明治16年の京都。その空は、二つの色に分断されていた。
東の山々を背にした鴨川の河川敷は、黒い煤煙(ばいえん)に覆われている。
財前家が主導する「琵琶湖疏水(びわこそすい)」の建設現場だ。
英国から輸入されたばかりの巨大な蒸気ボイラーが、怪物の咆哮のような音を立てて鎮座している。
その轟音は、古い都の静寂を食い破る文明の産声だった。
「……予定より四十秒遅れている」
財前征一郎は、現場の泥に革靴を汚すことを厭(いと)わず、懐中時計の秒針を睨みつけていた。
「も、申し訳ありません財前様!すぐに作業員を急がせ……」
「馬鹿者が」
財前の冷徹な声が、現場監督の言葉を遮った。
「誰が『急がせろ』と言った? 逆だ。『交代』させろ」
「は……?」
「この四十秒の遅れを取り戻そうとして、作業員が焦れば事故が起きる。
……この区画の班は、すでに規定の労働時間を超えそうだ。集中力が切れる時間だぞ」
財前は、煤(すす)まみれで働く作業員たちを、鋭い眼光で見回した。
「代わりの班を投入しろ。疲弊した人間を現場に置くな。……それは非効率であり、命の浪費だ」
現場監督がハッとして頭を下げる。
「は、はいっ! すぐに休憩させます!」
「急げ。僕の計画では『過労死や事故死』を最小限に防ぐことになっている。
……作業員の命もまた、国家の貴重なリソース(資源)だ」
財前は懐中時計をパチンと閉じた。
「金と鉄と蒸気。……これこそが『力』だ」
財前は巻き上がる黒煙を見上げながら冷徹に呟いた。
「天宮のような血筋だけの貧乏人が入り込む隙間など、一ミリもない」
その言葉は、確信というよりは物理法則のように、重く響いた。
対照的に静まり返った路地裏。
湿った苔の匂いがする石畳の上で、天宮蓮人と九条琴乃は一枚の地図を広げていた。
京都市街図。
その四箇所 ――「嵐山」「賀茂川堤防」「琵琶湖疏水」「円山公園」に、赤い丸印がつけられている。
「いいか、琴乃。闇雲に植えても勝てない」
蓮人は地図上の赤丸を指でなぞった。
「この四箇所の『急所』を桜で埋め尽くし、京都を『桜の回廊』で繋ぐんだ!」
「すごい……!壮大な計画だね」
琴乃が目を輝かせる。
「これなら、きっと京都にも全国から人が集まるよ」
「そうだ。京都の街を全国有数の桜の名所にする」
二人の脳裏には、灰色の街が薄紅色に染まる未来図が描かれていた。
だが現実は足元にある。
蓮人は懐から、使い古した「がま口財布」を取り出し、逆さまに振った。
チャリン……。
落ちてきたのは、銅貨が数枚だけ。虚しい音が路地に吸い込まれる。
「……で、問題はこれだ」
蓮人の声が沈む。
「苗木を買う金が一銭もねえ」
「あ……」
「桜の苗木は一本五銭。一万本植えるとして……五百円(現在の価値で約一千万円)は必要だ」
五百円。
今の二人にとっては、天文学的な数字だった。
日々の米を買うのさえ苦労しているのに、家一軒が建つほどの金など、逆立ちしても出てこない。
「俺たちの全財産じゃ、三本買って終わりだ」
「うぅ……。世知辛いね……」
琴乃が肩を落とす。
アイデアはある。場所も決めた。琴乃の『命刻輪廻の掌握』を使えば、時間も短縮できる。
揃わないのは「金」だけだ。
だが、その「金」こそが、財前たちが持っていて自分たちが持っていない、決定的な力だった。
「……一度、家に帰るぞ」
しばらく考え込んだ後、蓮人が顔を上げた。その目に決死の光が宿る。
「え?お金を取りに?」
琴乃は、空っぽの財布を握りしめて不安げに首を傾げたが、蓮人の瞳に宿った獲物を射抜くような鋭い光を見て、思わず言葉を飲み込んだ。
「いや。……『天宮家の誇り』を取りにな」
天宮家が住む、ボロボロの長屋。カビ臭い押し入れの奥から、蓮人は一つの桐箱を取り出した。
