明治京都桜花心中~死神令嬢は、没落若君のために一万本の桜を咲かせる~

その日の夜。病院の個室。  
蓮人は震える手で薬草を煎じ、スプーンで琴乃の唇に含ませた。  
液体が喉を通ると同時に、淡い光が琴乃の体を包み込んだ。
蓮人は琴乃の冷たい手のひらを、自分の頬に押し当てた。
あの鴨川の夕暮れ時の誓いが蘇る。
「……お前を幸せにするって言っただろ。……まだ何もしてねえんだよ、俺は……」
「……頼む。戻ってきてくれ……」  
蓮人は、琴乃の手を両手で包み込み、祈り続けた。
聖女のように静かに、お淑やかに命を燃やし尽くそうとした彼女が、蓮人はどうしても許せなかった。
「……おい、琴乃。そんな神聖な顔して眠るなよ。お前には似合わねえだろ」
蓮人は、彼女の耳元で掠れた声を絞り出した。
「お前はそんな、誰かのために黙って死ぬような『お行儀のいい女』なんかじゃないだろ。
隙を見せれば俺を『悪趣味だ』と罵り、ライバルのドレスに墨をぶっかけようと企む、世界一可愛くない俺の共犯者だ。
……だから、戻ってきて俺に悪態を吐け。お前のその猛毒がなきゃ、俺のハッタリは完成しないんだよ!!」
最初は氷のように冷たかったその手が、蓮人の慟哭(どうこく)に呼応するように、徐々に熱を帯びてくる。  
ドクン、ドクン。
掌を通して彼女の心臓の鼓動が伝わってくる。  
生きている。血が巡っている。  
死神の手なんかじゃない。愛しい人間の手だ。
奇跡が起きた。老婆のように白くなっていた髪の色が、根元から毛先へと波打つように艶やかな黒へと戻っていく。  
(閻魔大王、あんたには感謝するよ)
(こいつの痛みも未来も、全部俺が引き受ける)
蓮人の祈りが通じたのか、琴乃の頬に微かに赤みが差した。  
規則正しい寝息が静寂の部屋に響き始めた。

翌日の4月2日。快晴。  
琵琶湖疏水の散歩道は、満開の桜のトンネルとなっていた。  
花びらが舞い散る中を、二人が歩いている。  
琴乃は奇跡のように回復していた。その足取りは軽く、黒髪が春風になびいている。
「すごい……!本当に全部、咲いてる」
琴乃が桜を見上げて呟く。その瞳に薄紅色の世界が映り込む。
「夢みたい……」
「夢じゃねえよ。お前が命がけで咲かせたんだ」
蓮人は立ち止まり、琴乃に向き直った。  
言わなければならない。彼女が背負っていた十字架の真実を。
「琴乃。……話さなきゃいけないことがある」  
蓮人は、閻魔から聞いた「過去の真実」を語り始めた。  
琴乃の曾祖父・隆仁の苦渋の決断。彼が妻よりも見知らぬ妊婦を選んだこと。  
そして、その妊婦こそが、蓮人の曾祖母であったこと。
「……そう、だったんだ」  
聞き終えた琴乃の目から、大粒の涙が溢れた。それは悲しみの涙ではなかった。
「私……ずっと、自分の家を恨んでた。ひいおじい様は無能で、家を潰した愚かな人だって……一族の恥だって聞いていた」
琴乃は、自分の両手を見つめた。 もうあの恐ろしくも不思議な力は感じない。ただの温かい人間の手だ。
「この能力も……私を苦しめる『呪い』だとしか思えなかった。でも違ったんだね」  
琴乃が泣き笑いのような表情で、蓮人を見上げる。
「ひいおじい様は無能じゃなかった。……誰よりも優しくて、強かったんだ」
「ああ。誰よりも気高い人だ」
「私の能力は、呪いなんかじゃなくて……『愛と誇りの証』だったんだね」
琴乃の声が震える。
「私の一族は、誇り高い選択をした。蓮人くんの命を繋ぐことができたなら……九条家の没落も私の苦しみも全部が無駄じゃなかった!」
その言葉に蓮人は胸が押し潰されそうになった。  
彼女は自分が犠牲になったことさえ「無駄じゃなかった」と言って笑うのだ。
「……ああ。俺は一生、お前と、お前のひいじいさんに、頭が上がらねえよ」
蓮人は優しく琴乃を抱き寄せた。  
「それにしても、蓮人くんのハッタリ、地獄級だったわね」
ふと、彼女は涙を拭うと、いつもの不敵な光を瞳に宿した。
「……そうなると、やっぱりひいおじい様は大馬鹿野郎だわ。こんなハッタリ詐欺師をこの世に残すために一族を没落させるなんて。
地獄で会ったら、絶対脛を蹴り飛ばしてやるんだから」
「……ああ。俺も一緒に、思い切り蹴られてやるよ」
六十六年の時を超えて、二つの家の因縁が、愛へと昇華される。  
桜吹雪が、祝福するように二人を包み込んだ。

