明治京都桜花心中~死神令嬢は、没落若君のために一万本の桜を咲かせる~

京都府庁の土木課。
薄暗いその部屋は、カビ臭い書類の山に埋もれていた。  
窓から差し込む光さえ、舞い散る埃(ほこり)のせいで淀んで見える。  
その最奥の席で、土木課長の保科(ほしな)が、面倒くさそうに印鑑を布で拭いていた。  
40代半ば。出世コースからは外れたが、今の地位にしがみつくことだけは得意そうな男だ。
そのデスクの前に、蓮人と琴乃が立っていた。
「……桜の植樹場所の許可? ……却下だ」  
保科は、蓮人が提出した申請書の束を、読みもせずに指先で弾いた。  
バサリ、と書類が床に散らばる。
「ちょっと保科課長!まだ中身も見てないでしょう!」  
蓮人が抗議する。
「見なくても分かる。『前例がない』」
保科は鼻を鳴らし、あくびを噛み殺した。
「鴨川の堤防に桜? 花見客が騒いで風紀が乱れたらどうする。それに落ち葉の掃除や、虫がついた時の手入れは誰がやるんだ。誰が責任を取るんだ」
「源蔵さん……元皇室御用達の庭師が監修します。土留めの計算もできてます!」
「あんな酔っ払いの言うことが信じられるか。却下だ、却下」
保科は新聞を広げ、二人の存在を完全に無視した。
(典型的な事なかれ主義。「何もしないこと」が「一番の仕事」だと思っている男)  
琴乃の冷ややかな観察眼が、保科の本質を見抜く。
「くそっ……この分からず屋が……!」  
蓮人が机を叩こうとした。その手を、琴乃が制した。
「(小声)……蓮人くん、ちょっと待って」  
琴乃は蓮人の袖を引き、保科に一礼した。
「課長、少しお待ちください。二人で話し合いますね」
「勝手にしろ」
保科は新聞から顔も上げない。
二人は部屋の隅へ移動した。
「あの人の机……見て」  
琴乃が囁く。
保科の机の上は書類が乱雑に積まれているが、一箇所だけ、奇妙に整頓されたスペースがあった。  
そこに一枚の「行事予定表」が置かれている。  
赤ペンで『明日午前九時 北垣知事、三条大橋付近を査察』と記され、二重丸で囲まれている。  
保科の視線は、新聞を読んでいるふりをしながら、チラチラとその予定表と「知事室(二階)」を気にしていた。
(あの上は、知事室)
(あのおじさん、自分の意見なんてない。……常に「上」の顔色だけを伺ってる)
(判断基準は「正しいか」じゃない。「知事と同じ意見か」だけでは?)
琴乃の脳内で、パズルが組み上がる。
「(小声)……蓮人くん。あの人、たぶん北垣知事の意向であれば、話を聞くよ」
「……!」
「(小声)彼は『知事が喜ぶこと』なら、何でもやるはず。明日、知事は三条大橋付近を査察するみたい」
蓮人がニヤリと笑った。
「策士」のスイッチが入る。
「(小声)……なるほどな」
琴乃はさらに壁に飾られた額縁を指差した。  
『北垣知事、京都の未来を語る』という新聞記事の切り抜きだ。
「(小声)蓮人くん。あそこの記事、読める?」
「(小声)あん?『花と緑を取り戻したい』……?」
「(小声)そう。知事は今の殺風景な町を、良く思ってないはずよ。もし明日、査察場所に見事な『花』があったら……どう思うかな?」
蓮人の目が輝いた。
「(小声)……なるほどな。じゃあ、知事に『喜んで』もらえばいいわけだ」
「(小声)へへ。私、よく観てるでしょう」
「(小声)……ああ、さすがだ」
二人は頷き合い、再び保科のデスクへ向かった。  
蓮人はわざとらしいほど大きなため息をつき、芝居がかった声で言った。
「分かりました!では、出直します!」
「……あん?」
「いやあ、残念だなあ。明日の『知事の査察』に合わせて、少しでも景色を良くしようと思ったんですが」
保科がピクリと新聞を下ろした。
「……知事の査察だと?」
「ええ。実は明日、知事が鴨川付近の査察をされるそうですね。殺風景な川縁(かわべり)のまま、知事をお通しすることになりますね。……では!」
「な、何っ!?」
「では、失礼!」
保科が慌てて立ち上がるのを無視して、二人はさっさと部屋を出て行った。  
撒き餌は撒いた。あとは、食いつかせるための「実物」を見せるだけだ。

