類を受け取り、封筒に入れる。
「…よし」
お腹もいっぱいだし、屋敷の様子、何よりも志歩に化けている人のことが気になって、夕花は早足で家路についた。
一階の窓に、台風でも来るのかという厳重さでベニヤが打ち付けられている。
ステンドグラスだけは、ベニヤの大きさが合わないのかそのままで、異様さが際立っていた。
「ただいま戻…」
「どいたどいた!」
玄関を入ろうとしたところ、作業員に押し除けられてよろめいた。
転びかけたところを志歩に支えられる。
肩に触れる手の大きさに違和感と、確信。
「お嬢様、大丈夫ですか」
「ありがとう。大事になっているわね」
ガラスケースの周りには工事現場のようなポールが建てられ、窓は内側からもベニヤで封じられている。
「お嬢様、お渡ししたいものがございます」
人の出入りが激しい一階から、螺旋階段を上り夕花の部屋に入った。
この部屋の窓にまで、勝手にベニヤ板が貼られている。
陽が入らず暗い。
「お嬢様のお部屋は私が立ち会いましたので、余計なところは触らせておりません」
「そう。ありがとう」
蛍光灯をつけて、勉強机の椅子に座ると、志歩が封筒を差し出した。
「こちら、先ほど伊東様よりお預かりしました。後見人の署名をいれた、婚姻届です」
「志歩が預かってくれれば良いのに。一緒に豊田に行くのでしょう?」
少し意地悪なことを聞いた。
本物の志歩は、それが嫌で逃げたのに。
「お嬢様が、持つべきです。嫌なら出さなければ良いのですから」
「出さなくても良いと、あなたは思っているの?」
「…私は、お嬢様の幸せを願っておりますので」
本物の志歩よりもよほど、夕花を思う気持ちが溢れた言葉。
封筒の中身を覗くと本当に婚姻届で、夕花の欄は勝手に書き込まれている。
相手欄は空欄。
焼き捨ててしまおうかと思った時、階下で言い争う声と何かが倒れる音がした。
部屋を飛び出て螺旋階段の上から玄関を伺うと、警察官と伊東が揉めていた。
「…誰が警察を?」
少なくとも夕花ではない。
無能な警察に何が出来る、などと伊東が怒鳴り散らしている。
「志歩が呼んだの?」
そう聞いて振り返ると、そこに志歩の姿はなく、ドアから漏れた蛍光灯の灯が、暗い廊下に光の筋を作るだけだった。
勇気を出して螺旋階段を降りていくと、伊東が警察を玄関から押し出したところだった。
「伊東様、何の騒ぎですか」
「子供には関係ない!」
一括されて身が竦む。
窓を封鎖した玄関ロビーは、ステンドグラスから差す光とシャンデリアの灯がきらきらと混ざり合って舞踏会の会場のようで、そこに響くトンカチと電動工具の音が不快で仕方がなかった。
「ですが、お母様の真珠が盗まれるかもしれないのでしょう?私にも関係あります。あれは私のお母様の」
「妙子のものではない!あれは私の会社のものだ!だから私が守る、何が悪い!?」
この何年も放置していた人間の言うこととは思えなかった。
「…そうですか、わかりました」
背を向けて玄関で靴を履く。
「夕花、どこに行く?」
「私がいたところでお邪魔になりそうですので、少し散歩をしてきます」
返事の前に外に出た。
予想通り、警察官が数人困ったように立ち尽くしている。
その中には、昨日庭の様子を見にきた警官の顔もあった。
「すいません、こちらのお嬢さんでいらっしゃいますか」
「はい」
「事情を伺ってもよろしいでしょうか。ご主人に追い返されてしまいまして」
「もちろんです」
伊東はこの屋敷の主人ではない、と言いそうになったが、知らないうちに所有者が伊東になっている可能性も考えた。
「我々は近隣の住人から、二十面相が現れると騒いでいる家がある、と通報を受けました」
窓に板を打ち付けたり大きな音を立てていたから、近所の人が不審に思ったのも無理はない。
「今朝、郵便受けに二十面相からの予告状が入っていたそうです。私も見せてもらいました」
「ほうほう。奴の狙いは?」
「この屋敷は元々、女優朝倉妙子の邸宅でした。玄関のガラスケースに、遺品の真珠のネックレスが飾ってあります。おそらく狙いはそれかと」
「なるほど…ご主人は警察に頼るつもりはないと」
「…そのようです」
昨日も逃げられたのは事実で、警察もそこは理解しているのか気まずそうにしている。
「すいません、こちら朝倉邸ですね?」
今度は何かと声の方を見る。
「新聞社です。二十面相の予告状が届いたと情報が入ったので取材に」
「夕花さん!」
急に駆け寄ってきた男に名前を呼ばれた。
「お久しぶりです。以前お母様の取材を担当していました雑誌記者の加藤です。すっかり大きくなって…ああ、お母様によく似ていらっしゃる」
ペラペラと心にもないことをよく喋る、さすが雑誌記者だと思った。
夕花は母に似ていると思ったことはないし、そう言われたこともない。
唯一、志歩に言われたのが『物分かりの良さ』くらいだ。
加藤は、伊東から連絡があり東京から呼び出された事、新幹線に飛び乗って今着いたところだと聞いてもないのに教えてくれる。
「ああそうだ、写真を」
喋りながらカメラを構えた瞬間、夕花が反射的に顔を背けたと同時に、昨夜庭を捜索していた警官が加藤の前に立ちはだかった。
フラッシュが光る。
「ちょっと、邪魔だよ!」
加藤は怒鳴ったが、他の警官からも警備に支障が出ると注意されていた。
「お話はわかりましたので、お戻りください。お送りします」
促されて、屋敷に戻ることにした。
後ろから加藤と新聞記者もついてきて、玄関で伊東を見つけて何か話している。
何をするつもりなのか、ステンドグラスの側に足場を組む音がうるさい。
夕花は警官と二人、螺旋階段を上る。
「先日は夜中に失礼いたしました」
深夜に庭を捜索しにきたことを謝られた。
あの時対応した自称執事がいないことは気にしていない様子だ。
「連日大変ですね。こういうとき、私は、どうしたらいいのでしょうか。何かお役に立てるとも思えませんし」
「安全な場所にいてください。おそらく内部の警備は許可されないでしょうが、敷地外で待機し、二十面相が現れたなら追いかけます」
騒音の中でかろうじて聞き取れる声でぽつぽつと会話しながら、夕花の部屋の前についた。
「…見送りありがとうございました。あの、一つ気になることがあるのでお話ししても?」
「もちろんです」
「私は、十年前からこの屋敷に住んでいますが、この屋敷が朝倉妙子のものだと言うことは、けして他所で言わないようにと言い含められてきました。泥棒に狙われては怖いじゃないですか」
「確かに、その通りです。実際、二十面相に狙われています」
「でも二十面相は、どうやってガラスケースの中身が朝倉妙子の形見だと知ったのでしょうか」
「…どこかから聞きつけたのでしょう、二十面相の情報源がわかれば我々も苦労しませんので」
「それもそうですね」
改めてお礼を言って、部屋のドアを閉める。
部屋の蛍光灯をつけると、窓辺にあったはずの、薔薇を差したコップが勉強机の隅に移動していることに気がついた。
陽が当たらないせいか、元気がないようにみえる。
隙間からでも陽を当てられないものかと、ベニヤ板に軽く触れた。
ぱきっ、と音を立てて、ベニヤ板が外れる。
「えっ」
てっきり釘で打ちつけてあると思っていたベニヤ板は、両面テープで貼り付けられていただけで、あっさり外れてしまった。
「…ここから逃げた、のかしら?」
それならば、志歩のフリをしていた人物が急にいなくなったことにも納得がいく。
うっかり窓を開けては、外にいる作業員にこの窓が封鎖されていないことがバレてしまう。
夕花は勉強机を引きずって窓辺に近づけると、そこにベニヤ板を立てかけた。
これで窓は封じられず、隙間からは陽が入る。
外からはベニヤ板で封じられているように見えるだろう。
コップを日向に置くと、いよいよ、夕花ができることは何も無くなった。
ベッドに横になって、階下の物音に神経を研ぎ澄ませる。
ドリルの騒音、金属がぶつかる音、伊東の怒号。
どれも不快だ。
早く夜になって、全部終わればいい。
眠れるような状態ではないけども、お腹の上で手を組んで、ただ目を閉じた。
どれくらいそうしていたのだろうか、気がつくとベニヤ板から入り込む日差しは傾き、薄暮色に変わっている。
そっと部屋を出て玄関ロビーを伺うと、ステンドグラスに暗幕がかけられていた。
ガラスケースは太い鎖でぐるぐるに巻かれている。
滑稽なはずなのに、中に入っているのは朝倉妙子の写真と真珠のネックレスだからか、神話に出てくる囚われの美女のようにも見えた。
玄関は鍵がかけられている。
掃除道具がしまってあるだけだったリビングには作業員たちが持ち込んだ脚立や道具が所狭しと並んでいる。
普段は使っていない食堂を覗くと、伊東を中心に作業員や記者たちが酒や惣菜を食べ散らかしていた。
「夕花!」
見つかった。
こっそり覗くだけのつもりだったのに。
「志歩の姿がない、どこに行った」
「私も見ておりません。よろしいのですか?いつ二十面相が現れるかもわからないのにみなさん酔っ払って」
「問題ない」
伊東の呼気からはアルコールを感じない。
一人だけ素面でいれば二十面相を防げると思っているのだろうか。
「確かにそうですね」
調子良く会話に入ってきたのは加藤だった。
右手に缶ビール、左手に味噌カツの串を持って随分と機嫌がいい。
「予告状には今夜としか書いていないのだから、七時かもしれないし十時かもしれません。みんなでロビーのガラスケースを見張りましょう!」
そう言って加藤が意気揚々とロビーに向かっていく。
「それもそうだ、二十面相が罠にかかるところを見逃すわけにいかない」
作業員や新聞記者も加藤に続く。
伊東は苦々しい顔で、大股で一番最後を歩いて行った。
あんなにもがらんと広かった玄関ロビーも、大人数が集まると狭苦しく感じる。
