京都盆地特有の、肌にまとわりつくような熱気が街を包み込んでいた。
しかし、その暑ささえも、失われた緑を呼び戻そうとする人々の熱量には及ばない。
市内のあちこちで、街の再生を願う泥まみれの挑戦が幕を開けていた。
7月下旬の嵐山。
蝉時雨が降り注ぐ中、市民や学生たちが汗だくで鍬を振るっていた。
「こらっ!もっと深く掘らんか!根が張らんと倒れてしまうぞ!」
源蔵の怒号が飛ぶ。手ぬぐいで汗を拭う彼の顔は、太陽のように赤い。
「は、はいっ!すみません!」
学生たちが声を張り上げる。その顔は生き生きとしていた。
同月の円山公園。
ここでも多くの人々が作業に汗を流していた。
「ここは水はけが悪いので、少し盛り土をしてください!お願いします!」
蓮人が声を枯らして指示を出す。
「おう、任せとき!天宮ちゃん!」
商店街の男たちが頼もしく応える。蓮人は「天宮ちゃん」と呼ばれるようになっていた。
かつての「没落した天宮の息子」ではなく、街の仲間として。
同月の琵琶湖疏水散歩道付近。
巨大な工事現場の脇で、琴乃が女性たちに丁寧に苗木の扱いを教えていた。
「苗木は、優しく扱ってくださいね。……赤ん坊を抱くように」
「あら、琴乃ちゃんったら。……でも、本当に熱心で可愛いわ」
琴乃の献身的な姿は、街の人々の心を掴んでいた。
彼女の周りには、いつも優しい空気が流れている。
そして9月中旬。晩夏。
夕暮れの鴨川堤防に、赤トンボが舞っていた。
源蔵、蓮人、琴乃。そして鷹司たち学友や、重助、権吉たち市民が集まっている。
全員、泥だらけだが、その顔は夕日よりも輝く達成感に満ちていた。
「……皆の者、よくやった!」
源蔵の声が響く。
琴乃が、ボロボロになった地図を広げた。
円山公園、嵐山、鴨川堤防、琵琶湖疏水予定地周辺。
四つの地域すべてに、植樹完了の印がついている。
「わしらは、この四つの地域に植樹をしてきた」
「そして本日をもって、目標の一万本! すべての植樹が完了した!」
源蔵の宣言と共に、おおーっ!と歓声が上がった。
学友たちが蓮人の肩を叩き、おばさんたちが琴乃の手を取って喜ぶ。
「やったな、天宮!お前、本当にやり遂げたんだな!」
「ああ。……みんなのおかげだ」
蓮人は鷹司と拳を突き合わせた。
「ここでひとつ、諸君に朗報がある」
源蔵がニヤリと笑った。
「わしの見立てでは、本来はこの苗木たちが花を咲かせるのは早くて四年後……のはずなんじゃが」
源蔵が首を傾げる。
「なぜか、もっと早く咲きそうだ。……この『熱気』のせいかのう?原因は、わしにもわからんが、来年の春には咲いている気がしてならん」
どよめきが起きた。
「ええっ!?来年に咲くのかい!?」
「そりゃあ楽しみだ!」
「絶対に花見をしような!」
「そんなこと、ありえるのか?」
人々がざわめき、期待に胸を膨らませる。
その喧騒の中で、琴乃だけが静かに俯いていた。
(……熱気のせいじゃない。私が夜な夜なこっそりと『時間』を進めているから)
彼女の左手は、手袋の下で冷たく脈打っていた。
帰り道。月明かりの下を二人で歩く。
虫の声が秋の訪れを告げていた。
「……やったな、琴乃。一万本だぞ」
「うん。……すごいね、夢みたい」
「……源蔵さんと三人だけじゃ、無理だった」
「蓮人くんの人を巻き込む力、さすがだわ」
「そうだろう?俺ってやっぱりすごいな」
蓮人はおどけて見せたが、琴乃の声に元気がないことに気づかないふりをした。