蓋を開けると、防虫香の匂いとともに、死に絶えたはずの「天宮」の残り香が部屋に広がった。
そこに横たわっていたのは、漆黒の羽織。
五年間、一度も袖を通さなかったその黒紋付は、カビの臭いさえ寄せ付けない異様な品格を放っていた。
背中には、天宮家の家紋が金糸で刺繍されている。
かつては太陽を背負うとまで言われたその意匠は、没落の埃を被ってもなお、不気味なほど鮮やかに蓮人を睨み返しているようだった。
「親父が残した、唯一の遺産だ。……いや、今の俺たちには『呪い』だな、これは」
「うわ~、綺麗な着物ね……」
隣で琴乃が感嘆の声を漏らし、指先でその金糸をなぞる。蓮人は自嘲気味に笑った。
「質に入れようか何度も迷ったが……とっておいて良かったぜ。これを売らなかったのは、俺の中に残った最後のみっともない未練だ」
蓮人はその布の重みを、失った屋敷や、消えた家族の命の重さとして感じ取りながら、震える手で袖を通した。
袴(はかま)の紐をギュッと結び直す。
その瞬間。 蓮人の顔から、慣れ親しんだ「道化」の表情が、剥がれ落ちるように消えた。
背筋が伸び、顎が上がり、かつて名門士族の嫡男として育てられた頃の――若き当主の姿が、夕闇の長屋に蘇る。
この羽織を着るということは、世界中に「俺はまだ天宮として生きている」と宣言することだ。
「行くぞ、琴乃。……俺たちの『血筋』を金に換える」
鏡の中に立つ自分は、もはや道化でも貧乏学生でもなかった。
泥をすすり、地べたを這いずり回る覚悟をその瞳に宿した『名門士族』の貌(かお)をしていた。
「……うん!蓮人くん、かっこいいよ」
琴乃が頼もしげに頷く。
その言葉を鎧(よろい)にして、蓮人と琴乃は戦場へと向かった。
戦場の名は、豪商・大黒屋(だいこくや)
成金の象徴とも言える、大黒屋剛山(ごうざん)の屋敷だ。
門の前で、番頭が立ちはだかった。
「帰れ帰れ!旦那様は忙しいんだ!学生風情が会える方じゃない!」
「……おや」
蓮人は冷ややかに目を細めた。学生の目ではない、名門士族の目だ。
「天宮家の当主を門前払いとは。大黒屋さんともあろうお方が、随分と礼儀を知らぬ使用人を飼っておられる」
パチン、と扇子を閉じる音が響く。
その堂々たる威圧感と、羽織の家紋を見て、番頭がたじろいだ。
「あ、天宮……?まさか数年前までは隆盛を誇っていた……あの一族?」
「腐っても鯛、枯れても天宮だ。……通してくれ」
ハッタリは通じた。だが本丸は甘くなかった。
通された応接間は、悪趣味なほど豪華だった。
虎の敷物、金箔の屏風、巨大な壺。和と洋が喧嘩をしているような空間だ。
その中央、革張りのソファにふんぞり返っているのが、大黒屋剛山だった。太い指で葉巻を弄んでいる。
「お目通りいただき、ありがとうございます」
蓮人が頭を下げた。
「フン。天宮の若造か」
剛山は蓮人を一瞥しただけで、興味なさそうに煙を吐いた。
「何の用だ?金の無心なら、他を当たれ」
蓮人は、自分を物乞いと決めつける剛山の視線を冷徹に跳ね除け、気高き当主の貌(かお)で静かに言い放った。
「単刀直入に言います。……一万本の桜を京の街に植えるための出資をお願いしたい」
「はっ! 桜だと?」
剛山が鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。そんなもん、一銭の得にもならんわ!」
琴乃も懸命に頼み込むが、剛山の手は止まらない。
「剛山様、話だけでも最後まで聞いていただけませんか?」
「わしは忙しいんじゃ。財前様との商談も控えておる。帰れ!」
剛山が手を振ると、控えていた屈強な用心棒たちが蓮人の腕を掴んだ。
「旦那様が帰れと言ってるんだ。出ろ!」
「離せ!まだ話は……!」
問答無用で引きずり出されそうになる蓮人。
(くそっ……! やはり「血筋」だけじゃ、もう通用しないのか!)