「伊東様、二十面相を罠にかけると仰いましたが、どのような仕掛けなのですか?」
「まず、二十面相が侵入できないように窓を塞いである。仮に天井裏だか床下から侵入したとして、このガラスケースは元々頑丈だ。それにほれ、この鎖の鍵は私が持っている。外には警察もいる」
自信たっぷりに喋っているが、あれだけ邪魔者扱いした警察のことを当てにしているのがわかって、夕花は改めてこんな男を信頼していたのかと憂鬱な気持ちになった。
こんな男の薦める結婚のために、学校を辞め屋敷を出なければならない。
「予告状は今夜とありましたが、一体何時に現れるのでしょうね」
「さあな」
「このままみんなが疲れて眠るのを待ち構えているかもしれませんよ」
加藤は妙に饒舌だ。
対して伊東は、さすがに警戒しているのか落ち着きなく辺りを見回している。
「もうすぐ七時です。昨日、二十面相がオリエンタル百貨店に現れた時間です」
名も知らない新聞記者がそう言った時、屋敷のどこかでガラスが割れる音がした。
「今の音は」
「二階でしょうか」
「窓はすべて塞いである、ガラスが割れたところで侵入はできまい」
伊東が強い口調で言い切る。
一人の作業員が、あっと声を上げた。
「今、人影が!」
指をさす方向に、黒いマントが翻る。
記者たちがカメラそちらに向けてシャッターを切る。
全員の視線が二階に向いている、その時。
バァン、と爆発音。
全員が咄嗟に手で顔を覆う。
ガラスケースが粉々に砕け散り、美しい朝倉妙子の写真に、形見の真珠に、ガラス片が降り注いだ。
思わず駆け寄ろうとした夕花の肩を、加藤が制した。
「何を」
「ガラスで怪我をしては大変です」
「怪我を気にしている場合じゃないでしょう!?」
真珠のネックレスが魔法のように宙に浮いた。
その先に、黒い人影がある。
まるで釣りでもするかのように、透明な糸で真珠のネックレスを手繰り寄せ、手中に収めてしまった。
「…追いかけろ!」
伊東の怒号に、夕花と加藤以外の全員が螺旋階段を駆け上がる。
だが二十面相は、螺旋階段の手すりを越え、ステンドグラスの側に組まれた足場へまっすぐに飛び移る。
ぶつん。
何かが壊れる音がした。
華麗に宙を舞ったはずの二十面相は、力無く壊れたガラスケースの上に落下した。
轟音と共にガラスが飛び散る。
螺旋階段から駆け戻ってきた作業員たちと、玄関から押し入ってきた警察が、ガラスで傷ついた二十面相を取り押さえた。
「…おい、これ人形だぞ!?」
「でも真珠はここに!」
取り押さえられたはずの二十面相は、黒いマネキン。
一人の警官が真珠のネックレスをガラスの中から見つけ出した。
真珠はガラスで傷つき、輝きを失っていた。
伊東はショックのあまり、呆然と立ち尽くしている。
「伊東様、念の為確認してください」
警官の要請にも、返事すらしない。
「確認も何も、それは偽物だよ」
舞台の主役かの如き涼やかな声が、ロビーに響いた。
先ほど地面に落下したはずの二十面相が、螺旋階段の手すりに優雅に寄りかかっている。
「二十面相!」
「おっと、私より伊東氏を確保するのが先だよ。私の名を語り、勝手に予告状を作り、偽物の真珠を使って保険金詐欺を企てたのだから」
白手袋の人差し指に導かれるように、その場にいる全員の視線が伊東に注いだ。
「な、何を証拠に…」
伊東の震える声を遮り、二十面相がふわりと手を広げた。
それにあわせて、ステンドグラスにかかっていた暗幕がずるりと落下する。
そこに、二人の男が隠れていた。
「その二人も共犯だよ。二十面相の犯行にみせかけるためにあれこれ細工をした張本人さ。ガラスケースを爆破させたのも、マネキンを操作していたのもその二人」
二人は慌てて足場から降りて逃走しようとしたが、真下にいた警官に拘束された。
「新聞記者の方々は、二十面相の犯行を報道してもらうために呼び出されたんだよ。テレビ局に生中継されてはトリックがバレてしまうと思ったんだろう。よくできているよ、さすが映画監督。そういうわけで、私は今回の事件には無関係だ。警察諸君、あとは任せたよ」
そう言い残すと、二十面相は螺旋階段を風のように駆け上がった。
「ま、待て!」
数人の警察官が後を追い、煙のように消えた二十面相を、一部屋一部屋探し回っている。
伊東の魂胆は、映画の撮影技術を駆使して二十面相の犯行場面を作り上げ、自分が選んだ新聞に報道してもらうことだった。
それならば、本物の真珠はどこに行ったのか。
「あの、本物は…本物の真珠のネックレスはどこに」
夕花が毎朝見てきたものは、いつから偽物だったというのか。
「そんなもの、妙子が死んですぐに売ってやったさ。お前が見ていたものは、最初からずっとこの偽物だ」
忌々しそうな伊東の声。
夕花はあまりのショックに膝の力が抜けてしまった。
「詳しくは署で聞こう。そこの二人もだ」
暗幕に隠れていた二人と伊東が連行されていく。
新聞記者はその様子をカメラに納めている。
作業員たちは、窓を封鎖するために呼ばれただけだと警察に事情を話している。
「お嬢様、大丈夫ですか」
声をかけてきたのは、あの夜突然現れた自称執事だった。
「お手を」
「…ええ」
よろめきながらすらりとした手を取る。
「お嬢様はショックで具合が悪い様子。少しお休みいただきます故」
「わかりました」
現場検証で忙しいのか、警官は疑いもしない。
螺旋階段を上り、夕花の部屋に入ると、窓にベニヤ板がまだ立てかかっている。
「いい月が出ておりますよ」
自称執事がそう言ってベニヤ板を外すと、真っ白な三日月が夜を照らしていた。
「…何故まだいらっしゃるのですか?」
「便利に使わせてもらったよ」
自称執事が、顔の前で軽く手を振ると、白髪のダンディは魔法のように美男子へと変身した。
「志歩の服はどうしたの」
「気づいていたのか?」
「志歩は私のこと、お嬢様なんて呼ばないもの」
「それはミスだったな。顔だけは、下見の時に把握していたのだけど」
「…下見?」
「グライダーをどこに捨てるか、あらかじめ下見して決めていたのさ。君と出会う前の日だよ」
「ああ、それであの時…」
「本当は隣の庭の予定だったんだがね、風向きが変わって急遽君のところに。あのメイドの姿が見えなかったから化けさせてもらったけど、彼女はどこに?」
「その下見の日に辞めました」
「…なるほど」
二十面相は胸元のポケットを探ると、封筒を夕花に差し出した。
「じゃあ、これは君のものだ」
やけに分厚い封筒だ。
中身をみると、現金が詰まっている。
見たこともない額で息が止まった。
「帯封がないところをみると、あまり綺麗な金ではないかもね」
「な、なんですかこれ…」
「伊東とかいう男が、志歩に化けている私に渡してきたんだ。そこで君の置かれている状況を知った。君はあの男の借金のために結婚する。この金は当面の生活費という名の口止め料として志歩に渡された」
黙って今日まで働いていればこの現金が手に入ったことを思うと、志歩もついていない。
「少し調べさせてもらったけど、あの伊東という男は君が未成年なのを良いことに、朝倉妙子の遺産を吸い尽くしていたのさ。まあ最初は、映画の資金に少し借りる程度だったのかもしれないが。預貯金、宝石、着物、そしてとうとう、名古屋の屋敷、そして君を売った」
「…私は売られたのですか」
「少なくとも、私はそうだと思うよ。相手が伊東の映画に多額の出資をしているからね」
あんな男を信じるんじゃなかった。
この数日で何度もそう思った。
「どうする?結婚が嫌ならその金を持って逃げるといい。便利に使わせてもらったお礼に、この屋敷から出る手伝いくらいはしてあげるよ」
「案外親切なのですね」
「よく言われるよ」
「…幸い、身分の証明になるものは今朝役所でもらってあります」
戸籍と婚姻届。
そして手の中の現金。
これらがあれば、人生を変えることができるかもしれない。
少なくとも今、夕花には、選択権がある。
「三代目二十面相様に、お仕事を依頼します」
「仕事?私は盗みしかしないよ」
「ええ、ですから」
夕花は封筒の中身を鷲掴みにして二十面相の眼前に突き出す。
「このお金で、私を盗んでください」
「…面白いこと言うね君」
二十面相は夕花の手から現金を奪うと、そのまま胸ポケットにねじ込んだ。
「面白い、面白いよ。気に入った。善は急げだ」
二十面相は楽しげに言うと、今度は別のポケットからノートと万年筆を取り出した。
「あとで面倒なことにならないように、書き置きを残してもらおうかな」
「何と?」
夕花はノートを勉強机に開き、万年筆を持つ。
「好きな人がいるので結婚できません、さようなら」
「…それじゃあ駆け落ちみたいだわ」
「駆け落ちだよ」
「え」
すらりと美しい指が、夕花の顎に触れる。
「君は僕に盗まれたんだよ。もう返してあげない」
黒い瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
「さあ逃げよう、今から高速道路を飛ばせば、朝には東京だ」
二十面相は窓を開けると、夕花を抱えて、二階から飛び降りた。
裸足で庭を駆けて、裏に停まっていた車に乗り込む。
一瞬の出来事だった。
「なんて危ないことをするの」
「二十面相たるもの、これくらいしないとスリルがないよ」
エンジンをかけると、住宅街を走り抜ける。
「はははっ、今まででいちばんの仕事だよ」
「そうですか?」
「うん。楽しくなりそうだ」
心底楽しそうな二十面相の隣で、夕花は名古屋で見る最後の月に別れを告げた。
大正浪漫華やかなりし浅草には日本最古のエレベーターを擁する凌雲閣がそびえ、モダンな煉瓦のビルが立ち並ぶ銀座には服部時計店の時打ちの鐘が鳴り響き、ネオン煌めく港区には東京タワーが夜空を輝かせる。
