財前征一郎と伊集院エリザが去った後の鴨川の河川敷には、湿った川風だけが残されていた。
二人の足元には、干からびたアマガエルの死骸が転がっている。
つい先刻まで瑞々しく跳ねていた命の残骸だ。
九条琴乃は震えながら、自分の左手を胸に抱きしめていた。
その手が、無邪気な命を奪った感触が、皮膚にこびりついて離れない。
「……ごめんなさい。カエルさん」
琴乃の声は、消え入りそうだった。
「まあ、落ち込むな。カエルはあとで墓を作って成仏させてやろう」
「う、うん……」
天宮蓮人は、努めて明るく振る舞いながら琴乃の肩を叩いた。
だが、その目は笑っていなかった。
彼の脳裏には、先ほどの財前の言葉が、呪いのようにリフレインしていた。
『君が泥をこねている間に、地図が書き換わるぞ』
『時間を無駄にするな』
「……ん? 待てよ」
蓮人の表情が変わる。
不安と焦燥が混ざり合った混沌の中で、一つの「論理」が閃いたのだ。
「あいつら……『時間を無駄にするな』って言ってたな」
蓮人は独り言のように呟いた。
その瞳に、ギラリとした獲物を狙う猛禽類のような光が宿る。
「……ハッ。上等だ。俺たちが一番『時間』を有効に使ってやるよ」
(桜のアイデア。「時間」という壁。「一瞬で時間を進める」能力)
バラバラだったピースが、蓮人の脳内で猛スピードで組み合わさっていく。
蓮人は荒い息を吐きながら、髪をぐしゃぐしゃとかきむしった。
焦燥ではない。これは、起死回生の一手を見つけた興奮だ。
(……落ち着け!考えろ!天宮蓮人)
(カエルは『老化』したんじゃない。一瞬で『一生分の時間を生きた』んだ……つまり)
(琴乃の能力は『死』を与えることではなく、『時間の圧縮』……つまり『成長の促進』だとも考えられないか)
蓮人は顔を上げ、琴乃を見据えた。
「……琴乃。この能力が生き物だけでなく、もし植物にも使えるとしたら?」
「え?」
「実験だ」
蓮人は足元の草むらを指差した。
そこには、小さなタンポポのつぼみがあった。
夕暮れの中で身を固く閉じている。
「あのタンポポのつぼみに触ってみろ。さっきのカエルみたいに……こいつを『殺して』みろ」
「えっ!?でも、枯れちゃうよ?」
琴乃が後ずさる。
これ以上、自分の手で何かを壊すのは耐えられない。
「そんな可哀想なこと……」
「いいから!やれ!俺を信じろ!」
蓮人の真剣な眼差しに、琴乃は息を呑んだ。
そこには狂気にも似た確信があった。今の彼にとって、これは遊びではない。生き残るための賭けなのだ。
(……蓮人くんが言うなら)
(私が死神でも、彼が必要としてくれるなら……)
琴乃は覚悟を決めた。恐る恐る左手の指先を伸ばす。
小さな緑色のつぼみに、震える指先が触れる。
ボッ!!
