6月の円山公園。
初夏特有の湿った空気が、夜の闇に重く立ち込めていた。
公園の隅に三つの影があった。蓮人、琴乃、そして源蔵だ。
彼らの足元には、リヤカーいっぱいに積まれた桜の苗木と、泥にまみれた土木道具が置かれている。
「さあ、今日からたった三人で一万本の植樹の開始じゃ」
源蔵が手ぬぐいを頭に巻き直した。
その瞳は、昼間の濁った色ではなく、職人の鋭い光を放っている。
「おぬしら、気合を入れろよ。……途方もない数じゃぞ」
「……はい!」
「がんばります!」
二人は声を揃えた。源蔵の指導のもと、黙々と作業が始まる。
蓮人が固い地面に鍬を振るい、琴乃が苗木を運び、源蔵が絶妙な手つきで植えて土を被せる。
ザッ、ザッ、という土を掘る音だけが、静寂に響く。
ふと、蓮人が手を止めた。公園の中央を見つめる。
そこには、巨大な「祇園しだれ桜」が、青々とした葉を茂らせて佇んでいた。
闇夜に浮かぶその姿は、まるでこの公園の主のようだ。
「この見事な一本。……素晴らしいよな」
「うん。春になると、この桜は本当に綺麗よね」
琴乃も作業の手を休め、見上げた。
「この枝垂れ桜、私たちが小さい頃から、すでにあったよね」
「源蔵さん、この枝垂れ桜は、いつからここにあるんですか?」
源蔵は土を被せ終え、腰を伸ばした。
「そうじゃな。……この枝垂れ桜は、わしが生まれた頃にも、すでにここにあった」
源蔵は愛おしそうに、老木の幹を撫でた。
その手つきは、昔の恋人に触れるように優しい。
「この木の『記憶(じかん)』に比べれば、わしらの人生など、ほんの一瞬よ。
……だからこそ、わしらは次の世代に繋ぐ木を植えねばならんのじゃ」
その言葉の重みに、蓮人と琴乃は改めて巨木の存在感に圧倒された。
自分たちが植えているのは、ただの木ではない。これから紡がれる「歴史」そのものなのだ。
数日後の昼。平安院学舎の教室。
夏の日差しが容赦なく照りつける中、漢文の講義が行われていた。
教室の後ろの席で、蓮人は机に突っ伏し、完全に熟睡していた。
教科書には涎(よだれ)の染みが広がっている。
「……おい天宮、起きろ。……次は漢文だぞ」
隣の席の鷹司徹(たかつかさ とおる)が、呆れた顔で蓮人の肩を揺すった。
鷹司は老舗商家の跡取り息子で、蓮人とは入学以来の腐れ縁だ。
「……はっ!」
蓮人が飛び起きた。寝ぼけ眼をこする。
「……すまん。昨日、ちと遅くてな」
「内職か?にしちゃあ、随分と野良仕事のような汚れ方だな」
鷹司が、蓮人の学ランの袖口を指差した。
そこには洗っても落ちきらなかった乾いた泥が付着している。
「……ああ。今日も早朝から、働いてきた」
「天宮、君は毎日、何をやってるんだ?」
鷹司が怪訝そうに尋ねる。
蓮人は人差し指を口元にあて、ニヤリと笑った。
「……内緒だ。まあ、来年の春を楽しみにしていろ」
そう言い残すと、蓮人はまた机に突っ伏し、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。
鷹司はため息をつき、首を横に振った。
放課後。校門前。蓮人と琴乃が並んで校門を出て行く。
そのすぐ後を、鷹司と他の学友たち(計五名)が、こっそりと尾行していた。
「あいつら、絶対何か隠してるぞ」
「徳川の埋蔵金でも掘ってるんじゃないか?」
好奇心と、少しの心配。彼らは二人の後を追った。
鴨川の堤防。夕暮れ時。
源蔵が先に到着し、道具を並べていた。
蓮人は学ランを脱ぎ捨て、肌着一枚になった。
その身体には、連日の重労働でうっすらと筋肉がついている。
「よっしゃ!やるぞ!」
蓮人が勢いよく鍬を振るう。
琴乃も、着物の上にモンペを履き、手ぬぐいを被って苗木を運ぶ。
旧家の令嬢とは思えない姿だが、その目は真剣そのものだ。
泥だらけになりながら、一心不乱に作業を続ける二人。
ふと、琴乃が立ちくらみを起こしてよろめいた。
「……っ」
「琴乃、大丈夫か?少し休むか?」
蓮人が心配そうに声をかける。琴乃はパッと顔を上げ、笑顔を作った。
「平気!ちょっと草鞋(わらじ)の紐が緩んだだけ」
「ならいいけど……無理すんなよ」
蓮人が作業に戻るのを見て、琴乃は小さく安堵のため息をついた。
(あと少し……あと少しだけもって、私の体)
「……ふぅ。あと、此処だけでも五十本か……」