絶望がよぎったその時。 琴乃が、部屋の隅にある「異質なもの」に気づいた。
「……?」
(……変だわ)
琴乃の観察眼が、豪華な調度品の中に混じった違和感を捉える。
一つは、壁に飾られた「巨大な剛山の肖像画」。
もう一つは、部屋の片隅にある「立派すぎる仏壇」とその横に広げられた「家系図」だ。
(こんな洋風の応接間に、仏壇?それにあの家系図……紙が真っ白。新しく作り直したみたいにピカピカ)
(旦那さん、さっきから話してる間も……チラチラと自分の肖像画を気にしてる)
琴乃の脳内で、点と点が繋がった。
それは、剛山という男の心の鎧の隙間だった。
琴乃は用心棒に掴まれながら、蓮人に囁いた。
「(小声)……蓮人くん。一度、出直しましょう」
「えっ」
「お時間いただき、ありがとうございました。また改めて伺います」
琴乃は蓮人の腕を強く引き、自ら出口へと向かった。
「二度と来るな!血筋だけの貧乏人が!」
剛山の罵声を背に、二人は屋敷を追い出された。
夕暮れの鴨川沿い。
茜色の空の下、二人はとぼとぼと歩いていた。
「……はぁ。参ったな」
蓮人が大きく息を吐き、苛立ち紛れに小石を蹴った。
「まさか、あそこまで聞く耳持たないとは。金持ちってのは、もっと地元に貢献しそうなもんだけどな……」
「……蓮人くん」
少し後ろを歩いていた琴乃が、声をかけた。
「ん?」
「あのおじさん……死んで忘れられるのが怖いんだと思う」
蓮人は足を止めて振り返った。
「は?死ぬのが怖い?それって誰でもそうじゃないか」
「うん。……だけど……部屋、見たでしょ?」
琴乃は静かに、けれど確信を持って語り始めた。
「壁には自分の大きな肖像画。隅には立派すぎる仏壇。それに、新しく作り直したピカピカの家系図」
「……言われてみれば。成金にしちゃあ、妙に先祖とか気にしてたな」
「私には……あれが全部『悲鳴』に見えたの」
琴乃の瞳が、夕日を反射して鋭く光る。
「お金持ちになって、何でも手に入れたけど……『死んだら忘れ去られる』ってことが、一番の恐怖なんじゃないかな。
だから、必死に『自分が生きた証』を残そうとしてる」
その分析を聞いた瞬間、蓮人はハッとして数秒間、虚空を見つめた。
策士の脳細胞が、高速で回転を始める。
「……なるほど」
金で買えるものは全部買った男。
次は何が欲しい?あいつが喉から手が出るほど欲しいのは……『金』じゃなくて……。
「名誉か!生きた証」
カチッ。蓮人の脳内で、歯車が噛み合う音がした。
彼の顔に、ニヤリと、悪巧みをする子供のような笑みが浮かぶ。
いや、それは獲物を見つけた狩人の笑みだった。
「……いけるぞ、琴乃」
「え?」
「あいつの『願望』を、俺たちの『商品』に変えるんだ」
蓮人は懐から手帳を取り出し、サラサラと何かを書き始めた。
「次は『寄付』の話はやめる。こう提案するんだ。『あなたの名前を永遠に残しませんか』ってな」
「名前を……?」
「ああ。桜の木の根元に、出資者の名前を彫った『石碑』を建てる」
蓮人はバチンと手帳を閉じた。
「桜が咲くたびに、人々はその名前を見る。孫の代、そのまた孫の代まで……『京都を救った英雄』として語り継がれる」
「金じゃ買えない『名誉』と『永遠』。……それを俺たちが売ってやるんだ」
琴乃は目を丸くし、そしてクスッと笑った。
「……ふふ。すごい。そんなこと思いつくなんて……やっぱり蓮人くんのハッタリは超一流だね」
「人聞きが悪いな。『仕掛人』と言え」
蓮人は照れ隠しに、琴乃の頭をガシガシと撫でた。
「ナイスだ、琴乃。お前の『観察眼』がなきゃ、気付けなかった。……ありがとな」
「……うん」
二人は顔を見合わせ、共犯者の笑みを浮かべた。
今、二人は最強のパートナーだ。言葉にしなくとも、互いの役割を完璧に理解している。