4月4日、夕方。平安院学舎の校長室。  
蓮人と琴乃、そして紫門、花山院、烏丸、白川が集まっていた。  
合格祝いの場であるはずだが、蓮人と琴乃の表情は晴れやかではなかった。
「さて。……これで晴れて天宮と九条は『閻魔王宮現世救済官』ってわけだが」  
紫門が意地悪く笑う。
「お前ら、大丈夫か?『能力』はもうねえんだぞ?」
痛いところを突かれた。
(そうだ。俺には特殊能力が与えられず、琴乃も能力を失った)  
武器は何もない。ただの貧乏学生に戻っただけだ。  
これから待ち受ける難題に、丸腰で挑まなければならない。
「全くだ。凡人が二人で、閻魔王宮現世救済官として、これからの難題を解決できるとは思えんがな」  
烏丸が腕組みをして鼻を鳴らす。
「ふふ。烏丸くん、少しは期待してあげなさい」  
花山院がフォローするが、不安は拭えない。
「……まあ、正直不安ですけど」  
蓮人が頭をかくと、琴乃がその手をギュッと握った。
「でも、私たちには『これ』がありますから」
紫門が呆れたように言う。
「ケッ、アツアツだねえ。ま、二人の愛で乗り越えるってか?」  
その時だった。背後から、カツカツと規則正しい足音が近づいてくる。  

