翌日。平安院学舎の放課後。校長室。
重厚なマホガニーの扉の前に、二人の生徒が立っていた。
蓮人と琴乃だ。二人は互いに顔を見合わせ、一度深く深呼吸をしてから、覚悟を決めてノックをした。
「し、失礼します……。お時間いただき、ありがとうございます」
「し、失礼します……」
入室した二人は直立不動だった。緊張で体がガチガチに固まっている。
室内には午後の日差しと共に、ほのかな紅茶の香りが漂っていた。
執務机で書類に目を通していた花山院雅房は、眼鏡を外してクスクスと笑った。
「天宮くん、九条さん。……そんなに縮こまらなくていいんですよ」
花山院は立ち上がり、ソファへ二人を促した。
「まるで『呼び出しを食らった生徒』みたいですね。面会を申し入れたのは君たちの方でしょう?」
花山院は自らティーポットを手に取り、カップに紅茶を注いで二人の前に置いた。
湯気と共に立ち上る香りは、高貴で落ち着いたものだった。
「ここは取調室ではありません。さあ、座りなさい。今日はどのような相談かな?」
温かい紅茶に少しだけ緊張が解け、蓮人は口を開いた。
「あ、はい。閻魔大王様の課題……俺たちは京都中を桜で埋め尽くすことにしました」
「……実は、資金の目処は立ったんですが、技術的な壁にぶつかってまして」
琴乃が言葉を継ぐ。
「桜の正しい植え方が分からないんです。私たちはズブの素人で……」
「せっかく植えても、枯らしてしまっては申し訳なくて……やるからにはちゃんとやりたくて」
蓮人は悔しそうに膝の上で拳を握った。金を集めた。場所も目星をつけた。
だが、「命」を扱う技術だけは、ハッタリではどうにもならない。
「財前たちは、一流の技師や職人を金で雇っています」
「でも私たちには、そんなコネも、職人を動かす『家柄』もありません」
「……やっぱり、俺たちみたいな没落組には、限界があるんでしょうか」
弱音がこぼれた。金と権威の壁。それは何度乗り越えようとしても立ちはだかる巨大な壁だ。
花山院は静かに紅茶を啜り、カップをソーサーに置いた。
カチャリ、という澄んだ音が室内に響く。
「家柄? お金?……ふふ」
花山院は穏やかに、しかし力強く言った。
「閻魔大王様がお求めなのは、そんなちっぽけな物ではありませんよ」
「え?」
「もっとこう……『魂の輝き』とでも言うのでしょうか」
花山院の瞳が、眼鏡の奥で慈愛に満ちた光を放つ。
「泥にまみれ、傷つきながらも、他者のために奔走する君たちの姿……
それこそが、今の京都に必要な『貴族の精神(ノブレス・オブリージュ)』です」
「ノブレス・オブリージュ……」
「自信を持ちなさい。君たちの『心の気高さ』は、財前くんたちにも負けていませんよ」
その言葉は、蓮人の乾いた心に染み渡るようだった。
没落してからというもの、誰もが自分たちを蔑んできた。
けれど、この人だけは、ボロボロの衣服の下にある「誇り」を見てくれている。
「校長先生……」
「……ありがとうございます。なんか、目が覚めました」
蓮人は顔を上げた。瞳に力が戻っている。
「私たちは諦めません。……誰か、心当たりのある庭師さんはいませんか?」
「ふむ。やや問題はあるが……一人、いますよ」
花山院は窓の外、遠く霞む西の山々を見つめた。
「かつて『御所の桜守(さくらもり)』と呼ばれた男……源蔵という庭職人」
「御所!? 元・皇室おかかえってことですか!?」
蓮人が身を乗り出す。超一流だ。
「ええ。ですが……帝が東京へ行かれてからは、職を辞し、酒に溺れていると聞きます。
今は嵐山のあたりで、世捨て人のように暮らしているとか」
「仙人みたいですね」
「仙人?そんないいものではないかもしれません」
花山院は少し寂しげに目を細めた。
「彼もまた、時代の変化に絶望し、心を閉ざしてしまった人物です。頑固で気難しい男ですが……今の君たちなら、あるいは」
花山院は二人の顔を交互に見つめ、力強く頷いた。
「行ってきなさい。君たちならきっと、あの気難しい職人の心も開くでしょう」
「はい! 行ってきます!」
「ありがとうございました」