深夜。鴨川の堤防。  
月明かりだけが頼りの河川敷で、蓮人と琴乃、そして源蔵がスコップで穴を掘っていた。
「おい若造。本当にやるんか?」  
源蔵が呆れたように聞く。
「ああ。既成事実を作っちまうんだ」
「琴乃、いけるか?」
「……うん」
琴乃の目の前には、一本の苗木があった。  
まだ花もついていない、ひょろりとした桜の苗木だ。  
琴乃は手袋を外し、深く深呼吸した。
(あのときの実験を思い出せ。イメージするのは「五年分の成長」)  
彼女は左手をかざした。
「……咲いて」  
琴乃が苗木の幹に触れる。  
『命刻輪廻の掌握』が発動する。
カチッ、コチッ、カチッ……。
突如、琴乃の耳元だけで、無数の「時計の針の音」が響き渡った。  
世界の色が変わる。月明かりの青白さが消え、周囲の風景が古びた写真のような「セピア色」に染まっていく。
ザアァァァッ……!
風もないのに、どこからか無数の花びらが舞い降りる。  
それは幻影の桜吹雪。時間の奔流(ほんりゅう)が可視化されたものだ。
ドクンッ! 苗木が脈打った。  
幹がメリメリと音を立てて天に向かって伸びていく。  
枝が広がり、蕾が膨らみ、ほころび――。
バッッ!!
時計の音が止むと同時に、セピア色の世界が弾け飛び、満開の桜が爆ぜるように咲き誇った。  
闇夜に浮かぶ、一本の奇跡。薄紅色の花びらが、月光を浴びて妖しく輝いている。
「おぉ……!こりゃあすげえ……!」  
源蔵が腰を抜かした。
「狐につままれたようじゃが……見事な桜じゃ」
その一方で、琴乃はふらりとよろめき、その場に膝をついた。  
顔色は蝋(ろう)のように白い。
(……なに、これ)
(体が……鉛みたいに重い)
(指先の感覚がない。……体の中身が、ごっそり抜け落ちたみたい)
月明かりの下、肩にかかる艶やかな黒髪の数本が、色素を失い、白く変色していた。  
それだけではない。  
能力を使った左手の指先が、微かに硬く、冷たくなっている。
まるで生きている人間の肌ではなく、樹木の表皮のように。
「……っ!」  
琴乃は息を呑んだ。
(白髪? それにこの指……)
(大木の「時間」を急激に進めた代償に、私の「生命力」も奪われたの?)
「琴乃!」  
蓮人が慌てて駆け寄り、彼女の体を支えた。
「……っ」  
琴乃はハッとして、すぐに白い髪を内側に隠し、左手を袖の中に引っ込めた。
精一杯の笑顔を作る。
(言えない。……絶対に)
(知られたら、蓮人くんはもう二度と、私に能力を使わせてくれない)
(そうか。今まで触ったものは全て小さな生物や植物だった。だから影響は小さかったんだ。でも木は……大きさが違う)
「だ、大丈夫……。ちょっと立ちくらみしただけ……」  
琴乃の声は震えていたが、蓮人は暗がりの中でそれに気づかなかった。  
彼は琴乃の体を支えながら、満開の桜を見上げた。
蓮人の瞳には、桜の輝きと計画成功への希望しか映っていない。  
その腕の中で、琴乃だけが、自分の髪と冷たい指先を強く握りしめ、忍び寄る恐怖に震えていた。
(……これくらい、平気。隠し通せばいい)
(蓮人くんに心配かけちゃダメ。……これは、私だけの秘密)
「上出来だ。……これで『舞台』は整った」
「若造!意味が分からん。これはどういうこった!?」  
源蔵が詰め寄る。
「まあまあ、源蔵さん。細かいことは気にしない、気にしない」
「庭師としては、気になるぞ。説明しろ」
「偶然です。偶然。たまたま特殊な品種だったんですって」
「そんなわけあるか!」
「夜桜を見ながら、飲みましょう」
蓮人は源蔵に酒を注いだ。
(酔わせて、忘れさせればいいだろ)  
蓮人は不敵に笑ったが、琴乃の体温が失われていることにはまだ気づいていなかった。