「よし、作戦開始だ。あの大狸(剛山)から……『永遠』を担保に、金をごっそり引き出してやる!」
東の山々を背にした鴨川の河川敷は、黒い煤煙(ばいえん)に覆われている。
財前家が主導する「琵琶湖疏水(びわこそすい)」の建設現場だ。
英国から輸入されたばかりの巨大な蒸気ボイラーが、怪物の咆哮のような音を立てて鎮座している。
その轟音は、古い都の静寂を食い破る文明の産声だった。
「……予定より四十秒遅れている」
財前征一郎は、現場の泥に革靴を汚すことを厭(いと)わず、懐中時計の秒針を睨みつけていた。
「も、申し訳ありません財前様!すぐに作業員を急がせ……」
「馬鹿者が」
財前の冷徹な声が、現場監督の言葉を遮った。
「誰が『急がせろ』と言った? 逆だ。『交代』させろ」
「は……?」
「この四十秒の遅れを取り戻そうとして、作業員が焦れば事故が起きる。
……この区画の班は、すでに規定の労働時間を超えそうだ。集中力が切れる時間だぞ」
財前は、煤(すす)まみれで働く作業員たちを、鋭い眼光で見回した。
「代わりの班を投入しろ。疲弊した人間を現場に置くな。……それは非効率であり、命の浪費だ」
現場監督がハッとして頭を下げる。
「は、はいっ! すぐに休憩させます!」
「急げ。僕の計画では『過労死や事故死』を最小限に防ぐことになっている。
……作業員の命もまた、国家の貴重なリソース(資源)だ」
財前は懐中時計をパチンと閉じた。
「金と鉄と蒸気。……これこそが『力』だ」
財前は巻き上がる黒煙を見上げながら冷徹に呟いた。
「天宮のような血筋だけの貧乏人が入り込む隙間など、一ミリもない」
その言葉は、確信というよりは物理法則のように、重く響いた。
対照的に静まり返った路地裏。
湿った苔の匂いがする石畳の上で、天宮蓮人と九条琴乃は一枚の地図を広げていた。
京都市街図。
その四箇所 ――「嵐山」「賀茂川堤防」「琵琶湖疏水」「円山公園」に、赤い丸印がつけられている。
「いいか、琴乃。闇雲に植えても勝てない」
蓮人は地図上の赤丸を指でなぞった。
「この四箇所の『急所』を桜で埋め尽くし、京都を『桜の回廊』で繋ぐんだ!」
「すごい……!壮大な計画だね」
琴乃が目を輝かせる。
「これなら、きっと京都にも全国から人が集まるよ」
「そうだ。京都の街を全国有数の桜の名所にする」
二人の脳裏には、灰色の街が薄紅色に染まる未来図が描かれていた。
だが現実は足元にある。
蓮人は懐から、使い古した「がま口財布」を取り出し、逆さまに振った。
チャリン……。
落ちてきたのは、銅貨が数枚だけ。虚しい音が路地に吸い込まれる。
「……で、問題はこれだ」
蓮人の声が沈む。
「苗木を買う金が一銭もねえ」
「あ……」
「桜の苗木は一本五銭。一万本植えるとして……五百円(現在の価値で約一千万円)は必要だ」
五百円。
今の二人にとっては、天文学的な数字だった。
日々の米を買うのさえ苦労しているのに、家一軒が建つほどの金など、逆立ちしても出てこない。
「俺たちの全財産じゃ、三本買って終わりだ」
「うぅ……。世知辛いね……」
琴乃が肩を落とす。
アイデアはある。場所も決めた。琴乃の『命刻輪廻の掌握』を使えば、時間も短縮できる。
揃わないのは「金」だけだ。
だが、その「金」こそが、財前たちが持っていて自分たちが持っていない、決定的な力だった。
「……一度、家に帰るぞ」
しばらく考え込んだ後、蓮人が顔を上げた。その目に決死の光が宿る。
「え?お金を取りに?」
琴乃は、空っぽの財布を握りしめて不安げに首を傾げたが、蓮人の瞳に宿った獲物を射抜くような鋭い光を見て、思わず言葉を飲み込んだ。
「いや。……『天宮家の誇り』を取りにな」
天宮家が住む、ボロボロの長屋。カビ臭い押し入れの奥から、蓮人は一つの桐箱を取り出した。