二人は深く一礼し、希望を胸に部屋を出て行った。
翌日。散り急いだ桜に代わり、萌黄(もえぎ)色の若葉が山肌を鮮やかに塗り替え始めた嵐山は、行く春を惜しむような穏やかな陽光に包まれていた。
桂川のせせらぎが響く景勝地だが、観光客はまばらだ。
茶屋で団子を注文しながら、蓮人は店番の老婆に話しかけた。
「お婆ちゃん。この辺で『源蔵』って爺さん、見かけないかい?」
「ああ、源さんかい?よく知ってるよ。多分、あの河原だよ」
「河原?」
「渡月橋の下流にな、お気に入りの岩場があるんじゃよ。
毎日毎日、真っ昼間から其処に座り込んで、死んだような目で川を見ておるわ」
老婆はため息交じりに言った。
「腕はいいのに、勿体ないねえ……今じゃただの酒呑みじゃわ」
蓮人と琴乃は顔を見合わせた。
「いきなり源蔵さん情報。私たち、運がいいね」
「俺は日頃の行いが良すぎるからな」
「いや絶対に私のほうが善人だよ」
軽口を叩き合いながらも、二人の目は真剣だ。
「ともかく場所は割れたな」
「どうするの?すぐに挨拶に行く?」
「いや」
蓮人は懐から手ぬぐいを取り出し、職人のように頭に巻いた。
「頑固じじいらしいから、正面から頼んでも、どうせ『帰れ』と言われて終わりだ」
「あ。わかったわ!向こうから『頼む』と言わせるように仕向ける」
「ご名答」
二人はニッと笑い合った。
これから始まるのは、頑固な職人との心理戦だ。
作戦を携え、再び嵐山へと足を運んだ翌朝。穏やかな渡月橋の佇まいとは対照的に、
二人が降り立った桂川の河原は、雪解け水の勢いに削られた荒れた岩肌が、無機質な牙を剥くようにどこまでも続いていた。
観光地とは名ばかりの、整備されていない砂利道を進む。
源蔵がいるという河原へ降りる道は、特に険しかった。
「っと……」
慣れない草履で石に躓き、琴乃が体勢を崩す。
すかさず蓮人の手が伸びた。
「おい、大丈夫かよ」
「平気。ちょっと石が動いただけ……きゃっ!」
言い訳をする間もなく、蓮人の手が琴乃の膝裏に回り、ふわりと体が浮いた。
お姫様抱っこだ。
「さ、蓮人くん!?何してるの!?」
「暴れるな。落ちるぞ」
蓮人は平然とした顔で、琴乃を抱えたまま岩場を降り始めた。
「下ろしてよ!私、歩けるもん!」
「無理すんな。お前のその着物、お母上の形見だろ? 泥跳ねさせたら、俺が母上にあの世で怒られる」
「でも……!」
「それに、見てみろ」
蓮人が顎で示した先には、茶屋で団子を食べている町娘たちが、うっとりとした顔で二人を見ていた。
「あら、まあ……」
「仲睦まじいわねぇ」
「美男美女だこと」
蓮人は琴乃に向かってウインクをした。
「(ほら、観客がいる。ここでも『仲睦まじい婚約者』を演じておかないとな)」
「(……あ……っ、そういうこと)」
琴乃は口を尖らせたが、抵抗するのをやめて、蓮人の首に腕を回した。
近くで見ると、蓮人の睫毛が長いことに気づく。汗の匂いと、微かな墨の匂い。
(……重くないのかな)
没落して貧しい食事しかしていないはずなのに、蓮人の腕は意外なほど逞しかった。
「……重い?」
琴乃が小声で聞くと、蓮人は意地悪く笑った。
「ああ、重いよ……『一族の命運』を背負ってるんだ。軽くはないさ」
それは軽口だったが、琴乃の胸を締め付けた。
重いのは私の体重じゃなく責任。
でも彼はそれを「下ろそう」とはしなかった。
「……着いたぞ。ここが特等席だ」
安全な平地に琴乃を下ろすと、蓮人は何食わぬ顔で着物の乱れを直してくれた。
「ありがとう。……助かったわ」
「礼は合格してから言えよ。行くぞ」
スタスタと先を行く蓮人の背中を見つめながら、琴乃は熱くなった頬を手で仰いだ。
川のせせらぎだけが響く、誰もいない岩場。
ここが源蔵の定位置らしい。
「俺たちはここで、どんどん苗木を植えよう」
「ええ」
そこから少し離れた視界に入る絶妙な位置で、二人は作業を開始した。
ザッ、ザッ。黙々と鍬(くわ)を振るう。
「蓮人くん。源蔵さん、いないね」
「ああ。だが、お婆ちゃんの話じゃ、ほぼ毎日来るらしいからな。
ここが特等席だ。まずは俺たちが『本気』だってことを見せつけるぞ」