一瞬で茎が震えた。
つぼみがみるみる膨らみ、ほころび、鮮やかな黄色の花がパッと開いた。
「あ……!」
「咲いた……!植物にも使えることが証明された」
さらに数秒後。花は綿毛になり、風に乗って飛び散り、最後は茎が枯れて地面に倒れた。
植物の一生が、瞬きの間に駆け抜けていった。
二人の目の前には、枯れ草だけが残る。
「……やっぱり、最後は死んじゃう」
琴乃はその場にしゃがみ込み、自分の左手を見つめた。震えが止まらない。
「私の手は、何も生み出せない……死神の手だよ……」
「待て。諦めるな」
蓮人は隣に見える別のつぼみを指差した。
「もう一度だ、琴乃」
「い、いや!もう嫌……!」
「やるんだ!さっきは『殺す』つもりでやったから、一気に時間が進みすぎたんだ」
蓮人は琴乃に歩み寄った。
「力を加減できれば……結果は変わるかもしれねえ」
「今度は、成長が緩やかになるように祈りながら触れてみろ。気持ちを植物に送るんだ。……例えば、今から十分後に花が咲くように」
「十分後……」
「ああ。想いを込めろ」
琴乃は涙を拭い、再び別の蕾に手を伸ばした。
今度は優しく、時間を慈しむように。赤子を撫でるように。
(……咲いて。ゆっくり……ゆっくり……)
触れる。
……何も起きない。
「……ダメ、みたい」
「いや、しばらく待とう」
蓮人はじっと蕾を見つめた。
一分、五分、八分……。そして約十分後。
ゆっくりと小さな音を立てて、蕾がふわりと開いた。
今度は散らない。枯れない。
鮮やかな黄色い花が、夕闇の中で美しく咲き誇っている。
「……咲いた」
蓮人の声が震えた。
「枯れてねえぞ、琴乃!成功だ!」
「あ……」
琴乃は、呆然と手のひらの上の花を見た。
枯れていない。生きている。私が触れたのに、生きている。
「制御できるんだ。お前の意思で、時間は操れる!」
琴乃の震えは止まらなかった。喜びよりも、恐怖が勝る。
こんな強大な力を、自分が持っているなんて。
もし制御を誤れば、大切なものさえ一瞬で塵にしてしまうかもしれない。
ガシッ!!蓮人が琴乃の左手首を掴んだ。
「触らないで!」
琴乃は悲鳴を上げた。
「蓮人くんまで、死んじゃうよ!?」
「ひっ……!?」
「離して!死んじゃう!時間が奪われちゃう……!」
蓮人は、琴乃の左手をさらに力強く握りしめた。
骨がきしむほど強く。
「うるせえ!!制御できたじゃねえか」
蓮人は琴乃をグイと引き寄せ、その目を真っ直ぐに見据えた。
「俺は死なねえよ」
「……お前を幸せにするまではな」
「え……」
蓮人は、琴乃の手のひらを自分の頬に当てた。
温かい。脈打っている。
死神の手なんかじゃない、人間の手だ。
「見ただろ? 花は咲いたんだ」
「お前の能力は『老化』させることじゃなかったんだ。『時間を進めて成長させられる』能力だったんだ」
「これは……死神の手なんかじゃない」
「一生、お前を守るために、あいつらに勝つために俺を成長させる手だ」
蓮人はニヤリと不敵に笑った。
その笑顔は、琴乃がずっと見たかった、あの頃の自信に満ちた彼だった。
「……っ!」
「この手を握れるのは俺だけ、俺だけの特権だ」
琴乃の目から、大粒の涙が溢れ出した。
自分自身でさえ忌み嫌っていた左手を、彼は頬に当ててくれた。
「特権」だと言ってくれた。
「……思いついたぞ、琴乃」
蓮人の目に、野心の火が灯る。
策士としての計算が、音を立てて組み上がっていく。
「カエルに使えば寿命が尽きて死ぬ。だが……『これから育つ桜の苗木』に使えばどうだ?」
「立派な桜の成木は高すぎて買えない。だが、種や苗木なら二束三文だ」
「俺たちは、安い苗木を大量に買い集める。それをお前の手で『成木(大人の木)』を来年4月に調整して、寸止めするんだ!」
琴乃は、自分の呪われた左手と蓮人の顔を交互に見つめ、その発想に呆然と息を呑んだ。
「え……」
蓮人は前のめりになり、どん底から未来を掴み取らんとする強欲な光をその瞳に宿した。
「そうすれば、金のない俺たちでも短い期間で立派な桜並木が作れる!」
