あの甘い両想いの夜が明けたあとも、佐伯とバイト先でシフトが重なる日は多かった。
最初の数日は、俺のほうがもろに意識しまくりだった。
職場だし、近くには店長も他のバイト仲間もいる。そんなの頭では分かっているのに、気づけばつい、佐伯の姿を目で追ってしまう。
カウンターの裏でマニュアルを確認しているときも、フロアを歩く背中を見つけるたび、磁石に吸い寄せられるみたいに視線がそっちへ滑っていく。
狭い通路ですれ違うときなんて、ただ肩がわずかに触れ合うだけで心臓が跳ね上がる。
アイスケースの前で二人並んでお客様の注文を聞いているときも、触れそうで触れない距離にある指先に意識が集中して――いちいち俺の心だけが、お祭り騒ぎの大騒動を起こしていた。
そんなそわそわした状態が、何日か続いたころ。
閉店作業中、静まり返ったバックヤードで、ついに佐伯のほうからピシャリと言い渡された。
「小瀧、目で俺のこと追うの、止めてくんない?」
いつもの冷淡な無表情。そのぶっきらぼうな言い方は、思った以上にぐさりと胸に突き刺さって堪えた。
俺の目から「好き」がダダ漏れになっているから、「周りにバレるだろ」って釘を刺したいんだろう。確かにその通りなんだけど……。
家も大学も違って、このバイト先以外では滅多に会えない俺にとっては、その一言があまりにも寂しすぎて、思わずあからさまにシュンと顔に出てしまった。
すると佐伯は、はぁ、と小さくため息をつき、片手で額を押さえた。
「……俺だって、めちゃくちゃ我慢してる」
珍しく困り果てたように視線を落とす。そんなこと言われたらもう、俺だって何も言い返せない。
それからの俺は、とにかく必死で頑張った。
見ないように、意識を向けないように。心臓に無理やりブレーキをかけて、「ただのバイト仲間」を必死で演じ続けた。
――けれど、一週間を過ぎたあたりから、今度は奇妙な逆転現象が起き始めた。
佐伯の視線が、逆に俺を追うようになってきたのだ。
ふとした瞬間に、ほんの少しだけ視線がぶつかる。あいつは、絶対に逸らさない。
じっと見つめてくる強い温度に俺のほうが耐えきれなくなって目を逸らすと、今度は背後から、貫くような視線をじりじりと送り続けてくる。
お互いに限界を引き延ばし合うような、そんな張り詰めた空気の中で、――ついに、やってしまった。
閉店後、薄暗い更衣室。
試着室のような簡易カーテンをシャッと閉めて、狭い密室の中で、俺たちは制服のまま重なるようにキスをした。
「っ……佐伯、すき……好き、っ……」
どちらからともなく、だった。
着替えの途中、たまたま至近距離で目が合って、でも、今度はどちらも逸らせなくて。じわじわと距離が縮まったと思ったら、気づいたときにはもう、互いの唇が触れ合っていた。
最初は、触れるだけの軽いリップ音一度きりで終わるはずだったのに。
一度触れてしまった熱はもう止められなくて、気づけばお互いの息が苦しくなるほど、何度も貪るようなキスに変わっていく。
この溢れそうな気持ちを全部佐伯に分かって欲しくて、俺はあいつの制服の胸元を、布地が破れそうなくらいぎゅっと掴んだ。
そのまま、目いっぱい爪先立ちをして、自分から口づけをせがむ。
佐伯は、そんな俺の焦れったい熱を宥めるように、大きくて温かい両手で俺の頬をそっと包み込んだ。
少しだけ唇を離し、息を乱したまま、これまで見たこともないほど大真面目で、熱い瞳で俺を見つめてくる。
「……会ってない時も、小瀧のこと考えてるから」
低く掠れた声が、狭い更衣室の中に甘く響いた。
その気持ちが、嬉しくないわけがない。本当は、飛び上がるほど嬉しい。
でも、ずっと心のどこかが満たされないままでいた俺は、胸の奥に隠していた寂しさを、今度こそ素直にぶつけてみることにした。
