明治京都桜花心中~死神令嬢は、没落若君のために一万本の桜を咲かせる~

二日後の昼下がり。
「昨日は、源蔵さん登場せず」
琴乃がため息をつく。  
すでに数本の苗木が植えられているが、肝心のターゲットが現れない。
「そのうち来るさ。信じて待とう」  
汗だくになって作業を続けていると、ふらふらとした人影が現れた。  
ボロボロの着物を着た老人。源蔵、68歳。  
手には一升瓶をぶら下げている。昼間から酒の臭いが漂ってくる。  
源蔵はいつもの岩場に座ろうとして、蓮人たちに気づいた。
「……ああん?」  
濁った目が、二人を捉える。
(なんだあのガキども。……邪魔くせえ)  
心の声が聞こえてきそうなほど、露骨に嫌な顔をした。
「(小声)……あ、蓮人くん。ひょっとしてあれが源蔵さんじゃない?」
「(小声)……シッ。見るな。気づかないフリをしろ。たぶんあれだろう」
源蔵は面倒くさそうに二人を一瞥すると、声をかけることもなく酒を飲み始めた。  
蓮人は横目でチラリと確認し、そのまま作業を続ける。
(まずは爺さんの視界に入った。……だが、まだだ。まだ食いつかねえ)

さらに二日後。 曇り空の下、風が少し強く吹いている。  
源蔵はいつもの岩場で飲んでいた。  
だが、その視線はチラチラと蓮人たちの方に向いている。明らかに気になっている。
(……あいつら、まだやってんのか。物好きなガキどもじゃ)  
蓮人はその視線を背中で感じ取った。
(……よし。そろそろ熟したな)  
蓮人は急に手つきを変えた。 苗木を掴み、わざとらしくグラグラと揺らす。
「あー、もう!全然入らねえな!えーい、こうしちゃえ!」  
蓮人は浅く掘った穴に苗木を強引にねじ込み、根が丸見えのまま土を被せた。  
さらに、上から足でバンバンと踏みつける。
「……っ!」  
源蔵が思わず腰を浮かせた。
(おい馬鹿!根が曲がっとる!窒息するわ!)
琴乃も、蓮人の意図を察して阿吽の呼吸で動く。  
おぼつかない手つきを演じ、苗木に近づく。
「あ、あれ? 倒れちゃう……。えっと、紐で縛ればいいのかな?」  
琴乃は苗木の幹を荒縄でギュウギュウに締め上げた。
「これくらいキツく縛れば……」
「ぐぬぬ……」  
源蔵の手が、酒瓶を握り潰しそうになるほど震えている。
(首を絞める気か! 導管が潰れて水が吸えなくなるじゃろうが!)
蓮人はトドメとばかりに、川から汲んだ冷水を、バケツから勢いよくぶっかけた。
「ほらよ! 水攻めだ!」  
バシャア!  その瞬間だった。
ガシャーン!! 源蔵が持っていた酒瓶を地面に叩きつけた。  
破片が飛び散り、酒の匂いが広がる。
「――待たんかァァァッ!!!」
雷のような怒号が響き渡った。 蓮人はビクリとした振りをして、内心でニヤリと笑った。
(……釣れた)
二人は驚いた顔を作って振り返る。
「うわっ!?な、なんだ爺さん。いきなり大声出して」  
源蔵が、鬼の形相でツカツカと歩み寄ってくる。
「貴様ら……数日前から見ておれば、好き勝手しおって!苗木を殺す気か!!」
源蔵は琴乃の手から荒縄を奪い取り、素早くほどいた。  
その手つきは、さっきまでの乱暴さとは打って変わり、赤子を扱うように繊細で優しい。
「……苦しかったろう。すまんな、無知な人間のせいで」  
苗木に語りかけるその姿は、完全に「職人」のそれだった。
「はあ?何だよ!あんた。俺たちがどう植えようが勝手だろ」
「黙れド素人!」
源蔵が吠える。
「こんな植え方があるか!根が窒息しておる!それに締め付けすぎじゃ!桜はな、貴様らのような適当な手で触っていい木じゃないんじゃ!」
源蔵の目には涙が浮かんでいた。ただの酔っ払いではない。
本気で木を憐れみ、その痛みに共鳴する職人の目だ。
「……へえ。詳しいんだな、爺さん」  
蓮人の声色が、挑発的なものから真剣なものへと変わる。
「そんなに文句があるなら、あんたがやってくれよ」
「あ?」
「俺たちは素人だ。でもどうしても桜を植えたいんだ。あんた、庭師だろ?」
「……!」
源蔵はハッとして口ごもった。過去の亡霊に取り憑かれたような顔になる。
「……昔の話じゃ。今のわしは、ただの酔っ払いじゃ。帰れ。二度と桜に近づくな」  
源蔵は背を向け、立ち去ろうとする。
蓮人が目配せをした。琴乃が一歩前に出る。
「……おじいさん」  
