12月の平安院学舎。 窓の外では、ちらちらと粉雪が舞っていた。
廊下ですれ違う蓮人と琴乃。二人の間には、目に見えない分厚い氷の壁があった。
「…………」
「…………」
目を合わせず、一言も交わさずに通り過ぎる。
蓮人は立ち止まり、琴乃の背中を振り返った。
その足取りは重く、後ろ姿は以前よりも一回り小さくなったように見えた。
(……痩せたな)
(顔色も悪い。……本当に、大丈夫なのかよ)
声をかけようとして、蓮人は手を止めた。
嵐山での決裂が、喉元に棘のように刺さっている。
今さら何を言えばいいのか。「やめろ」と言えば、また彼女を傷つける。
「頑張れ」と言えば、彼女を殺すことになる。
止めることも、励ますこともできないまま、時間だけが無慈悲に過ぎていく。
年が明けた1月。
京の底冷えが骨身に染みる季節。岡崎の疏水沿いの散歩道には、誰もいない。
ただ一人、琴乃だけが雪の中を歩いていた。
11月までは、一日に百本以上も進めていた作業だった。
しかし、命を削りすぎた今の体では、調子の良い日でも数本触れるのが限界になっていた。
体を少し動かすだけでも、泥の底を歩くように重い。
「はぁっ……はぁっ……」
琴乃の息が白い。 手袋を外した左手は、凍傷になりかけ、赤黒く腫れ上がっている。
いや、それだけではない。
指先はすでに、枯れ木のように茶色く変色し、ひび割れていた。
「……あと、少し。……これで、九千九百九十六本目」
琴乃が苗木に触れる。
『命刻輪廻の掌握』
淡い光が吸い込まれると同時に、彼女の体がガクンと揺れ、口から鮮血が滲んだ。
「うっ……ごほっ、ごほっ……!」
(痛い。寒い。……体の中が、空っぽになっていく)
(命が、指先から流れ出ていくのが分かる)
琴乃は雪を掴んで口に含んだ。冷たさで意識を保つ。
(でも、止まるわけにはいかない。……蓮人くんとの約束だから)
(数カ月かけての緩やかな開花に調整しているから、何とか私は生きている)
彼女の瞳には、狂気にも似た執念が宿っていた。
数時間後の深夜。雪が激しく降りしきる中、琴乃は最後の一本の前で膝をついていた。
「……これが、最後。……一万本目」
琴乃は震える手を、最後の苗木にかざした。
「お願い、春を連れてきて」
最後の光が苗木に宿る。その瞬間。
ドサッ!
糸が切れた操り人形のように、琴乃は雪の中に倒れ込んだ。
もう、指一本動かせない。体の芯まで凍りついている。
「はぁ……はぁ。できた。やったよ、蓮人くん……」
琴乃の視界が霞む。雪の上に投げ出された自分の左手が見えた。
完全に老婆のように干からび、黒ずんでいる。それはもう、人間の手ではなかった。
(これでいい。……私は、私の全てを出し切った)
琴乃は薄れゆく意識の中で、鉛色の雪空を見上げた。
何とか起き上がり、ふらふらと歩き出す。
2月下旬。嵐山の山中。
蓮人が一人、馬を飛ばして各植樹エリアの最終確認に回っていた。
「……!」
蓮人が手綱を引いた。
目の前の光景に、言葉を失う。
数ヶ月前までひょろひょろの苗木だった桜が、
見上げるほどの立派な成木へと成長し、無数の蕾(つぼみ)をつけていたのだ。
「……やっぱり」
(あいつは、たった一人でやり遂げたのか?)
