明治京都桜花心中~死神令嬢は、没落若君のために一万本の桜を咲かせる~

5月の湿った空気が、平安院学舎の教室にまとわりついていた。  
だが、教室の中央だけは、梅雨の湿気など存在しないかのように華やいでいる。  
財前征一郎と伊集院エリザを中心に、選ばれし者たちの笑い声が渦巻いていた。
「琵琶湖疏水の測量が終わった。政府からの追加予算も認可された」
財前が懐中時計を確認しながら淡々と告げると、取り巻きの生徒たちが感嘆の声を上げた。
「さすが財前様!仕事が早い!」
「私もよ。フランスから鉄道技師を三人招いたわ。来月には測量開始よ」
「エリザ様の電気鉄道計画も順調ですね! 京都が変わりますわ!」
彼らが語るのは、輝かしい「未来」だ。鉄と蒸気と電気がもたらす、確実な繁栄。  
その喧騒から遠く離れた、日陰の席。天宮蓮人は机に突っ伏し、魂が抜けたように動かない。
「西陣織」も「青空教室」も失敗に終わり、手元に残ったのは無力感だけだ。  
泥にまみれ、罵声を浴びた記憶が、彼の自尊心を蝕んでいる。
「……蓮人くん」
隣の席から、九条琴乃が小声で話しかけた。
「……あ?」  
蓮人の返事は掠れていた。生気がない。
「あ、あのね……お弁当、作ったの。一緒に……」
「いらねえ。……食欲ない」
蓮人は顔を上げようともしなかった。  
琴乃は膝の上で弁当包みを握りしめた。  
いつもなら「腹減った!」と飛びつくはずの彼が、今は何も欲しがらない。  
それが何より、彼の心が壊れかけている証拠だった。

夕方。二人は鴨川沿いの通学路を並んで、無言で歩いていた。  
夕日が川面を赤く染めている。  
美しい夕景だが、二人の間には重苦しい沈黙が横たわっていた。
「…………」
俯いて歩く蓮人の背中は、ひどく小さく見えた。  
あの頃の自信に満ちた背中はどこへ行ってしまったのか。  

琴乃はその頼りない背中を見つめながら、不意に、古い記憶を蘇らせていた。  
あれは四年前――二人がまだ13歳だった頃のことだ。
(明治12年・回想)  
中等部の体操の時間。  
校庭の砂埃の中、13歳の琴乃は派手に転倒した。
「ったぁ……っ!」  
ハードルに足を引っ掛けたのだ。  
膝を擦りむき、滲んだ血が白い靴下を汚していく。  
周囲の男子生徒たちがクスクスと笑った。
「うわ、ドジだなー」
「九条、運動オンチすぎ」  
恥ずかしさと痛みで涙目になった琴乃の視界に、一人の少年が飛び込んできた。  
蓮人だ。彼は眉をひそめ、誰よりも早く駆け寄ってきた。
「……おい、立てるか?」  
蓮人は何も言わず、琴乃の前に背中を向けてしゃがみ込んだ。
「乗れよ。保健室行くぞ」
「えっ……でも、みんな見てるし……」
「いいから乗れ」
有無を言わせぬ口調に、琴乃はおずおずとその背中に腕を回した。  
蓮人が立ち上がる。  
彼の体温と運動着の汗の匂いが鼻をくすぐる。  
歩き出す蓮人。その歩調は、驚くほど安定していた。
「……ごめんね。私、重いでしょ?下ろしてよ」
「じっとしてろ」
「重いから……もういいよ」  
琴乃が身を縮めると、蓮人は少し歩を緩め、背中の彼女を持ち上げ直した。
「……重いな。でも心地よい重さだ」
「え……?」
「この重さが『俺の人生』でずっと背負えるなら、悪くない」
蓮人の耳が、夕焼けよりも赤く染まっていた。  
琴乃は言葉を失い、その背中に顔を埋めた。  
トクン、トクンと鳴る自分の心臓の音が、彼に聞こえてしまいそうで怖かった。
保健室には先生がいなかった。消毒液のツンとした匂いが鼻をつく。  
ベッドの縁に座らされた琴乃の足元に、蓮人が膝をつく。  
手には消毒液を含ませた脱脂綿を持っていた。
「……沁みるぞ。動くなよ」
(意外に、手つきが優しい…。私を『壊れ物』みたいに丁寧に扱ってくれる)  
蓮人の指先が、傷口に触れる。
「っ……!」  
激痛に、琴乃が顔をしかめた。  
蓮人はすぐに手を止め、琴乃を見上げた。  
その瞳はふざけている時の彼とは別人のように真剣だった。
「痛えか?……我慢しろ、すぐ終わる」  
蓮人は自分の制服の袖をまくり、白い腕を琴乃の口元に差し出した。
「痛ければ、俺の腕を噛め」
「え?」
「俺の腕ならいくら傷ついてもいい」
蓮人は真っ直ぐに琴乃を見つめた。
「……お前の痛みは、俺が引き受けるよ」  
その言葉に射抜かれ、琴乃は息をするのも忘れた。痛みなど、もうどうでもよかった。  
琴乃は噛む代わりに、その腕にそっと額を押し当てた。彼の脈動が、直に伝わってくる。
(私を、何よりも大事に扱ってくれる)
(この人のためなら……私、どんな痛みだって耐えられる)