重厚なマホガニーの扉の前に、二人の生徒が立っていた。
蓮人と琴乃だ。二人は互いに顔を見合わせ、一度深く深呼吸をしてから、覚悟を決めてノックをした。
「し、失礼します……。お時間いただき、ありがとうございます」
「し、失礼します……」
入室した二人は直立不動だった。緊張で体がガチガチに固まっている。
室内には午後の日差しと共に、ほのかな紅茶の香りが漂っていた。
執務机で書類に目を通していた花山院雅房は、眼鏡を外してクスクスと笑った。
「天宮くん、九条さん。……そんなに縮こまらなくていいんですよ」
花山院は立ち上がり、ソファへ二人を促した。
「まるで『呼び出しを食らった生徒』みたいですね。面会を申し入れたのは君たちの方でしょう?」
花山院は自らティーポットを手に取り、カップに紅茶を注いで二人の前に置いた。
湯気と共に立ち上る香りは、高貴で落ち着いたものだった。
「ここは取調室ではありません。さあ、座りなさい。今日はどのような相談かな?」
温かい紅茶に少しだけ緊張が解け、蓮人は口を開いた。
「あ、はい。閻魔大王様の課題……俺たちは京都中を桜で埋め尽くすことにしました」
「……実は、資金の目処は立ったんですが、技術的な壁にぶつかってまして」
琴乃が言葉を継ぐ。
「桜の正しい植え方が分からないんです。私たちはズブの素人で……」
「せっかく植えても、枯らしてしまっては申し訳なくて……やるからにはちゃんとやりたくて」
蓮人は悔しそうに膝の上で拳を握った。金を集めた。場所も目星をつけた。
だが、「命」を扱う技術だけは、ハッタリではどうにもならない。
「財前たちは、一流の技師や職人を金で雇っています」
「でも私たちには、そんなコネも、職人を動かす『家柄』もありません」
「……やっぱり、俺たちみたいな没落組には、限界があるんでしょうか」
弱音がこぼれた。金と権威の壁。それは何度乗り越えようとしても立ちはだかる巨大な壁だ。
花山院は静かに紅茶を啜り、カップをソーサーに置いた。
カチャリ、という澄んだ音が室内に響く。
「家柄? お金?……ふふ」
花山院は穏やかに、しかし力強く言った。
「閻魔大王様がお求めなのは、そんなちっぽけな物ではありませんよ」
「え?」
「もっとこう……『魂の輝き』とでも言うのでしょうか」
花山院の瞳が、眼鏡の奥で慈愛に満ちた光を放つ。
「泥にまみれ、傷つきながらも、他者のために奔走する君たちの姿……
それこそが、今の京都に必要な『貴族の精神(ノブレス・オブリージュ)』です」
「ノブレス・オブリージュ……」
「自信を持ちなさい。君たちの『心の気高さ』は、財前くんたちにも負けていませんよ」
その言葉は、蓮人の乾いた心に染み渡るようだった。
没落してからというもの、誰もが自分たちを蔑んできた。
けれど、この人だけは、ボロボロの衣服の下にある「誇り」を見てくれている。
「校長先生……」
「……ありがとうございます。なんか、目が覚めました」
蓮人は顔を上げた。瞳に力が戻っている。
「私たちは諦めません。……誰か、心当たりのある庭師さんはいませんか?」
「ふむ。やや問題はあるが……一人、いますよ」
花山院は窓の外、遠く霞む西の山々を見つめた。
「かつて『御所の桜守(さくらもり)』と呼ばれた男……源蔵という庭職人」
「御所!? 元・皇室おかかえってことですか!?」
蓮人が身を乗り出す。超一流だ。
「ええ。ですが……帝が東京へ行かれてからは、職を辞し、酒に溺れていると聞きます。
今は嵐山のあたりで、世捨て人のように暮らしているとか」
「仙人みたいですね」
「仙人?そんないいものではないかもしれません」
花山院は少し寂しげに目を細めた。
「彼もまた、時代の変化に絶望し、心を閉ざしてしまった人物です。頑固で気難しい男ですが……今の君たちなら、あるいは」
花山院は二人の顔を交互に見つめ、力強く頷いた。
「行ってきなさい。君たちならきっと、あの気難しい職人の心も開くでしょう」
「はい! 行ってきます!」
「ありがとうございました」
二人は深く一礼し、希望を胸に部屋を出て行った。