翌朝、午前九時。三条大橋。 一台の立派な馬車が、橋をゆっくりと渡っていく。  
中には立派な髭を蓄えた威厳ある男性――北垣国道知事。  
そしてその横で揉み手をしながら案内する保科課長の姿があった。
「……ええ、この橋の補修も順調に進んでおりまして……」
「うむ。……ん?」  
北垣知事が、ふと窓の外を見た。  
殺風景な河原の中に、ポツンと一本だけ、満開に咲き誇る桜がある。  
朝日に照らされ、そこだけ別世界のように美しい。風が吹くと花びらが雪のように舞った。
「おお……。見事な桜だ」
「えっ?」
「しかしもう5月だろ。これは珍しい」
保科は慌てて窓の外を見た。  
昨日は影も形もなかった場所に、巨大な一本桜が咲いている。
「な、ななな……ッ!?」
保科は目を剥いた。
(なんだあれは!? 昨日はなかったぞ!?)
「殺風景な河原に、一本だけ植樹していたのか。無粋な工事現場の中に咲く、一輪の花。……風流だな、保科君」
「は、はひっ!?」
「誰の計らいだろう?なかなか粋なことをする。……やはり、京には花が必要だ。もっと桜を増やしてもいいかもな」
知事は満足そうに微笑んだ。  
保科は、開いた口が塞がらないまま、その場に取り残された。
己の保身と出世欲の天秤が、激しく揺れ動く。

数日後。京都府庁の応接室。  
ふかふかのソファに座らされた蓮人と琴乃の前で、保科はバツが悪そうに咳払いをした。
「……コホン。検討した結果だ」  
保科は尊大な態度を取り戻そうと必死だった。
「知事が……いや、私が!君たちの熱意に免じて、特別に許可を出そう」  
保科は、ドンと許可証の束をテーブルに置いた。
「鴨川だけじゃない。嵐山、琵琶湖疏水予定地周辺、円山公園……申請のあった全箇所だ」
「おおっ!」 「その代わり!すべて『私の指導のもとに行われた事業』として報告するからな!いいな!」  
蓮人は許可証の山を手に取り、ニヤリと笑った。
「ええ、もちろんですとも。保科課長の『英断』に、感謝します」
蓮人は許可証の束をひったくるように掴むと、琴乃の背中を押して弾けるように部屋を飛び出した。

「……あ。エリート様のお出ましだ」
廊下の向こうから歩いてくる財前に気づき、蓮人はヘラヘラとした道化の笑みを張り付けた。
その手には、先ほど勝ち取ったばかりの「植樹許可証」が握られている。
「財前様。わざわざお役所仕事の視察ですか? ご苦労なこって」
「……天宮か。君がここにいるということは、保科に泣きついているようだな。時間の無駄だ」
財前は歩みを止めず、蓮人のことなど視界に入っていないかのように冷たく言い放つ。
「へへっ、泣きつく? 人聞きが悪いなあ。ちょっとした『奇跡』を見せて、保科課長を俺のハッタリの共犯者にしてやっただけですよ。
見てください、この許可証を。全部一発オッケーだ」
蓮人は勝ち誇ったように書類をひらつかせた。
財前は一瞬だけ足を止め、眼鏡の奥の瞳で、その書類――自分が裏から保証をつけた、その紙――を一瞥した。
「……フン。その紙切れ数枚を獲るのに、どれだけの非効率を積み重ねたのか。君のその無邪気さには恐れ入るよ。
せいぜい、その『お遊戯の許可証』を失くさないように励むんだな」
「お遊戯、ねえ。来年の春、あんたの疏水の脇を俺の桜で満開にしてやるから、その気取った眼鏡を外してよーく見てくれよ。じゃあな!」
蓮人は鼻歌混じりに、琴乃を連れて軽やかに去っていった。
一人残された財前は、彼らの後ろ姿を振り返ることなく、パチンと懐中時計を閉じた。
「……計算通りだ。天宮、君は僕が叩き潰すその時まで、最高に威勢の良い獲物でいてもらわなければならない」
財前の口元に、氷のような、それでいてどこか満足げな笑みが浮かんだ。