その足元を闊歩するのは古式ゆかしい袴姿の女学生、インパネスの書生、断髪のモダンガール、アイビールックのシティーボーイ、ソバージュに肩パッドで風を切るボディコンギャルと、文化と流行の百花繚乱。
そんな煌めきと混沌の魔都を鮮やかに駆ける一人の怪盗が、世間を賑わせていた。
その名は三代目二十面相。
あの二十面相の名を借りた不届者とも、正式な孫とも定かではない。
先日も上野の博物館から金の王冠を盗み出したという。
テレビも雑誌も新聞も、正体不明、神出鬼没の大怪盗の話題で持ちきりだ。
だがそんな怪盗の横暴も魔都市の絢爛も、遠く名古屋にまでは届かない。
名古屋の武家屋敷跡地に立つモダンな洋館に暮らす朝倉夕花は、女学校に遅れまいと朝から大忙しで、新聞に目を通す時間もなかった。
慌ただしく家を出る直前に、玄関そばのガラスケースを鏡代わりに、前髪とセーラー服のスカーフを軽く整える。
いつ見ても埃一つついていないガラスケース。
その中には、亡き母である女優・朝倉妙子の写真と形見の真珠のネックレス、そして数々のトロフィーが飾られている。
映画賞の授賞式での煌びやかなドレス姿、宣材写真の微笑みは、永遠に若く美しいまま。
でも、このガラスケースの中に、夕花が向けられてきた、母としての表情はひとつも残っていない。
朝倉妙子は、端役だった新人時代に偶々ある女優の代役として抜擢されたのを機に銀幕スタアへと駆け上がったシンデレラ。
そして、若くして撮影中の事故で亡くなった悲劇のヒロイン。
妙子が所属している事務所はその頃大きな借金を抱えており、タイミングよく妙子の事故死で保険金を得たと言う。
妙子の死は本当に事故なのか、という噂は幼い夕花の耳にまで届いた。
父を知らず母を亡くし一人きりになった夕花は、そんな噂から逃げるように、母の付き人だった志歩を養育者にして、東京から名古屋の別宅へ移り住んだ。
元は妙子の出世作となった映画のロケで使用した屋敷で、思い入れがある屋敷が売り出されると聞いた妙子が、いつか朝倉妙子記念館にするのよ、などと冗談めかして購入していたもの。
玄関のガラスケースは、その言葉がけして冗談ではなかったことを窺わせる。
窓のステンドグラス、天井のシャンデリア。
映画の中で主人公が輝く舞台としては申し分ないが、吹き抜けのロビーは冬場は寒々しく、豪奢な螺旋階段は朝の忙しい時に駆け降りるには不便。
住人は二人なのに部屋数が多く荷物も少ないため、がらんとしている。
それでも、生活の端々で美しい屋敷だと思う程度に愛着はある。
「いってきます、お母さん」
写真の母にそう声をかけて、急ぎ足で玄関を出た。
「いってらっしゃいませ」
「いってきます」
外の掃除をしていた志歩と言葉を交わし、早足で学校へと向かう。
角を曲がりかけて、飛び出してきた男性にぶつかりそうになった。
「失礼」
短く低い声がしたと思ったらあっという間に駆けていく。
近所で見たことのない顔だな、と思ったけど、遅刻しかけていることのほうが大事だから、夕花もそのまま角を曲がって学校を目指した。
息を切らして教室に入ると、クラスメイトの真子が手を振っている。
「おはよう」
「おはよう夕花。走ってくるなんて珍しいわね」
「少し寝坊してしまって」
そう答えて鞄を置くと、隣の席から里穂が話しかけてきた。
「見た?今朝の新聞」
「もちろん!二十面相でしょう?」
真子が声を弾ませて答えたが、夕花は困って微笑むことしかできなかった。
「私、寝坊してまだ目を通していないの」
「じゃあこれ、読んでちょうだい!切り抜いて持ってきたのよ」
「ありがとう」
里穂から受け取った今朝の新聞には、二十面相が大阪の百貨店からサファイアの指輪を盗み出したと大きく報じられている。
昨日の朝に予告状が届き、厳重に警戒されていたにも関わらず、警備員に扮して盗み出すと言う大胆な犯行だったという。
「珍しいわね、大阪に二十面相が現れるなんて」
「珍しいも何も、初めてのことなのよ」
夕花が目を通した切り抜きを、今度は真子が受け取って目を通す。
「やっぱり二十面相も、新幹線で大阪に移動したのかしら?」
ふと漏らした夕花に、真子は少し考えて答えた。
「高速道路をスポーツカーで走っていて欲しいわ。ポルシェか、フェアレディも素敵ね」
「いいえ二十面相様ですもの、きっと自家用のヘリコプターよ!」
真子の意見に、里穂が熱っぽい声で反論した。
「に、二十面相様…?」
里穂の勢いに、夕花は面食らってしまう。
「二十面相様は、犯行の前に必ず予告状を出し、どんなに厳重に警備してもどこからともなく現れてお宝を盗み、逃げる時は煙のように消えてしまう
。ハンググライダーやヘリコプターで空を飛ぶこともあって、地上から追いかけることは難しいの。スポーツカーももちろんお似合いでしょうけど」
「里穂ったら、ずいぶん詳しいのね」
「うふふ、実はね…見てくれる?」
里穂が鞄から分厚いノートを取り出した。
今までの二十面相の記事を切り抜いてスクラップブックにしたものだった。
先日の上野の博物館の件はもちろん、銀座の宝石店や会社社長の邸宅、画家のアトリエとその犯行現場は様々だ。
一枚、望遠レンズで撮影したらしい二十面相の姿が映った写真がある。
目元をマスクで隠し、全身真っ黒なスーツ、マントが風に翻って、まるで映画のワンシーンのようだ。
もちろん顔は映っていないが、映画俳優のようなスタイルで見栄えがいい。
夕花が、ビデオで見た母の映画の共演者を思い出しても、その中の誰よりも脚が長い。
「犯行の前には必ず予告状を寄越して完璧に盗み出してしまう、変装の名人で素顔は誰も知らないけどたいそうな美男子だという話よ」
「誰も知らないはずなのに…」
夕花は思わず苦笑したが、里穂は夢を見るような顔で熱く語っている。
「どんな風にも化けられると言うことは、元のお顔が整っていなければ無理なことでしょう?土台がいいからその上にどんな扮装も乗ると言うことよ」
里穂の言い分に、なんだか納得してしまいそうになった。
「神出鬼没、眉目秀麗、その上華麗で完璧な犯行。そりゃあファンもつくでしょうね…あら、これ」
夕花の次にスクラップブックをめくっていた真子が、あるページを指差して声を潜めた。
そこには、会社社長の別荘から著名な画家の絵を盗んだ時の記事。
「この絵を盗まれた方、お父様の知人の知人なんですって。なんでも、この絵には大きな保険がかかっていて、大金を手にしたらしいわ」
「そんなことがあったの?」
「何年か前に海外のオークションで購入して、あまりにも高額だったから話題になったんですって。それで、万が一を警戒して早くから保険をかけていたようよ。まさか二十面相が盗むとは思っていなかったそうだけど」
真子の父親は大手銀行の重役だから、二十面相が目をつけそうなお宝を持つ人と接点もあるだろう。
「大阪に二十面相が現れたということで、いつ名古屋のお屋敷に忍び込まれるかわからないと、宝石や財産を持つ人たちは保険屋に殺到しているんですって」
「それは…保険屋が儲かるわね」
夕花の呟きに、里穂と真子が吹き出す。
二十面相の華麗な犯罪など、女学生にとっては遠い国の出来事だ。
「名古屋に現れるとしたらやっぱり松坂屋かしら」
「名古屋城かもしれないわ」
「金鯱が盗まれたりしたら一大事ね」
そう冗談を交わして笑い合った。
遠い国の出来事だと思っていたから。
学校を終えた夕花が帰宅すると、志歩が一人留守を守っているはずの屋敷が騒々しい。
玄関は開け放たれ、やけに人が出入りしている。
「夕花」
驚き立ち尽くしていた夕花にそう声をかけたのは、しばらくぶりに見る知った顔だった。
「…伊東のおじさま」
若い頃の朝倉妙子が主演した映画で国際的な賞を受賞し、その後もいくつもの名作を生み出した映画監督。
妙子が撮影中の事故で亡くなった時も、監督をしていたのは伊東だという。
責任を感じた伊東は、夕花が生活に困らないよう、妙子の財産を管理する弁護士を采配してくれた。
いわば恩人である。
名古屋へ引越ししたのも、伊東の助言だった。
一人娘の夕花が、妙子の遺産を相続したと知られたら身の危険があるから、東京から離れて静かに暮らした方が良いと。
時折訪ねるから安心して欲しいと。
名古屋での生活に慣れたここ数年は顔を見ていなかったが、連絡もなしに訪ねてきたことは初めてだ。
「どうされました?突然。この人たちは…」
「いや突然すまなかったな。その、知り合いが、朝倉妙子のファンで。どうしてもあの真珠のネックレスがみたいと言われてしまって」
「あの真珠ですか」
玄関のそばにあるガラスケースに飾られている真珠のネックレスは、ただの思い出の品ではない。
朝倉妙子が国際的映画賞を受賞した作品の中で身につけていたもので、その知名度も合わせて価値が高いという。
この名古屋の邸宅を購入した時に、妙子自ら職人に依頼して、簡単に割ることのできない特殊なガラスケースを作り、しまい込んでいた。
いつか朝倉妙子記念館にした時の目玉として。
それを知っているのは夕花と志歩、そして伊東だけ。
それを今更、わざわざ他人に見せびらかす理由がわからなかった。
それに朝倉妙子のファンだというなら、真珠よりも先にこの屋敷自体に興味があるはずだ。
映画のポスターにも使われた、妙子の儚げな美しさをより冴えさせた窓のステンドグラスに興奮しないはずがない。
それなのに、誰もがガラスケースの中の真珠に夢中になっている。
「あの、女二人の住まいなので、知らない男の方が出入りされるのは不安です」
夕花は精一杯遠回しに不満を訴えたが、伊東はそんなものは関係ないという風に鼻を鳴らしただけだった。
「いや実はな。今日は夕花に縁談を持ってきたのだ」
「縁談…ですか?」
「ああ、お前ももうすぐ16だろう」