蓮人が腰を伸ばし、手のひらの豆を気にした時だった。
「よう。天宮」
土手の上から声がかかった。蓮人が振り返ると、逆光の中に学ラン姿の鷹司たちが立っていた。
「鷹司……!おまえら……何故ここに」
「此処でお前らが『徳川の埋蔵金』を掘ってるって噂、誠(まこと)だったんだな」
鷹司が土手を降りてくる。他の四人も続く。
「天宮、お前が講義中に寝言で『あと九千本……』などとうなされておれば、誰だって気にもなるさ」
「……聞かれてたのか」
「で? 本当に何をやっている?『人生の墓穴』を掘り始めたのかと思ったぞ」
鷹司が、掘りかけの穴を覗き込む。
そこにあるのは、何の変哲もない苗木だ。
「……そんなものではない」
蓮人は鍬を握り直し、鷹司を真っ直ぐに見据えた。
「俺たちは、ただ京都市中を桜で埋め尽くしたいんだ。名付けて明治京都桜花心中」
「だから、桜の苗木を植えているの」
琴乃も言葉を添える。
「……明治京都桜花心中?」
鷹司が、蓮人の口から出たその名前に面食らったような声を上げた。
「何だその不吉な名前は。……心中だと?」
「ああ。これはただの植樹じゃねえ、これは俺とこいつの、そしてこの街の『命』を賭けた心中だ」
蓮人は泥だらけの鍬を肩に担ぎ、夕闇の中で歯を見せて笑った。
「もっとも、地獄にまでこの『心中』を売りつけて、京都の再興を勝ち取るっていう、最高に悪趣味な商談(ビジネス)だけどな」
鷹司は一瞬、呆気に取られたように目を丸くしたが、やがて愉快そうに喉を鳴らした。
「ハッ、ビジネスだと? お前、没落して頭までイカれたか。だが、その『悪趣味』、商家の倅(せがれ)としては嫌いじゃないぜ」
蓮人は鼻で笑い、泥にまみれた腕で額の汗を乱暴に拭った。
その瞳には、かつての『若き当主』の傲慢さと、地べたを這いずり回る執念が混ざり合っている。
「徳川の金なんて掘り当てたって、都は救えねえ。……俺たちはな、この一万本の桜で、地獄の王様も、東京へ逃げた腰抜け共も、まとめて全員見返してやるんだよ。」
二人の真剣な眼差し。そこには一点の曇りも、ふざけた色もなかった。
「馬鹿な」と笑い飛ばすつもりだった鷹司は、一瞬言葉を詰まらせた。
蓮人の目の奥にある熱意に、圧倒されたのだ。
「……ふん」
鷹司は学生鞄を放り出した。
「それはいいじゃないか……仕方がないのう」
「え?」
「見ろ、そのへっぴり腰。見ていて癇(かん)に障る」
「何?」
「手伝うと言っておるのだ。……報酬は、その埋蔵金が見つかったら山分けということでな」
鷹司は蓮人の手から鍬を奪い取った。
「見本を見せてやる。……おりゃ!」
鷹司が、乱暴だが力強く土を掘り始めた。
「え……?」
琴乃が驚いて目を丸くしていると、他の四人も照れくさそうに腕まくりをした。
「名門・九条家の令嬢に力仕事をさせていたとあっては、我々、京の学生の名折れだからな」
「仕方ない。俺も手伝うよ。……運動不足解消だ」
彼らはブツブツと言いながらも、楽しそうに作業に加わった。
蓮人と琴乃は顔を見合わせ、嬉しそうに微笑んだ。
二人だけだった世界が、少しだけ広がった瞬間だった。
6月の刺すような日差しが、鴨川の河原を白く焼いていた。
作業開始から数週間。
天宮蓮人の姿は、平安院学舎のスマートなエリート学生のそれとはほど遠かった。
学ランは脱ぎ捨てられ、泥と汗で変色した肌着一枚。
爪の間には黒い土が入り込み、手のひらは幾重ものマメが潰れては固まり、爬虫類の皮膚のような質感になっていた。
「……ケッ。没落貴族の泥遊びが、まだ続いてやがるか」
土手の上から、吐き捨てるような声を投げかける男がいた。
四条大路で代々続く乾物問屋の主、重助(しげすけ)だ。
彼は帝が東京へ去り、馴染みの公家たちが次々と都を捨て、
かつての上客たちが消えていく様を、この河原から苦々しく見送ってきた男だった。
「おい、天宮の坊主!そんな枯れ木を植えて何になる。桜が咲く頃にゃ、この街にはネズミとカラスしか残っちゃいねえぞ。
知らねえのか? 昨日も隣の織物屋が夜逃げした。京はもう、魂の抜けた死体なんだよ」
蓮人は鍬(くわ)を振るう手を止め、腕で額の汗を拭いながら見上げた。
「重助さん。死んだ街に葬式を出すより、祝杯を挙げる準備をする方が景気がいいだろ?