校長室のドアが、ノックもなく開かれた。
「ノン、ノン。愛だけで飯は食えませんわ」
「……三十秒。そこで油を売っている時間は無駄だぞ、天宮」
振り返ると、そこには財前征一郎と伊集院エリザが立っていた。  
相変わらずの高慢な態度。  
だが、その瞳には以前のような蔑みはなく、どこか穏やかな理性の光が宿っていた。
「財前……エリザ……。お前ら、まだ俺たちに何か文句が……」
卑屈な笑みを浮かべようとして思いとどまる。
二人の眼差しが今までとは決定的に違っていたからだ。
「文句? 違うな。……『投資』だ」
事務的な声音だが敗北さえ、合理的な糧に変えた者特有の不敵な風格を纏っていた。
財前が懐から分厚い書類の束を取り出し、蓮人に突きつけた。
表紙には「新規事業計画書」とある。
「僕の計算尺では測れない『不確定要素』……君のそのハッタリに、僕の理論は叩き潰された」
「だが、潰されたなら作り直すまでだ。 この『桜』がもたらす経済効果を再度計算した。疏水事業は当然継続するが、
観光資源としての桜を掛け合わせた方が、向こう百年の利益率は跳ね上がる」
財前が眼鏡の位置を直す。
「天宮、君のプランに僕の財閥が投資してやる。……感謝しろ」
「私もよ。……悔しいけれど、認めてあげるわ」
エリザが扇子で窓の外の桜並木を指した。
「その桜……パリの薔薇よりも、少しだけ綺麗よ。私のホテルや路面電車から見える『景色』に、採用してあげてもよろしくてよ」
蓮人と琴乃は顔を見合わせた。
「……採用してあげる?私たちに負けたくせに相変わらず偉そうね」
琴乃がスッと一歩前に出た。その瞳には、かつての怯えた令嬢の影は微塵もない。
冷え切った硝子玉のような、恐れ知らずの光があった。
「あら、おフランスの公害みたいな香水で鼻がもげそうなのに、桜の美しさは分かるんですのね? 西洋かぶれのお姫様」
「……なっ!?」
エリザが目を丸くして絶句する。琴乃はにっこりと、猛毒の笑みを浮かべた。
「せいぜいその不格好に膨らんだドレスで、私たちの桜の枝を折らないように気をつけてくださいな。
もし折ったら、そのドレスごと地獄の釜で長時間、煮込んであげますから」
今まで心の中でしか吐けなかった悪態を、堂々と正面から言い放つ琴乃。
あまりの豹変ぶりに室内に静寂が落ちる。蓮人は一瞬目を丸くした後、こらえきれずに吹き出した。
エリザはワナワナと震え、扇子を握りしめた。
「あ、あなた……! 投資してあげるというのに、その口の利き方は……!」
「……でも」
琴乃はふと毒気を抜き、窓の外の景色――真新しいレールと、その向こうの桜並木を見つめた。
「あなたのその『文明の鉄』が、この街の血流を良くしたのは事実よ。……私たちの桜を、より多くの人に見てもらうためには、あなたの力が必要だわ」
琴乃は真っ直ぐにエリザを見据え、少しだけ頬を染めて、フンとそっぽを向いた。
「……私たちの桜を彩る『額縁』としてなら、あなたのその派手な趣味も、悪くないってことよ」
「……は?」
エリザは呆気に取られた後、パチンと扇子を鳴らした。その顔に、不敵で、どこか嬉しそうな笑みが浮かぶ。
「……ふん。ただの陰気な人形かと思っていたけれど、随分と生意気な口を叩くようになったじゃない。
……いいわ、その喧嘩、買ってあげる。私の力で、あなたたちの桜を最高の芸術品に仕立て上げて見せますわ」
今まで自分にしか見せなかった彼女の『生の猛毒』が、ついに表舞台で放たれた瞬間だった。
蓮人は一瞬だけ目を丸くして呆気に取られたが、すぐに腹の底から愉快そうに笑い声を上げた。
「ははっ! お前、ついに本人に直接、悪態をつきやがったな!」 
財前もまた、隣の蓮人を見て冷ややかに口角を上げた。
「類は友を呼ぶ、か」
どこまでも素直じゃない四人。
蓮人は呆れたように息を吐きつつも、かつての宿敵たちへ頼もしげな視線を向けた。
「上等だ。……最強のスポンサーとして、骨の髄までこき使ってやるよ!」
四人が並び立つ姿を見て、花山院と紫門が満足げに微笑んだ。
「……揃いましたね」
「あん?」
「『財力・人脈・権力』を持つ、財前くんと伊集院さん。
そして、理屈を超えて『人から応援される魅力』を持つ、天宮くんと九条さん」
花山院は、ステッキを静かについた。
「剛と柔。……この四人が揃って初めて、『閻魔王宮現世救済官』という役職は完成するのかもしれませんな」
「……へっ。違げえねえ」  
紫門がニヤリと笑った。
「最強の布陣だ。……こりゃあ、俺も安心して隠居生活に入れるな」

その夜、円山公園を支配していたのは、底の知れない深い闇だった。
かつて都を照らした月は、今夜ばかりは雲の裏側に隠れ、主役の座を譲っている。
天宮蓮人は、闇の奥に佇む巨大な影――『祇園しだれ桜』を見上げた。
そこには琴乃がその命の火を移し替えるようにして咲かせた、一万本の桜たちが呼吸を止めて出番を待っている。
「……準備はいいか、財前」
「愚問だな。僕の辞書に『不備』という言葉はない」
蓮人の背後で、財前征一郎が冷徹に、しかし高揚を隠しきれない声で応じた。
足元では英国製の巨大な発電機が重低音を響かせ、地面を微かに震わせている。
それはまるで眠れる古都を呼び起こそうとする、鉄の鼓動のようだった。
「アーク灯、全基スタンバイ完了ですわ。……さあ天宮、本物の『奇跡』をご覧なさい」
エリザが扇子を指揮棒のように振り下ろす。