「四、五年かかる桜を、一年で咲かせる。……お前の『能力』があれば、俺たちは未来を先取りできるんだ!」
琴乃の脳裏で、今まで忌み嫌っていた『死』の力が、都を救う鮮やかな希望の輝きへと塗り替えられていく。
「そ、そんな使い方が……!」
蓮人は、彼女の呪いごと運命を背負う覚悟を決め、最高に悪趣味で不敵な笑みを深く刻んだ。
「カエル殺しの呪いが、都を救う『神の御手』に化ける瞬間だ!」
蓮人は琴乃の手を強く握った。
「やろうぜ、琴乃。俺たちの『桜』で、この衰退した京都をひっくり返すんだ」
琴乃は涙を拭って顔を上げた。
その表情から、卑屈な色は消えていた。
あるのは、愛する人のために能力を活用する覚悟だけだ。
「……蓮人くん」
「もしこの力が、あなたの夢の役に立つなら」
琴乃は、潤んだ瞳で強く微笑んだ。
「私、死神にだってなるよ。……怖くない」
「咲かせる。蓮人くんのために……何千本だって……!」
「……ああ。頼もしいな。でも死神にはなってほしくない」
蓮人は少し照れくさそうに視線を逸らし、繋いだままの手を見た。
「……その能力……名前をつけるか」
「え?」
『老化』とか『死』とか、縁起でもねえからな。……かっこよくしようぜ」
蓮人は少し考えてから呟いた。
「『命刻輪廻の掌握(めいこくりんねのしょうあく)』……ってのはどうだ」
「めいこく、りんね……?」
「ああ。ただ命の時間を削り、刻むだけじゃねえ。『輪廻』を丸ごと琴乃の手で『掌握』して、一番綺麗な時期まで進めるって意味だ」
蓮人はぶっきらぼうに、けれど愛おしげに琴乃の手を見つめた。
「お前のこの手は、命を奪う死神の手なんかじゃない。一瞬で桜を生まれ変わらせる、神様すら騙す魔法の手だ」
「……!」
「『命刻輪廻の掌握』……。うん、すごい。なんだか私まで、強くなれた気がする」
琴乃は嬉しそうに自分の手を見つめた。
さっきまで呪いと思っていた手が、今は最強の武器のように思える。
「私のこの能力は、絶対に誰にも言わないでね」
「気持ち悪がらないのは、世界で蓮人くんだけだから」
「…………」
蓮人はフンと鼻を鳴らした。
「いや、俺も気持ち悪いと思うよ」
「えっ」
「カエル干からびさせる女とか、普通にホラーだろ」
「ひ、ひどい!さっき『魔法の手』って言ったのに!」
「あー、言ったっけ? 忘れた」
蓮人はニシシと悪戯っぽく笑った。
琴乃も、つられてクスッと笑う。
「……誰にも言わねえよ。墓まで持ってく」
「……墓まで、か。うん、絶対一緒に入ろうね、蓮人くん」
「え! そういう意味じゃねえよ」
「……ふふ。二人だけの秘密ができたね」
(……ああ、誰にも言ってたまるか)
蓮人は心の中で誓った。
(触れると死ぬ死神の手。……だが、俺だけがこの手を握ってやれる)
(この危険な手の手綱を握れるのは、世界で俺ひとりだ)
夕闇の中、二人の影が一つに重なる。
蓮人は気合を入れ直すように頬を叩いた。
ふと、隣を歩く琴乃の左手を見る。
「……それにしても」
「なんでお前に、そんな『能力(チカラ)』があるんだ?」
「お前の家系……九条家には、代々そういう力が伝わってるのか?」
「ううん。全然知らないの」
琴乃は首を横に振った。
「お母様とも、おばあ様とも、そんな話一度もしてないもの。……たぶん私だけよ」
「どこから来たのか……誰が与えたのか……私にも全くわからないの」
「ふうん……突然変異ってやつか?」
「わからないわ。家族にも言ってないからね」
「ま、今はその『出所不明のチカラ』でも、猫の手よりはマシか……」
「そうよ。二人で力を合わせて、京都中を桜で埋め尽くしましょう」
「ところで。……俺たちがこれから始める『桜満開の計画』には、最高に目立つ名前が必要だ」
蓮人は繋いだ手を解き、夕闇に沈む京都の街を、値踏みするように見渡した。
「ただの『植樹』じゃ、民衆の心も踊らねえ。俺たちが売るのは、この都を丸ごと塗り替える一世一代の計画だ。
……誰もが、思わず命を預けたくなるような、毒の回った名前をつけてやる」
蓮人は不敵に笑い、言い放った。
『明治京都桜花心中(めいじきょうとおうかしんじゅう)』。……これが、俺たちが世間にぶち上げる計画名だ」
