平安院学舎の放課後。
夕暮れが教室を茜色に染め上げていたが、その光は天宮蓮人の心には届いていなかった。
黒板には「復興案」と大きく書かれ、その下には無数の書き損じの紙が、まるで雪崩のように床に散乱している。
「観光」「清掃」「祭り」……どの紙にも、乱暴な×印がつけられていた。
「……だめだ。何も思いつかねえ」
蓮人は頭を抱え、机に突っ伏した。
閻魔大王の前で大見得を切った時の熱はどこへやら、今の彼を支配しているのは冷たい絶望だ。
「観光、清掃、祭り……どれも金と人手が足りない。俺たち二人じゃ限界がある」
蓮人の心が、泥沼のような自己嫌悪に沈んでいく。
(くそっ……!大見得切ったくせに、俺は結局口だけかよ……!)
「世界ごと騙してやる」なんて言ったのに、この体たらくだ。
「……蓮人くん」
そんな彼の前に、おずおずと差し出されたものがあった。
一枚の、古びた布切れのような紙。
「あのね……これ、どうかな」
「ん?」
蓮人が顔を上げると琴乃が不安げではあったが、瞳に小さな光を宿して立っていた。
「『西陣織』の復興……」
琴乃の声は小さいが、確信に満ちていた。
「京都の着物は世界一綺麗だよ。でも最近はみんな洋服ばかりで、織元さんも困ってるって聞いたの。
だから……その良さを、もう一度みんなに思い出してもらえれば……」
蓮人はハッとして、提案書を受け取った。
拙い字だ。だが、その横に描かれた着物の絵は、糸の一本一本まで感じさせるほど丁寧に描き込まれていた。
琴乃の「観察眼」と、着物への深い愛情が滲み出ている。
「どういうことだ?もっと詳しく」
「京都と言えば西陣織が有名でしょ。代表的な産業でもある西陣織から復興させるのよ」
「そうか。帝が東京に移り、続いて公家たちも京から出て行った……需要も激減した」
「そう。近代化という言葉で、手間のかかる伝統的な産業は衰退していってるの」
蓮人の脳内で、霧が晴れるように道筋が見えた。
近代化の波に飲まれ、忘れ去られようとしている「伝統」それはまさに、今の自分たち――没落士族の姿そのものではないか。
「……これだ!」
「私たちで西陣を助けられないかな」
「その通りだ……とにかく行動しよう」
「まずはやってから。色々悩みましょう」
蓮人の目に力が戻る。
「西陣織の着物なら、九条家にも少しは残ってるだろ?天宮家にも母上のがあるはずだ」
蓮人は立ち上がり、琴乃の両肩をガシッと掴んだ。
「さすがだ琴乃!『伝統の美』なら、金がなくても俺たちの身体一つで伝えられる!」
「う、うん」
「お前がモデルになれ。俺が客引き(弁士)をやる」
「え、私がモデル……?む、無理だよぉ……」
琴乃が顔を真っ赤にして後ずさる。
普段は日陰の花のように目立たない彼女にとって、人前に立つことなど恐怖でしかないだろう。
だが蓮人は知っている。彼女が秘めている美しさを。
「大丈夫だ。お前は磨けば光る。俺が保証する」
「俺にとっては、磨かなくてもすでにキラキラだけどな」
その言葉に、琴乃は驚いたように目を見開き、やがて小さく、けれどしっかりと頷いた。
三日後。西陣織ショーの開演当日。
緊張で喉が渇いた琴乃は、水を汲むために神社の裏手にある茶屋の井戸へと向かった。
すると、茶屋の奥まった席に、見覚えのある派手なドレスの背中が見えた。
(あれは……西洋かぶれ女?)
