明治京都桜花心中~死神令嬢は、没落若君のために一万本の桜を咲かせる~

現世で泥にまみれる天宮蓮人たちが知る由もない時間が、そこには流れていた。  
六道珍皇寺の井戸の底。さらに深く、生者の吐息も届かぬ場所にある閻魔王宮。
朱塗りの広間には、現世の喧騒とは無縁の冷徹な静寂が満ちている。
玉座に深く腰掛けた閻魔大王は、手元の巨大な閻魔帳に筆を走らせていた。
その傍らで六角紫門が胡坐をかき、現世から持ち込んだ一升瓶を直接煽っている。
「……相変わらず、趣味の悪い仕事だ。大王様よ。死んだ人間の名前を並べて、何が面白い」  
紫門が吐き出した紫煙が、空間に浮かぶ彼岸花の幻影を揺らした。閻魔は筆を止めず、冷淡な声で応じる。
「面白い、などと考えたことはない。これは理(ことわり)だ。……
だが、最近は筆を走らせるたび、私の『理(ことわり)』に正体の知れぬノイズが混じる。
不合理な熱量が、絶対であるはずの私の思慮を、わずかに変質させ始めているようだ」
「変質、か。……あの泥だらけのガキどものことかい?」
「……天宮蓮人、そして九条琴乃。あの二人が始めた『祭り』が、死に体だった街の運命の糸を縺(もつ)れさせている」  
閻魔がパチンと指を弾くと、虚空に現世の影が映し出された。
そこには河原で泥だらけの握り飯を食らい、汗にまみれて笑う蓮人と彼を取り囲む京の民たちの姿があった。
「理解できんな」  
閻魔の紅い瞳が、無機質な光を放つ。
「合理的に考えれば、あの街を救うのは財前や伊集院の『力』だ。だが、民衆の心臓を動かしているのは天宮の吐く不確かな『言葉』に過ぎん。
人間とは、これほどまでに脆いものに全精力を傾けるのか」
「ククッ……。それが人間って生き物の『業』だよ。大王。理屈じゃねえんだ」  
紫門は自嘲気味に笑い、空になった盃を弄んだ。
「どん底にいる奴が一番欲しいのは、金でも鉄道でもねえ。自分たちと同じ地べたに這いつくばって『まだいける』って笑ってみせる大馬鹿野郎の背中なんだよ。
……あの小僧を見てると、嫌でも思い出すぜ。六十六年前、あんたが下した『あの審判』をな」
閻魔の筆が、わずかに止まった。
「……第三十五代目の現世救済官。九条隆仁のことか」
「ああ。あの人も、今の蓮人みたいに人を巻き込むのが上手かった。……だが、致命的に優しすぎたんだ。
現世救済官ってのは、時に冷酷な審判を下さなきゃならねえ。だが、あの人は……」
紫門は煙管(きせる)の吸い殻をトントンと叩き落とし、宙を見つめる。
「……結果、九条の家は今のザマだ。あんたの加護も、あの日を境に途絶えた。……だが俺にはあの人を笑うことだけはできねえよ」
「……下らぬな」  
閻魔の筆が、再び冷淡に紙を滑る。
「地に堕ちたのは、彼が自ら願ったことだ。……
そして時を超え、かつて隆仁が残した火種が、今こうして天宮蓮人という形をとって九条の娘の前に現れている。これを皮肉と言わずになんと言う」
「……まったくだ。胸クソ悪い脚本だぜ」  
紫門は再び徳利を取り、ぐいと喉を鳴らした。
「……それで今回の登用試験。あんたはどう見る? 琴乃ちゃんはあの『命刻輪廻の掌握』を使いすぎている。
最近、あのお嬢ちゃんから漂う匂いに……あんたも気づいてるんだろ?」
紫門の声が低く沈む。
「あれは枯れ果てた古木の、死臭に近い。あのお嬢ちゃん、一万本の桜と引き換えに、自分の時計の針を無理やり回しきっちまうつもりだぜ」
閻魔は答えなかった。ただその手元の筆が、九条琴乃の名前の横に小さく不吉な印をつけた。
「……足掻かせてみよう。一万本の桜が咲き誇るのが先か、それとも彼女という『器』が砂のように崩れ落ちるのが先か。……それもまた、一つの変革だ」
閻魔の言葉は重い沈黙となって広間に沈み込み、空間に漂う彼岸花を赤黒く染め上げた。
人知を超えた冷徹な審判は、井戸の底から現世へと立ち昇り、やがて湿度を帯びた京の夜気へと溶け込んでいく。