翌日。散り急いだ桜に代わり、萌黄(もえぎ)色の若葉が山肌を鮮やかに塗り替え始めた嵐山は、行く春を惜しむような穏やかな陽光に包まれていた。
桂川のせせらぎが響く景勝地だが、観光客はまばらだ。
茶屋で団子を注文しながら、蓮人は店番の老婆に話しかけた。
「お婆ちゃん。この辺で『源蔵』って爺さん、見かけないかい?」
「ああ、源さんかい?よく知ってるよ。多分、あの河原だよ」
「河原?」
「渡月橋の下流にな、お気に入りの岩場があるんじゃよ。
毎日毎日、真っ昼間から其処に座り込んで、死んだような目で川を見ておるわ」
老婆はため息交じりに言った。
「腕はいいのに、勿体ないねえ……今じゃただの酒呑みじゃわ」
蓮人と琴乃は顔を見合わせた。
「いきなり源蔵さん情報。私たち、運がいいね」
「俺は日頃の行いが良すぎるからな」
「いや絶対に私のほうが善人だよ」
軽口を叩き合いながらも、二人の目は真剣だ。
「ともかく場所は割れたな」
「どうするの?すぐに挨拶に行く?」
「いや」
蓮人は懐から手ぬぐいを取り出し、職人のように頭に巻いた。
「頑固じじいらしいから、正面から頼んでも、どうせ『帰れ』と言われて終わりだ」
「あ。わかったわ!向こうから『頼む』と言わせるように仕向ける」
「ご名答」
二人はニッと笑い合った。
これから始まるのは、頑固な職人との心理戦だ。
作戦を携え、再び嵐山へと足を運んだ翌朝。穏やかな渡月橋の佇まいとは対照的に、
二人が降り立った桂川の河原は、雪解け水の勢いに削られた荒れた岩肌が、無機質な牙を剥くようにどこまでも続いていた。
観光地とは名ばかりの、整備されていない砂利道を進む。
源蔵がいるという河原へ降りる道は、特に険しかった。
「っと……」
慣れない草履で石に躓き、琴乃が体勢を崩す。
すかさず蓮人の手が伸びた。
「おい、大丈夫かよ」
「平気。ちょっと石が動いただけ……きゃっ!」
言い訳をする間もなく、蓮人の手が琴乃の膝裏に回り、ふわりと体が浮いた。
お姫様抱っこだ。
「さ、蓮人くん!?何してるの!?」
「暴れるな。落ちるぞ」
蓮人は平然とした顔で、琴乃を抱えたまま岩場を降り始めた。
「下ろしてよ!私、歩けるもん!」
「無理すんな。お前のその着物、お母上の形見だろ? 泥跳ねさせたら、俺が母上にあの世で怒られる」
「でも……!」
「それに、見てみろ」
蓮人が顎で示した先には、茶屋で団子を食べている町娘たちが、うっとりとした顔で二人を見ていた。
「あら、まあ……」
「仲睦まじいわねぇ」
「美男美女だこと」
蓮人は琴乃に向かってウインクをした。
「(ほら、観客がいる。ここでも『仲睦まじい婚約者』を演じておかないとな)」
「(……あ……っ、そういうこと)」
琴乃は口を尖らせたが、抵抗するのをやめて、蓮人の首に腕を回した。
近くで見ると、蓮人の睫毛が長いことに気づく。汗の匂いと、微かな墨の匂い。
(……重くないのかな)
没落して貧しい食事しかしていないはずなのに、蓮人の腕は意外なほど逞しかった。
「……重い?」
琴乃が小声で聞くと、蓮人は意地悪く笑った。
「ああ、重いよ……『一族の命運』を背負ってるんだ。軽くはないさ」
それは軽口だったが、琴乃の胸を締め付けた。
重いのは私の体重じゃなく責任。
でも彼はそれを「下ろそう」とはしなかった。
「……着いたぞ。ここが特等席だ」
安全な平地に琴乃を下ろすと、蓮人は何食わぬ顔で着物の乱れを直してくれた。
「ありがとう。……助かったわ」
「礼は合格してから言えよ。行くぞ」
スタスタと先を行く蓮人の背中を見つめながら、琴乃は熱くなった頬を手で仰いだ。
川のせせらぎだけが響く、誰もいない岩場。
ここが源蔵の定位置らしい。
「俺たちはここで、どんどん苗木を植えよう」
「ええ」
そこから少し離れた視界に入る絶妙な位置で、二人は作業を開始した。
ザッ、ザッ。黙々と鍬(くわ)を振るう。
「蓮人くん。源蔵さん、いないね」
「ああ。だが、お婆ちゃんの話じゃ、ほぼ毎日来るらしいからな。
ここが特等席だ。まずは俺たちが『本気』だってことを見せつけるぞ」