「おじさま、私先月17になりました」
数年会わないだけで歳も忘れられてしまったらしい。
母が存命の間は、夕花の誕生日にはケーキやプレゼントを贈ってきた人が。
「そうだったか?まあいい。志歩に身上書を渡してある」
「私、まだ結婚なんて考えていません」
学校の同級生には親が決めた許嫁がいるとか、高校を出たら結婚が決まっているという話は聞いているが、夕花自身は結婚というものに関心がない。
そもそも母親が未婚で夕花を産んでいる。
「まさか断るつもりか?」
「はい、突然言われましても困ります。私、成績は良いんです。先生からも、このまま頑張れば、学校が推薦してくれて就職も出来ると。そうすれば、例えお母様の遺産が尽きたとしてもなんとか生きていけます」
「高卒の女の稼ぎでこの家は維持できない。税金でいくら取られると思っている?」
ぴしゃりと言われて返す言葉がない。
この屋敷の価値も、税金をいくら払っているのかも、毎月志歩にどれくらいの給金が出ているのかも、夕花は教えてもらっていない。
全部、この伊東が選んだ弁護士にまかせてある。
「腰掛けで二、三年働いて結婚するくらいなら、今のうちにいい家に嫁いだほうがお前も幸せだろう?」
人の幸せを勝手に決めないで欲しい。
夕花は玄関に視線を送る。
まだガラスケースに人が群がっている。
「あの中にある真珠を手放せばお金に」
「バカなことを言うな!」
伊東の怒声に肩が跳ね上がる。
「あ、あの真珠はな、妙子の個人の資産ではないのだよ。あくまでも映画会社が妙子に貸しているもので、いずれは返す契約になっているから、勝手なことはできないのだよ」
猫撫で声に背筋が寒くなった。
そんな話は知らない。
母は名古屋に居を構える以前はあの真珠をよく身につけていた。
元が映画で使ったものだとしても、買い取るなりして母のものになったのだと理解していた。
だからこそ、簡単に取り出せないガラスケースに収まっているのだと。
「実はな、夕花の縁談がまとまるまで黙っているつもりだったが…この屋敷の維持費や女学校の学費は、妙子が生前に買っていた株の利益で賄ってきたのだ。それが先日の大暴落で価値が下がり…ようするに、この館もお前の学費も、維持できる金がないのだよ」
「そんな」
株価が暴落したというニュースは知っていたが、それがこんなにも自分の生活を直撃するとは思ってもいなかった。
足元が崩れていくような、すべての未来が暗く閉ざされたような気がした。
「女学校には先ほど退学届を出した。来週には豊田に引越しを」
「待ってください。豊田ですか?」
名古屋から小一時間ほど離れた産業の街だ。
「豊田は自然豊かな良い街だぞ。秋は紅葉が見事で、妙子とも映画のロケをしたことがある」
そんな話を聞きたいわけではない。
「来週とはなぜ、そんな突然に」
「…だから、株が暴落したと言っているだろう!?」
伊東がまた声を荒げる。
「この屋敷を売って、家財も売って、株の損失を補填して、ようやくお前の嫁入り道具が揃えられるのだ!」
「そんなこと聞いていません、嫁入り道具もいりません!それに、母の遺産は私が相続したのではなかったのですか?おじさまがおっしゃったのではないですか、母の遺産を相続したのが子供だと知られたら危険だと、だから名古屋に移住するようにと!」
夕花も負けじと言い返した。
この屋敷は自分が相続したから住めているのだと、今の今まで信じていたのだ。
「この屋敷は売りません、私が、絶対に売りません」
「どんなに売りたくなくても差し押さえられるのだよ。株の暴落でできた負債を埋めるためにはそれしかない。住むのは勝手だが、借金が増え続けるだけだ」
どんなやりくりをしていたら、そんなに突然借金まみれになることがあるのだろう。
「あと三日ある、三日で荷物を纏めておけ!」
そう言い切ると、伊東は玄関にいる男たちと何か話した後、ゾロゾロと出ていった。
どうしたらいいかわからなくて、涙が出てきそうで、それを隠すために深く頭を下げる。
傍目には丁寧な見送りに見えたかもしれない。
あれほどの品なら数千万に、という会話が微かに聞こえた。
夕花に断りもなく、売るつもりだろうか。
この屋敷を、あの真珠を、株を相続したのは夕花ではなかったのか。
子供だった夕花には誰も教えてくれなかった。
大丈夫だから任せておけと、伊東が、言ったのだ。
ふらつく足で靴を脱ぐ。
二階で物音がした。
「志歩?」
いつもなら玄関で迎えてくれる志歩の姿が見えない。
手すりを握りしめながら螺旋階段を上っていく。
心臓の鼓動が壊れそうに早い。
そんなはずはない。
信じさせて欲しい。
物音は二階の奥、夕花の部屋から聞こえる。
「…志歩」
半開きのドアから覗くと、志歩が、クローゼットに頭を突っ込んでいるところだった。
足元に、無惨に壊された母の鍵付きジュエリーボックスが転がっている。
志歩が、かつて母のものだった高級ブランドのハンドバッグを掴んだままこちらをみた。
十年一緒に暮らしてきて、見たことのない形相をしてきる。
「約束が違う!」
夕花が言葉をかける前に、志歩が吠えるような大声を出した。
「あんたを成人まで面倒を見たら、一生分の報酬を出すと!あの大嘘つきめ!全部あの男のせいだ!」
「…あの男?」
「あんたを成人させたら金も結婚相手も用意する約束だった!それを、一緒に豊田に行けだなんてやってられない!これ以上、あたしの人生、あんたたち親子のために棒に振りたくない!」
「…あなた、何の話をしているの?」
夕花の問いに、志歩はハッと我に帰った。
「っと、とにかく、これは退職金よ、私が貰うはずだったお金の代わりよ!」
志歩が、右手に金のネックレス、左手にバッグ鷲掴みにして喚く。
「今日でおさらばよ、あんたはせいぜい豊田で年寄りに可愛がってもらうといいわ!」
まだ身上書も見ていない夕花の嫁ぎ先は、どうやらかなり年上だと伺える。
別に、志歩にどうしても一緒に嫁ぎ先に来て欲しかったわけではない。
母の付き人時代から長く働いてくれたのだから、二度と会えなくてもどこかで幸せになってくれれば良い。
ただ、もう少し穏便に、できればお互いを思いやって別れたかった。
「…ええ、今までよく働いてくれたもの。好きなものを持っていって。お元気でね」
夕花がそう言うと、志歩は足元に転がっていたブローチも引っ掴むと、恨めしそうに顔を上げた。
「あんたのその物分かりのいい態度、母親にそっくりよ」
言い捨てると、バッグを抱えて、螺旋階段を猛然と駆け降りていった。
玄関を飛び出ていく背中を窓から見送る。
名古屋に来てから、静かに、お互いを気遣いながら暮らしていると思っていたのは夕花だけだったのだろうか。
ため息を吐いて床に目を落とす。
母が愛用していたジュエリーボックスは空になっていた。
ネックレスとブローチ、あとは指輪が入っていたと記憶しているが、すべて志歩が持ち出したのだろう。
「…このジュエリーボックスが、一番高価なのに」
シンプルな鍵付きジュエリーボックスだが、名高いブランドのものだ。
「いつか、修理してもらえるといいのだけど」
外れた蓋を拾い上げて、形だけでも元に戻した。
開けっぱなしになっているクローゼットの中身を確認する。
夏の制服と外出用のワンピース、普段着のブラウスやスカート。
夕花の私物がなくなった様子はない。
高価な服やバッグを持っていないことは、志歩もよくわかっていただろう。
お小遣いなどもらったことはなく、学校で必要なものや、最低限の衣服は志歩が購入していたのだから。
志歩が使っていた部屋を覗くと、大急ぎで必要なものを持って出たらしく、荒れ放題になっていた。
ドアを閉めて、次は物置に向かう。
ここには母の出演作の台本や雑誌、ビデオテープが保管してある。
「さすがに、豊田には持ってはいけないわ」
この家が数日後には売りに出るという話が本当なら、どう処分されるのだろう。
売り物になるとも思えないし、適切な場所に引き取ってもらえることを願うしかない。
ふと、一本のビデオテープに目が留まった。
パッケージには、美しいステンドグラスを背にした朝倉妙子。
この屋敷を舞台にした映画。
「これだけは、持っていようかしら」
プラスチックのケースに入ったビデオテープを手に、自室に戻る。
そこでようやく、制服を着替えもしていないことに気がついた。
先ほど荒らされたクローゼットを開けて、ブラウスとスカートに着替える。
「…物分かりがいいところが似ている、ね」
志歩の最後の言葉が蘇った。
確かに、この屋敷を出ることを受け入れて、荷物に思い出のビデオテープを入れようとしているのは物分かりがいいのだろう。
子供の頃から選択肢などなく、ただ受け入れる人生だった。
母は留守がちで、付き人の志歩やマネージャーの言うことを聞くようにと躾けられてきた。
母を亡くしてからは、伊東に言われた通りに名古屋に移住し、指定された学校に通った。
そうするしかないと、諦めて受け入れてきた。
壊れたジュエリーボックス、ビデオテープ、外出用のワンピース。
それらを風呂敷に包むと、もう他に持ち出したいものなどなかった。
風呂敷をベッドに置いて、通学鞄から教科書とノート、筆記用具を出して机に向かう。
必要ないと分かっていても、宿題を終わらせたかった。
ほんの些細な、現実への抵抗。
それが終わると、螺旋階段を降りてキッチンに向かう。
元々は来客と食事するための食堂があり、その準備をするためのキッチンだったが、二人で使いやすいようにキッチンに小さなテーブルと椅子を二脚置いているから狭苦しい。
今朝まで、志歩が食事を用意してくれていたテーブルの上に、大きな封筒がポンと置かれている。
おそらく、結婚相手の写真。
断ることもできないなら、見ても見なくても、結果は変わらない。