いや、気づきたくなかったのかもしれない。
「みんなが植えてくれた苗木。……10月からひとつずつ、お前の『命刻輪廻の掌握』で触れていこう」
「来年の春、一斉に満開になるように」
「……うん。私、頑張るわ」
琴乃は、不安そうに自分の左手をそっと握りしめた。
(きっと大丈夫。私自身がどうなっても、絶対にやり遂げる。これは蓮人くんとの『婚約』の証だから)
11月下旬。晩秋。
嵐山の山肌は、燃えるような紅葉に覆われていた。
観光客が紅葉狩りを楽しむ中、人目のつかない山中で、蓮人と琴乃は一本一本苗木を確認していた。
「これで九千本目、残り千本だ」
蓮人がしゃがみ込み、リストにチェックを入れる。
琴乃は無言で苗木に近づいた。
「……お願い。来年の春に咲いて」
『命刻輪廻の掌握』
琴乃は手袋を外し、凍てつくような素手で苗木に触れた。
淡い光が、彼女の手から苗木へと吸い込まれていく。木の時間が進み、蕾が膨らむ。
ドクン。琴乃の心臓が、嫌な音を立てた。
ひとつ触れるたびに、体から熱がごっそりと奪われ、視界がぐらりと揺れる。
指先の感覚が消え、代わりに奇妙な「硬質化」が始まっている感覚。
琴乃の指先がミシミシと音を立てて硬化し、どす黒い樹皮へと変わっていく。
「……琴乃、もういい。休憩しよう」
背後から、蓮人の声がした。
「ッ……!」
琴乃は心臓が止まるほど驚いた。
見られる。この異形の手を見られるわけにはいかない。
(隠さなきゃ……!)
琴乃は、膝の上に置いてあった厚手の手袋を慌てて掴む。
だが、樹皮のように肥大化し、枯れ木のように硬直した指は、思うように動かない。
ググッ……!
琴乃は焦燥に駆られながら、変形した左手を無理やり手袋の中にねじ込んだ。
ひび割れた皮膚が擦れ、激痛が走る。
「……っぐ」
脂汗が滲むほどの痛みに耐え、なんとか手袋をはめ終えた瞬間、蓮人の手が琴乃の肩に置かれた。
琴乃はビクリと体を震わせ、反射的に手袋をはめた左手を袂(たもと)に隠した。
「……?」
「……へ、平気よ。まだ今日はあと五十本は頑張る」
「平気なものか。顔色が悪いぞ。それにさっきから、左手を庇っているじゃないか」
蓮人は強引に琴乃の手首を掴み、隠していた手を引き出そうとした。手には、厚手の手袋がはめられている。
だが、急いで着けたせいか、指先までしっかり入っておらず、どこか形が歪(いびつ)だった。
「っ!やめて、放して!」
琴乃が悲鳴を上げ、必死に抵抗する。
だが蓮人は手袋の上からその手を強く握った。
「冷たい……!氷みたいじゃないか」
蓮人が眉をひそめる。さらに、手袋越しに伝わる感触に違和感を覚えた。
(……なんだ? 妙にゴツゴツしている。手袋の中で指が曲がっているのか?……酷い霜焼けか、あかぎれで腫れているのか?)
「こんなになるまで……馬鹿野郎。薬を塗って温めるぞ。手袋を外せ」
「い、いや! 見ないで!!」
琴乃は顔面蒼白になった。
今、手袋の中は見るも無惨な状態だ。見られたら終わる。
この「枯れ木のような手」を見られたら、蓮人くんは優しさゆえに、絶対に計画を中止させる。
「見せろって言ってるだろ!」
蓮人が手袋の縁に指をかけ、引き抜こうとする。
無理やりはめた手袋は、肌に張り付いたように外れない。蓮人が力を込める。
手袋の隙間から、どす黒く変色した皮膚が、わずかに覗きそうになり――。
バチンッ!!