蓮人は深く息を吸い込み、右手を高く掲げた。
一瞬の静寂。風が止まり、世界が息を呑む。
「点灯(ライトアップ)!!」
蓮人の叫びと同時に、財前がレバーを引き絞った。
バチバチッ! と激しい火花が散り、オゾンの焦げる匂いが鼻をつく。
次の瞬間、漆黒の帳(とばり)は、暴力的なまでの白銀の閃光によって切り裂かれた。
「…………ッ!!」
誰かの悲鳴のような感嘆が漏れた。
最新鋭のアーク灯が放つ、青白く鋭い光。それは提灯や蝋燭のゆらぎとは無縁の、夜さえも焼き尽くす「文明」の光だった。
その光線が、闇の中に潜んでいた薄紅色の海を、鮮明に、残酷なまでに美しく浮き彫りにした。

そこに現れたのは、もはや現世(うつしよ)の風景ではなかった。
アーク灯の強い光に射抜かれた桜の花弁は透き通るような磁器の輝きを放ち、影との強烈なコントラストによって一輪一輪が浮き上がって見える。
風が吹く。
照らし出された無数の花弁が舞い上がり、光の粒子となって夜空を埋め尽くす。
それはまるで、琴乃が削り、捧げた命の残り火を、科学の光が祝福しているかのようだった
闇に沈んでいた市民たちの顔が、次々と白銀の光に照らされていく。
驚き、戸惑い、そして――こぼれ落ちるような笑み。
「おお……」
「なんてことだ、これが桜か……?」
「まるで、極楽浄土が京に降りてきたみたいや……」
千年の歴史を持つ古都の闇と、海を越えてきた電気の光。
相反する二つが激突し、その火花の中で、死に体だった京都が再び「色」を取り戻していく。
「見たか、琴乃。……お前の咲かせた桜が、この街を救ったんだ」
(特殊能力はない。金もない。コネもない。権力もない)  
蓮人は、自分の空っぽの手のひらを握りしめた。
(でも隣には、信頼できる最強の仲間(ライバル)と、愛する人がいる)
(この桜たちをきっかけに、必ず再び京都に人を呼び寄せる)  
琴乃が蓮人の手を強く握り返す。
(蓮人くんと二人なら、できる!)
琴乃は、握りしめた手から伝わる確かな体温と、夜空を埋め尽くす光の洪水を眩しそうに見上げ、花がほころぶように微笑んだ。
「……満開の夜桜……綺麗だね、蓮人くん」
蓮人は頭上の桜ではなく、白銀の光に照らされて息を呑むほどに美しい琴乃の横顔を愛おしげに見つめ返した。
「ああ。……本当に綺麗だ。言葉も出ないくらい」

彼女の頬に差した赤みは、アーク灯が作り出す新しい時代の熱に浮かされた再生の証のようだった。
蓮人は、隣でその光景を呆然と見つめる琴乃の手を、壊れ物を扱うような手つきで、けれど二度と離さないという強い意志を込めて握りしめた。
二人は光り輝く京都の街を見渡した。  
かつて「死に体」と呼ばれた街に、今、新しい血液が脈打っている。
「さあ、明日から仕事ね」
握り返す指先に力を込め、彼女は少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
愛しい詐欺師がつく『優しい嘘』を、今度は一番近くで、猛毒を吐きながら見届け続けるために。
「そうだ! 俺たちの『閻魔王宮現世救済官』は、これから始まる!」
天を仰いだその瞳に、もう卑屈な道化の影はない。
京都の、そして自分たちの運命を史上最高のハッタリで塗り替えてやるという、傲慢なまでに力強い光があった。
満開の桜と文明の光。  
二人の新しい未来が、今、明るく照らし出された。  
その光は、もう二度と消えることはないだろう。