蓮人は幹に触れた。確かに、数年の時を経たような太さと力強さがある。
木の鼓動が聞こえてくるようだ。
蓮人は馬を飛ばし、他のエリアも確認に向かった。
琵琶湖疏水散歩道。ここも同じだった。
数百本の桜の木が成長し、風に枝を揺らして開花の時期を待っている。
そして夕方の鴨川堤防。 開花前とは言え、どこまでも続く桜並木のシルエットが浮かび上がっていた。
その蕾のすべてが、不自然なほど急激に成長し、今にも弾けそうなエネルギーを内包して、開花を待ちわびているように見えた。
蓮人は土手の上で呆然と立ち尽くした。
(一万本……。全部、育ってやがる)
(あいつ……琴乃は、本当に大馬鹿野郎だ)
蓮人の脳裏に、紅葉の嵐山で見た琴乃の変色した指先が蘇る。
あの時でさえ、見ていられないほど痛々しかった。ならば、今は?
(琴乃。おまえ!これだけの『時間』を進めるのに、どれだけの命を削ったんだよ……!)
蓮人は自分の顔を両手で覆った。
(あいつの壮絶な覚悟。それを一人で背負わせてしまった俺。不甲斐ない男だ)
「……琴乃。俺にも同じ能力があればよかった……代わってやりたかった……」
蓮人の目から涙がこぼれ落ちた。
数日後の深夜。琵琶湖疏水の散歩道。
また雪が降っている。蓮人が一人、ランタンの明かりを頼りに、植樹した苗木を見て回っていた。
手には、藁(わら)や縄を持っている。
(くそっ……寒波が来やがった。このままじゃ根が凍っちまう)
蓮人は、一本一本の苗木の根元に藁を敷き、幹に菰(こも)を巻いていく。
(琴乃が命を削って『時間』を進めた苗木を、寒さから守る)
(あいつの能力は、成長を進めるだけだ。……寒さや害虫から守るのは、俺の仕事だ)
蓮人は凍える手で作業を続けた。指先の感覚はない。
口も利かず、顔も合わせずとも、彼は行動で彼女を支え続けていた。
それが不器用な彼にできる唯一の贖罪であり、愛だった。
3月中旬。審判の日まで、あと半月に迫っていた。
琴乃が一人、琵琶湖疏水沿いを歩いていた。
その足取りはふらつき、時折、激しく咳き込んでいる。
口元を覆ったハンカチに、鮮血が滲む。
(……あと数日。あと少しで春が来る。桜が咲くはず)
琴乃は立ち止まり、桜の枝を見上げた。まだ硬い蕾が、小さく膨らみ始めている。
「……頑張って。みんな、待ってるから」
琴乃がふらふらと歩いていると、前方に人影を見つけた。
蓮人だ。彼は地面に膝をつき、真剣な表情で何かをしている。
(……蓮人くん?)
よく見ると、蓮人は小さなハケとピンセットを使い、桜の幹に張り付いた害虫を一匹一匹、丁寧に取り除いていた。
「……よし、これでいい」
蓮人が汗を拭いながら立ち上がり、次の木へ向かう。
琴乃は反射的に木の陰に身を隠した。
(話しかけたい。謝りたい)
でも、あの紅葉の日の「二度と私の前に現れないで」という自分の言葉が、呪いのように足を縛る。
(……ごめんね、蓮人くん)
(今はまだ、会えない。……ちゃんと本当に、桜が咲いたら謝ろう)
琴乃は逃げるようにその場を離れた。
3月29日。審判の日まで残り三日。
京の街が異様な興奮に包まれていた。
「号外!号外じゃー!」
新聞記者の威勢の良い声が響く。
見出しには『京の奇跡!一夜にして万の桜、七分咲き!』の活字が躍っていた。
「去年まであんな場所に、桜の木なんかなかったぞ」
「咲いた……! 桜が咲いたぞ!」
「見てみい、花で枝が折れそうじゃ!」
「これは……神様の奇跡じゃ!」
人々が嵐山や鴨川に押し寄せ、奇跡の光景に酔いしれている。
(大げさな見出しだな。実際は、植えてから半年以上かかっている)
蓮人は心の中で苦笑した。
同日昼。平安院学舎。授業中、蓮人は琴乃の席を見た。
そこだけ、ぽっかりと穴が開いたように誰も座っていない。
(あいつは今日も欠席か。どこに行ったんだ)
胸騒ぎがする。昼休み。蓮人は席を立った。
(よし、抜け出して琴乃を探しに行こう)
校門へ向かう蓮人を、新聞記者たちが取り囲んだ。
「君、この植樹の発起人の天宮くんだね!?」
「植物学の権威は『あり得ぬ現象だ』と言っておるが、一体何をした!」
「西洋の特殊な肥料か? それとも陰陽師のまじないか!?」
無数のマイクと怒号が蓮人に浴びせられる。
(くそっ……! どいつもこいつも!)