乾いた音が、静かな山中に響き渡った。
琴乃が、渾身の力で蓮人の手を振り払い、その反動で彼の頬を張ったのだ。
「……っ」
蓮人が驚いて目を見開く。鳥たちが驚いて飛び立った。
琴乃は、自分の左手を胸に抱きしめ、ガタガタと震えていた。
「……触らないで」
琴乃の声は、拒絶で張り詰めていた。
「ただの手荒れよ。……女として、荒れた手を見られるのは恥ずかしいの。そんな乙女心も分からないの?」
「……は? 俺は心配して……」
「その『心配』が重いのよ! ほっといて!」
琴乃は、心の中で血の涙を流しながら、精一杯の虚勢を張った。
(嫌われなきゃ。……彼に真実(これ)を見せないためには、遠ざけるしかない)
「私は蓮人くんの夢、天宮家の再興を叶えてあげたいだけなのよ!」
「ふざけるな!天宮家も京都も滅びてもいい!お前がボロボロになるくらいなら、俺は世界中を敵に回したっていいんだ!」
蓮人の叫びは悲痛だった。
「復興?名誉?そんなもの、隣にお前がいなきゃゴミクズだ!」
「もう登用試験などどうでもいい。合格などしなくていい!お前がこんなに弱ってまで咲かせる桜など、俺は見たくない!」
「……どうでもよくなどないわ!」
琴乃の瞳には、今まで見せたことのない、暗く激しい炎が宿っていた。
それは狂気にも似た、純粋すぎる愛の炎。
「蓮人くんには分からないわ!ずっと日陰で、誰からも期待されずに生きてきた私の惨めさが、何でもできる蓮人くんに分かるはずがない!」
「何だと……?」
「これは私が決めたことよ!才能もない、力もない落ちこぼれの私が、この世に生きた証を残すにはこれしかないの!」
琴乃の目から大粒の涙が溢れ、苗木の上に落ちた。
「私は、私のためにやるわ。蓮人くんの夢を利用して、私が『生きた証』を残す!」
「……本気で、言ってるのか?」
「ええ!だから邪魔しないで。……同情なんてお断りよ」
その言葉は、鋭利な刃となって蓮人の胸を突き刺した。
蓮人の内側でも、何かがプツリと切れた。
心配が、焦燥が、裏返って冷たい諦めとなる。
蓮人の瞳から、心配の色が消え、冷たい怒りの色が宿った。
彼は、手袋の下にある「真実」を知らないまま、彼女の言葉を額面通りに受け取ってしまった。
「……そうかよ。そんなに死に急ぎたいなら、勝手にしろ」
蓮人の口から出たのは、本心とは真逆の、投げやりな言葉だった。
(言っちまった……)
「俺だって、もううんざりだ。お前のその『悲劇のヒロイン』気取りの自殺行為には、付き合いきれん」
「っ……!」
「好きにすればいい。俺はもう降りる」
琴乃の顔が絶望に歪むのを、蓮人は見ようとしなかった。
琴乃は唇を血が滲むほど噛み締め、背を向けた。
「……さようなら。二度と、私の前に現れないで」
拒絶の言葉と共に、蓮人は走り去っていく。
紅葉の舞う中、蓮人の背中が小さくなっていく。一度も振り返ることなく。
その背中越しに、琴乃はこっそりと手袋を外し、自分の手を見た。
――そこにあるのは、炭化し、樹皮のようにひび割れた異形の手。
『明治京都桜花心中』
かつて二人で笑いながら名付けたその名前が、今は鋭い刃となって胸を刺す。
(……一人で心中なんて、お笑い草だわ。それでも私はやるしかない)
琴乃を残して山を降りていく蓮人。
だが中腹まで降りたところで、蓮人は足を止めた。
拳を木に叩きつけ、振り返る。
