明治京都桜花心中~死神令嬢は、没落若君のために一万本の桜を咲かせる~

それから数日後。
着物作戦の失敗から立ち直れぬまま、二人は路地裏を歩いていた。
「……はぁ。着物作戦は駄目だった。でも諦めるわけにはいかない」
「次は何をすればいいんだろう」
蓮人の言葉には覇気がなく、琴乃の声も沈んでいる。  
その視線の先で、ボロボロの服を着た子供たちが、石ころ遊びをしているのが見えた。  
学校へ行く時間のはずだが、彼らはただ時間を潰しているようだ。
「……あの子たち、学校には行かないのかな」
「行けるわけないだろ。学費が払えないんだ」  
蓮人が吐き捨てるように言う。 その時、琴乃がハッとして足を止めた。
「それなら……私たちが教えればいいんじゃない?」
「え?」
「京都を復興させるには、やっぱり『人』を育てなきゃ。教育が必要だよ」
琴乃の瞳に、再び熱が戻る。
「私たちは幸運にも、平安院学舎で質の高い教育を受けさせてもらってる。
その学んだことを私たちが子供たちに還元していくの。未来への種まきとして」
「……なるほど。『青空寺子屋』ってわけか」
蓮人もまた、そのアイデアに希望を見出した。
「よし、それなら元手もかからない!俺の表現力なら、退屈な授業も面白くできるはずだ!」
金がなくても「知識」はある。  
それを分け与えることならできるはずだ。二人の目に、再び希望の光が宿った。

翌日の昼。少し開けた神社の境内。
蓮人が地面に木の枝で文字を書き、即席の黒板にしていた。  
平安院学舎で使う滑らかな洋紙や、香りのよいインクとは違う。
けれど、土の匂いのするこの教室のほうが、今の自分たちには似合っている気がした。
その周りには、十人ほどの子供たちが集まっている。琴乃は端でニコニコと見守っている。
「――というわけで、この字は『夢』と読む!」  
蓮人の声が弾む。
「いいかお前ら!これを書けるようになれば、かっこいい大人になれるぞー!」
「すげー! おいらも書きたい!」
その中に一人、ひときわ熱心な少年がいた。名前はサク。
ボロボロの着物を着ているが、瞳はビー玉のように澄んでいる。
「先生、おいらの名前は?『サク』ってどう書くの?」
「よし、こう書くんだ。……『作』る、という字だ。未来を作る、いい名前だな」
「へへっ……サク、サク……」
少年は泥だらけの指で、何度も地面に自分の名前を練習した。
「先生! おいら、もっと覚えたい! 明日も……明日も来るからね!」
子供たちの目はキラキラと輝いている。学ぶことの喜び、新しい世界を知る興奮。
「いける……! 子供たちの目が生き生きしてるな。琴乃」
「これこそが、本当の復興の第一歩ね! 閻魔大王さんも認めてくれるはずよ」
二人は顔を見合わせ、確かな手応えを感じていた。
初日は大成功だった。サク少年も「明日も来る」と約束してくれた。
だが、そのささやかな希望は、翌日、無惨にも踏みにじられることになる。