(俺に琴乃を探しに行かせてくれ)
蓮人は脂汗を流しながら、腹を括った。
「あー、うるさい!どいてくれ」
蓮人は大声で叫び、デタラメな理屈を並べ立てた。
「これは……そう!大陸伝来の古(いにしえ)の秘術と、平安時代から京に伝わる伝説の庭師の秘術を融合させた……『桜開花促進法』だ!」
「た、大陸伝来……?」
「伝説の庭師の秘術……?」
記者たちが蓮人の勢いと謎の単語にひるんだ一瞬の隙を見逃さず、蓮人は人垣を強引に突破した。
「取材なら学校を通してくれ!よろしく!」
蓮人は走り出した。
(適当言ってすまん!だが今は琴乃だ……!)
背後で「待て!」という声が上がったが、蓮人はなりふり構わず走った。
(咲いた……本当に咲かせやがった。あいつ、自分の命と引き換えに……!)
(琴乃は、必ず俺たちが植樹したエリアのどこかにいるはずだ)
円山公園の奥。
人混みから離れた公園の最奥、満開の「祇園しだれ桜」の下に、琴乃はいた。
幹に背中を預け、力なく座り込んでいる。
その顔色は透き通るほど白く、憔悴しきっていた。
そこへ、息を切らした蓮人が駆け込んでくる。
「……琴乃~~~!!」
叫び声に、琴乃がゆっくりと目を開けた。
「……あ。蓮人、くん……」
「……琴乃!!!やっぱりここだった」
「……蓮人くんなら、見つけてくれると思っていた」
蓮人は琴乃の前に膝をついた。
怒鳴ろうとしたが、言葉にならなかった。
彼女のあまりの衰弱ぶりに、喉が詰まる。
(心配させやがって。無茶ばかりして)
琴乃が困ったように眉を下げて笑った。
「ふふ。……すごい顔。……まだ、怒っている?」
「当たり前だ!怒っているに決まってる」
蓮人の声が震える。琴乃の手を取る。
その手はもう、生きている人間の体温を失いかけていた。
氷のように冷たく、硬い。
「……でも、桜、綺麗でしょう?」
琴乃が視線で桜を指した。蓮人は涙を堪えて、頭上の桜を見上げた。
風が吹き、花びらが雪のように舞い散る。
この世のものとは思えない、神々しいまでの美しさ。
「昔は……この枝垂れ桜だけだった円山公園が、桜で埋め尽くされているわ」
「ああ。……お前が咲かせたんだ。世界一の桜だよ」
蓮人の言葉に、琴乃の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「よかった……。蓮人くんに褒めてもらえた……」
「すまなかった。ずっと、そばにいなくて。……俺が悪かった」
「ううん、私がわがままだったの。……ねえ、仲直りしてくれる?」
琴乃が、震える小指を差し出した。
蓮人は、自分の小指を力強く絡ませた。
「ああ。……二度と離さない」
指切りを解き、蓮人は琴乃の左手を両手で包み込んだ。
その時、指先の感触に違和感を覚えた。
蓮人はハッとして、琴乃の手のひらを見た。
「……!」
そこにあるのは、人間の肌ではなかった。
どす黒く炭化し、樹皮のようにひび割れ、硬質化した異形の手。
秋の嵐山で決別した日、彼女が必死に隠そうとしていた「真実」がそこにあった。
「蓮人くん、見ないで……。醜いから……」
琴乃が恥じらって手を引っ込めようとする。
けれど蓮人はその手を離さなかった。逃がさないように強く握りしめ、そして――。
ゆっくりと、その変色した指先に唇を落とした。
「……あ」
琴乃が目を見開く。蓮人は、硬く冷たくなった指の一本一本に、愛おしげに口づけを繰り返した。
まるで壊れかけた宝物を崇めるように。
「醜いもんか」
蓮人は、樹皮のような琴乃の手のひらを、自分の濡れた頬に押し当てた。
「俺のために戦って、俺のために傷ついた手だ。……世界中のどんな景色よりも、今のこの手が一番綺麗だ」