この桜が満開になれば、逃げ出した連中も『失敗した!』って悔しがって戻ってくる。俺のハッタリは、そういう計画なんだ」
「ハッ、おめでたい頭だ。お前の親父もそうやって見栄を張り、中身のないハッタリばかり抜かして、結局家を潰したんじゃねえのか。
血は争えねえな。……無駄な足掻きはやめて、さっさと東京へでも失せろ」
心無い言葉に、手伝っていた鷹司たちが色めき立つ。
「おい、言い過ぎだぞ!」
だが、蓮人はそれを手で制した。怒る気力もないほどに疲弊していたからではない。
重助の目に宿る、諦めという名の深い、澱(よど)んだ悲しみを知っていたからだ。
「……ああ、親父はハッタリで失敗した。だから俺が本物にする。……重助さん、あんたも『昔の京は良かった』なんて愚痴を酒の肴にするのは、もう飽きただろ。
俺と一緒に、新しい伝説の共犯者にならねえか?この『明治京都桜花心中』、あんたの意地も一枚乗せてくれよ」
蓮人はニヤリと不敵に笑うと、再び黙々と土を掘り始めた。
その泥まみれの背中は、かつて名門・天宮家の嫡男として、誰よりも気高く京の街を愛していた蓮人の父の姿に不思議と重なって見えた。
その日の夕暮れ。作業を終えようとしていた蓮人と琴乃の前に小さな影が駆け寄ってきた。
「先生! 蓮人先生!」
かつて寺子屋で教えた少年、サクだ。手にはボロ布に包んだ、温かな何かを持っている。
「サク! どうした、またこっそり抜け出してきて……」
「これ、母ちゃんが……内緒で。昨日、先生たちが夜遅くまで植えてたからって」
差し出されたのは小さく不格好に握られた二つの握り飯だった。
「……ありがとう、サク。でもいいのか? 父ちゃんに見つかったら」
琴乃が心配そうに少年の頭を撫でる。サクの家庭も元・士族だが今は日雇いの人足として食いつないでいた。
父の権吉は、学問や芸術といった「腹の足しにならないもの」を心の底から憎んでいる。
「おい、サク!何をしてやがる!」
案の定、土手の向こうから、地鳴りのような怒声が響いた。
サクの父、権吉だ。彼は血走った目で河原へ駆け下りると、サクの手から強引に握り飯を奪い取った。
「貴様ら……! まだ息子をたぶらかす気か!字だの、桜だの……そんなもんで明日の飯が買えるのか!?俺たちが今、どんな思いで生きてるか分かってんのか!」
「権吉さん、落ち着いてください。私たちはただ……」
琴乃が庇おうとするが、権吉の焦燥は限界に達していた。
「黙れ!九条の令嬢だろうが関係ねえ!俺たちはな、今日、食うものにも困ってんだ!
たくさんの人間がこの街を捨てた。次は俺たちの番だ。この街ごと、ドブに捨てられるのを待つだけなんだよ!