そこにはもう、彼女の姿は見えない。けれど蓮人は喉が裂けんばかりに叫んだ。
「お前と二人で見る桜だから、俺にとっては大きな価値があるんだよ……!!!」
蓮人の絶叫は空虚な秋空へと消えた。
追いかけたい、抱きしめたい。その想いさえも、冷たい晩秋の風が凍りつかせていく。
「勝手に自己完結してんじゃねえ!お前がいなくなるなんて……俺は絶対に許さない!認めないぞ!」
今度の絶叫も、誰に届くこともなく晩秋の空にさらわれていった。
春まで、あと四ヶ月。
二人の心は、致命的な秘密を抱えたまま、凍りついてしまった。
11月下旬の深夜。
蓮人に「二度と現れるな」と拒絶し、別れたその日の夜。
琴乃は一人、冷え切った自室の鏡の前に座っていた。
月明かりだけが頼りの薄暗い部屋。
鏡の中に映るのは、17歳の少女の顔ではない。
頬はこけ、目の下にはどす黒いクマが張り付き、唇は紫色に乾いている。
「……また、増えてる」
白髪を抜きながら、琴乃は鏡の中の自分に向かって、弱々しく、けれど鋭く毒を吐いた。
(……はぁ、嫌だわ。17歳で老婆になってたまるもんですか。私が死んだ後に、あの西洋かぶれ女が蓮人くんに色目を使うところを想像しただけでイライラする。
三途の川からクロールで戻ってきて、あいつのドレスに墨汁ぶっかけてやるんだから)
自分の境遇を嘆くより先に、ライバルへの悪態が口をつく。
その「悪態」だけが、今の琴乃にとって、消えゆく命を繋ぎ止める唯一の錨(いかり)だった。
艶やかだった黒髪の中に、老婆のような白髪がまた数本、混じっている。
一本抜くたびに、命が抜け落ちるような痛みが走る。
さらに手袋を外した左手。
指先はすでに炭化したように黒ずみ、皮膚は硬くひび割れ、関節を動かすたびに「ミシッ」と乾いた音がする。
それは人間の手というより、枯れ木の枝に近かった。
(……怖い)
琴乃は鏡の前で、小さく体を丸めた。死ぬことが怖いのではない。
このまま自分が、人間ではない「異形」に変わっていくことが、どうしようもなく恐ろしい。
「……嫌だ。こんな姿、蓮人くんに見られたくない」
琴乃は化粧箱をひっくり返し、白粉(おしろい)を手に取った。
震える手で、荒れた肌を隠すように厚く塗りたくる。
紅をさし、血色のない唇を誤魔化す。
(綺麗でいたい。……最期の瞬間まで、蓮人くんの記憶の中では、可愛い幼馴染のままでいたい)
けれど化粧をすればするほど、鏡の中の自分は「生きた人間」から遠ざかり、安っぽい人形のように見えてくる。
琴乃は化粧筆を投げ出し机に突っ伏した。
ズキリ。
心臓が悲鳴を上げる。能力を使うたびに体の中身が空洞になっていく感覚。
(あと、九百五十本……)
今の自分の体力で、持ちこたえられるだろうか。
桜が咲くのが先か、私の命が尽きるのが先か。
「……会いたいよ、蓮人くん」
誰もいない部屋で、嗚咽が漏れる。
突き放したのは自分だ。嫌われるようなことを言ったのも自分だ。
それでも、今すぐ彼に抱きしめてほしかった。
「大丈夫だ」と、あの温かい手で頭を撫でてほしかった。
(でも、ダメ。……この手を見られたら、彼はきっと優しさで計画を止めてしまう)
(そうしたら、天宮家も九条家も救われない)
これは、愛する人の未来を守るための、孤独な戦い。
「……負けない。私が全部、背負ってあげる」
琴乃は鏡の中の、やつれ果てた自分を睨みつけた。
その瞳に宿る光だけは、死神すらもたじろぐほどに強靭だった。