「……蓮人くん……」
「愛してる。……この手がボロボロになるまで尽くしてくれたお前を、誰よりも愛してる」
その言葉と口づけは、琴乃の心に残っていた最後の痛み――「醜い自分への嫌悪」を溶かし去った。
(蓮人くんに会えた。話せた。……愛してもらえた。よかった)
(張り詰めていた意地も、死への恐怖も、すべてが消えてゆくみたいだわ)
(……本当は、あの西洋かぶれ女が……悔しさで顔を真っ青にするのを、特等席で拝むまでは……死ねないと思っていたけれど)
(ふふ。蓮人くんの『愛してる』が聞けたから……私の勝ちね……)
琴乃は安心して目を閉じた。
「……少しだけ、眠いな」
「能力(チカラ)全部、桜の木にあげてしまったから……」
蓮人は琴乃を抱きしめた。 彼女の体から、急速に体温が失われていくのが分かる。
(一万本の桜を咲かせ、京の笑顔を守るために、琴乃は自身の「存在」そのものを使い果たしたんだ)
「おやすみなさい、蓮人くん……」
琴乃の指から力が抜けた。彼女の体がぐらりと傾き、蓮人の腕の中に崩れ落ちる。
「……琴乃?」
返事はない。まるで壊れた人形のように動かない。
「おい……嘘だろ?琴乃!起きろよ!」
「おい、琴乃ッ!!」
蓮人の絶叫が、満開の桜の下に響き渡った。
美しく残酷な花びらが、動かなくなった二人を埋め尽くすように降り注いでいた。
審判の日まで、あと三日。
奇跡の代償は、あまりにも大きすぎた。
廊下ですれ違う蓮人と琴乃。二人の間には、目に見えない分厚い氷の壁があった。
「…………」
「…………」
目を合わせず、一言も交わさずに通り過ぎる。
蓮人は立ち止まり、琴乃の背中を振り返った。
その足取りは重く、後ろ姿は以前よりも一回り小さくなったように見えた。
(……痩せたな)
(顔色も悪い。……本当に、大丈夫なのかよ)
声をかけようとして、蓮人は手を止めた。
嵐山での決裂が、喉元に棘のように刺さっている。
今さら何を言えばいいのか。「やめろ」と言えば、また彼女を傷つける。
「頑張れ」と言えば、彼女を殺すことになる。
止めることも、励ますこともできないまま、時間だけが無慈悲に過ぎていく。
年が明けた1月。
京の底冷えが骨身に染みる季節。岡崎の疏水沿いの散歩道には、誰もいない。
ただ一人、琴乃だけが雪の中を歩いていた。
11月までは、一日に百本以上も進めていた作業だった。
しかし、命を削りすぎた今の体では、調子の良い日でも数本触れるのが限界になっていた。
体を少し動かすだけでも、泥の底を歩くように重い。
「はぁっ……はぁっ……」
琴乃の息が白い。 手袋を外した左手は、凍傷になりかけ、赤黒く腫れ上がっている。
いや、それだけではない。
指先はすでに、枯れ木のように茶色く変色し、ひび割れていた。
「……あと、少し。……これで、九千九百九十六本目」
琴乃が苗木に触れる。
『命刻輪廻の掌握』
淡い光が吸い込まれると同時に、彼女の体がガクンと揺れ、口から鮮血が滲んだ。
「うっ……ごほっ、ごほっ……!」
(痛い。寒い。……体の中が、空っぽになっていく)
(命が、指先から流れ出ていくのが分かる)
琴乃は雪を掴んで口に含んだ。冷たさで意識を保つ。
(でも、止まるわけにはいかない。……蓮人くんとの約束だから)
(数カ月かけての緩やかな開花に調整しているから、何とか私は生きている)
彼女の瞳には、狂気にも似た執念が宿っていた。
数時間後の深夜。雪が激しく降りしきる中、琴乃は最後の一本の前で膝をついていた。
「……これが、最後。……一万本目」
琴乃は震える手を、最後の苗木にかざした。
「お願い、春を連れてきて」
最後の光が苗木に宿る。その瞬間。
ドサッ!