「……心中?」
琴乃がその不吉で、けれど甘美な響きを反芻する。
「ああ。桜を咲かせて京を救うか、それともこのまま都と共に泥水を啜って果てるか。
俺たちの命も、天宮家と九条家の誇りも、全部この一万本の桜にぶち込んで心中する。
……これくらいの『覚悟』を看板にしなきゃ、地獄の王も世間も納得しねえ」
「……心中? ふふっ、いいわね。最高に悪趣味だね」
琴乃は声を立てて小さく笑った。
さっきまでの震えは消え、その瞳には蓮人さえ射抜くような鋭く艶やかな光が宿っている。
「蓮人くんと二人で、薄紅色の花びらに埋もれて消える覚悟……。そんな最悪で最高の『ハッタリ』私、嫌いじゃないわよ」
「……琴乃?」
蓮人が呆気に取られるのを余所に、琴乃は一歩踏み出し、彼の顔を覗き込んだ。
「いいわ。その『心中』、私が最後まで形にしてあげる。京の民も、地獄の王様も……みんなまとめて、私たちのハッタリで降参させてやりましょうよ」
琴乃は、自分の「命刻輪廻の掌握」を蓮人の手のひらに重ねた。
「地獄の底まで付き合ってあげる。……覚悟しなさいね、蓮人くん」
「……上等だ。命がけの大型契約、きっちり結ばせてもらうぜ」
蓮人は彼女の凄みに一瞬息を呑みつつも、最高に悪びれた笑みを浮かべた。
明治16年5月。
凡人の詐欺師と死神の令嬢による、命がけの「明治京都桜花心中」が今、高らかに宣言された。
二人の足元には、干からびたアマガエルの死骸が転がっている。
つい先刻まで瑞々しく跳ねていた命の残骸だ。
九条琴乃は震えながら、自分の左手を胸に抱きしめていた。
その手が、無邪気な命を奪った感触が、皮膚にこびりついて離れない。
「……ごめんなさい。カエルさん」
琴乃の声は、消え入りそうだった。
「まあ、落ち込むな。カエルはあとで墓を作って成仏させてやろう」
「う、うん……」
天宮蓮人は、努めて明るく振る舞いながら琴乃の肩を叩いた。
だが、その目は笑っていなかった。
彼の脳裏には、先ほどの財前の言葉が、呪いのようにリフレインしていた。
『君が泥をこねている間に、地図が書き換わるぞ』
『時間を無駄にするな』
「……ん? 待てよ」
蓮人の表情が変わる。
不安と焦燥が混ざり合った混沌の中で、一つの「論理」が閃いたのだ。
「あいつら……『時間を無駄にするな』って言ってたな」
蓮人は独り言のように呟いた。
その瞳に、ギラリとした獲物を狙う猛禽類のような光が宿る。
「……ハッ。上等だ。俺たちが一番『時間』を有効に使ってやるよ」
(桜のアイデア。「時間」という壁。「一瞬で時間を進める」能力)
バラバラだったピースが、蓮人の脳内で猛スピードで組み合わさっていく。
蓮人は荒い息を吐きながら、髪をぐしゃぐしゃとかきむしった。
焦燥ではない。これは、起死回生の一手を見つけた興奮だ。
(……落ち着け!考えろ!天宮蓮人)
(カエルは『老化』したんじゃない。一瞬で『一生分の時間を生きた』んだ……つまり)
(琴乃の能力は『死』を与えることではなく、『時間の圧縮』……つまり『成長の促進』だとも考えられないか)
蓮人は顔を上げ、琴乃を見据えた。
「……琴乃。この能力が生き物だけでなく、もし植物にも使えるとしたら?」
「え?」
「実験だ」
蓮人は足元の草むらを指差した。
そこには、小さなタンポポのつぼみがあった。
夕暮れの中で身を固く閉じている。
「あのタンポポのつぼみに触ってみろ。さっきのカエルみたいに……こいつを『殺して』みろ」
「えっ!?でも、枯れちゃうよ?」
琴乃が後ずさる。
これ以上、自分の手で何かを壊すのは耐えられない。
「そんな可哀想なこと……」
「いいから!やれ!俺を信じろ!」
蓮人の真剣な眼差しに、琴乃は息を呑んだ。
そこには狂気にも似た確信があった。今の彼にとって、これは遊びではない。生き残るための賭けなのだ。
(……蓮人くんが言うなら)
(私が死神でも、彼が必要としてくれるなら……)
琴乃は覚悟を決めた。恐る恐る左手の指先を伸ばす。
小さな緑色のつぼみに、震える指先が触れる。
ボッ!!