「……俺、それだけじゃ足りない。バ先だけじゃなくて、ちゃんとデートっていうか……佐伯と一緒に、どっか出かけたりしたい」
ただ、普通の恋人同士みたいなデートがしたかった。
付き合っているなら本来、いまがいちばん楽しくて、四六時中いちゃいちゃしている時期のはずだ。
なのに、佐伯はSNSもやっていないし、メッセージを送っても既読無視が多い。電話なんて一度もくれたことがない。
もしかして、俺と佐伯の間で「付き合う」の定義が根本から噛み合っていないんじゃないか――。
そんな不安が胸に溜まって、どうしても吐き出さずにはいられなかった。
「……別に、行ってもいいけど」
返ってきたのは、相変わらずちょっと上から目線のぶっきらぼうな返事。
それでも、OKをもらえただけで一瞬にして浮かれてしまった俺は、「水族館は?」「映画館は?」「ショッピングは?」と、頭に浮かんだプランを次々にまくしたてた。
「え、それはだるい」
「じゃあ、佐伯はどこでデートがしたいの?」
不満げに口を尖らせて訊ねると、佐伯は顎に手を添えたまましばらく黙り込み、視線を落とした。
「……考えとく。あとで連絡するから、日曜日10時、駅のロータリーで」
俺の思い描いていた、手を繋いで歩くようなラブラブの理想像とは程遠い。
完全に主導権を佐伯に握られたまま、俺たちの初デートは幕を開けようとしていた。
***
そして数日後。
スマートフォンにぽつんと送られてきた、たった一行のメッセージとURLだけを頼りに、俺は今日という日を迎えていた。
『ここに行くから』
行き先は、郊外にある広大な国営の湖畔公園。
緑豊かな自然いっぱいの場所で、休日ならファミリーやカップルで賑わう定番のスポットだ。
……あの無愛想な佐伯が、よりによって公園? 一体そこで何をするつもりなんだろう。
それがずっと分からなくて、この数日間、スマホで「公園デート 定番」とか検索してみたりもした。
けれど、どう考えても佐伯がバドミントンでキャッキャと盛り上がったり、水鳥を眺めて「可愛いね」なんて感動したりするタイプには思えない。
それでも、待ちに待った初デートというだけで、身体は自然とウキウキしてしまっていた。
この日のために服も新しく買い新調し、髪も少し整えてもらった。さらに気合いが空回りした結果……勢い余って、軽いお弁当まで準備してる。
駅のロータリーでそわそわと落ち着かなく立っていると、一台の車が静かに近づいてきて、俺の目の前でピタッと停まった。
運転席の窓が少しだけ開き、ハンドルを握った佐伯が、軽く手を上げて合図をしてくる。
「小瀧、乗って」
「うん、ありがと!」
いつも通りの落ち着いたトーンなのに、その声を聞いただけで胸がぎゅっと切なく跳ねる。
緊張しながら助手席に乗り込むと、俺はさっきコンビニで買ってきたばかりのホットコーヒーを、佐伯のほうへ差し出した。少しでもドライブ中の寒さが紛れれば、と思って買ったものだ。
「……え、わざわざ?」
「うん。運転してもらうし、これくらい」
「ありがと」
受け取った佐伯が、ほんの少しだけ、本当に心なしか目元を緩めた。
バイト先では滅多に見せることのない、ひどく柔らかい表情。
うわ、やばい。ちょっと初めて見る顔かもしれない……。
「小瀧のそういう優しいところ、好きだよ」
「――っ」
不意打ちの直球に、心臓が跳ね上がる。
しかし佐伯はそれ以上何も言わず、すぐに視線を正面に戻すと、静かにギアを「R」へと落とした。
上半身を少しだけ捻り、助手席の背もたれに長い腕を回して、後ろへと視線を滑らせる。
横顔はいつも通り淡々としていて涼しげなのに、綺麗に浮き出た首筋のラインも、ジャケット越しに動く男らしい肩の骨格も、どうしようもないほどの色気を感じさせて。
当の本人はそんなこと微塵も意識していないんだろうから、余計にタチが悪い。