糸が切れた操り人形のように、琴乃は雪の中に倒れ込んだ。
もう、指一本動かせない。体の芯まで凍りついている。
「はぁ……はぁ。できた。やったよ、蓮人くん……」
琴乃の視界が霞む。雪の上に投げ出された自分の左手が見えた。
完全に老婆のように干からび、黒ずんでいる。それはもう、人間の手ではなかった。
(これでいい。……私は、私の全てを出し切った)
琴乃は薄れゆく意識の中で、鉛色の雪空を見上げた。
何とか起き上がり、ふらふらと歩き出す。
2月下旬。嵐山の山中。
蓮人が一人、馬を飛ばして各植樹エリアの最終確認に回っていた。
「……!」
蓮人が手綱を引いた。
目の前の光景に、言葉を失う。
数ヶ月前までひょろひょろの苗木だった桜が、
見上げるほどの立派な成木へと成長し、無数の蕾(つぼみ)をつけていたのだ。
「……やっぱり」
(あいつは、たった一人でやり遂げたのか?)
蓮人は幹に触れた。確かに、数年の時を経たような太さと力強さがある。
木の鼓動が聞こえてくるようだ。
蓮人は馬を飛ばし、他のエリアも確認に向かった。
琵琶湖疏水散歩道。ここも同じだった。
数百本の桜の木が成長し、風に枝を揺らして開花の時期を待っている。
そして夕方の鴨川堤防。 開花前とは言え、どこまでも続く桜並木のシルエットが浮かび上がっていた。
その蕾のすべてが、不自然なほど急激に成長し、今にも弾けそうなエネルギーを内包して、開花を待ちわびているように見えた。
蓮人は土手の上で呆然と立ち尽くした。
(一万本……。全部、育ってやがる)
(あいつ……琴乃は、本当に大馬鹿野郎だ)
蓮人の脳裏に、紅葉の嵐山で見た琴乃の変色した指先が蘇る。
あの時でさえ、見ていられないほど痛々しかった。ならば、今は?
(琴乃。おまえ!これだけの『時間』を進めるのに、どれだけの命を削ったんだよ……!)
蓮人は自分の顔を両手で覆った。
(あいつの壮絶な覚悟。それを一人で背負わせてしまった俺。不甲斐ない男だ)
「……琴乃。俺にも同じ能力があればよかった……代わってやりたかった……」
蓮人の目から涙がこぼれ落ちた。
数日後の深夜。琵琶湖疏水の散歩道。
また雪が降っている。蓮人が一人、ランタンの明かりを頼りに、植樹した苗木を見て回っていた。
手には、藁(わら)や縄を持っている。
(くそっ……寒波が来やがった。このままじゃ根が凍っちまう)
蓮人は、一本一本の苗木の根元に藁を敷き、幹に菰(こも)を巻いていく。
(琴乃が命を削って『時間』を進めた苗木を、寒さから守る)
(あいつの能力は、成長を進めるだけだ。……寒さや害虫から守るのは、俺の仕事だ)
蓮人は凍える手で作業を続けた。指先の感覚はない。
口も利かず、顔も合わせずとも、彼は行動で彼女を支え続けていた。
それが不器用な彼にできる唯一の贖罪であり、愛だった。
3月中旬。審判の日まで、あと半月に迫っていた。
琴乃が一人、琵琶湖疏水沿いを歩いていた。
その足取りはふらつき、時折、激しく咳き込んでいる。
口元を覆ったハンカチに、鮮血が滲む。
(……あと数日。あと少しで春が来る。桜が咲くはず)
琴乃は立ち止まり、桜の枝を見上げた。まだ硬い蕾が、小さく膨らみ始めている。
「……頑張って。みんな、待ってるから」
琴乃がふらふらと歩いていると、前方に人影を見つけた。
蓮人だ。彼は地面に膝をつき、真剣な表情で何かをしている。
(……蓮人くん?)