しかし、その暑ささえも、失われた緑を呼び戻そうとする人々の熱量には及ばない。
市内のあちこちで、街の再生を願う泥まみれの挑戦が幕を開けていた。
7月下旬の嵐山。
蝉時雨が降り注ぐ中、市民や学生たちが汗だくで鍬を振るっていた。
「こらっ!もっと深く掘らんか!根が張らんと倒れてしまうぞ!」
源蔵の怒号が飛ぶ。手ぬぐいで汗を拭う彼の顔は、太陽のように赤い。
「は、はいっ!すみません!」
学生たちが声を張り上げる。その顔は生き生きとしていた。
同月の円山公園。
ここでも多くの人々が作業に汗を流していた。
「ここは水はけが悪いので、少し盛り土をしてください!お願いします!」
蓮人が声を枯らして指示を出す。
「おう、任せとき!天宮ちゃん!」
商店街の男たちが頼もしく応える。蓮人は「天宮ちゃん」と呼ばれるようになっていた。
かつての「没落した天宮の息子」ではなく、街の仲間として。
同月の琵琶湖疏水散歩道付近。
巨大な工事現場の脇で、琴乃が女性たちに丁寧に苗木の扱いを教えていた。
「苗木は、優しく扱ってくださいね。……赤ん坊を抱くように」
「あら、琴乃ちゃんったら。……でも、本当に熱心で可愛いわ」
琴乃の献身的な姿は、街の人々の心を掴んでいた。
彼女の周りには、いつも優しい空気が流れている。
そして9月中旬。晩夏。
夕暮れの鴨川堤防に、赤トンボが舞っていた。
源蔵、蓮人、琴乃。そして鷹司たち学友や、重助、権吉たち市民が集まっている。
全員、泥だらけだが、その顔は夕日よりも輝く達成感に満ちていた。
「……皆の者、よくやった!」
源蔵の声が響く。
琴乃が、ボロボロになった地図を広げた。
円山公園、嵐山、鴨川堤防、琵琶湖疏水予定地周辺。
四つの地域すべてに、植樹完了の印がついている。
「わしらは、この四つの地域に植樹をしてきた」
「そして本日をもって、目標の一万本! すべての植樹が完了した!」
源蔵の宣言と共に、おおーっ!と歓声が上がった。
学友たちが蓮人の肩を叩き、おばさんたちが琴乃の手を取って喜ぶ。
「やったな、天宮!お前、本当にやり遂げたんだな!」
「ああ。……みんなのおかげだ」
蓮人は鷹司と拳を突き合わせた。
「ここでひとつ、諸君に朗報がある」
源蔵がニヤリと笑った。
「わしの見立てでは、本来はこの苗木たちが花を咲かせるのは早くて四年後……のはずなんじゃが」
源蔵が首を傾げる。
「なぜか、もっと早く咲きそうだ。……この『熱気』のせいかのう?原因は、わしにもわからんが、来年の春には咲いている気がしてならん」
どよめきが起きた。
「ええっ!?来年に咲くのかい!?」
「そりゃあ楽しみだ!」
「絶対に花見をしような!」
「そんなこと、ありえるのか?」
人々がざわめき、期待に胸を膨らませる。
その喧騒の中で、琴乃だけが静かに俯いていた。
(……熱気のせいじゃない。私が夜な夜なこっそりと『時間』を進めているから)
彼女の左手は、手袋の下で冷たく脈打っていた。
帰り道。月明かりの下を二人で歩く。
虫の声が秋の訪れを告げていた。
「……やったな、琴乃。一万本だぞ」
「うん。……すごいね、夢みたい」
「……源蔵さんと三人だけじゃ、無理だった」
「蓮人くんの人を巻き込む力、さすがだわ」
「そうだろう?俺ってやっぱりすごいな」
蓮人はおどけて見せたが、琴乃の声に元気がないことに気づかないふりをした。