それを……お前らみたいな、苦労を知らねえガキが、綺麗事で夢を見せて……! 一番残酷なのはお前らだ!!」
権吉は奪った握り飯を、力任せに地面に叩きつけた。
ベチャッ、という鈍い音。泥にまみれ、無惨に砕ける白い米粒。
サクが悲鳴のような泣き声を上げる。静まり返る河原にサクの嗚咽だけが響いた。
蓮人は、その泥だらけになった握り飯を、無言で拾い上げた。
「……泥を払えば、まだ食える」
蓮人は、泥のついた米を迷わず口に放り込んだ。
五年前、父が蒸発し、借金取りに屋敷を追い出された夜。
雨の路地裏で、誰かが落とした食べ物を泥水の中から拾って琴乃と分けた、あの夜の味に比べれば――。
人々の期待と祈りがこもったこの握り飯は、どんな料亭の料理よりも「天宮蓮人」という男の誇りを震わせた。
砂を噛む感触。それが、蓮人にとっては「現実を生きる」ための確かな手応えだった。
ジャリ、という嫌な音が耳元で鳴ったが、彼は表情一つ変えず、ゆっくりと噛み締め、飲み込んだ。
「権吉さん。あんたの言う通りだ。桜じゃ腹は膨れないし、明日の税金も払えない。……
でもな、希望がなきゃ、人間は今日を生き抜く力も湧いてこないんだよ。俺は知ってる。腹が減るより辛いのは、希望を失うことだってな」
蓮人は、泥のついた口元を腕で拭い、権吉の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺は没落した。家も、金も、プライドも全部ドブに捨てた。……でもな、琴乃だけは俺のハッタリを信じてくれた。
……だから俺は、あんたたちを『見捨てられる側』になんかさせない。この一万本の桜を餌にして、日本中、いや世界中の金持ちを京都に呼び戻してやる。
それが俺の、この街に対する『復興計画』の全貌だ」
権吉の拳が、小刻みに震える。
「……できるわけがねえ。そんな、お伽話……」
「お伽話かどうか、来年の春まで見ててくれ。あんたの息子が『サク』って名前を、誰よりも誇らしげに書けるような、そんな京に戻してみせる」
蓮人の声には、かつての「血筋だけの貧乏人」の悲哀はなかった。
そこには、一つの街の命運を背負う、閻魔王宮現世救済官としての覚悟が宿っていた。
その夜。京都の空を見たこともないような黒雲が覆った。
激しい雷鳴と共に、滝のような豪雨が降り始める。
せっかく植えたばかりの苗木が、土砂崩れで流されるのではないか――。
不安で眠れなかった蓮人と琴乃が夜明けと共に堤防へ駆けつけると、そこには信じられない光景があった。
ずぶ濡れになりながら、土嚢(どのう)を積み、必死に斜面を補強している男たちがいた。
先頭に立って指揮を執っていたのは、あの乾物屋の重助だった。
「……重助さん!? どうして」
「勘違いすんじゃねえぞ、天宮の坊主。この雨で堤防が決壊したら、うちの蔵まで浸かるからやってんだ」
重助はぶっきらぼうにそっぽを向いたが、彼が運んできた大八車には、土嚢だけでなく、上等な腐葉土と、暴風から木を守るための竹支柱が山ほど積まれていた。
「……おい、お前ら!学生さんにいつまで汚い仕事をさせてんだ!京の男なら、もっと腰を入れて泥を掻かんか!」
堤防の下から響いたのは、人足仲間を連れた権吉の声だった。
彼はサクを傍らに立たせ、十数名の屈強な職人たちを引き連れて現れた。
「蓮人先生! 父ちゃん『俺たちも京都の英雄になる』って!」
サクが誇らしげに叫ぶ。権吉はバツが悪そうに鼻をかみ、蓮人にだけ聞こえる声で呟いた。
「泥だらけの握り飯を、笑って食うような奴は、嘘を吐かねえ。坊主、そのハッタリ、俺も一枚噛ませろ。京都の底力、ナメんじゃねえぞ」
その瞬間、何かが変わった。単に「没落組」を眺めていた京の街から、冷え切った沈黙が消えた。
代わりに出現したのは、かつて千年の栄華を支えた、人々の意地と熱量だった。
「おーい! 炊き出しの粥(かゆ)ができたぞー!」
「こっちの苗木、俺が運ぶわ!若いもんには負けられん!」
最初は数人の学友だけだった輪が、三十人、五十人と膨らんでいく。
商店主が、人足が、芸妓が、そしてかつて彼らを「過去の遺物」と嘲笑した通行人までもが、泥にまみれて、けれど今日を生きる喜びを感じて笑っていた。
琴乃は、その光景を涙を堪えながら見守っていた。
(……蓮人くん。あなたの「話術」は、もうハッタリなんかじゃないわ)
(みんなが、京を、あなたを……自分たちの未来を信じ始めてる)
熱狂の中で、一万本の植樹はこれまでにない速度で進んでいく。
死を待つだけだった街が、一人の少年と一人の少女の「逆転劇」を現実にするために、魂を一つに重ねた瞬間だった。
(……この熱。これなら勝てる。閻魔の想定を余裕で超えてやる!)