よく見ると、蓮人は小さなハケとピンセットを使い、桜の幹に張り付いた害虫を一匹一匹、丁寧に取り除いていた。
「……よし、これでいい」
蓮人が汗を拭いながら立ち上がり、次の木へ向かう。
琴乃は反射的に木の陰に身を隠した。
(話しかけたい。謝りたい)
でも、あの紅葉の日の「二度と私の前に現れないで」という自分の言葉が、呪いのように足を縛る。
(……ごめんね、蓮人くん)
(今はまだ、会えない。……ちゃんと本当に、桜が咲いたら謝ろう)
琴乃は逃げるようにその場を離れた。
3月29日。審判の日まで残り三日。
京の街が異様な興奮に包まれていた。
「号外!号外じゃー!」
新聞記者の威勢の良い声が響く。
見出しには『京の奇跡!一夜にして万の桜、七分咲き!』の活字が躍っていた。
「去年まであんな場所に、桜の木なんかなかったぞ」
「咲いた……! 桜が咲いたぞ!」
「見てみい、花で枝が折れそうじゃ!」
「これは……神様の奇跡じゃ!」
人々が嵐山や鴨川に押し寄せ、奇跡の光景に酔いしれている。
(大げさな見出しだな。実際は、植えてから半年以上かかっている)
蓮人は心の中で苦笑した。
同日昼。平安院学舎。授業中、蓮人は琴乃の席を見た。
そこだけ、ぽっかりと穴が開いたように誰も座っていない。
(あいつは今日も欠席か。どこに行ったんだ)
胸騒ぎがする。昼休み。蓮人は席を立った。
(よし、抜け出して琴乃を探しに行こう)
校門へ向かう蓮人を、新聞記者たちが取り囲んだ。
「君、この植樹の発起人の天宮くんだね!?」
「植物学の権威は『あり得ぬ現象だ』と言っておるが、一体何をした!」
「西洋の特殊な肥料か? それとも陰陽師のまじないか!?」
無数のマイクと怒号が蓮人に浴びせられる。
(くそっ……! どいつもこいつも!)
(俺に琴乃を探しに行かせてくれ)
蓮人は脂汗を流しながら、腹を括った。
「あー、うるさい!どいてくれ」
蓮人は大声で叫び、デタラメな理屈を並べ立てた。
「これは……そう!大陸伝来の古(いにしえ)の秘術と、平安時代から京に伝わる伝説の庭師の秘術を融合させた……『桜開花促進法』だ!」
「た、大陸伝来……?」
「伝説の庭師の秘術……?」
記者たちが蓮人の勢いと謎の単語にひるんだ一瞬の隙を見逃さず、蓮人は人垣を強引に突破した。
「取材なら学校を通してくれ!よろしく!」
蓮人は走り出した。
(適当言ってすまん!だが今は琴乃だ……!)
背後で「待て!」という声が上がったが、蓮人はなりふり構わず走った。
(咲いた……本当に咲かせやがった。あいつ、自分の命と引き換えに……!)