「運転中の恋人にされたら絶対ドキドキする仕草・大定番」をこれでもかと正面から喰らい、俺は言葉を失って、ぽけーっとその一連の動作を見つめてしまった。
「……どうかした?」
「い、いや……なんでもない」
バックを終えた車が前を向いた瞬間、ハッと我に返って慌てて窓の外の景色へと視線を逃がす。
それなのに、一度火がついてしまった頬は、いつまでもぽやぽやと熱を持ったまま冷めてくれなかった。
***
一時間ほど車を走らせて到着した公園は、すっかり冬の空気に包まれていて、人影もまばらだった。
澄み渡った青空の下、広大な湖の水面が、まるで太陽を砕いて散りばめたみたいにキラキラと細かく光っている。遮るもののない広々とした芝生の上を、冷たい風だけが静かに通り抜けていた。
「……結構、空いてるね」
「混んでるよりは、良いと思うけど」
ぽつりと呟いた佐伯の後ろを歩きながら、ただただ広い敷地を進んでいく。
バイト中にはプライベートな話なんてほとんどしてこなかったから、いざ二人きりになると、何を話せばいいのか分からなくなってしまう。
大学でのことやバイト先の人間関係など、無難な話題を見つけてはポツポツと言葉を交わすけれど、どうしても会話が途切れがちになる。
(……佐伯、退屈してないかな)
不安がどんどん膨らんで、俺は恐る恐るその横顔を見上げた。
「……あのさ、佐伯。ここ、何もないし……つまんなくない?」
俺の言葉に、佐伯はぴくりとも表情を動かさない。
ただ、歩調を少しだけ緩めると、前を向いたままぶっきらぼうに言った。
「俺は、小瀧と居られるなら何処でもいいから」
そのぶっきらぼうな響きが、冷えた胸の奥にふっと温かく灯る。
嬉しさを噛み締めるように小さく頷きながら、俺はポケットから手を出して、隣を歩く佐伯の方へそっと手を伸ばした。
凍えそうな空気の中で触れ合った佐伯の手は、意外なほど熱を持っていて温かい。
そっと指先を絡めて恋人繋ぎにすると、佐伯が一瞬だけ、驚いたようにこちらを見た。少しだけ繋ぐ力を強めてくれたのが分かって、また胸が小さく跳ねる。
「……あ、あのさ。俺、今日……作って来たんだ。その、ご飯」
「え?」
今度は、佐伯の端正な眉が分かりやすく動いた。
俺は背負っていた大きめのリュックのファスナーを引っ張り、中からレジャーシートとお弁当のパックをチラリと覗かせてみせる。
「公園デートだって言うから、ピクニックとかいいかなって……。佐伯が何好きなのか分かんなかったから、一応色々詰めてきたんだけど……」
すると佐伯はぽかんと目を丸くし、合点がいったようにぽつりと溢した。
「……待ち合わせのとき、なんでそんなデカいリュック背負って来てんのかなって思ってたわ」
「え……いや、その……」
直球で指摘されると、急に恥ずかしくなって頬が熱くなる。
「だ、だって、冬季営業でお店がほとんど閉まってるみたいだったし、現地で食べるところが無かったら困るなと思って!」
「……駅のロータリーで待ってる姿、遠足前の幼稚園児みたいだなと思って見てた」
「はぁ!? まだそれ言う!? 俺、お前と同い年なんですけど!」
怒った風に顔を背けながらも、佐伯の少し照れたような横顔を見ていると、胸の奥がくすぐったくてたまらなくなる。
相変わらず口を開けば意地悪ばかりなのに、全然嫌じゃない。むしろ、そんなところまで愛おしく感じてしまっている自分に気づいて、すぐに顔が綻んでしまう。
佐伯も観念したように口元をほんの少しだけ緩め、目線だけをこちらに向けた。
「……じゃあ、どこかシート広げられる場所探すか」
「うん!」
湖が一望できる芝生の、背の低い木の木陰。
通り抜ける風は少し冷たいけれど、柔らかな陽射しが優しく差し込む場所に、俺はレジャーシートを広げた。