蓮人は額の泥を拭い、拳を高く突き上げた。
かつて教室の隅で「空気」だった二人の周りには、今や数え切れないほどの命を共にする仲間がいた。
初夏特有の湿った空気が、夜の闇に重く立ち込めていた。
公園の隅に三つの影があった。蓮人、琴乃、そして源蔵だ。
彼らの足元には、リヤカーいっぱいに積まれた桜の苗木と、泥にまみれた土木道具が置かれている。
「さあ、今日からたった三人で一万本の植樹の開始じゃ」
源蔵が手ぬぐいを頭に巻き直した。
その瞳は、昼間の濁った色ではなく、職人の鋭い光を放っている。
「おぬしら、気合を入れろよ。……途方もない数じゃぞ」
「……はい!」
「がんばります!」
二人は声を揃えた。源蔵の指導のもと、黙々と作業が始まる。
蓮人が固い地面に鍬を振るい、琴乃が苗木を運び、源蔵が絶妙な手つきで植えて土を被せる。
ザッ、ザッ、という土を掘る音だけが、静寂に響く。
ふと、蓮人が手を止めた。公園の中央を見つめる。
そこには、巨大な「祇園しだれ桜」が、青々とした葉を茂らせて佇んでいた。
闇夜に浮かぶその姿は、まるでこの公園の主のようだ。
「この見事な一本。……素晴らしいよな」
「うん。春になると、この桜は本当に綺麗よね」
琴乃も作業の手を休め、見上げた。
「この枝垂れ桜、私たちが小さい頃から、すでにあったよね」
「源蔵さん、この枝垂れ桜は、いつからここにあるんですか?」
源蔵は土を被せ終え、腰を伸ばした。
「そうじゃな。……この枝垂れ桜は、わしが生まれた頃にも、すでにここにあった」
源蔵は愛おしそうに、老木の幹を撫でた。
その手つきは、昔の恋人に触れるように優しい。
「この木の『記憶(じかん)』に比べれば、わしらの人生など、ほんの一瞬よ。
……だからこそ、わしらは次の世代に繋ぐ木を植えねばならんのじゃ」
その言葉の重みに、蓮人と琴乃は改めて巨木の存在感に圧倒された。
自分たちが植えているのは、ただの木ではない。これから紡がれる「歴史」そのものなのだ。
数日後の昼。平安院学舎の教室。
夏の日差しが容赦なく照りつける中、漢文の講義が行われていた。
教室の後ろの席で、蓮人は机に突っ伏し、完全に熟睡していた。
教科書には涎(よだれ)の染みが広がっている。
「……おい天宮、起きろ。……次は漢文だぞ」
隣の席の鷹司徹(たかつかさ とおる)が、呆れた顔で蓮人の肩を揺すった。
鷹司は老舗商家の跡取り息子で、蓮人とは入学以来の腐れ縁だ。
「……はっ!」
蓮人が飛び起きた。寝ぼけ眼をこする。
「……すまん。昨日、ちと遅くてな」
「内職か?にしちゃあ、随分と野良仕事のような汚れ方だな」
鷹司が、蓮人の学ランの袖口を指差した。
そこには洗っても落ちきらなかった乾いた泥が付着している。
「……ああ。今日も早朝から、働いてきた」
「天宮、君は毎日、何をやってるんだ?」
鷹司が怪訝そうに尋ねる。
蓮人は人差し指を口元にあて、ニヤリと笑った。
「……内緒だ。まあ、来年の春を楽しみにしていろ」
そう言い残すと、蓮人はまた机に突っ伏し、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。
鷹司はため息をつき、首を横に振った。
放課後。校門前。蓮人と琴乃が並んで校門を出て行く。
そのすぐ後を、鷹司と他の学友たち(計五名)が、こっそりと尾行していた。
「あいつら、絶対何か隠してるぞ」
「徳川の埋蔵金でも掘ってるんじゃないか?」
好奇心と、少しの心配。彼らは二人の後を追った。
鴨川の堤防。夕暮れ時。
源蔵が先に到着し、道具を並べていた。
蓮人は学ランを脱ぎ捨て、肌着一枚になった。
その身体には、連日の重労働でうっすらと筋肉がついている。
「よっしゃ!やるぞ!」
蓮人が勢いよく鍬を振るう。
琴乃も、着物の上にモンペを履き、手ぬぐいを被って苗木を運ぶ。
旧家の令嬢とは思えない姿だが、その目は真剣そのものだ。
泥だらけになりながら、一心不乱に作業を続ける二人。
ふと、琴乃が立ちくらみを起こしてよろめいた。
「……っ」
「琴乃、大丈夫か?少し休むか?」
蓮人が心配そうに声をかける。琴乃はパッと顔を上げ、笑顔を作った。
「平気!ちょっと草鞋(わらじ)の紐が緩んだだけ」
「ならいいけど……無理すんなよ」
蓮人が作業に戻るのを見て、琴乃は小さく安堵のため息をついた。