夕花は、中身を見ないことにした。
冷蔵庫を開けると、昨日の残りの煮物が鍋のまま冷えていて、炊飯器にはご飯が二人分残っている。
志歩が、朝炊いたもの。
今朝まではいつもどおり、ここで二人で夕飯を取るつもりだったのだと思い至って、唇を噛んだ。
鍋の煮物を温め、茶碗一杯分のご飯に塩をかけて夕飯を済ませた。
ご飯の残りはおにぎりにして冷凍庫へ。
冷蔵庫には梅干しや漬物、ジャム、使いかけのバターが入っている。
これらをどうするべきなのか、考えそうになって頭を振った。
そんなのは、勝手に家を売った人がどうにかするべきだ。
やかんに湯を沸かし、温かいお茶をいれる。
ゆっくりとお茶を飲み干して、息を吐いて目を閉じた。
一人きりの屋敷は不気味なまでに静まり返り、微かな家鳴りも大袈裟に聞こえる。
食器を洗って水切りカゴに伏せ、キッチンを出た。
螺旋階段の前を素通りして応接間に入る。
この屋敷を舞台にした映画の中では、革のソファーと重厚なテーブルがあった応接間。
今は掃除用具がぽつんと仕舞われている。
雑巾と洗剤を探してホールに戻ると、ガラスケースを丁寧に吹き上げた。
昼間の男たちが無遠慮に触ったであろう指紋の痕を一つ一つ消していく。
ガラスケースの中の真珠は、夕花の気も知らず、シャンデリアの光をきらきらと跳ね返す。
その横で、母の写真はこんな時でも綺麗だった。
「…これで、お別れなのかしらね」
毎朝見慣れていたはずのネックレスを、改めて目に焼き付ける。
ガラスケースを拭き終わると、今度は家中の床を雑巾がけした。
広い屋敷に別れを告げるためなのか、現実逃避なのか、夕花にもわからない。
ベッドに入っても眠れないことはわかっていた。
かといって、起きていても余計なことばかり考えて、自分を責めてしまう。
無心になって床を磨いて、空の端が白んできた頃。
体力を使い果たして、夕花は自室の床に倒れ込んだ。
二度と目覚めなければいいのにと、捨て鉢なことを願いながら眠りに落ちた。
太陽の光が窓から差して、夕花は重たく張り付いた瞼を開く。
「いたたた…」
床で眠ったことなんて今までなかったから、体のあちこちが痛い。
時計を見ると、とうに登校時間は過ぎている。
「…学校」
退学届を出されてしまったから行かなくてもいい。
友達の顔を見るのは辛い。
だけど、お別れが言えないのはもっと辛い。
夕花は身体を引きずるように風呂場に向かい、汗と埃をシャワーで流して、制服を着た。
昨日磨いたガラスケースを鏡代わりに、前髪とスカーフを整える。
制服も、通学路も、教室も今日が最後。
ちょうどお昼休みで、みんなお弁当を食べている時間。
緊張を感じながら扉を開く。
振り返った真子と里穂が目を見開いた。
「夕花!?退学届を出したと聞いたわ、どうしたの?」
もう噂が広まっているのかと内心驚いた。
「急にお嫁入りが決まってしまって。お別れを言いにきたわ」
「…そう、それは…いい話、なのよね?」
真子が苦しげに顔を歪める。
この友人に、同情も心配もさせたくなかった。
「そうなるように頑張ってみるわ」
提出するつもりだった宿題が入った鞄がズンと重い。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。
「それじゃあみなさん、お元気で」
精一杯笑って、教室を出た。
本当は職員室に寄ってお世話になった先生にも挨拶するつもりだったが、夕花の退学を漏らしたのはおそらく担任だと思うとそんな気はなくなってしまった。
下駄箱からローファーを出して履き替える。
そのまま、上履きを目についたゴミ箱に捨てた。
本当は鞄ごと捨てていきたかった。
校門を出て、振り返らず、家と真逆の方向へ当てもなく歩き出した。
帰りたくない。
一人であの広い屋敷で、伊東の迎えがくるのをただ待つなんて耐えられない。
「…グレてしまおうかしら」
街に繰り出して、ゲームセンターやディスコに行ってみようかと思ったが、性格上、どちらも一人では楽しめそうにない。
お芝居でも観てみようかと、母親が昔出演したと言う劇場まで来てみたが、入場料が高く断念した。
夕花の小さながま口の財布には、修学旅行の時に土産を買うために渡されたお金の、わずかに残った小銭しか入っていない。
書店や雑貨屋をあちこち彷徨った末に、友人たちと数回、放課後に寄り道したデパートの屋上遊園地に行き着いた。
一番安いシェイクを買ってベンチに座る。
平日の午後だからか、人もまばらだ。
夕花の心を映すかのような曇天。
名物の観覧車も、客がいないのか止まっている。
着ぐるみのパンダが、風船の束を手にウロウロと歩いていた。
中のアルバイトが長身なのか、パンダの足が不釣り合いに長い。
つい目で追っていると、ふとパンダが立ち止まった。
真っ直ぐに、夕花が座るベンチの方に歩いてくる。
ずい、と赤い風船を差し出された。
「…くれるの?」
シェイクを持っていない方の手で受け取ると、パンダがぺこっと頭を下げてまたウロウロと歩き出した。
薄灰色の空の下、赤い風船がふわふわと揺れているのをぼんやり眺める。
パァン、と破裂音がして身を屈めた。
どこかで風船が割れたようだ。
辺りを見渡したが、風船もパンダも姿がない。
不思議に思っていると、従業員が数名、慌ただしく事務所から出てきた。
館内放送のチャイムが鳴る。
『館内トラブルのため、本日は全館閉館となります。お客様にはご迷惑をおかけいたします。繰り返します…』
「屋上を閉鎖します、非常階段で降りてください!」
警備員が声を張り上げる。
風船とシェイクを手にしたまま、追い立てられるように非常階段を降りる。
鞄をベンチに置き忘れたことに気がついた。
戻ろうかと振り向いたが、後ろから従業員が急かしてくるから、階段を降りるしかない。
あとでサービスカウンターに問い合わせして、明日取りに来ることはできる。
とは言え、提出し損ねた宿題と筆箱しか入っていない鞄だ。
幸い、家の鍵と小銭入れはスカートのポケットにある。
非常階段を降り切ると、道の真ん中に人だかりが出来ていた。
「号外!号外!二十面相の予告状だよ!」
無数に伸びる手に奪い取られたのか、号外新聞がバラバラと宙を舞った。
夕花は片手にシェイク、片手に風船を持ったまま、足元に舞い落ちてきた号外を拾おうとしたが、横から伸びてきた手にサッと奪われてしまった。
だが、大きな見出しは目に焼きついた。
『三代目二十面相、オリエンタル百貨店に予告状』。
オリエンタル百貨店。
すぐ後ろの、夕花がさっきまでいた場所。
振り返ると道路に面した入口はシャッターが閉まっていて、野次馬らしき人たちが集まり始めている。
号外を求める人が増えてきたのか、後ろからぶつかられて手から風船がすり抜けた。
転びかけてバランスを立て直す。
その拍子にシェイクのカップも道に転がって、通り過ぎる誰かに踏みつけられる。
百貨店の警備員が出てきて、号外を配る人やシャッター前の人だかりをなんとか整理しようとしていた。
巻き込まれる前に、夕花は人波に逆らって歩き出す。
手ぶらになって身軽だった。
このまま、家ではないどこかに行ってしまいたい。
だけど、電車代すら持たない夕花は、一人で大きく静かな屋敷に帰るしかなかった。
『三代目二十面相が、今夜オリエンタル百貨店の美術画廊から掛け軸を盗むと予告状を出しました。警察は厳重警戒しており、名古屋市中心部では交通規制も行われています…』
テレビのニュースはどこも二十面相の予告状の話題で、明日の天気さえわからない。
一人で炊いたご飯と冷蔵庫の漬物という食事をしながらチャンネルをあちこち変えたが、オリエンタル百貨店の前から生中継する映像ばかり。
リモコンでテレビを消すと、屋敷中の窓の鍵を確認して、螺旋階段を上り、滅多に入らない書斎のドアを開けた。
屋敷の中で一番広くて日当たりがよくて、見晴らしがいい窓。
窓を開けると、強い風が吹いた。
遠くに名古屋中心部の夜景。
空は曇っていて、月も見えない。
パトカーのサイレンが鳴っている。
手すりを握って、遠くの喧騒に目を凝らした。
空に、何か動く影がある。
影、いや、闇がかたまりになって移動している。
グライダーだ。
近づいてくる。
闇が降ってくる。
思わず後ずさると、ふうわり、と、音もなく闇は目の前の手すりに着地した。
「こんばんは、レディ」
低く心地良い声。
漆黒のスーツにマント、黒いレースのアイマスク。
その奥に麗しい瞳がある。
「…こんばんは」
乾いた喉からなんとか声を絞り出した。
三代目二十面相に違いない。
オリエンタル百貨店からグライダーで逃げてきたのだ。
それが、なぜここに。
「失礼、私としたことが目標を誤ったようです」
「…目標?」
「ああ、お気になさらず。すぐに退散しますので」
ドンドンドン、と玄関の扉を叩く音が階下から響いた。
「ここでお待ちください」
言い残して、螺旋階段を駆け降りる。
玄関をあけると、警察官が二人、手帳を手に立っていた。
「夜分遅くに申し訳ない、近くで二十面相のものと思われるグライダーが見つかった。庭などに潜んでいないか、調べさせてもらいたい」
「まぁ怖い。どうぞ、庭はこちらから…」
「お嬢様、どうしましたか」
しらを切って玄関を出ようとした夕花の背後から、知らない男性の声。
振り向くとそこには、年齢は伊東より上、細いメガネをかけた白髪のダンディ。
黒いスーツに蝶ネクタイをしている。
その黒いスーツは、先ほど空から降っていた美しい男が身につけていたものと同じにみえた。
「執事の田中です。ご用件は」
執事の田中を名乗る男は、スッと夕花の前に出て対応を引き受けてしまった。
「近くで三代目二十面相のものと思われるグライダーが発見されました。近隣のお宅の庭や物置を調べてまわっています」