一瞬で茎が震えた。
つぼみがみるみる膨らみ、ほころび、鮮やかな黄色の花がパッと開いた。
「あ……!」
「咲いた……!植物にも使えることが証明された」
さらに数秒後。花は綿毛になり、風に乗って飛び散り、最後は茎が枯れて地面に倒れた。
植物の一生が、瞬きの間に駆け抜けていった。
二人の目の前には、枯れ草だけが残る。
「……やっぱり、最後は死んじゃう」
琴乃はその場にしゃがみ込み、自分の左手を見つめた。震えが止まらない。
「私の手は、何も生み出せない……死神の手だよ……」
「待て。諦めるな」
蓮人は隣に見える別のつぼみを指差した。
「もう一度だ、琴乃」
「い、いや!もう嫌……!」
「やるんだ!さっきは『殺す』つもりでやったから、一気に時間が進みすぎたんだ」
蓮人は琴乃に歩み寄った。
「力を加減できれば……結果は変わるかもしれねえ」
「今度は、成長が緩やかになるように祈りながら触れてみろ。気持ちを植物に送るんだ。……例えば、今から十分後に花が咲くように」
「十分後……」
「ああ。想いを込めろ」
琴乃は涙を拭い、再び別の蕾に手を伸ばした。
今度は優しく、時間を慈しむように。赤子を撫でるように。
(……咲いて。ゆっくり……ゆっくり……)
触れる。
……何も起きない。
「……ダメ、みたい」
「いや、しばらく待とう」
蓮人はじっと蕾を見つめた。
一分、五分、八分……。そして約十分後。
ゆっくりと小さな音を立てて、蕾がふわりと開いた。
今度は散らない。枯れない。
鮮やかな黄色い花が、夕闇の中で美しく咲き誇っている。
「……咲いた」
蓮人の声が震えた。
「枯れてねえぞ、琴乃!成功だ!」
「あ……」
琴乃は、呆然と手のひらの上の花を見た。
枯れていない。生きている。私が触れたのに、生きている。
「制御できるんだ。お前の意思で、時間は操れる!」
琴乃の震えは止まらなかった。喜びよりも、恐怖が勝る。
こんな強大な力を、自分が持っているなんて。
もし制御を誤れば、大切なものさえ一瞬で塵にしてしまうかもしれない。
ガシッ!!蓮人が琴乃の左手首を掴んだ。
「触らないで!」
琴乃は悲鳴を上げた。
「蓮人くんまで、死んじゃうよ!?」
「ひっ……!?」
「離して!死んじゃう!時間が奪われちゃう……!」
蓮人は、琴乃の左手をさらに力強く握りしめた。
骨がきしむほど強く。
「うるせえ!!制御できたじゃねえか」
蓮人は琴乃をグイと引き寄せ、その目を真っ直ぐに見据えた。
「俺は死なねえよ」
「……お前を幸せにするまではな」
「え……」
蓮人は、琴乃の手のひらを自分の頬に当てた。
温かい。脈打っている。
死神の手なんかじゃない、人間の手だ。
「見ただろ? 花は咲いたんだ」
「お前の能力は『老化』させることじゃなかったんだ。『時間を進めて成長させられる』能力だったんだ」
「これは……死神の手なんかじゃない」
「一生、お前を守るために、あいつらに勝つために俺を成長させる手だ」
蓮人はニヤリと不敵に笑った。
その笑顔は、琴乃がずっと見たかった、あの頃の自信に満ちた彼だった。
「……っ!」
「この手を握れるのは俺だけ、俺だけの特権だ」
琴乃の目から、大粒の涙が溢れ出した。