いや、気づきたくなかったのかもしれない。
「みんなが植えてくれた苗木。……10月からひとつずつ、お前の『命刻輪廻の掌握』で触れていこう」
「来年の春、一斉に満開になるように」
「……うん。私、頑張るわ」
琴乃は、不安そうに自分の左手をそっと握りしめた。
(きっと大丈夫。私自身がどうなっても、絶対にやり遂げる。これは蓮人くんとの『婚約』の証だから)
11月下旬。晩秋。
嵐山の山肌は、燃えるような紅葉に覆われていた。
観光客が紅葉狩りを楽しむ中、人目のつかない山中で、蓮人と琴乃は一本一本苗木を確認していた。
「これで九千本目、残り千本だ」
蓮人がしゃがみ込み、リストにチェックを入れる。
琴乃は無言で苗木に近づいた。
「……お願い。来年の春に咲いて」
『命刻輪廻の掌握』
琴乃は手袋を外し、凍てつくような素手で苗木に触れた。
淡い光が、彼女の手から苗木へと吸い込まれていく。木の時間が進み、蕾が膨らむ。
ドクン。琴乃の心臓が、嫌な音を立てた。
ひとつ触れるたびに、体から熱がごっそりと奪われ、視界がぐらりと揺れる。
指先の感覚が消え、代わりに奇妙な「硬質化」が始まっている感覚。
琴乃の指先がミシミシと音を立てて硬化し、どす黒い樹皮へと変わっていく。
「……琴乃、もういい。休憩しよう」
背後から、蓮人の声がした。
「ッ……!」
琴乃は心臓が止まるほど驚いた。
見られる。この異形の手を見られるわけにはいかない。
(隠さなきゃ……!)
琴乃は、膝の上に置いてあった厚手の手袋を慌てて掴む。
だが、樹皮のように肥大化し、枯れ木のように硬直した指は、思うように動かない。
ググッ……!
琴乃は焦燥に駆られながら、変形した左手を無理やり手袋の中にねじ込んだ。
ひび割れた皮膚が擦れ、激痛が走る。
「……っぐ」
脂汗が滲むほどの痛みに耐え、なんとか手袋をはめ終えた瞬間、蓮人の手が琴乃の肩に置かれた。
琴乃はビクリと体を震わせ、反射的に手袋をはめた左手を袂(たもと)に隠した。
「……?」
「……へ、平気よ。まだ今日はあと五十本は頑張る」
「平気なものか。顔色が悪いぞ。それにさっきから、左手を庇っているじゃないか」
蓮人は強引に琴乃の手首を掴み、隠していた手を引き出そうとした。手には、厚手の手袋がはめられている。
だが、急いで着けたせいか、指先までしっかり入っておらず、どこか形が歪(いびつ)だった。
「っ!やめて、放して!」
琴乃が悲鳴を上げ、必死に抵抗する。
だが蓮人は手袋の上からその手を強く握った。
「冷たい……!氷みたいじゃないか」
蓮人が眉をひそめる。さらに、手袋越しに伝わる感触に違和感を覚えた。
(……なんだ? 妙にゴツゴツしている。手袋の中で指が曲がっているのか?……酷い霜焼けか、あかぎれで腫れているのか?)
「こんなになるまで……馬鹿野郎。薬を塗って温めるぞ。手袋を外せ」
「い、いや! 見ないで!!」
琴乃は顔面蒼白になった。
今、手袋の中は見るも無惨な状態だ。見られたら終わる。
この「枯れ木のような手」を見られたら、蓮人くんは優しさゆえに、絶対に計画を中止させる。
「見せろって言ってるだろ!」
蓮人が手袋の縁に指をかけ、引き抜こうとする。
無理やりはめた手袋は、肌に張り付いたように外れない。蓮人が力を込める。
手袋の隙間から、どす黒く変色した皮膚が、わずかに覗きそうになり――。
バチンッ!!