(あと少し……あと少しだけもって、私の体)
「……ふぅ。あと、此処だけでも五十本か……」
蓮人が腰を伸ばし、手のひらの豆を気にした時だった。
「よう。天宮」
土手の上から声がかかった。蓮人が振り返ると、逆光の中に学ラン姿の鷹司たちが立っていた。
「鷹司……!おまえら……何故ここに」
「此処でお前らが『徳川の埋蔵金』を掘ってるって噂、誠(まこと)だったんだな」
鷹司が土手を降りてくる。他の四人も続く。
「天宮、お前が講義中に寝言で『あと九千本……』などとうなされておれば、誰だって気にもなるさ」
「……聞かれてたのか」
「で? 本当に何をやっている?『人生の墓穴』を掘り始めたのかと思ったぞ」
鷹司が、掘りかけの穴を覗き込む。
そこにあるのは、何の変哲もない苗木だ。
「……そんなものではない」
蓮人は鍬を握り直し、鷹司を真っ直ぐに見据えた。
「俺たちは、ただ京都市中を桜で埋め尽くしたいんだ。名付けて明治京都桜花心中」
「だから、桜の苗木を植えているの」
琴乃も言葉を添える。
「……明治京都桜花心中?」
鷹司が、蓮人の口から出たその名前に面食らったような声を上げた。
「何だその不吉な名前は。……心中だと?」
「ああ。これはただの植樹じゃねえ、これは俺とこいつの、そしてこの街の『命』を賭けた心中だ」
蓮人は泥だらけの鍬を肩に担ぎ、夕闇の中で歯を見せて笑った。
「もっとも、地獄にまでこの『心中』を売りつけて、京都の再興を勝ち取るっていう、最高に悪趣味な商談(ビジネス)だけどな」
鷹司は一瞬、呆気に取られたように目を丸くしたが、やがて愉快そうに喉を鳴らした。
「ハッ、ビジネスだと? お前、没落して頭までイカれたか。だが、その『悪趣味』、商家の倅(せがれ)としては嫌いじゃないぜ」
蓮人は鼻で笑い、泥にまみれた腕で額の汗を乱暴に拭った。
その瞳には、かつての『若き当主』の傲慢さと、地べたを這いずり回る執念が混ざり合っている。
「徳川の金なんて掘り当てたって、都は救えねえ。……俺たちはな、この一万本の桜で、地獄の王様も、東京へ逃げた腰抜け共も、まとめて全員見返してやるんだよ。」
二人の真剣な眼差し。そこには一点の曇りも、ふざけた色もなかった。
「馬鹿な」と笑い飛ばすつもりだった鷹司は、一瞬言葉を詰まらせた。
蓮人の目の奥にある熱意に、圧倒されたのだ。
「……ふん」
鷹司は学生鞄を放り出した。
「それはいいじゃないか……仕方がないのう」
「え?」
「見ろ、そのへっぴり腰。見ていて癇(かん)に障る」
「何?」
「手伝うと言っておるのだ。……報酬は、その埋蔵金が見つかったら山分けということでな」
鷹司は蓮人の手から鍬を奪い取った。
「見本を見せてやる。……おりゃ!」
鷹司が、乱暴だが力強く土を掘り始めた。
「え……?」
琴乃が驚いて目を丸くしていると、他の四人も照れくさそうに腕まくりをした。
「名門・九条家の令嬢に力仕事をさせていたとあっては、我々、京の学生の名折れだからな」
「仕方ない。俺も手伝うよ。……運動不足解消だ」
彼らはブツブツと言いながらも、楽しそうに作業に加わった。
蓮人と琴乃は顔を見合わせ、嬉しそうに微笑んだ。
二人だけだった世界が、少しだけ広がった瞬間だった。
6月の刺すような日差しが、鴨川の河原を白く焼いていた。
作業開始から数週間。
天宮蓮人の姿は、平安院学舎のスマートなエリート学生のそれとはほど遠かった。
学ランは脱ぎ捨てられ、泥と汗で変色した肌着一枚。
爪の間には黒い土が入り込み、手のひらは幾重ものマメが潰れては固まり、爬虫類の皮膚のような質感になっていた。
「……ケッ。没落貴族の泥遊びが、まだ続いてやがるか」
土手の上から、吐き捨てるような声を投げかける男がいた。
四条大路で代々続く乾物問屋の主、重助(しげすけ)だ。
彼は帝が東京へ去り、馴染みの公家たちが次々と都を捨て、
かつての上客たちが消えていく様を、この河原から苦々しく見送ってきた男だった。
「おい、天宮の坊主!そんな枯れ木を植えて何になる。桜が咲く頃にゃ、この街にはネズミとカラスしか残っちゃいねえぞ。
知らねえのか? 昨日も隣の織物屋が夜逃げした。京はもう、魂の抜けた死体なんだよ」
蓮人は鍬(くわ)を振るう手を止め、腕で額の汗を拭いながら見上げた。
「重助さん。死んだ街に葬式を出すより、祝杯を挙げる準備をする方が景気がいいだろ?