琴乃は咄嗟に身を隠し、様子を窺った。
エリザは一人だった。そのテーブルには、湯気を立てる「お汁粉」が置かれている。
「……はぁ。美味しそう……」
エリザが、誰もいないのを確認してから、うっとりと呟いた。
彼女はスプーンを手に取り、お汁粉を口に運ぼうとする。 だが。
「……っ」
エリザの手が止まった。
彼女は自分の腹部――コルセットで極限まで締め上げられたウエストと、大きく膨らんだバッスル・ドレスの胸元を、恨めしそうに見下ろした。
「……ダメね。もし一滴でもこぼして、このドレスを汚したら……」
エリザはスプーンを置いた。カチャン、と寂しい音が響く。
「このドレスは、私の『鎧(アーマー)』よ。……舐められるわけにはいかないもの」
彼女は自分に言い聞かせるように呟き、ハンカチで口元を拭った。何も食べていないのに。
「京都の人間は、新しいものや”よそ者”に冷たい。……
異国帰りの私がこの『京都(まち)の人間』として認められるには、誰よりも高く強く美しく着飾っていなければ……」
エリザは恋しそうにお汁粉を一瞥した後、結局一口も食べずに、扇子を広げて立ち上がった。
その横顔には、いつもの高慢さとは違う、張り詰めた覚悟が滲んでいた。
(……鎧、か)
琴乃は、自分の着ている古い振袖の袖口を握りしめた。
(あいつはあいつで……戦っているんだ)
金持ちの道楽でドレスを着ているのだと思っていた。
けれど彼女にとってあの窮屈な洋装は、排他的な京都で生き抜くための戦闘服なのだ。
琴乃は、気づかれないようにそっとその場を離れた。
少しだけライバルの背中が小さく見えた気がした。
そして西陣織ショー開演の時間。
京都の目抜き通りは、いつも以上の賑わいを見せていた。
その一角に、蜜柑箱を積んだ即席の舞台が作られていた。
その上に立つのは、袴姿も凛々しい蓮人だ。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」
蓮人が張り扇をパンパンと叩き、よく通る声を張り上げる。
その姿は、もはや凡庸な学生ではない。観客を魅了する一流の演者だ。
「文明開化もいいけれど、忘れてませんか『日本の心』!
千年続いた京の都、その粋(いき)を集めた西陣織のショータイムだ!」
道行く人々が足を止める。
「なんだなんだ?」「見世物か?」と、好奇の目が集まってくる。
蓮人は群衆の注目を一身に集め、大仰に手を差し伸べた。
「ご覧あれ!これぞ大和撫子、京の華!」
街角から、琴乃がおずおずと現れた。
身に纏っているのは、九条家に代々伝わる深紅の振袖。古いが手入れが行き届いており、日差しを浴びて絹が艶やかに輝いている。
髪を結い上げ、薄化粧を施した琴乃は、普段の地味な少女とは別人のようだった。
恥ずかしそうに俯くその仕草さえ、計算された演出のように儚く美しい。
「どうです、この艶やかさ!洋服にはない、この繊細な柄!」
蓮人の口上が熱を帯びる。
「今こそ着物を着て、京都の街を歩きましょう!西陣で着物を買いましょう」
どよめきが起きた。
「おお……」
「確かに、ええ着物やな」
「あの娘、よう似合ってるわ」
蓮人は手応えを感じてニヤリとした。
(いける……! このまま雰囲気を盛り上げれば、街の空気は変わる……!)
金がなくても、人の心は動かせる。 自分たちの「価値」は、まだ死んでいない。
その時だった。
カッポ、カッポ、と軽快な、しかし威圧的な馬の蹄(ひづめ)の音が響き渡った。
「道を開けろ!伊集院様のお通りだ!」
御者の鋭い声と共に、群衆がモーゼの海のように割れる。
現れたのは、白馬に引かれた豪奢な馬車。その磨き上げられた車体は、陽光を反射してまばゆく輝いている。
窓から顔を出したのは、伊集院エリザだった。
「あら?何やら古臭い匂いがすると思ったら……」
馬車が止まり、扉が開く。エリザが優雅に降り立つ。
その瞬間、通りの空気が一変した。
最新流行の、腰を大きく膨らませたバッスル・ドレス。
鮮やかなロイヤルブルーの生地には、レースと宝石が散りばめられている。
日傘を差す指先、ドレスの裾を捌く所作。そのすべてから、圧倒的な「文明」のオーラが漂っていた。
「うわぁ……!」
「すげえ、本物のドレスや」
「キラキラしとる……」