乾いた音が、静かな山中に響き渡った。
琴乃が、渾身の力で蓮人の手を振り払い、その反動で彼の頬を張ったのだ。
「……っ」
蓮人が驚いて目を見開く。鳥たちが驚いて飛び立った。
琴乃は、自分の左手を胸に抱きしめ、ガタガタと震えていた。
「……触らないで」
琴乃の声は、拒絶で張り詰めていた。
「ただの手荒れよ。……女として、荒れた手を見られるのは恥ずかしいの。そんな乙女心も分からないの?」
「……は? 俺は心配して……」
「その『心配』が重いのよ! ほっといて!」
琴乃は、心の中で血の涙を流しながら、精一杯の虚勢を張った。
(嫌われなきゃ。……彼に真実(これ)を見せないためには、遠ざけるしかない)
「私は蓮人くんの夢、天宮家の再興を叶えてあげたいだけなのよ!」
「ふざけるな!天宮家も京都も滅びてもいい!お前がボロボロになるくらいなら、俺は世界中を敵に回したっていいんだ!」
蓮人の叫びは悲痛だった。
「復興?名誉?そんなもの、隣にお前がいなきゃゴミクズだ!」
「もう登用試験などどうでもいい。合格などしなくていい!お前がこんなに弱ってまで咲かせる桜など、俺は見たくない!」
「……どうでもよくなどないわ!」
琴乃の瞳には、今まで見せたことのない、暗く激しい炎が宿っていた。
それは狂気にも似た、純粋すぎる愛の炎。
「蓮人くんには分からないわ!ずっと日陰で、誰からも期待されずに生きてきた私の惨めさが、何でもできる蓮人くんに分かるはずがない!」
「何だと……?」
「これは私が決めたことよ!才能もない、力もない落ちこぼれの私が、この世に生きた証を残すにはこれしかないの!」
琴乃の目から大粒の涙が溢れ、苗木の上に落ちた。
「私は、私のためにやるわ。蓮人くんの夢を利用して、私が『生きた証』を残す!」
「……本気で、言ってるのか?」
「ええ!だから邪魔しないで。……同情なんてお断りよ」
その言葉は、鋭利な刃となって蓮人の胸を突き刺した。
蓮人の内側でも、何かがプツリと切れた。
心配が、焦燥が、裏返って冷たい諦めとなる。
蓮人の瞳から、心配の色が消え、冷たい怒りの色が宿った。
彼は、手袋の下にある「真実」を知らないまま、彼女の言葉を額面通りに受け取ってしまった。
「……そうかよ。そんなに死に急ぎたいなら、勝手にしろ」
蓮人の口から出たのは、本心とは真逆の、投げやりな言葉だった。
(言っちまった……)
「俺だって、もううんざりだ。お前のその『悲劇のヒロイン』気取りの自殺行為には、付き合いきれん」
「っ……!」
「好きにすればいい。俺はもう降りる」
琴乃の顔が絶望に歪むのを、蓮人は見ようとしなかった。
琴乃は唇を血が滲むほど噛み締め、背を向けた。
「……さようなら。二度と、私の前に現れないで」
拒絶の言葉と共に、蓮人は走り去っていく。
紅葉の舞う中、蓮人の背中が小さくなっていく。一度も振り返ることなく。
その背中越しに、琴乃はこっそりと手袋を外し、自分の手を見た。
――そこにあるのは、炭化し、樹皮のようにひび割れた異形の手。
『明治京都桜花心中』
かつて二人で笑いながら名付けたその名前が、今は鋭い刃となって胸を刺す。
(……一人で心中なんて、お笑い草だわ。それでも私はやるしかない)
琴乃を残して山を降りていく蓮人。
だが中腹まで降りたところで、蓮人は足を止めた。
拳を木に叩きつけ、振り返る。
そこにはもう、彼女の姿は見えない。けれど蓮人は喉が裂けんばかりに叫んだ。