この桜が満開になれば、逃げ出した連中も『失敗した!』って悔しがって戻ってくる。俺のハッタリは、そういう計画なんだ」
「ハッ、おめでたい頭だ。お前の親父もそうやって見栄を張り、中身のないハッタリばかり抜かして、結局家を潰したんじゃねえのか。
血は争えねえな。……無駄な足掻きはやめて、さっさと東京へでも失せろ」
心無い言葉に、手伝っていた鷹司たちが色めき立つ。
「おい、言い過ぎだぞ!」
だが、蓮人はそれを手で制した。怒る気力もないほどに疲弊していたからではない。
重助の目に宿る、諦めという名の深い、澱(よど)んだ悲しみを知っていたからだ。
「……ああ、親父はハッタリで失敗した。だから俺が本物にする。……重助さん、あんたも『昔の京は良かった』なんて愚痴を酒の肴にするのは、もう飽きただろ。
俺と一緒に、新しい伝説の共犯者にならねえか?この『明治京都桜花心中』、あんたの意地も一枚乗せてくれよ」
蓮人はニヤリと不敵に笑うと、再び黙々と土を掘り始めた。
その泥まみれの背中は、かつて名門・天宮家の嫡男として、誰よりも気高く京の街を愛していた蓮人の父の姿に不思議と重なって見えた。
その日の夕暮れ。作業を終えようとしていた蓮人と琴乃の前に小さな影が駆け寄ってきた。
「先生! 蓮人先生!」
かつて寺子屋で教えた少年、サクだ。手にはボロ布に包んだ、温かな何かを持っている。
「サク! どうした、またこっそり抜け出してきて……」
「これ、母ちゃんが……内緒で。昨日、先生たちが夜遅くまで植えてたからって」
差し出されたのは小さく不格好に握られた二つの握り飯だった。
「……ありがとう、サク。でもいいのか? 父ちゃんに見つかったら」
琴乃が心配そうに少年の頭を撫でる。サクの家庭も元・士族だが今は日雇いの人足として食いつないでいた。
父の権吉は、学問や芸術といった「腹の足しにならないもの」を心の底から憎んでいる。
「おい、サク!何をしてやがる!」
案の定、土手の向こうから、地鳴りのような怒声が響いた。
サクの父、権吉だ。彼は血走った目で河原へ駆け下りると、サクの手から強引に握り飯を奪い取った。
「貴様ら……! まだ息子をたぶらかす気か!字だの、桜だの……そんなもんで明日の飯が買えるのか!?俺たちが今、どんな思いで生きてるか分かってんのか!」
「権吉さん、落ち着いてください。私たちはただ……」
琴乃が庇おうとするが、権吉の焦燥は限界に達していた。
「黙れ!九条の令嬢だろうが関係ねえ!俺たちはな、今日、食うものにも困ってんだ!
たくさんの人間がこの街を捨てた。次は俺たちの番だ。この街ごと、ドブに捨てられるのを待つだけなんだよ!