一方、二人が去った後の土木課の室内では、一人残された保科が深い溜息と共に椅子へ沈み込んでいた。
「……ふぅ。これで何とか知事のご機嫌は損ねずに済んだか」  
保科は許可証の控えを不安げに見つめた。
「しかし……あんな貧乏学生どもに、市の重要拠点の植樹を任せて本当に大丈夫か?
途中で資金が尽きて放置でもされたら、許可を出したワシの責任問題になるぞ……」
保身の塊である保科にとって、天宮たちの「危うさ」は爆弾を抱えているようなものだ。
「やはり、適当な理由をつけて規模を縮小させるか?『予算の都合』とか『河川法の規制』とか言って……」  
保科がブツブツとリスク回避の言い訳を考えていた、その時だった。
「――その必要はない」
凛とした声が響いた。  保科が飛び上がって振り返ると、いつの間に入室していたのか、財前征一郎が立っていた。  
完璧に着こなした三つ揃えのスーツ。その佇まいは、若くとも財界のサラブレッドの風格を漂わせている。
「さ、財前様!? な、なぜここに……」
「琵琶湖疏水の件で決裁を貰いに来たのだが……君の『小市民的な愚痴』が聞こえたものでね」
財前は、コツコツと靴音を響かせて保科の机に近づいた。  
そして一枚の名刺をデスクに置いた。
「さ……財前財閥の直通名刺?」
「天宮たちの計画は無謀だ。資金も足りなくなるかもしれないし、行政上の些細なトラブルも起きるだろう」
財前は冷ややかに見下ろした。
「だが知事が気に入った桜だ。君の保身で勝手に縮小するな。
もし今後、彼らの計画が頓挫しそうになったり、行政上の壁にぶつかった時は、知事室にある『財前邸専用の電話機』を使え」
「え……?で、電話機……?」
「財前邸と府庁を、直通の私設線で結ばせてある。この名刺を見せれば、知事も使用を許可するはずだ」
「……は、はいぃぃぃッ!!」
「僕が裏から手を回して、行政上の些細なトラブルも抑えてやる」  
保科はあんぐりと口を開けた。
「勘違いするな。彼らに情けをかけるわけではない」  
財前は懐中時計をパチンと閉じた。
「彼らが『金や権力がない』という理由だけで不戦敗になるのは、僕の美学に反する。
……奴らを叩き潰すのは、僕の実績と実力であって、君のような役人の『事なかれ主義』であってはならない」
圧倒的な「強者の論理」
財前は、同じ土俵で戦い、勝つことにこだわっていた。
「彼らの邪魔はするな。……その代わり、彼らがコケそうになったら僕が支える。それで君のリスクはないだろう?」
「は、はいぃぃぃッ!!仰せの通りに!」
財前は保科を一瞥もしないまま、部屋を出て行った。
(……天宮。精々あがけよ)  
廊下を歩きながら、財前は眼鏡の位置を直した。
(舞台は整えておいてやる。……言い訳のできない状態で、僕に負けるがいい)
それは、彼なりの不器用で、高潔なフェアプレー精神だった。

夕日に照らされた鴨川堤防。  
正式な許可が下りた。蓮人の手には、四箇所すべての「植樹許可証」が握られている。
琴乃は、蓮人が掲げる許可証の束を、まるで奪い取った戦利品のように鋭い眼差しで見つめた。
「……すごい。全部、許可もらっちゃった」
蓮人は許可証をヒラヒラさせた。
「ああ。あの課長、保身と手柄のためなら見境なかったな」
琴乃は、穏やかに流れる川面から視線を外し、吐き捨てるような冷たい笑みを口元に浮かべた。
「本当に。自分の背骨を役所に忘れてきたんじゃないかしら、あのヒキガエル課長。知事の靴の裏を舐めるのに忙しくて、
自分が誰の税金で飯を食ってるかも忘れてるみたい。……蓮人くん、ああいう『空っぽの人間』が一番、丸め込みやすくて助かるわね」
蓮人は、隣に立つ頼もしすぎる共犯者の猛毒に、満足げな鼻鳴らしを返した。
「ああ。権威に弱い奴ほど、扱いやすい手駒はいねえ。これで『場所』の問題はクリアだ。……あとは、植えるだけだ」
蓮人は、琴乃の手をそっと握った。
彼女はまだ手袋をしている。
「無理させたかな。……美味いもん食わせてやるから」
「ふふ。……うん、楽しみ」
琴乃は微笑んだが、その笑顔はどこか儚げだった。  
二人の背後で、あの奇跡の一本桜が風に揺れ、花びらを舞い散らせている。  
その花びらが、川面をピンク色に染めて流れていく様は、まるで何かの終わりと始まりを告げているようだった。
「よし、琴乃。これで資金、技術、植樹場所……全てが整った」  
蓮人が遠くを見つめる。 準備は終わった。
『第三の壁・行政。――京都府庁にて、突破』