「なるほど、お嬢様は中でお待ちください。夜は冷えます」
「ええ。頼んだわ」
咄嗟に、鷹揚なお嬢様の受け答えをして玄関を閉めた。
足音が庭の方向へ遠ざかる。
庭と言ってもこじんまりしたもので、母が好きだった薔薇が植えてある程度だ。
それでも気にはなるもので、庭がみえる縁側のカーテンを開ける。
警察官が懐中電灯で庭を隅々まで照らして、人気のないことを確認したらしく敷地から出て行った。
このあと隣近所を同じように捜索するのだろう。
玄関の鍵をかける。
気持ちを落ち着かせるためにお茶を淹れようとキッチンに入った。
「いや助かったよ」
執事の田中から素顔に戻った二十面相が、夕花の椅子に悠々と座っていた。
「助けるつもりなどありませんでした。本当に変装がお上手なのですね」
口答えしてお茶の支度をする。
やかんに湯を沸かして、急須に緑茶の茶葉を入れた。
「ついでに、私の分もお願いしていいかな」
「ここは喫茶店ではありませんので」
「つれないな。素敵なお茶菓子があるのだけども」
お茶菓子、という単語につい振り向くと、二十面相は漆黒のスーツの内ポケットからまるで手品のようにどら焼きやカステラ、そして鬼まんじゅうやういろうといった名古屋銘菓まで出してみせた。
夕花が以前、お友達のお家でいただいて感動した老舗のどら焼き。
無言で、伊東が来た時だけ使っていた来客用の湯呑みを用意した。
急須に湯を注いで蒸らし、湯呑みに注ぐ。
「粗茶ですが」
謙遜でもなんでもない、安物のお茶を出す。
二十面相は美人画の傾国の美女のように微笑んで、湯呑みに口をつけた。
夕花が、志歩が座っていた椅子に腰掛けると、マジシャンがトランプを並べるかのようにお菓子が並んだ。
「お好きなのをどうぞ」
勧められて、迷わずどら焼きを選ぶ。
今朝からシェイクとご飯と漬物しか口にしていない。
どっしりとしたあんこを抱いた柔らかな生地が身体に染み入る。
「ああ、美味しい」
「良かった、賄賂だと思ってね」
不穏な単語に咽せる。
どら焼き、カステラ、名古屋銘菓。
もしかしてこれらの出所は。
「オリエンタル百貨店、なかなかいい品揃えだったよ」
「な、なんてこと…」
「君が気に病むことではない」
盗品だとわかっても、どら焼きはちゃんと美味しいことに少なからずショックを受ける。
こういう時は味もわからなくなるものだと思っていた。
緑茶の香りが沈黙と共に流れる。
「貴方は、食べないのですか」
「お気遣いどうも」
二十面相は涼しい態度で、安い茶を音も立てず啜る。
美しい人が手にすると、古いだけの茶器も高価なアンティークにみえるものだと思った。
「…貴方が食べないのなら、カステラもいただいていいかしら」
食べてしまったらもう、一個も二個も同じだ。
二十面相がふわりと笑う。
「好きなだけ、召し上がれ」
お言葉に甘えてカステラの封を切る。
口に広がる卵の風味とザラメの食感。
これは絶品だ。
「そんなに美味しい?」
「ええ、とても」
「一口失敬」
言うなり鮮やかな手つきで、夕花の手元からカステラを一欠片奪って口に入れた。
「これは絶品」
どんなお菓子よりも甘い微笑み。
なんという大泥棒。
「さて、そろそろお暇するよ。ご協力有難う」
そう言って立ち上がると、胸元から一輪の赤い薔薇を出した。
「これはお礼」
どうやって仕舞っていたのか不思議なくらい瑞々しい薔薇だ。
「…きれい。でもお花は」
顔を上げた時には、二十面相の姿はそこになかった。
辺りを見回しても影もない。
「お花は、困るのよ」
明後日この家を出た後、誰が花瓶の水を替えるのか。
押し花にするにも時間が足りない。
コップに水を汲んで薔薇を差す。
それを持って部屋に戻ると、窓辺に置いた。
雲が途切れて、月明かりが薔薇を照らす。
昨日は床で気絶したのに、今日はベッドでちゃんと眠れそうだった。
目覚ましをかけていないのに、いつもどおりの時間に目が覚めた。
窓辺の薔薇が朝日を浴びて輝いている。
「…夢じゃなかった…」
急いで着替えると螺旋階段を駆け下り玄関を出て、郵便受けの新聞を取る。
昨日の二十面相の犯行が大きく取り上げられていた。
オリエンタル百貨店の屋上からグライダーで飛び立つ二十面相の写真が大写しになっている。
ソファーに座って記事を読もうと玄関に戻って鍵をかけ、靴を脱いだ直後。
ドンドンドンドン、と玄関を乱暴に叩く音が響いた。
「二十面相が出るぞ!」
伊東の声だ。
「…えっ」
新聞を持ったまま、玄関の鍵を開ける。
「どうしたのですか伊東様」
「どうしたのではない!これを見ろ!」
伊東が突き出してきたのは、白地に金の縁どりがされた便箋。
タイプライターでこう書かれている。
『今夜、朝倉妙子の形見の真珠のネックレスをいただく』
「…真珠とは、あの真珠のことですか」
「それしかないだろう!なんと恐ろしい、今すぐあのガラスケースから真珠を出してどこかの金庫に」
「あのガラスケースは簡単には開かないのです。母が、そのように作ったはずです」
夕花は不思議なほど冷静だった。
ああ二十面相は、昨日このネックレスをみて次の獲物にしたのだと。
伊東に売られるくらいなら、二十面相の手に渡って欲しいとすら思った。
「この予告状はどこに?」
「新聞受けに刺さっていたのだ、きっと昨日オリエンタル百貨店で盗みを働いて、次にこの屋敷に目をつけたのだろう」
「新聞受けに…?」
ついさっき、夕花が見た時には新聞しか入っていなかった。
見落としたとはとても思えない。
「こうしちゃおれん、すぐに知り合いに頼んで厳重に警備をしなくては」
「その前に警察ではないですか?」
「バカを言うな!まんまとオリエンタル百貨店で二十面相を逃した警察に何ができる」
伊東は勝手に玄関をあがり、黒電話の受話器をとった。
「私だ。今すぐ朝倉の屋敷に来い。ああ、そうだ。忘れるなよ」
何かを指示して電話を切ると、懐から封筒を出した。
「明日引っ越す準備は出来ているな?これを持って役所に行き、戸籍謄本をもらってこい。婚姻届に必要だ」
「今からですか?役所はまだ開いていないのでは」
「いいから今すぐにだ!役所が開いてないというならこれで喫茶店でも行ってこい!」
万札を渡されて驚いた。
金額だけではなく、まるで夕花を追い払いたい、ここにいては邪魔だと言わんばかりの態度に。
「ところで、志歩はどうした。志歩にも用事を頼みたいのだが」
「…志歩ですか」
一昨日逃げました、と言いかけた夕花の視界を、見慣れたエプロンが横切った。
「どうしました?」
志歩が、まるで今さっきまで掃除をしていましたと言う様子で、そこに立っている。
「おお志歩、少し頼みたいことがある。夕花、お前は役所に行きなさい」
「役所なら私が行きますが」
「私が志歩に用があるのだ。夕花、早よう行きなさい」
犬を追い払うような手つき。
こんな男を信頼して母の遺産のすべてを預けていたのかと思うと絶望する。
「お嬢様、役所の近くの喫茶店は早くから開いています。たまにはゆっくりモーニングをするのも良いものですよ」
志歩にまで言われて、夕花は仕方なく部屋に戻り、外出用のワンピースに着替えた。
万札を折りたたんで小銭入れに仕舞い、ポシェットに入れた。
「…お嬢様、ね」
志歩の言葉を反芻して、思わず笑ってしまった。
本物の志歩は、夕花のことを『夕花様』と呼ぶのだ。
「それではいってきます。書類をもらったらすぐに戻りますので」
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
玄関で志歩に見送られ、外に出ると、伊東が何やら男たちと話し合っている。
「狙いはあのガラスケースだ。まずは二階の窓を封鎖して、侵入を防ぐ」
「役所に行ってきます」
「ああ、ゆっくりしてきて良いぞ」
こちらに目もくれず屋敷の間取り図を手にああだこうだと言っている。
確かに二十面相は二階の窓から入ってきた。
でもそれを知っているのは夕花しかいないし、今更二階の窓を封じたところで意味がないことも、夕花だけはわかっている。
でも、教えてあげる必要はない。
夕花は予定外に手に入れた大金でせいぜい豪華なモーニングを楽しもうと、市役所を目指した。
開店直後の純喫茶は、常連客で賑わっている。
彼はもテレビも新聞も、二十面相の話で持ちきりだ。
夕花はカフェオレとトーストとゆで卵、さらにサラダにヨーグルトまで注文した。
贅沢な朝ごはんで嬉しい。
食べながらテレビや話し声に聞き耳を立てていたが、誰も彼も、オリエンタル百貨店の話はするのに、朝倉妙子の屋敷に予告状が届いたことは知らないのだ。
「オリエンタル百貨店から盗まれた掛け軸だが、噂では元々は盗品だったらしいぞ」
「噂だろう?二十面相を義賊にしたいファンの妄言だよ」
「今回も誰も顔は見れなかったのか?さぞ美男子なんだろうな」
「屋上に逃走用のグライダーが隠してあったのに、従業員が気が付かないものかね」
「あ、あれ見ろよ」
全員がテレビに注目して、夕花も釣られて顔を向ける。
生中継のカメラがとらえた、屋上から飛び立つグライダー。
一緒に風船が舞っている。
「なんでも、イベントで子供に配るための風船の中に隠してあったらしいぞ」
オリエンタル百貨店の屋上。
風船。
そういえば、パンダの着ぐるみに赤い風船をもらった。
「…お仕事中、だったのかしら」
やけに頭身の高いパンダの正体にまで気がついてしまった。
8時45分、市役所が開いた。
名古屋市役所は歴史ある重厚な建物で、廊下を歩いているだけで背筋が伸びる。
窓口で封筒の中身を確認すると、すでに記入された請求書と夕花の保険証等が入っている。
保険証は、志歩がずっと保管していた。
夕花はあまり病院に行かなかった、否、お金に気を使ってなかなか行けなかったから、いつ伊東の元に渡ったのか定かではない。