(琴乃は、必ず俺たちが植樹したエリアのどこかにいるはずだ)
円山公園の奥。
人混みから離れた公園の最奥、満開の「祇園しだれ桜」の下に、琴乃はいた。
幹に背中を預け、力なく座り込んでいる。
その顔色は透き通るほど白く、憔悴しきっていた。
そこへ、息を切らした蓮人が駆け込んでくる。
「……琴乃~~~!!」
叫び声に、琴乃がゆっくりと目を開けた。
「……あ。蓮人、くん……」
「……琴乃!!!やっぱりここだった」
「……蓮人くんなら、見つけてくれると思っていた」
蓮人は琴乃の前に膝をついた。
怒鳴ろうとしたが、言葉にならなかった。
彼女のあまりの衰弱ぶりに、喉が詰まる。
(心配させやがって。無茶ばかりして)
琴乃が困ったように眉を下げて笑った。
「ふふ。……すごい顔。……まだ、怒っている?」
「当たり前だ!怒っているに決まってる」
蓮人の声が震える。琴乃の手を取る。
その手はもう、生きている人間の体温を失いかけていた。
氷のように冷たく、硬い。
「……でも、桜、綺麗でしょう?」
琴乃が視線で桜を指した。蓮人は涙を堪えて、頭上の桜を見上げた。
風が吹き、花びらが雪のように舞い散る。
この世のものとは思えない、神々しいまでの美しさ。
「昔は……この枝垂れ桜だけだった円山公園が、桜で埋め尽くされているわ」
「ああ。……お前が咲かせたんだ。世界一の桜だよ」
蓮人の言葉に、琴乃の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「よかった……。蓮人くんに褒めてもらえた……」
「すまなかった。ずっと、そばにいなくて。……俺が悪かった」
「ううん、私がわがままだったの。……ねえ、仲直りしてくれる?」
琴乃が、震える小指を差し出した。
蓮人は、自分の小指を力強く絡ませた。
「ああ。……二度と離さない」
指切りを解き、蓮人は琴乃の左手を両手で包み込んだ。
その時、指先の感触に違和感を覚えた。
蓮人はハッとして、琴乃の手のひらを見た。
「……!」
そこにあるのは、人間の肌ではなかった。
どす黒く炭化し、樹皮のようにひび割れ、硬質化した異形の手。
秋の嵐山で決別した日、彼女が必死に隠そうとしていた「真実」がそこにあった。
「蓮人くん、見ないで……。醜いから……」
琴乃が恥じらって手を引っ込めようとする。
けれど蓮人はその手を離さなかった。逃がさないように強く握りしめ、そして――。
ゆっくりと、その変色した指先に唇を落とした。
「……あ」
琴乃が目を見開く。蓮人は、硬く冷たくなった指の一本一本に、愛おしげに口づけを繰り返した。
まるで壊れかけた宝物を崇めるように。
「醜いもんか」
蓮人は、樹皮のような琴乃の手のひらを、自分の濡れた頬に押し当てた。
「俺のために戦って、俺のために傷ついた手だ。……世界中のどんな景色よりも、今のこの手が一番綺麗だ」
「……蓮人くん……」
「愛してる。……この手がボロボロになるまで尽くしてくれたお前を、誰よりも愛してる」
その言葉と口づけは、琴乃の心に残っていた最後の痛み――「醜い自分への嫌悪」を溶かし去った。
(蓮人くんに会えた。話せた。……愛してもらえた。よかった)
(張り詰めていた意地も、死への恐怖も、すべてが消えてゆくみたいだわ)
(……本当は、あの西洋かぶれ女が……悔しさで顔を真っ青にするのを、特等席で拝むまでは……死ねないと思っていたけれど)
(ふふ。蓮人くんの『愛してる』が聞けたから……私の勝ちね……)
琴乃は安心して目を閉じた。
「……少しだけ、眠いな」
「能力(チカラ)全部、桜の木にあげてしまったから……」
蓮人は琴乃を抱きしめた。 彼女の体から、急速に体温が失われていくのが分かる。
(一万本の桜を咲かせ、京の笑顔を守るために、琴乃は自身の「存在」そのものを使い果たしたんだ)
「おやすみなさい、蓮人くん……」
琴乃の指から力が抜けた。彼女の体がぐらりと傾き、蓮人の腕の中に崩れ落ちる。
「……琴乃?」
返事はない。まるで壊れた人形のように動かない。
「おい……嘘だろ?琴乃!起きろよ!」
「おい、琴乃ッ!!」
蓮人の絶叫が、満開の桜の下に響き渡った。
美しく残酷な花びらが、動かなくなった二人を埋め尽くすように降り注いでいた。
審判の日まで、あと三日。
奇跡の代償は、あまりにも大きすぎた。