翌日の昼。約束通り集まった子供たちと、再び授業を始めようとした、その時だった。
「おい!!何遊んでやがる!!」
ドカドカと、薄汚れた野良着を着た男たちが境内に乱入してきた。
子供たちの親だ。
「あ、父ちゃん……」
「お前ら、こんなとこで油売ってる暇があったら、畑を手伝え!」
父親の一人が、蓮人が地面に書いた『夢』の文字を、泥足で乱暴に踏み消した。
サクが一生懸命練習していた『作』の文字も、無残に踏み砕かれる。
「あ……!」
「ちょっと待ってください!俺たちはただ、読み書きを……」
「ああん? 読み書きだぁ?」
父親は蓮人の胸ぐらを掴み上げた。酒と汗、そして染みついた貧困の臭いが鼻をつく。
父親の腹が、グゥと鳴った。
「字なんか覚えて、腹が膨れるのかよ!」
「……っ」
「俺たちが欲しいのは『教養』じゃねえ!『明日の米』なんだよ!」
「お前らみたいな坊ちゃんには、腹の虫が鳴く音は聞こえねえだろうな!」
蓮人は言葉を失った。  
その怒号は、あまりに切実で、あまりに正しかったからだ。  
今日を生きるのに必死な彼らにとって「未来のための教養」など腹の足しにもならない贅沢品でしかない。
「そうよ!あんたたちみたいな学生の暇つぶしに、うちの子を巻き込まないで!」  
母親たちも金切り声を上げる。琴乃が止めに入ろうとするが、母親の目は氷のように冷たかった。
「あんたたちの『善意』が一番残酷なんだよ。夢を見せて、叶わなかったらどう責任取ってくれるんだい? 絶望が増えるだけなんだよ!」
「父ちゃん、やめてよぉ……先生は悪くないよぉ……」
「うるせえ! 行くぞ!」
父親は子供の手を引っ張り、引きずっていく。  
子供たちは泣きながら連れ戻されていく。
「先生ぇー! 明日も行くからぁー!」
サクが泣きながら叫ぶ。
「明日も……約束ぅぅ……!」
「うわぁぁぁん!」  
子供たちの泣き声が境内に響く。  
後には、踏み荒らされた『夢』の文字の残骸と、呆然と立ち尽くす二人だけが残された。
「……そんな」
「字を覚えることすら……贅沢だって言うのか……」
蓮人の膝が震える。  
自分たちの「善意」は、彼らの「生存本能」の前では無意味だった。  
教養など、腹を満たしてから言えという現実に、完膚なきまでに叩きのめされた。
「…………」  
琴乃がしゃがみこみ、消された文字を指でなぞる。指先が泥で汚れるが、気にする様子もない。
「……悲しいね、蓮人くん」
「みんな、生きるのに必死すぎて……『未来』なんて見る余裕がないんだ」
(……あ)
泣き叫びながら引きずられていくサク少年の小さな背中。
その姿が、隣を歩く「疲れ果てた父親」の姿と、恐ろしいほど重なって見えたのだ。
貧困という泥沼は、あんなにキラキラしていた少年の瞳を、
数年後には父親と同じ、希望のない濁った瞳に変えてしまうだろう。
(教育が実を結ぶには、十年、二十年とかかる……)
(でも、彼らにはそんなに待てる時間はない。大人になる前に、心が死んでしまう)
ゆっくりと種を撒いている時間などない。
今すぐ、時間を飛び越えて、結果を出さなければ――この子たちは救えない。

ポツリ。また空から雨粒が落ちてきた。  
冷たく重い雨。それは二人の心に残っていた最後の火種すら、無慈悲に消し去ろうとしていた。
神社の軒下。激しい雨音が、世界を閉ざしている。  
蓮人は膝を抱えて座り込んでいた。
「……だめだ。綺麗事じゃ、何も救えねえ」  
蓮人の声は、枯れていた。
「歴史も、伝統も、教育も……」
「今の京都には『無駄なもの』でしかないんだ」  
蓮人の目から、光が消えていく。  
それはかつて父が蒸発して全てを失った時と同じ「諦め」の目だった。  
策士としての自信も、道化としての余裕も、今は欠片もない。ただの無力な少年に戻っていた。
「……俺たちじゃ、無理だったんだ」  
その言葉は、敗北宣言だった。
「…………」  
琴乃は、蓮人の冷たい手を、そっと自分の両手で包み込んだ。温かい。  
蓮人が驚いて顔を上げると、琴乃は泣いていなかった。  
その瞳には、雨音よりも静かで、しかし決して消えない炎が宿っていた。
「……ううん、まだあるよ」  
琴乃の心の奥底で、何かがカチリと音を立てて外れた。
(蓮人くん……私には、まだ『最後の手段』があるかもしれない)
(希望は薄いけど……蓮人くんがこんなに傷つくくらいなら、私は悪魔にだって魂を売る)
(時間を飛び越える魔法を使わなきゃ……あの子たちの未来は変えられない)
雨の中、琴乃の決意だけが静かに燃え上がっていた。