男二人で座るにはほんの少し小さめのシート。けれど逆に、それがお互いの体温を感じられるちょうどいい距離感に思えた。
今朝早起きして作ったお弁当を、パックごとシートの上に並べていく。
サンドイッチに、定番のウィンナー、卵焼き、茹でたブロッコリー。それから、少し大きめのおにぎりをいくつか。
「ごめんね、本当は何が好きか事前に聞けば良かったんだけど……。手の内を明かしたら、なんかサプライズ感なくなってつまんないかなって思って」
俺なりに一生懸命頑張って作った、なんてことのない“普通の”お弁当。お洒落さには欠けるけれど、味だけはどうにか練習したし……たぶん、食べられる味にはなっているはず。
佐伯はしばらく無言で並んだおかずを見つめていたけれど、やがておにぎりをひとつ手に取ると、それ以上言葉を足すこともなく「いただきます」と小さく呟いて口をつけた。
「……普通に美味い」
咀嚼しながら、佐伯の目が細められる。その満足そうな表情を見た瞬間、俺は心の底からホッと肩の力を抜いた。
箸を動かしながら、佐伯がちらりとこちらを盗み見てくる。
「小瀧の家って、いつもこういう弁当作ってもらってたの?」
「うん。幼稚園の頃から高校の部活まで、ずっとこんな感じだったかな」
「……そっか。もっと食べていい?」
「もちろん! いっぱいあるからたくさん食べてよ」
そこからの佐伯の食欲は凄まじかった。俺が予想していた倍以上のハイペースで、あっという間にお弁当をすべて平らげてしまったのだ。
綺麗になったパックを片付け、水筒のお茶をゴクゴクと飲み干すと、佐伯は――すとん、と脱力したように、俺の太もも目掛けて倒れ込んできた。
佐伯の重みのある頭が、俺の膝の上に乗っている。
「腹いっぱいで眠くなってきた」
「はぁ!?」
「ちょっと昼寝するから。後で起こして」
……こんな半強制的な膝枕がこの世にあっていいのだろうか。
佐伯は文句を言わせないスピードでそのままそっと目を閉じ、穏やかな風の音に溶けるように、すーすーと規則正しい呼吸を整え始めた。
遮るもののない至近距離。無防備に波打つ長い睫毛。
緊張でガチガチになりながらも、俺はそっと、あいつのサラサラした髪に指先で触れてみる。乾いた冬の空気の匂いと、佐伯がいつもつけているシャンプーの清潔な香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
(佐伯の匂いだ……)
ほんの一瞬。その心地いい香りに引き寄せられるように、俺がふっと顔を近づけた、まさにその瞬間だった。
ぱち、と佐伯の切れ長な目が開いて、心臓がドクンと跳ね上がる。
逃げようとするより早く、佐伯の大きな手が俺の後頭部をぐいっと強引に掴み、下へと引き寄せた。
「さ、佐伯っ……!?」
「今のは、小瀧が悪い」
すぐ目の前にある、低く微熱を帯びた声。
「……ほんと、俺の匂い嗅ぐの好きだよね」
言い終えるのと同時に唇が重なって、恥ずかしさのあまり逃げ出そうと肩をバシバシと叩いても、佐伯は頭を固定したまま少しも手を緩めてくれない。
やがて、ちゅ、と小さく名残惜しいリップ音を残して唇が離されると、佐伯はそのまま満足したようにうつ伏せに寝返りを打ち、ぷいと横を向いてしまった。
熱された頭のまま、くしゃくしゃになった髪を落ち着かせるように撫で直す。
俺はもう、真っ赤になっているであろう顔を隠すこともできず、ただその愛おしい横顔を見つめることしかできなかった。
最初の数日は、俺のほうがもろに意識しまくりだった。
職場だし、近くには店長も他のバイト仲間もいる。そんなの頭では分かっているのに、気づけばつい、佐伯の姿を目で追ってしまう。
カウンターの裏でマニュアルを確認しているときも、フロアを歩く背中を見つけるたび、磁石に吸い寄せられるみたいに視線がそっちへ滑っていく。