一瞬で、群衆の目はエリザに釘付けになった。
先ほどまで琴乃に向けられていた称賛は、瞬く間にエリザへの羨望へと塗り替えられていく。
「ごきげんよう、皆様」
エリザは優雅に微笑み、そして蓮人と琴乃の方をチラリと見た。
扇子で口元を隠し、憐れむように目を細める。
「まあ。……学芸会かしら?」
市民たちから、クスクスと笑いが漏れる。
「西陣織? ふふ、素敵ね。……『博物館』に飾るには」
「……ッ」
蓮人が息を呑む。
エリザは、悪意ではなく「正論」として言葉を続けた。
「でも、これからは『機能美』の時代よ。動きやすくて、世界に通用する洋装こそが、文明の証」
エリザがくるりとターンしてみせる。
ドレスの裾がふわりと舞い、香水の甘い香りが漂う。
それは古都の埃っぽい匂いを消し去る、新しい時代の香りだった。
「……ま、確かにそうやな」
「着物は窮屈やし、動きにくいし、洗濯も大変やしな」
「やっぱこれからは洋服やわ。あんなボロい着物、時代遅れやな」
群衆の声が変わる。
さっきまで「美しい」と言っていた人々が、今は「時代遅れ」と琴乃を見る。
蔑みの視線が、琴乃の白い肌に突き刺さる。
「…………」
琴乃は顔面蒼白になり、着物の袖をギュッと握りしめた。
人々がエリザの後を追って去っていく。
「お、おい待てよ!まだ話は……!」
蓮人が叫ぶが、誰も足を止めない。
「無駄よ、天宮」
エリザが冷ややかに言い放つ。
「聴衆はね、『過去』より『未来』が好きなの。……あなたたちみたいな『過去の遺物』に、復興なんて無理よ」
「そんなことありません!」
琴乃が精一杯の声を張り上げるが、エリザには届かない。
「完全に子供のお遊戯会ね。京都の復興につながるとは思えないわ」
エリザは冷ややかな笑顔を残し、再び馬車に乗り込んだ。
馬車が走り去った後には、舞い上がる砂埃と、立ち尽くす蓮人と琴乃だけが取り残された。
「……ふん。お遊戯会扱いかよ」
蓮人が悔しげに吐き捨て、去りゆく馬車を睨みつける。
隣では琴乃が、今にも泣き出しそうな顔で震えていた。
だが、馬車の音が完全に遠ざかり、周囲に人の気配が消えたその瞬間――。
「……はぁ。やっと行ったわね、あの『西洋かぶれ』」
琴乃が深いため息と共に、スッと顔を上げた。
さっきまでの怯えた表情はどこへやら、その瞳は冷え切った硝子玉のように冷徹な光を宿している。
「え?琴乃……?」
「蓮人くん、よく我慢したわね。私、あんな後ろを不格好に膨らませた布きれを有り難がって、文明開化を気取っている女、初めて見たわ」
琴乃は着物の袖で鼻を覆い、心底不快そうに顔をしかめた。
「だいたい、香水の匂いがキツすぎて鼻がもげそうだったわよ。あんなのフランスの香水じゃなくて、ただの公害よ。
それに性根の腐った悪臭は、いくら高い香料を振りまいたって隠しきれるもんじゃないわ。ねえ、そう思わない?」
「お、おう……。相変わらず、言うねえ……」
蓮人は引き気味に苦笑いしたが、その実、この「猛毒」が戻ってきたことにどこか安堵していた。
これが、自分だけに見せる彼女の本当の顔だからだ。
「当たり前よ。蓮人くんのハッタリを『お遊戯』だなんて……。あのカタツムリみたいなドレス、こっそり塩でもまいて溶かしてやりましょうか?」
「いや、犯罪になるからやめとけ」
琴乃はふんと鼻を鳴らし、蓮人を元気づけるように不敵に笑ってみせた。
だが――蓮人の顔から、重い影が消えることはなかった。
視線を落とした先にある、誰にも見向きもされず、泥に汚れ、踏み荒らされた西陣織の端切れ。
それが今の自分たちの現在地そのものだった。
「……なあ。俺の口上も、琴乃の着物も、あいつのドレス一着に勝てないのかな……!」
話術も伝統も、圧倒的な「物量」と「流行」の前では無力だった。
自分の「話術」も「演出」も本物の金持ちには通じない。
その無力感が、蓮人のプライドを引き裂く。
「……ごめんね、蓮人くん」
背後から、震える声が聞こえた。
「私が……私が、地味だから……。着物が、ボロボロだったから……」
「違う!お前は悪くない!悪いのは……」
言いかけて、蓮人は言葉を失った。
悪いのは誰だ?「金」と「流行」になびく世の中か?
それとも、それを持たない自分たちの無力さか?