(現在)  
そして今、琴乃の目の前には、自信を失い、ボロボロになった16歳の蓮人がいた。  
あの頃の太陽のように眩しかった彼は、もういない。
(……やっぱり嫌だ)
(こんな蓮人くん、見たくない。……あの頃の、元気な彼に戻ってほしい)
琴乃の中で、何かが決壊した。  
彼が苦しんでいる。  
なら今度は私が、彼の痛みを引き受ける番だ。  
たとえ、嫌われることになったとしても。
「……蓮人くん」  
琴乃は立ち止まった。  
蓮人がのろのろと振り返る。死んだ魚のような目だ。
「話があるの。……大事な話」
「なんだよ、改まって」
琴乃は左手を胸に当て、深呼吸した。  
手袋の下の指先が、微かに震えている。
「嫌われるかもしれないけど……勇気を出して言うね。私……『変な特殊能力』があるの」
「……は?」
蓮人の目が、少しだけ開かれた。
「隠しててごめんなさい。誰にも言えなかったんだけど……私、触れた生き物を『老化』させちゃうみたいなの」
「老化……?」
「前に、ここで魚を捕ろうとした時……触った瞬間に死んじゃって……。何度試しても同じだった」
「……どういうことだ?」
「信じられないよね」
琴乃は自嘲気味に笑った。蓮人の顔色が変わる。
「何も役立てられないかもしれないけど。蓮人くんなら何か、思いつくかもしれない。……見てて」
琴乃は河原に降りた。浅瀬に、一匹のアマガエルが泳いでいる。  
琴乃は手袋を外し、素手を水面に近づけた。
「ごめんね……」
琴乃が素早く手を伸ばし、カエルの背に柔らかく触れる。  
その瞬間。
ジュワッ……。  水中で小さな泡が立った。
ピチピチと跳ねていたカエルの緑色の皮膚が、一瞬で茶色く変色し、水分を失ってシワシワに萎んでいく。  
カエルは苦しむ間もなく、干からびた枯れ葉のようになって水面にプカリと浮いた。  
完全に、老衰して死んでいる。あまりにも呆気ない、時間の略奪。
「う、わぁ……!!」  
蓮人が悲鳴を上げ、尻餅をついて後ずさった。
「死んだ……!?一瞬で!?」
琴乃は、濡れた自分の左手を見つめた。  
恐ろしい手だ。命を奪う死神の手。
「……気持ち悪いよね……。私、呪われてるの……」
蓮人が荒い息を吐きながら立ち上がる。 その目は恐怖で見開かれていた。
「……おい、琴乃」
「……はい」
「怖いよ。その左手で絶対に俺を触るなよ」  
琴乃の心臓が、冷たく凍りついた。
「……っ!う、うん……」
(やっぱり、嫌われちゃった……)  
覚悟はしていたけれど、蓮人からの拒絶は、想像以上に心をえぐった。  
だが蓮人は震えながらも、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。
「信じらんねえ……。殺傷能力抜群じゃねえか。これは……最強の『武器』になるかもしれねえ」
「え……?」
「脅しか、暗殺か……使いようによっちゃあ、あいつらを出し抜ける!」
蓮人の顔に、悪巧みをする時の色が戻る。  
しかしすぐにその表情が曇り、彼は頭を抱えた。
「……いや、待てよ。今回の試験は『京都の復興』だぞ?」
「あ……」
「『殺す』能力で、どうやって街を救うんだよ!?カエル殺しても人殺しても……復興にはなんねえだろ!」
蓮人の叫びが、夕闇の河原に虚しく響く。
「やっぱり使えないよね……。この能力は『破壊』の力。街を豊かにしたり、人を幸せにすることはできないね」
「くそっ……!やっぱり俺らは詰んでるのか!?」
蓮人は地面を蹴った。
「金も人脈もない俺たちが、持ってるのは『死神の手』だけ……。どうしろってんだよ……!」
万策尽きた。  
夕闇が濃くなる河原で、二人は立ち尽くすしかなかった。