蓋を開けると、防虫香の匂いとともに、死に絶えたはずの「天宮」の残り香が部屋に広がった。
そこに横たわっていたのは、漆黒の羽織。
五年間、一度も袖を通さなかったその黒紋付は、カビの臭いさえ寄せ付けない異様な品格を放っていた。
背中には、天宮家の家紋が金糸で刺繍されている。
かつては太陽を背負うとまで言われたその意匠は、没落の埃を被ってもなお、不気味なほど鮮やかに蓮人を睨み返しているようだった。
「親父が残した、唯一の遺産だ。……いや、今の俺たちには『呪い』だな、これは」
「うわ~、綺麗な着物ね……」
隣で琴乃が感嘆の声を漏らし、指先でその金糸をなぞる。蓮人は自嘲気味に笑った。
「質に入れようか何度も迷ったが……とっておいて良かったぜ。これを売らなかったのは、俺の中に残った最後のみっともない未練だ」
蓮人はその布の重みを、失った屋敷や、消えた家族の命の重さとして感じ取りながら、震える手で袖を通した。
袴(はかま)の紐をギュッと結び直す。
その瞬間。 蓮人の顔から、慣れ親しんだ「道化」の表情が、剥がれ落ちるように消えた。
背筋が伸び、顎が上がり、かつて名門士族の嫡男として育てられた頃の――若き当主の姿が、夕闇の長屋に蘇る。
この羽織を着るということは、世界中に「俺はまだ天宮として生きている」と宣言することだ。
「行くぞ、琴乃。……俺たちの『血筋』を金に換える」
鏡の中に立つ自分は、もはや道化でも貧乏学生でもなかった。
泥をすすり、地べたを這いずり回る覚悟をその瞳に宿した『名門士族』の貌(かお)をしていた。
「……うん!蓮人くん、かっこいいよ」
琴乃が頼もしげに頷く。
その言葉を鎧(よろい)にして、蓮人と琴乃は戦場へと向かった。
戦場の名は、豪商・大黒屋(だいこくや)
成金の象徴とも言える、大黒屋剛山(ごうざん)の屋敷だ。
門の前で、番頭が立ちはだかった。
「帰れ帰れ!旦那様は忙しいんだ!学生風情が会える方じゃない!」
「……おや」
蓮人は冷ややかに目を細めた。学生の目ではない、名門士族の目だ。
「天宮家の当主を門前払いとは。大黒屋さんともあろうお方が、随分と礼儀を知らぬ使用人を飼っておられる」
パチン、と扇子を閉じる音が響く。
その堂々たる威圧感と、羽織の家紋を見て、番頭がたじろいだ。
「あ、天宮……?まさか数年前までは隆盛を誇っていた……あの一族?」
「腐っても鯛、枯れても天宮だ。……通してくれ」
ハッタリは通じた。だが本丸は甘くなかった。
通された応接間は、悪趣味なほど豪華だった。
虎の敷物、金箔の屏風、巨大な壺。和と洋が喧嘩をしているような空間だ。
その中央、革張りのソファにふんぞり返っているのが、大黒屋剛山だった。太い指で葉巻を弄んでいる。
「お目通りいただき、ありがとうございます」
蓮人が頭を下げた。
「フン。天宮の若造か」
剛山は蓮人を一瞥しただけで、興味なさそうに煙を吐いた。
「何の用だ?金の無心なら、他を当たれ」
蓮人は、自分を物乞いと決めつける剛山の視線を冷徹に跳ね除け、気高き当主の貌(かお)で静かに言い放った。
「単刀直入に言います。……一万本の桜を京の街に植えるための出資をお願いしたい」
「はっ! 桜だと?」
剛山が鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。そんなもん、一銭の得にもならんわ!」
琴乃も懸命に頼み込むが、剛山の手は止まらない。
「剛山様、話だけでも最後まで聞いていただけませんか?」
「わしは忙しいんじゃ。財前様との商談も控えておる。帰れ!」
剛山が手を振ると、控えていた屈強な用心棒たちが蓮人の腕を掴んだ。
「旦那様が帰れと言ってるんだ。出ろ!」
「離せ!まだ話は……!」
問答無用で引きずり出されそうになる蓮人。
(くそっ……! やはり「血筋」だけじゃ、もう通用しないのか!)