(悪いのは……お前を守れるだけの力がない、俺だ)
蓮人の心の中で、どす黒い自己嫌悪が渦巻く。
ポツリ。雨粒が、蓮人の頬に落ちた。
「……雨か」
ポツリ、ポツリと雨足が強まり、あっという間に土砂降りになる。
琴乃の美しい着物が濡れ、重く垂れ下がる。薄化粧が滲み、涙のように頬を伝う。
灰色の雨が、二人の敗北を嘲笑うように降り注いでいた。
夕暮れが教室を茜色に染め上げていたが、その光は天宮蓮人の心には届いていなかった。
黒板には「復興案」と大きく書かれ、その下には無数の書き損じの紙が、まるで雪崩のように床に散乱している。
「観光」「清掃」「祭り」……どの紙にも、乱暴な×印がつけられていた。
「……だめだ。何も思いつかねえ」
蓮人は頭を抱え、机に突っ伏した。
閻魔大王の前で大見得を切った時の熱はどこへやら、今の彼を支配しているのは冷たい絶望だ。
「観光、清掃、祭り……どれも金と人手が足りない。俺たち二人じゃ限界がある」
蓮人の心が、泥沼のような自己嫌悪に沈んでいく。
(くそっ……!大見得切ったくせに、俺は結局口だけかよ……!)
「世界ごと騙してやる」なんて言ったのに、この体たらくだ。
「……蓮人くん」
そんな彼の前に、おずおずと差し出されたものがあった。
一枚の、古びた布切れのような紙。
「あのね……これ、どうかな」
「ん?」
蓮人が顔を上げると琴乃が不安げではあったが、瞳に小さな光を宿して立っていた。
「『西陣織』の復興……」
琴乃の声は小さいが、確信に満ちていた。
「京都の着物は世界一綺麗だよ。でも最近はみんな洋服ばかりで、織元さんも困ってるって聞いたの。
だから……その良さを、もう一度みんなに思い出してもらえれば……」
蓮人はハッとして、提案書を受け取った。
拙い字だ。だが、その横に描かれた着物の絵は、糸の一本一本まで感じさせるほど丁寧に描き込まれていた。
琴乃の「観察眼」と、着物への深い愛情が滲み出ている。
「どういうことだ?もっと詳しく」
「京都と言えば西陣織が有名でしょ。代表的な産業でもある西陣織から復興させるのよ」
「そうか。帝が東京に移り、続いて公家たちも京から出て行った……需要も激減した」
「そう。近代化という言葉で、手間のかかる伝統的な産業は衰退していってるの」
蓮人の脳内で、霧が晴れるように道筋が見えた。
近代化の波に飲まれ、忘れ去られようとしている「伝統」それはまさに、今の自分たち――没落士族の姿そのものではないか。
「……これだ!」
「私たちで西陣を助けられないかな」
「その通りだ……とにかく行動しよう」
「まずはやってから。色々悩みましょう」
蓮人の目に力が戻る。
「西陣織の着物なら、九条家にも少しは残ってるだろ?天宮家にも母上のがあるはずだ」
蓮人は立ち上がり、琴乃の両肩をガシッと掴んだ。
「さすがだ琴乃!『伝統の美』なら、金がなくても俺たちの身体一つで伝えられる!」
「う、うん」
「お前がモデルになれ。俺が客引き(弁士)をやる」
「え、私がモデル……?む、無理だよぉ……」
琴乃が顔を真っ赤にして後ずさる。
普段は日陰の花のように目立たない彼女にとって、人前に立つことなど恐怖でしかないだろう。
だが蓮人は知っている。彼女が秘めている美しさを。
「大丈夫だ。お前は磨けば光る。俺が保証する」
「俺にとっては、磨かなくてもすでにキラキラだけどな」
その言葉に、琴乃は驚いたように目を見開き、やがて小さく、けれどしっかりと頷いた。
三日後。西陣織ショーの開演当日。
緊張で喉が渇いた琴乃は、水を汲むために神社の裏手にある茶屋の井戸へと向かった。
すると、茶屋の奥まった席に、見覚えのある派手なドレスの背中が見えた。
(あれは……西洋かぶれ女?)