夕花の後見人は弁護士の高橋の名前になっている。
顔すら見たことがない。
何もかも任せていたのが悪かったとしても、あの時の夕花には選択肢すらなかった。
粛々と手続きをして書類を受け取り、封筒に入れる。
「…よし」
お腹もいっぱいだし、屋敷の様子、何よりも志歩に化けている人のことが気になって、夕花は早足で家路についた。
一階の窓に、台風でも来るのかという厳重さでベニヤが打ち付けられている。
ステンドグラスだけは、ベニヤの大きさが合わないのかそのままで、異様さが際立っていた。
「ただいま戻…」
「どいたどいた!」
玄関を入ろうとしたところ、作業員に押し除けられてよろめいた。
転びかけたところを志歩に支えられる。
肩に触れる手の大きさに違和感と、確信。
「お嬢様、大丈夫ですか」
「ありがとう。大事になっているわね」
ガラスケースの周りには工事現場のようなポールが建てられ、窓は内側からもベニヤで封じられている。
「お嬢様、お渡ししたいものがございます」
人の出入りが激しい一階から、螺旋階段を上り夕花の部屋に入った。
この部屋の窓にまで、勝手にベニヤ板が貼られている。
陽が入らず暗い。
「お嬢様のお部屋は私が立ち会いましたので、余計なところは触らせておりません」
「そう。ありがとう」
蛍光灯をつけて、勉強机の椅子に座ると、志歩が封筒を差し出した。
「こちら、先ほど伊東様よりお預かりしました。後見人の署名をいれた、婚姻届です」
「志歩が預かってくれれば良いのに。一緒に豊田に行くのでしょう?」
少し意地悪なことを聞いた。
本物の志歩は、それが嫌で逃げたのに。
「お嬢様が、持つべきです。嫌なら出さなければ良いのですから」
「出さなくても良いと、あなたは思っているの?」
「…私は、お嬢様の幸せを願っておりますので」
本物の志歩よりもよほど、夕花を思う気持ちが溢れた言葉。
封筒の中身を覗くと本当に婚姻届で、夕花の欄は勝手に書き込まれている。
相手欄は空欄。
焼き捨ててしまおうかと思った時、階下で言い争う声と何かが倒れる音がした。
部屋を飛び出て螺旋階段の上から玄関を伺うと、警察官と伊東が揉めていた。
「…誰が警察を?」
少なくとも夕花ではない。
無能な警察に何が出来る、などと伊東が怒鳴り散らしている。
「志歩が呼んだの?」
そう聞いて振り返ると、そこに志歩の姿はなく、ドアから漏れた蛍光灯の灯が、暗い廊下に光の筋を作るだけだった。
勇気を出して螺旋階段を降りていくと、伊東が警察を玄関から押し出したところだった。
「伊東様、何の騒ぎですか」
「子供には関係ない!」
一括されて身が竦む。
窓を封鎖した玄関ロビーは、ステンドグラスから差す光とシャンデリアの灯がきらきらと混ざり合って舞踏会の会場のようで、そこに響くトンカチと電動工具の音が不快で仕方がなかった。
「ですが、お母様の真珠が盗まれるかもしれないのでしょう?私にも関係あります。あれは私のお母様の」
「妙子のものではない!あれは私の会社のものだ!だから私が守る、何が悪い!?」
この何年も放置していた人間の言うこととは思えなかった。
「…そうですか、わかりました」
背を向けて玄関で靴を履く。
「夕花、どこに行く?」
「私がいたところでお邪魔になりそうですので、少し散歩をしてきます」
返事の前に外に出た。
予想通り、警察官が数人困ったように立ち尽くしている。
その中には、昨日庭の様子を見にきた警官の顔もあった。
「すいません、こちらのお嬢さんでいらっしゃいますか」
「はい」
「事情を伺ってもよろしいでしょうか。ご主人に追い返されてしまいまして」
「もちろんです」
伊東はこの屋敷の主人ではない、と言いそうになったが、知らないうちに所有者が伊東になっている可能性も考えた。
「我々は近隣の住人から、二十面相が現れると騒いでいる家がある、と通報を受けました」
窓に板を打ち付けたり大きな音を立てていたから、近所の人が不審に思ったのも無理はない。
「今朝、郵便受けに二十面相からの予告状が入っていたそうです。私も見せてもらいました」
「ほうほう。奴の狙いは?」
「この屋敷は元々、女優朝倉妙子の邸宅でした。玄関のガラスケースに、遺品の真珠のネックレスが飾ってあります。おそらく狙いはそれかと」
「なるほど…ご主人は警察に頼るつもりはないと」
「…そのようです」
昨日も逃げられたのは事実で、警察もそこは理解しているのか気まずそうにしている。
「すいません、こちら朝倉邸ですね?」
今度は何かと声の方を見る。
「新聞社です。二十面相の予告状が届いたと情報が入ったので取材に」
「夕花さん!」
急に駆け寄ってきた男に名前を呼ばれた。
「お久しぶりです。以前お母様の取材を担当していました雑誌記者の加藤です。すっかり大きくなって…ああ、お母様によく似ていらっしゃる」
ペラペラと心にもないことをよく喋る、さすが雑誌記者だと思った。
夕花は母に似ていると思ったことはないし、そう言われたこともない。
唯一、志歩に言われたのが『物分かりの良さ』くらいだ。
加藤は、伊東から連絡があり東京から呼び出された事、新幹線に飛び乗って今着いたところだと聞いてもないのに教えてくれる。
「ああそうだ、写真を」
喋りながらカメラを構えた瞬間、夕花が反射的に顔を背けたと同時に、昨夜庭を捜索していた警官が加藤の前に立ちはだかった。
フラッシュが光る。
「ちょっと、邪魔だよ!」
加藤は怒鳴ったが、他の警官からも警備に支障が出ると注意されていた。
「お話はわかりましたので、お戻りください。お送りします」
促されて、屋敷に戻ることにした。
後ろから加藤と新聞記者もついてきて、玄関で伊東を見つけて何か話している。
何をするつもりなのか、ステンドグラスの側に足場を組む音がうるさい。
夕花は警官と二人、螺旋階段を上る。
「先日は夜中に失礼いたしました」
深夜に庭を捜索しにきたことを謝られた。
あの時対応した自称執事がいないことは気にしていない様子だ。
「連日大変ですね。こういうとき、私は、どうしたらいいのでしょうか。何かお役に立てるとも思えませんし」
「安全な場所にいてください。おそらく内部の警備は許可されないでしょうが、敷地外で待機し、二十面相が現れたなら追いかけます」
騒音の中でかろうじて聞き取れる声でぽつぽつと会話しながら、夕花の部屋の前についた。
「…見送りありがとうございました。あの、一つ気になることがあるのでお話ししても?」
「もちろんです」
「私は、十年前からこの屋敷に住んでいますが、この屋敷が朝倉妙子のものだと言うことは、けして他所で言わないようにと言い含められてきました。泥棒に狙われては怖いじゃないですか」
「確かに、その通りです。実際、二十面相に狙われています」
「でも二十面相は、どうやってガラスケースの中身が朝倉妙子の形見だと知ったのでしょうか」
「…どこかから聞きつけたのでしょう、二十面相の情報源がわかれば我々も苦労しませんので」
「それもそうですね」
改めてお礼を言って、部屋のドアを閉める。
部屋の蛍光灯をつけると、窓辺にあったはずの、薔薇を差したコップが勉強机の隅に移動していることに気がついた。
陽が当たらないせいか、元気がないようにみえる。
隙間からでも陽を当てられないものかと、ベニヤ板に軽く触れた。
ぱきっ、と音を立てて、ベニヤ板が外れる。
「えっ」
てっきり釘で打ちつけてあると思っていたベニヤ板は、両面テープで貼り付けられていただけで、あっさり外れてしまった。
「…ここから逃げた、のかしら?」
それならば、志歩のフリをしていた人物が急にいなくなったことにも納得がいく。
うっかり窓を開けては、外にいる作業員にこの窓が封鎖されていないことがバレてしまう。
夕花は勉強机を引きずって窓辺に近づけると、そこにベニヤ板を立てかけた。
これで窓は封じられず、隙間からは陽が入る。
外からはベニヤ板で封じられているように見えるだろう。
コップを日向に置くと、いよいよ、夕花ができることは何も無くなった。
ベッドに横になって、階下の物音に神経を研ぎ澄ませる。
ドリルの騒音、金属がぶつかる音、伊東の怒号。
どれも不快だ。
早く夜になって、全部終わればいい。
眠れるような状態ではないけども、お腹の上で手を組んで、ただ目を閉じた。
どれくらいそうしていたのだろうか、気がつくとベニヤ板から入り込む日差しは傾き、薄暮色に変わっている。
そっと部屋を出て玄関ロビーを伺うと、ステンドグラスに暗幕がかけられていた。
ガラスケースは太い鎖でぐるぐるに巻かれている。
滑稽なはずなのに、中に入っているのは朝倉妙子の写真と真珠のネックレスだからか、神話に出てくる囚われの美女のようにも見えた。
玄関は鍵がかけられている。
掃除道具がしまってあるだけだったリビングには作業員たちが持ち込んだ脚立や道具が所狭しと並んでいる。
普段は使っていない食堂を覗くと、伊東を中心に作業員や記者たちが酒や惣菜を食べ散らかしていた。
「夕花!」
見つかった。
こっそり覗くだけのつもりだったのに。
「志歩の姿がない、どこに行った」
「私も見ておりません。よろしいのですか?いつ二十面相が現れるかもわからないのにみなさん酔っ払って」
「問題ない」
伊東の呼気からはアルコールを感じない。
一人だけ素面でいれば二十面相を防げると思っているのだろうか。
「確かにそうですね」
調子良く会話に入ってきたのは加藤だった。
右手に缶ビール、左手に味噌カツの串を持って随分と機嫌がいい。
「予告状には今夜としか書いていないのだから、七時かもしれないし十時かもしれません。みんなでロビーのガラスケースを見張りましょう!」
そう言って加藤が意気揚々とロビーに向かっていく。