その時。頭上の三条大橋から冷ややかな声が降ってきた。
「――そこで何をしている、天宮」  
ハッとして見上げると、橋の欄干に財前征一郎と伊集院エリザが並んで立っていた。  
夕日を背にし、二人を完全に見下ろす構図だ。
「財前……!」
「泥遊びか? 相変わらず暇そうだな」
財前は懐中時計を見ることすらせず、侮蔑の眼差しを向けた。
「僕は今日、琵琶湖疏水周辺の用地買収を八割方完了させた。
予定より十二時間早い進捗だ。来週には着工だ。……君が泥をこねている間に、地図が書き換わるぞ」
エリザが扇子を広げ、クスクスと笑う。
「あら、財前様。いけませんわ。彼らには彼らなりの『おままごと』があるんですもの」
「……」
「私も、フランスからの技師団との契約を済ませましたわ。
電気鉄道の路線地も確保済みよ。……ねえ、天宮さんと九条さん。そろそろ『身の程』を悟ったら?」
「……行くぞ、エリザ。時間の無駄だ」
「ええ。ごきげんよう、ゴミあさりの、おふたりさん。
あなたたちが子供のお遊戯をしている間、私たちは未来へ進んでいるわ」
彼らは興味なさそうに背を向け、橋を渡って去っていく。  
その姿は、あまりにも遠く高く輝いて見えた。

橋の下に残された二人。
「……くそっ」  
蓮人は、足元の石を力任せに川へ蹴り込んだ。
「なんなんだよ……! あいつらは金と権力で『地図』を変えるってのに……俺たちはカエル一匹殺して終わりかよ!」
「こんな能力……どう使えばいいんだよ」
蓮人の悲痛な叫び。  
だが琴乃は泣いていなかった。  
俯いてはいるが、その拳は震えるほど強く握りしめられている。
(……ムカつく)
(蓮人くんを見下ろしていいのは、神様だけよ)
(あんな成金女に、蓮人くんのカッコよさの何が分かるの?)  
琴乃の中で、何かが音を立てて砕け、そして再構築された。  
もう、ただ守られるだけの少女ではいられない。  
彼女は自分の左手を、胸元で強く握りしめた。  
呪うべきこの手を、今は武器として使う覚悟を決めたのだ。
「……蓮人くん」
「え?」
「あんな奴らの言葉、一秒で忘れて。蓮人くんの耳が汚れるわ」  
その声の冷たさに、蓮人は思わずたじろいだ。
「お、おう……?」
「見返してやろうよ」
琴乃は、去っていった財前たちの背中を睨みつけた。
「あいつらが泣いて土下座して、『天宮様、参りました』って言うまで……私、絶対に許さないから」
「……!」  
その剣幕に押され、蓮人の目に冷静な色が戻る。  
そうだ。ここで腐っていては、あの高慢な連中の思う壺だ。
「……ああ。そうだな」  
蓮人はニヤリと笑った。  
それは弱者の笑いではなく、反撃を誓う狼の笑みだった。
「やってやるよ。……見てろよ、クソエリートども」  
太陽が完全に沈み、夜が来る。  
しかし二人の瞳には、逆襲の光が確かに灯っていた。