絶望がよぎったその時。 琴乃が、部屋の隅にある「異質なもの」に気づいた。
「……?」
(……変だわ)
琴乃の観察眼が、豪華な調度品の中に混じった違和感を捉える。
一つは、壁に飾られた「巨大な剛山の肖像画」。
もう一つは、部屋の片隅にある「立派すぎる仏壇」とその横に広げられた「家系図」だ。
(こんな洋風の応接間に、仏壇?それにあの家系図……紙が真っ白。新しく作り直したみたいにピカピカ)
(旦那さん、さっきから話してる間も……チラチラと自分の肖像画を気にしてる)
琴乃の脳内で、点と点が繋がった。
それは、剛山という男の心の鎧の隙間だった。
琴乃は用心棒に掴まれながら、蓮人に囁いた。
「(小声)……蓮人くん。一度、出直しましょう」
「えっ」
「お時間いただき、ありがとうございました。また改めて伺います」
琴乃は蓮人の腕を強く引き、自ら出口へと向かった。
「二度と来るな!血筋だけの貧乏人が!」
剛山の罵声を背に、二人は屋敷を追い出された。
夕暮れの鴨川沿い。
茜色の空の下、二人はとぼとぼと歩いていた。
「……はぁ。参ったな」
蓮人が大きく息を吐き、苛立ち紛れに小石を蹴った。
「まさか、あそこまで聞く耳持たないとは。金持ちってのは、もっと地元に貢献しそうなもんだけどな……」
「……蓮人くん」
少し後ろを歩いていた琴乃が、声をかけた。
「ん?」
「あのおじさん……死んで忘れられるのが怖いんだと思う」
蓮人は足を止めて振り返った。
「は?死ぬのが怖い?それって誰でもそうじゃないか」
「うん。……だけど……部屋、見たでしょ?」
琴乃は静かに、けれど確信を持って語り始めた。
「壁には自分の大きな肖像画。隅には立派すぎる仏壇。それに、新しく作り直したピカピカの家系図」
「……言われてみれば。成金にしちゃあ、妙に先祖とか気にしてたな」
「私には……あれが全部『悲鳴』に見えたの」
琴乃の瞳が、夕日を反射して鋭く光る。
「お金持ちになって、何でも手に入れたけど……『死んだら忘れ去られる』ってことが、一番の恐怖なんじゃないかな。
だから、必死に『自分が生きた証』を残そうとしてる」
その分析を聞いた瞬間、蓮人はハッとして数秒間、虚空を見つめた。
策士の脳細胞が、高速で回転を始める。
「……なるほど」
金で買えるものは全部買った男。
次は何が欲しい?あいつが喉から手が出るほど欲しいのは……『金』じゃなくて……。
「名誉か!生きた証」
カチッ。蓮人の脳内で、歯車が噛み合う音がした。
彼の顔に、ニヤリと、悪巧みをする子供のような笑みが浮かぶ。
いや、それは獲物を見つけた狩人の笑みだった。
「……いけるぞ、琴乃」
「え?」
「あいつの『願望』を、俺たちの『商品』に変えるんだ」
蓮人は懐から手帳を取り出し、サラサラと何かを書き始めた。
「次は『寄付』の話はやめる。こう提案するんだ。『あなたの名前を永遠に残しませんか』ってな」
「名前を……?」
「ああ。桜の木の根元に、出資者の名前を彫った『石碑』を建てる」
蓮人はバチンと手帳を閉じた。
「桜が咲くたびに、人々はその名前を見る。孫の代、そのまた孫の代まで……『京都を救った英雄』として語り継がれる」
「金じゃ買えない『名誉』と『永遠』。……それを俺たちが売ってやるんだ」
琴乃は目を丸くし、そしてクスッと笑った。
「……ふふ。すごい。そんなこと思いつくなんて……やっぱり蓮人くんのハッタリは超一流だね」
「人聞きが悪いな。『仕掛人』と言え」
蓮人は照れ隠しに、琴乃の頭をガシガシと撫でた。
「ナイスだ、琴乃。お前の『観察眼』がなきゃ、気付けなかった。……ありがとな」
「……うん」
二人は顔を見合わせ、共犯者の笑みを浮かべた。
今、二人は最強のパートナーだ。言葉にしなくとも、互いの役割を完璧に理解している。
「よし、作戦開始だ。あの大狸(剛山)から……『永遠』を担保に、金をごっそり引き出してやる!」