「それもそうだ、二十面相が罠にかかるところを見逃すわけにいかない」
作業員や新聞記者も加藤に続く。
伊東は苦々しい顔で、大股で一番最後を歩いて行った。
あんなにもがらんと広かった玄関ロビーも、大人数が集まると狭苦しく感じる。
「伊東様、二十面相を罠にかけると仰いましたが、どのような仕掛けなのですか?」
「まず、二十面相が侵入できないように窓を塞いである。仮に天井裏だか床下から侵入したとして、このガラスケースは元々頑丈だ。それにほれ、この鎖の鍵は私が持っている。外には警察もいる」
自信たっぷりに喋っているが、あれだけ邪魔者扱いした警察のことを当てにしているのがわかって、夕花は改めてこんな男を信頼していたのかと憂鬱な気持ちになった。
こんな男の薦める結婚のために、学校を辞め屋敷を出なければならない。
「予告状は今夜とありましたが、一体何時に現れるのでしょうね」
「さあな」
「このままみんなが疲れて眠るのを待ち構えているかもしれませんよ」
加藤は妙に饒舌だ。
対して伊東は、さすがに警戒しているのか落ち着きなく辺りを見回している。
「もうすぐ七時です。昨日、二十面相がオリエンタル百貨店に現れた時間です」
名も知らない新聞記者がそう言った時、屋敷のどこかでガラスが割れる音がした。
「今の音は」
「二階でしょうか」
「窓はすべて塞いである、ガラスが割れたところで侵入はできまい」
伊東が強い口調で言い切る。
一人の作業員が、あっと声を上げた。
「今、人影が!」
指をさす方向に、黒いマントが翻る。
記者たちがカメラそちらに向けてシャッターを切る。
全員の視線が二階に向いている、その時。
バァン、と爆発音。
全員が咄嗟に手で顔を覆う。
ガラスケースが粉々に砕け散り、美しい朝倉妙子の写真に、形見の真珠に、ガラス片が降り注いだ。
思わず駆け寄ろうとした夕花の肩を、加藤が制した。
「何を」
「ガラスで怪我をしては大変です」
「怪我を気にしている場合じゃないでしょう!?」
真珠のネックレスが魔法のように宙に浮いた。
その先に、黒い人影がある。
まるで釣りでもするかのように、透明な糸で真珠のネックレスを手繰り寄せ、手中に収めてしまった。
「…追いかけろ!」
伊東の怒号に、夕花と加藤以外の全員が螺旋階段を駆け上がる。
だが二十面相は、螺旋階段の手すりを越え、ステンドグラスの側に組まれた足場へまっすぐに飛び移る。
ぶつん。
何かが壊れる音がした。
華麗に宙を舞ったはずの二十面相は、力無く壊れたガラスケースの上に落下した。
轟音と共にガラスが飛び散る。
螺旋階段から駆け戻ってきた作業員たちと、玄関から押し入ってきた警察が、ガラスで傷ついた二十面相を取り押さえた。
「…おい、これ人形だぞ!?」
「でも真珠はここに!」
取り押さえられたはずの二十面相は、黒いマネキン。
一人の警官が真珠のネックレスをガラスの中から見つけ出した。
真珠はガラスで傷つき、輝きを失っていた。
伊東はショックのあまり、呆然と立ち尽くしている。
「伊東様、念の為確認してください」
警官の要請にも、返事すらしない。
「確認も何も、それは偽物だよ」
舞台の主役かの如き涼やかな声が、ロビーに響いた。
先ほど地面に落下したはずの二十面相が、螺旋階段の手すりに優雅に寄りかかっている。
「二十面相!」
「おっと、私より伊東氏を確保するのが先だよ。私の名を語り、勝手に予告状を作り、偽物の真珠を使って保険金詐欺を企てたのだから」
白手袋の人差し指に導かれるように、その場にいる全員の視線が伊東に注いだ。
「な、何を証拠に…」
伊東の震える声を遮り、二十面相がふわりと手を広げた。
それにあわせて、ステンドグラスにかかっていた暗幕がずるりと落下する。
そこに、二人の男が隠れていた。
「その二人も共犯だよ。二十面相の犯行にみせかけるためにあれこれ細工をした張本人さ。ガラスケースを爆破させたのも、マネキンを操作していたのもその二人」
二人は慌てて足場から降りて逃走しようとしたが、真下にいた警官に拘束された。
「新聞記者の方々は、二十面相の犯行を報道してもらうために呼び出されたんだよ。テレビ局に生中継されてはトリックがバレてしまうと思ったんだろう。よくできているよ、さすが映画監督。そういうわけで、私は今回の事件には無関係だ。警察諸君、あとは任せたよ」
そう言い残すと、二十面相は螺旋階段を風のように駆け上がった。
「ま、待て!」
数人の警察官が後を追い、煙のように消えた二十面相を、一部屋一部屋探し回っている。
伊東の魂胆は、映画の撮影技術を駆使して二十面相の犯行場面を作り上げ、自分が選んだ新聞に報道してもらうことだった。
それならば、本物の真珠はどこに行ったのか。
「あの、本物は…本物の真珠のネックレスはどこに」
夕花が毎朝見てきたものは、いつから偽物だったというのか。
「そんなもの、妙子が死んですぐに売ってやったさ。お前が見ていたものは、最初からずっとこの偽物だ」
忌々しそうな伊東の声。
夕花はあまりのショックに膝の力が抜けてしまった。
「詳しくは署で聞こう。そこの二人もだ」
暗幕に隠れていた二人と伊東が連行されていく。
新聞記者はその様子をカメラに納めている。
作業員たちは、窓を封鎖するために呼ばれただけだと警察に事情を話している。
「お嬢様、大丈夫ですか」
声をかけてきたのは、あの夜突然現れた自称執事だった。
「お手を」
「…ええ」
よろめきながらすらりとした手を取る。
「お嬢様はショックで具合が悪い様子。少しお休みいただきます故」
「わかりました」
現場検証で忙しいのか、警官は疑いもしない。
螺旋階段を上り、夕花の部屋に入ると、窓にベニヤ板がまだ立てかかっている。
「いい月が出ておりますよ」
自称執事がそう言ってベニヤ板を外すと、真っ白な三日月が夜を照らしていた。
「…何故まだいらっしゃるのですか?」
「便利に使わせてもらったよ」
自称執事が、顔の前で軽く手を振ると、白髪のダンディは魔法のように美男子へと変身した。
「志歩の服はどうしたの」
「気づいていたのか?」
「志歩は私のこと、お嬢様なんて呼ばないもの」
「それはミスだったな。顔だけは、下見の時に把握していたのだけど」
「…下見?」
「グライダーをどこに捨てるか、あらかじめ下見して決めていたのさ。君と出会う前の日だよ」
「ああ、それであの時…」
「本当は隣の庭の予定だったんだがね、風向きが変わって急遽君のところに。あのメイドの姿が見えなかったから化けさせてもらったけど、彼女はどこに?」
「その下見の日に辞めました」
「…なるほど」
二十面相は胸元のポケットを探ると、封筒を夕花に差し出した。
「じゃあ、これは君のものだ」
やけに分厚い封筒だ。
中身をみると、現金が詰まっている。
見たこともない額で息が止まった。
「帯封がないところをみると、あまり綺麗な金ではないかもね」
「な、なんですかこれ…」
「伊東とかいう男が、志歩に化けている私に渡してきたんだ。そこで君の置かれている状況を知った。君はあの男の借金のために結婚する。この金は当面の生活費という名の口止め料として志歩に渡された」
黙って今日まで働いていればこの現金が手に入ったことを思うと、志歩もついていない。
「少し調べさせてもらったけど、あの伊東という男は君が未成年なのを良いことに、朝倉妙子の遺産を吸い尽くしていたのさ。まあ最初は、映画の資金に少し借りる程度だったのかもしれないが。預貯金、宝石、着物、そしてとうとう、名古屋の屋敷、そして君を売った」
「…私は売られたのですか」
「少なくとも、私はそうだと思うよ。相手が伊東の映画に多額の出資をしているからね」
あんな男を信じるんじゃなかった。
この数日で何度もそう思った。
「どうする?結婚が嫌ならその金を持って逃げるといい。便利に使わせてもらったお礼に、この屋敷から出る手伝いくらいはしてあげるよ」
「案外親切なのですね」
「よく言われるよ」
「…幸い、身分の証明になるものは今朝役所でもらってあります」
戸籍と婚姻届。
そして手の中の現金。
これらがあれば、人生を変えることができるかもしれない。
少なくとも今、夕花には、選択権がある。
「三代目二十面相様に、お仕事を依頼します」
「仕事?私は盗みしかしないよ」
「ええ、ですから」
夕花は封筒の中身を鷲掴みにして二十面相の眼前に突き出す。
「このお金で、私を盗んでください」
「…面白いこと言うね君」
二十面相は夕花の手から現金を奪うと、そのまま胸ポケットにねじ込んだ。
「面白い、面白いよ。気に入った。善は急げだ」
二十面相は楽しげに言うと、今度は別のポケットからノートと万年筆を取り出した。
「あとで面倒なことにならないように、書き置きを残してもらおうかな」
「何と?」
夕花はノートを勉強机に開き、万年筆を持つ。
「好きな人がいるので結婚できません、さようなら」
「…それじゃあ駆け落ちみたいだわ」
「駆け落ちだよ」
「え」
すらりと美しい指が、夕花の顎に触れる。
「君は僕に盗まれたんだよ。もう返してあげない」
黒い瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
「さあ逃げよう、今から高速道路を飛ばせば、朝には東京だ」
二十面相は窓を開けると、夕花を抱えて、二階から飛び降りた。
裸足で庭を駆けて、裏に停まっていた車に乗り込む。
一瞬の出来事だった。
「なんて危ないことをするの」
「二十面相たるもの、これくらいしないとスリルがないよ」
エンジンをかけると、住宅街を走り抜ける。
「はははっ、今まででいちばんの仕事だよ」
「そうですか?」
「うん。楽しくなりそうだ」
心底楽しそうな二十面相の隣で、夕花は名古屋で見る最後の月に別れを告げた。