凛とした声が、源蔵の足を止めた。
「その腰の鋏(はさみ)……泣いてますよ」  
源蔵の腰元には、ボロボロの帯に一丁の剪定鋏が差してあった。  
柄は使い込まれて黒光りし、刃は油で手入れされ、鈍く光っている。
「毎日、磨いてるんですね。一点の錆もない。……いつでも枝を切れるように。未練がない人の道具じゃありません」
「…………」  
源蔵は震える手で鋏に触れた。指先が、金属の冷たさと記憶をなぞる。
「なあ、爺さん」  
蓮人が畳み掛ける。
「あんた……本当は切りたくてウズウズしてるんだろ?」
「……なに?」
「あんたほどの腕利きが、振るう場所をなくして腐ってる。
帝(みかど)が東京へ行っちまって、御所の庭も荒れ放題だもんなあ」
源蔵の顔色が変わった。図星を突かれた動揺が走る。
「き、貴様に何が分かる!わしには、もう庭師への未練なんかない」
「その名刀(ハサミ)。未練がないのに、何でそんなもん持ち歩いている?」
「未練があろうとなかろうと関係ない!」
源蔵は叫んだ。
「確かにわしは、かつては御所の桜を任されとった!だが御所は荒れ果てた。もう手入れする庭もねえ!見る主(あるじ)もいねえ!
時代は変わったんじゃ……庭なんて、もう誰も見向きもしねえ!」
源蔵は涙目で叫び、懐から新しい酒瓶を出そうとする。
「…………」
琴乃は殊勝な顔で俯いていたが、内心に秘めていた毒がつい口から出てしまった。
「……はぁ? 時代のせいにして酒飲んで寝てるだけで、京都が救えると思ってるの?
その赤ら顔、いっそ砕いて桜の根元に埋めてやりましょうか。職人の誇りがあるなら、愚痴を吐く前にハサミを研ぎなさいよ、この生臭仙人」
琴乃はハッとして着物の袖で口元を覆ったが、その瞳の奥には、すべてを射抜くような冷徹な光が淀みなく燃えていた。
「……源蔵さん。あなたがやらないなら、私がこの手で京都を無理やり春にしてやります」
琴乃の口から漏れた、あまりに鋭い殺気を含んだ声に、源蔵は思わず背筋を正した。
蓮人は隣で豹変した琴乃の気迫に一瞬だけ度肝を抜かれたが、その『毒』が源蔵の頑固な心をこじ開けたのを確信し、畳みかけるように不敵に笑った。
「庭の主がいないなら、見てくれる奴を、たくさん全国から呼ぼうぜ」
「あ?」
「俺たちに協力してくれ。俺たちが、あんたの腕にふさわしい『日本一の庭』を用意してやる」
蓮人は立ち上がり、両手を広げて、眼下に広がる京都の街を指した。
「あんたに任せる庭は……御所なんかよりずっと広い……この『京都の街全部』だ」
「な……」  
源蔵が息を呑む。
「俺たちは、この街中を桜で埋め尽くす。あんたは、その何万本もの桜の総責任者だ」
「どうだ? 狭い御所でちまちま庭いじりするより、よっぽど腕が鳴るだろ?」
蓮人の瞳には、揺るぎない確信と野心が宿っていた。  
それは、死にかけていた職人の魂に火をつけるのに十分な熱量だった。
「街……全部じゃと……?」
「お願いします、源蔵さん」
琴乃も深々と頭を下げた。
「私たちには知識も技術もありません。……あなたの技術が必要なんです。あなたの経験で……もう一度、京都に命を吹き込んでくれませんか」
源蔵は、蓮人の不敵な笑みと琴乃の真摯な眼差しを交互に見た。  
錆びついた心に、ひびが入る。そこから溢れ出したのは、ずっと押し殺していた情熱だった。  
ふと、源蔵の目が琴乃の顔に釘付けになった。
源蔵はかぶりを振ると、ボロボロと涙をこぼした。
「……報酬は、高いぞ」
「へっ。出世払いで頼むわ」  
源蔵は鼻をすすりながら、投げ捨てられた苗木を丁寧に拾い上げた。
「馬鹿もんが。……土が固すぎるんじゃ。まずは耕すところからじゃ!」
源蔵の顔から酔っ払いの色は消えていた。そこには、歴戦の職人の顔があった。

夕焼けが嵐山を赤く染めていた。  
三人が並んで土を耕している。  
蓮人と琴乃の顔には、泥と共に達成感の汗が光っていた。
「一万本の桜か。わしも気合が入るわ」  
源蔵の頼もしい背中を見ながら、二人はこっそりと視線を交わし、笑い合った。  
また一つ、壁を越えた。
「行くぞ、琴乃。……次の課題は植樹場所だ」  
蓮人が遠くを見つめる。  
資金、技術。必要なピースが揃いつつある。  
あとは、この桜を植えるための大地を手に入れるだけだ。
『第二の壁・技術。――嵐山にて、突破』