琴乃は咄嗟に身を隠し、様子を窺った。
エリザは一人だった。そのテーブルには、湯気を立てる「お汁粉」が置かれている。
「……はぁ。美味しそう……」
エリザが、誰もいないのを確認してから、うっとりと呟いた。
彼女はスプーンを手に取り、お汁粉を口に運ぼうとする。 だが。
「……っ」
エリザの手が止まった。
彼女は自分の腹部――コルセットで極限まで締め上げられたウエストと、大きく膨らんだバッスル・ドレスの胸元を、恨めしそうに見下ろした。
「……ダメね。もし一滴でもこぼして、このドレスを汚したら……」
エリザはスプーンを置いた。カチャン、と寂しい音が響く。
「このドレスは、私の『鎧(アーマー)』よ。……舐められるわけにはいかないもの」
彼女は自分に言い聞かせるように呟き、ハンカチで口元を拭った。何も食べていないのに。
「京都の人間は、新しいものや”よそ者”に冷たい。……
異国帰りの私がこの『京都(まち)の人間』として認められるには、誰よりも高く強く美しく着飾っていなければ……」
エリザは恋しそうにお汁粉を一瞥した後、結局一口も食べずに、扇子を広げて立ち上がった。
その横顔には、いつもの高慢さとは違う、張り詰めた覚悟が滲んでいた。
(……鎧、か)
琴乃は、自分の着ている古い振袖の袖口を握りしめた。
(あいつはあいつで……戦っているんだ)
金持ちの道楽でドレスを着ているのだと思っていた。
けれど彼女にとってあの窮屈な洋装は、排他的な京都で生き抜くための戦闘服なのだ。
琴乃は、気づかれないようにそっとその場を離れた。
少しだけライバルの背中が小さく見えた気がした。
そして西陣織ショー開演の時間。
京都の目抜き通りは、いつも以上の賑わいを見せていた。
その一角に、蜜柑箱を積んだ即席の舞台が作られていた。
その上に立つのは、袴姿も凛々しい蓮人だ。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!」
蓮人が張り扇をパンパンと叩き、よく通る声を張り上げる。
その姿は、もはや凡庸な学生ではない。観客を魅了する一流の演者だ。
「文明開化もいいけれど、忘れてませんか『日本の心』!
千年続いた京の都、その粋(いき)を集めた西陣織のショータイムだ!」
道行く人々が足を止める。
「なんだなんだ?」「見世物か?」と、好奇の目が集まってくる。
蓮人は群衆の注目を一身に集め、大仰に手を差し伸べた。
「ご覧あれ!これぞ大和撫子、京の華!」
街角から、琴乃がおずおずと現れた。
身に纏っているのは、九条家に代々伝わる深紅の振袖。古いが手入れが行き届いており、日差しを浴びて絹が艶やかに輝いている。
髪を結い上げ、薄化粧を施した琴乃は、普段の地味な少女とは別人のようだった。
恥ずかしそうに俯くその仕草さえ、計算された演出のように儚く美しい。
「どうです、この艶やかさ!洋服にはない、この繊細な柄!」
蓮人の口上が熱を帯びる。
「今こそ着物を着て、京都の街を歩きましょう!西陣で着物を買いましょう」
どよめきが起きた。
「おお……」
「確かに、ええ着物やな」
「あの娘、よう似合ってるわ」
蓮人は手応えを感じてニヤリとした。
(いける……! このまま雰囲気を盛り上げれば、街の空気は変わる……!)
金がなくても、人の心は動かせる。 自分たちの「価値」は、まだ死んでいない。
その時だった。
カッポ、カッポ、と軽快な、しかし威圧的な馬の蹄(ひづめ)の音が響き渡った。
「道を開けろ!伊集院様のお通りだ!」
御者の鋭い声と共に、群衆がモーゼの海のように割れる。
現れたのは、白馬に引かれた豪奢な馬車。その磨き上げられた車体は、陽光を反射してまばゆく輝いている。
窓から顔を出したのは、伊集院エリザだった。
「あら?何やら古臭い匂いがすると思ったら……」
馬車が止まり、扉が開く。エリザが優雅に降り立つ。
その瞬間、通りの空気が一変した。
最新流行の、腰を大きく膨らませたバッスル・ドレス。
鮮やかなロイヤルブルーの生地には、レースと宝石が散りばめられている。
日傘を差す指先、ドレスの裾を捌く所作。そのすべてから、圧倒的な「文明」のオーラが漂っていた。
「うわぁ……!」
「すげえ、本物のドレスや」
「キラキラしとる……」
一瞬で、群衆の目はエリザに釘付けになった。
先ほどまで琴乃に向けられていた称賛は、瞬く間にエリザへの羨望へと塗り替えられていく。
「ごきげんよう、皆様」