数日後の夜。冥界の冷気とは対照的に、夜の祇園は、湿った夏の空気に包まれていた。
一見さんお断りの格式ある茶屋『紅月』の奥座敷で、三味線の音が静かに響いていた。
花山院雅房と六角紫門の二人が、芸妓の舞を見ながら酒を酌み交わしている。
「……聞いているよな、花山院の旦那。あの阿呆な天宮と九条、他の学生や市民まで巻き込んで大騒ぎしておるらしいぞ。
昨日は堤防で泥まみれの握り飯を食っていたそうだ」
「握り飯まで差し入れられておるとはな。……ふふ」
花山院は冷ややかな表情を崩さないが、その瞳はどこか楽しげだった。
「彼らの『無謀』が一種の祭りとして認識されたんですね。……悪くはない。理屈で動かそうとしても、京の民は動きませんからな」
花山院は窓の外、静まり返った花街を見下ろした。
「文明開化という美名の下、騒がしいだけのこの街に必要なのは鉄の音ではなく、こういう『熱気』です。
……ですが、紫門さん。この熱は、もはや単なる若者の無謀では済まされぬ段階に入っているようですな」
「あん?」
「財前くんや伊集院さんは、完璧な『合理』と『力』で街を塗り替えようとしています。
本来、天宮くんのような持たざる者が太刀打ちできる相手ではない。……しかし、どうやら計算が狂い始めているのは彼らの方だ」
花山院は、遠くでかすかに響く民衆の笑い声に耳を澄ませた。
「天宮くんの泥臭い『情緒』……あのあまりに不合理で、烈しい熱量が、財前くんたちが築き上げた緻密な計画を、今や影も形もなく飲み込もうとしている。
正論や理屈が、彼のハッタリという名の『奇跡』に侵食され、塗り替えられていく。……彼こそが、京都の既存の秩序(ルール)を壊す最大の毒であり、薬ですな」
「ククッ……。理詰めじゃ勝てねえバケモンになりかけてるってか。計算ずくの正論を泥だらけのハッタリ一発でひっくり返しちまう……」
「ええ。彼らにとって、これほど不気味で魅力的な好敵手はいないでしょう。……さあ、いよいよ面白くなってきましたな」
紫門は盃を置き、夜空に浮かぶ、不気味なほど赤い月を見上げた。
「けどあの二人は、まだ分かってねえ。もしかしたら天宮自身もか。天宮が何を賭けているのか。
……いや、九条のお嬢ちゃんが、何を削っているのかをな。咲かせてもらおうか。彼らの命を懸けた、一世一代の桜を。
それが京都を救う『奇跡』になるか、すべてを灰にする『呪い』になるか……。判定を下すのは、俺じゃねえ。あの地獄の王様だ」
遠くで三味線の音が止み、祇園の夜が深い静寂に飲み込まれていく。
不気味に赤く輝く月だけが、これから訪れる「奇跡」か「呪い」の序章を冷ややかに見守り続けていた。

翌日の昼。平安院学舎の校長室。  
蓮人、琴乃、財前、エリザ、烏丸、白川の六名が呼び出されていた。  
校長の花山院が、静かに紅茶を飲んでいる。
その隣では、紫門が徳利を片手に酒を飲んでいた。
「今日は、いったいどんな話が?」
「……忙しい。早く用件を言ってくれ」
「私もよ。午後はフランス公使との会食があるの」  
財前とエリザが不満げに言う。
「まあまあ、そう急かさないでくれたまえ」  
花山院が微笑む。
紫門が、ギラリとした目で六人を見渡した。
「よう、若人(わこうど)たち。元気か?」
「登用試験対策は順調か?今日はおまえらに連絡事項がある」
紫門の目が、楽しそうに光る。