「お前と二人で見る桜だから、俺にとっては大きな価値があるんだよ……!!!」
蓮人の絶叫は空虚な秋空へと消えた。
追いかけたい、抱きしめたい。その想いさえも、冷たい晩秋の風が凍りつかせていく。
「勝手に自己完結してんじゃねえ!お前がいなくなるなんて……俺は絶対に許さない!認めないぞ!」
今度の絶叫も、誰に届くこともなく晩秋の空にさらわれていった。
春まで、あと四ヶ月。
二人の心は、致命的な秘密を抱えたまま、凍りついてしまった。
11月下旬の深夜。
蓮人に「二度と現れるな」と拒絶し、別れたその日の夜。
琴乃は一人、冷え切った自室の鏡の前に座っていた。
月明かりだけが頼りの薄暗い部屋。
鏡の中に映るのは、17歳の少女の顔ではない。
頬はこけ、目の下にはどす黒いクマが張り付き、唇は紫色に乾いている。
「……また、増えてる」
白髪を抜きながら、琴乃は鏡の中の自分に向かって、弱々しく、けれど鋭く毒を吐いた。
(……はぁ、嫌だわ。17歳で老婆になってたまるもんですか。私が死んだ後に、あの西洋かぶれ女が蓮人くんに色目を使うところを想像しただけでイライラする。
三途の川からクロールで戻ってきて、あいつのドレスに墨汁ぶっかけてやるんだから)
自分の境遇を嘆くより先に、ライバルへの悪態が口をつく。
その「悪態」だけが、今の琴乃にとって、消えゆく命を繋ぎ止める唯一の錨(いかり)だった。
艶やかだった黒髪の中に、老婆のような白髪がまた数本、混じっている。
一本抜くたびに、命が抜け落ちるような痛みが走る。
さらに手袋を外した左手。
指先はすでに炭化したように黒ずみ、皮膚は硬くひび割れ、関節を動かすたびに「ミシッ」と乾いた音がする。
それは人間の手というより、枯れ木の枝に近かった。
(……怖い)
琴乃は鏡の前で、小さく体を丸めた。死ぬことが怖いのではない。
このまま自分が、人間ではない「異形」に変わっていくことが、どうしようもなく恐ろしい。
「……嫌だ。こんな姿、蓮人くんに見られたくない」
琴乃は化粧箱をひっくり返し、白粉(おしろい)を手に取った。
震える手で、荒れた肌を隠すように厚く塗りたくる。
紅をさし、血色のない唇を誤魔化す。
(綺麗でいたい。……最期の瞬間まで、蓮人くんの記憶の中では、可愛い幼馴染のままでいたい)
けれど化粧をすればするほど、鏡の中の自分は「生きた人間」から遠ざかり、安っぽい人形のように見えてくる。
琴乃は化粧筆を投げ出し机に突っ伏した。
ズキリ。
心臓が悲鳴を上げる。能力を使うたびに体の中身が空洞になっていく感覚。
(あと、九百五十本……)
今の自分の体力で、持ちこたえられるだろうか。
桜が咲くのが先か、私の命が尽きるのが先か。
「……会いたいよ、蓮人くん」
誰もいない部屋で、嗚咽が漏れる。
突き放したのは自分だ。嫌われるようなことを言ったのも自分だ。
それでも、今すぐ彼に抱きしめてほしかった。
「大丈夫だ」と、あの温かい手で頭を撫でてほしかった。
(でも、ダメ。……この手を見られたら、彼はきっと優しさで計画を止めてしまう)
(そうしたら、天宮家も九条家も救われない)
これは、愛する人の未来を守るための、孤独な戦い。
「……負けない。私が全部、背負ってあげる」
琴乃は鏡の中の、やつれ果てた自分を睨みつけた。
その瞳に宿る光だけは、死神すらもたじろぐほどに強靭だった。