それを……お前らみたいな、苦労を知らねえガキが、綺麗事で夢を見せて……! 一番残酷なのはお前らだ!!」
権吉は奪った握り飯を、力任せに地面に叩きつけた。
ベチャッ、という鈍い音。泥にまみれ、無惨に砕ける白い米粒。
サクが悲鳴のような泣き声を上げる。静まり返る河原にサクの嗚咽だけが響いた。
蓮人は、その泥だらけになった握り飯を、無言で拾い上げた。
「……泥を払えば、まだ食える」
蓮人は、泥のついた米を迷わず口に放り込んだ。
五年前、父が蒸発し、借金取りに屋敷を追い出された夜。
雨の路地裏で、誰かが落とした食べ物を泥水の中から拾って琴乃と分けた、あの夜の味に比べれば――。
人々の期待と祈りがこもったこの握り飯は、どんな料亭の料理よりも「天宮蓮人」という男の誇りを震わせた。
砂を噛む感触。それが、蓮人にとっては「現実を生きる」ための確かな手応えだった。
ジャリ、という嫌な音が耳元で鳴ったが、彼は表情一つ変えず、ゆっくりと噛み締め、飲み込んだ。
「権吉さん。あんたの言う通りだ。桜じゃ腹は膨れないし、明日の税金も払えない。……
でもな、希望がなきゃ、人間は今日を生き抜く力も湧いてこないんだよ。俺は知ってる。腹が減るより辛いのは、希望を失うことだってな」
蓮人は、泥のついた口元を腕で拭い、権吉の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺は没落した。家も、金も、プライドも全部ドブに捨てた。……でもな、琴乃だけは俺のハッタリを信じてくれた。
……だから俺は、あんたたちを『見捨てられる側』になんかさせない。この一万本の桜を餌にして、日本中、いや世界中の金持ちを京都に呼び戻してやる。
それが俺の、この街に対する『復興計画』の全貌だ」
権吉の拳が、小刻みに震える。
「……できるわけがねえ。そんな、お伽話……」
「お伽話かどうか、来年の春まで見ててくれ。あんたの息子が『サク』って名前を、誰よりも誇らしげに書けるような、そんな京に戻してみせる」
蓮人の声には、かつての「血筋だけの貧乏人」の悲哀はなかった。
そこには、一つの街の命運を背負う、閻魔王宮現世救済官としての覚悟が宿っていた。
その夜。京都の空を見たこともないような黒雲が覆った。
激しい雷鳴と共に、滝のような豪雨が降り始める。
せっかく植えたばかりの苗木が、土砂崩れで流されるのではないか――。
不安で眠れなかった蓮人と琴乃が夜明けと共に堤防へ駆けつけると、そこには信じられない光景があった。
ずぶ濡れになりながら、土嚢(どのう)を積み、必死に斜面を補強している男たちがいた。
先頭に立って指揮を執っていたのは、あの乾物屋の重助だった。
「……重助さん!? どうして」
「勘違いすんじゃねえぞ、天宮の坊主。この雨で堤防が決壊したら、うちの蔵まで浸かるからやってんだ」
重助はぶっきらぼうにそっぽを向いたが、彼が運んできた大八車には、土嚢だけでなく、上等な腐葉土と、暴風から木を守るための竹支柱が山ほど積まれていた。
「……おい、お前ら!学生さんにいつまで汚い仕事をさせてんだ!京の男なら、もっと腰を入れて泥を掻かんか!」
堤防の下から響いたのは、人足仲間を連れた権吉の声だった。
彼はサクを傍らに立たせ、十数名の屈強な職人たちを引き連れて現れた。
「蓮人先生! 父ちゃん『俺たちも京都の英雄になる』って!」
サクが誇らしげに叫ぶ。権吉はバツが悪そうに鼻をかみ、蓮人にだけ聞こえる声で呟いた。
「泥だらけの握り飯を、笑って食うような奴は、嘘を吐かねえ。坊主、そのハッタリ、俺も一枚噛ませろ。京都の底力、ナメんじゃねえぞ」
その瞬間、何かが変わった。単に「没落組」を眺めていた京の街から、冷え切った沈黙が消えた。
代わりに出現したのは、かつて千年の栄華を支えた、人々の意地と熱量だった。
「おーい! 炊き出しの粥(かゆ)ができたぞー!」
「こっちの苗木、俺が運ぶわ!若いもんには負けられん!」
最初は数人の学友だけだった輪が、三十人、五十人と膨らんでいく。
商店主が、人足が、芸妓が、そしてかつて彼らを「過去の遺物」と嘲笑した通行人までもが、泥にまみれて、けれど今日を生きる喜びを感じて笑っていた。
琴乃は、その光景を涙を堪えながら見守っていた。
(……蓮人くん。あなたの「話術」は、もうハッタリなんかじゃないわ)
(みんなが、京を、あなたを……自分たちの未来を信じ始めてる)
熱狂の中で、一万本の植樹はこれまでにない速度で進んでいく。
死を待つだけだった街が、一人の少年と一人の少女の「逆転劇」を現実にするために、魂を一つに重ねた瞬間だった。
(……この熱。これなら勝てる。閻魔の想定を余裕で超えてやる!)
蓮人は額の泥を拭い、拳を高く突き上げた。
かつて教室の隅で「空気」だった二人の周りには、今や数え切れないほどの命を共にする仲間がいた。