自分自身でさえ忌み嫌っていた左手を、彼は頬に当ててくれた。
「特権」だと言ってくれた。
「……思いついたぞ、琴乃」
蓮人の目に、野心の火が灯る。
策士としての計算が、音を立てて組み上がっていく。
「カエルに使えば寿命が尽きて死ぬ。だが……『これから育つ桜の苗木』に使えばどうだ?」
「立派な桜の成木は高すぎて買えない。だが、種や苗木なら二束三文だ」
「俺たちは、安い苗木を大量に買い集める。それをお前の手で『成木(大人の木)』を来年4月に調整して、寸止めするんだ!」
琴乃は、自分の呪われた左手と蓮人の顔を交互に見つめ、その発想に呆然と息を呑んだ。
「え……」
蓮人は前のめりになり、どん底から未来を掴み取らんとする強欲な光をその瞳に宿した。
「そうすれば、金のない俺たちでも短い期間で立派な桜並木が作れる!」
「四、五年かかる桜を、一年で咲かせる。……お前の『能力』があれば、俺たちは未来を先取りできるんだ!」
琴乃の脳裏で、今まで忌み嫌っていた『死』の力が、都を救う鮮やかな希望の輝きへと塗り替えられていく。
「そ、そんな使い方が……!」
蓮人は、彼女の呪いごと運命を背負う覚悟を決め、最高に悪趣味で不敵な笑みを深く刻んだ。
「カエル殺しの呪いが、都を救う『神の御手』に化ける瞬間だ!」
蓮人は琴乃の手を強く握った。
「やろうぜ、琴乃。俺たちの『桜』で、この衰退した京都をひっくり返すんだ」
琴乃は涙を拭って顔を上げた。
その表情から、卑屈な色は消えていた。
あるのは、愛する人のために能力を活用する覚悟だけだ。
「……蓮人くん」
「もしこの力が、あなたの夢の役に立つなら」
琴乃は、潤んだ瞳で強く微笑んだ。
「私、死神にだってなるよ。……怖くない」
「咲かせる。蓮人くんのために……何千本だって……!」
「……ああ。頼もしいな。でも死神にはなってほしくない」
蓮人は少し照れくさそうに視線を逸らし、繋いだままの手を見た。
「……その能力……名前をつけるか」
「え?」
『老化』とか『死』とか、縁起でもねえからな。……かっこよくしようぜ」
蓮人は少し考えてから呟いた。
「『命刻輪廻の掌握(めいこくりんねのしょうあく)』……ってのはどうだ」
「めいこく、りんね……?」
「ああ。ただ命の時間を削り、刻むだけじゃねえ。『輪廻』を丸ごと琴乃の手で『掌握』して、一番綺麗な時期まで進めるって意味だ」
蓮人はぶっきらぼうに、けれど愛おしげに琴乃の手を見つめた。
「お前のこの手は、命を奪う死神の手なんかじゃない。一瞬で桜を生まれ変わらせる、神様すら騙す魔法の手だ」
「……!」
「『命刻輪廻の掌握』……。うん、すごい。なんだか私まで、強くなれた気がする」
琴乃は嬉しそうに自分の手を見つめた。
さっきまで呪いと思っていた手が、今は最強の武器のように思える。
「私のこの能力は、絶対に誰にも言わないでね」
「気持ち悪がらないのは、世界で蓮人くんだけだから」
「…………」
蓮人はフンと鼻を鳴らした。
「いや、俺も気持ち悪いと思うよ」
「えっ」
「カエル干からびさせる女とか、普通にホラーだろ」
「ひ、ひどい!さっき『魔法の手』って言ったのに!」
「あー、言ったっけ? 忘れた」
蓮人はニシシと悪戯っぽく笑った。