エリザは優雅に微笑み、そして蓮人と琴乃の方をチラリと見た。
扇子で口元を隠し、憐れむように目を細める。
「まあ。……学芸会かしら?」
市民たちから、クスクスと笑いが漏れる。
「西陣織? ふふ、素敵ね。……『博物館』に飾るには」
「……ッ」
蓮人が息を呑む。
エリザは、悪意ではなく「正論」として言葉を続けた。
「でも、これからは『機能美』の時代よ。動きやすくて、世界に通用する洋装こそが、文明の証」
エリザがくるりとターンしてみせる。
ドレスの裾がふわりと舞い、香水の甘い香りが漂う。
それは古都の埃っぽい匂いを消し去る、新しい時代の香りだった。
「……ま、確かにそうやな」
「着物は窮屈やし、動きにくいし、洗濯も大変やしな」
「やっぱこれからは洋服やわ。あんなボロい着物、時代遅れやな」
群衆の声が変わる。
さっきまで「美しい」と言っていた人々が、今は「時代遅れ」と琴乃を見る。
蔑みの視線が、琴乃の白い肌に突き刺さる。
「…………」
琴乃は顔面蒼白になり、着物の袖をギュッと握りしめた。
人々がエリザの後を追って去っていく。
「お、おい待てよ!まだ話は……!」
蓮人が叫ぶが、誰も足を止めない。
「無駄よ、天宮」
エリザが冷ややかに言い放つ。
「聴衆はね、『過去』より『未来』が好きなの。……あなたたちみたいな『過去の遺物』に、復興なんて無理よ」
「そんなことありません!」
琴乃が精一杯の声を張り上げるが、エリザには届かない。
「完全に子供のお遊戯会ね。京都の復興につながるとは思えないわ」
エリザは冷ややかな笑顔を残し、再び馬車に乗り込んだ。
馬車が走り去った後には、舞い上がる砂埃と、立ち尽くす蓮人と琴乃だけが取り残された。
「……ふん。お遊戯会扱いかよ」
蓮人が悔しげに吐き捨て、去りゆく馬車を睨みつける。
隣では琴乃が、今にも泣き出しそうな顔で震えていた。
だが、馬車の音が完全に遠ざかり、周囲に人の気配が消えたその瞬間――。
「……はぁ。やっと行ったわね、あの『西洋かぶれ』」
琴乃が深いため息と共に、スッと顔を上げた。
さっきまでの怯えた表情はどこへやら、その瞳は冷え切った硝子玉のように冷徹な光を宿している。
「え?琴乃……?」
「蓮人くん、よく我慢したわね。私、あんな後ろを不格好に膨らませた布きれを有り難がって、文明開化を気取っている女、初めて見たわ」
琴乃は着物の袖で鼻を覆い、心底不快そうに顔をしかめた。
「だいたい、香水の匂いがキツすぎて鼻がもげそうだったわよ。あんなのフランスの香水じゃなくて、ただの公害よ。
それに性根の腐った悪臭は、いくら高い香料を振りまいたって隠しきれるもんじゃないわ。ねえ、そう思わない?」
「お、おう……。相変わらず、言うねえ……」
蓮人は引き気味に苦笑いしたが、その実、この「猛毒」が戻ってきたことにどこか安堵していた。
これが、自分だけに見せる彼女の本当の顔だからだ。
「当たり前よ。蓮人くんのハッタリを『お遊戯』だなんて……。あのカタツムリみたいなドレス、こっそり塩でもまいて溶かしてやりましょうか?」
「いや、犯罪になるからやめとけ」
琴乃はふんと鼻を鳴らし、蓮人を元気づけるように不敵に笑ってみせた。
だが――蓮人の顔から、重い影が消えることはなかった。
視線を落とした先にある、誰にも見向きもされず、泥に汚れ、踏み荒らされた西陣織の端切れ。
それが今の自分たちの現在地そのものだった。
「……なあ。俺の口上も、琴乃の着物も、あいつのドレス一着に勝てないのかな……!」
話術も伝統も、圧倒的な「物量」と「流行」の前では無力だった。
自分の「話術」も「演出」も本物の金持ちには通じない。
その無力感が、蓮人のプライドを引き裂く。
「……ごめんね、蓮人くん」
背後から、震える声が聞こえた。
「私が……私が、地味だから……。着物が、ボロボロだったから……」
「違う!お前は悪くない!悪いのは……」
言いかけて、蓮人は言葉を失った。
悪いのは誰だ?「金」と「流行」になびく世の中か?
それとも、それを持たない自分たちの無力さか?
(悪いのは……お前を守れるだけの力がない、俺だ)
蓮人の心の中で、どす黒い自己嫌悪が渦巻く。
ポツリ。雨粒が、蓮人の頬に落ちた。
「……雨か」
ポツリ、ポツリと雨足が強まり、あっという間に土砂降りになる。
琴乃の美しい着物が濡れ、重く垂れ下がる。薄化粧が滲み、涙のように頬を伝う。
灰色の雨が、二人の敗北を嘲笑うように降り注いでいた。