琴乃も、つられてクスッと笑う。
「……誰にも言わねえよ。墓まで持ってく」
「……墓まで、か。うん、絶対一緒に入ろうね、蓮人くん」
「え! そういう意味じゃねえよ」
「……ふふ。二人だけの秘密ができたね」
(……ああ、誰にも言ってたまるか)
蓮人は心の中で誓った。
(触れると死ぬ死神の手。……だが、俺だけがこの手を握ってやれる)
(この危険な手の手綱を握れるのは、世界で俺ひとりだ)
夕闇の中、二人の影が一つに重なる。
蓮人は気合を入れ直すように頬を叩いた。
ふと、隣を歩く琴乃の左手を見る。
「……それにしても」
「なんでお前に、そんな『能力(チカラ)』があるんだ?」
「お前の家系……九条家には、代々そういう力が伝わってるのか?」
「ううん。全然知らないの」
琴乃は首を横に振った。
「お母様とも、おばあ様とも、そんな話一度もしてないもの。……たぶん私だけよ」
「どこから来たのか……誰が与えたのか……私にも全くわからないの」
「ふうん……突然変異ってやつか?」
「わからないわ。家族にも言ってないからね」
「ま、今はその『出所不明のチカラ』でも、猫の手よりはマシか……」
「そうよ。二人で力を合わせて、京都中を桜で埋め尽くしましょう」
「ところで。……俺たちがこれから始める『桜満開の計画』には、最高に目立つ名前が必要だ」
蓮人は繋いだ手を解き、夕闇に沈む京都の街を、値踏みするように見渡した。
「ただの『植樹』じゃ、民衆の心も踊らねえ。俺たちが売るのは、この都を丸ごと塗り替える一世一代の計画だ。
……誰もが、思わず命を預けたくなるような、毒の回った名前をつけてやる」
蓮人は不敵に笑い、言い放った。
『明治京都桜花心中(めいじきょうとおうかしんじゅう)』。……これが、俺たちが世間にぶち上げる計画名だ」
「……心中?」
琴乃がその不吉で、けれど甘美な響きを反芻する。
「ああ。桜を咲かせて京を救うか、それともこのまま都と共に泥水を啜って果てるか。
俺たちの命も、天宮家と九条家の誇りも、全部この一万本の桜にぶち込んで心中する。
……これくらいの『覚悟』を看板にしなきゃ、地獄の王も世間も納得しねえ」
「……心中? ふふっ、いいわね。最高に悪趣味だね」
琴乃は声を立てて小さく笑った。
さっきまでの震えは消え、その瞳には蓮人さえ射抜くような鋭く艶やかな光が宿っている。
「蓮人くんと二人で、薄紅色の花びらに埋もれて消える覚悟……。そんな最悪で最高の『ハッタリ』私、嫌いじゃないわよ」
「……琴乃?」
蓮人が呆気に取られるのを余所に、琴乃は一歩踏み出し、彼の顔を覗き込んだ。
「いいわ。その『心中』、私が最後まで形にしてあげる。京の民も、地獄の王様も……みんなまとめて、私たちのハッタリで降参させてやりましょうよ」
琴乃は、自分の「命刻輪廻の掌握」を蓮人の手のひらに重ねた。
「地獄の底まで付き合ってあげる。……覚悟しなさいね、蓮人くん」
「……上等だ。命がけの大型契約、きっちり結ばせてもらうぜ」
蓮人は彼女の凄みに一瞬息を呑みつつも、最高に悪びれた笑みを浮かべた。
明治16年5月。
凡人の詐欺師と死神の令嬢による、命がけの「明治京都桜花心中」が今、高らかに宣言された。