狭い通路ですれ違うときなんて、ただ肩がわずかに触れ合うだけで心臓が跳ね上がる。
アイスケースの前で二人並んでお客様の注文を聞いているときも、触れそうで触れない距離にある指先に意識が集中して――いちいち俺の心だけが、お祭り騒ぎの大騒動を起こしていた。
そんなそわそわした状態が、何日か続いたころ。
閉店作業中、静まり返ったバックヤードで、ついに佐伯のほうからピシャリと言い渡された。
「小瀧、目で俺のこと追うの、止めてくんない?」
いつもの冷淡な無表情。そのぶっきらぼうな言い方は、思った以上にぐさりと胸に突き刺さって堪えた。
俺の目から「好き」がダダ漏れになっているから、「周りにバレるだろ」って釘を刺したいんだろう。確かにその通りなんだけど……。
家も大学も違って、このバイト先以外では滅多に会えない俺にとっては、その一言があまりにも寂しすぎて、思わずあからさまにシュンと顔に出てしまった。
すると佐伯は、はぁ、と小さくため息をつき、片手で額を押さえた。
「……俺だって、めちゃくちゃ我慢してる」
珍しく困り果てたように視線を落とす。そんなこと言われたらもう、俺だって何も言い返せない。
それからの俺は、とにかく必死で頑張った。
見ないように、意識を向けないように。心臓に無理やりブレーキをかけて、「ただのバイト仲間」を必死で演じ続けた。
――けれど、一週間を過ぎたあたりから、今度は奇妙な逆転現象が起き始めた。
佐伯の視線が、逆に俺を追うようになってきたのだ。
ふとした瞬間に、ほんの少しだけ視線がぶつかる。あいつは、絶対に逸らさない。
じっと見つめてくる強い温度に俺のほうが耐えきれなくなって目を逸らすと、今度は背後から、貫くような視線をじりじりと送り続けてくる。
お互いに限界を引き延ばし合うような、そんな張り詰めた空気の中で、――ついに、やってしまった。
閉店後、薄暗い更衣室。
試着室のような簡易カーテンをシャッと閉めて、狭い密室の中で、俺たちは制服のまま重なるようにキスをした。
「っ……佐伯、すき……好き、っ……」
どちらからともなく、だった。
着替えの途中、たまたま至近距離で目が合って、でも、今度はどちらも逸らせなくて。じわじわと距離が縮まったと思ったら、気づいたときにはもう、互いの唇が触れ合っていた。
最初は、触れるだけの軽いリップ音一度きりで終わるはずだったのに。
一度触れてしまった熱はもう止められなくて、気づけばお互いの息が苦しくなるほど、何度も貪るようなキスに変わっていく。
この溢れそうな気持ちを全部佐伯に分かって欲しくて、俺はあいつの制服の胸元を、布地が破れそうなくらいぎゅっと掴んだ。
そのまま、目いっぱい爪先立ちをして、自分から口づけをせがむ。
佐伯は、そんな俺の焦れったい熱を宥めるように、大きくて温かい両手で俺の頬をそっと包み込んだ。
少しだけ唇を離し、息を乱したまま、これまで見たこともないほど大真面目で、熱い瞳で俺を見つめてくる。
「……会ってない時も、小瀧のこと考えてるから」
低く掠れた声が、狭い更衣室の中に甘く響いた。
その気持ちが、嬉しくないわけがない。本当は、飛び上がるほど嬉しい。
でも、ずっと心のどこかが満たされないままでいた俺は、胸の奥に隠していた寂しさを、今度こそ素直にぶつけてみることにした。
「……俺、それだけじゃ足りない。バ先だけじゃなくて、ちゃんとデートっていうか……佐伯と一緒に、どっか出かけたりしたい」
ただ、普通の恋人同士みたいなデートがしたかった。
付き合っているなら本来、いまがいちばん楽しくて、四六時中いちゃいちゃしている時期のはずだ。
なのに、佐伯はSNSもやっていないし、メッセージを送っても既読無視が多い。電話なんて一度もくれたことがない。
もしかして、俺と佐伯の間で「付き合う」の定義が根本から噛み合っていないんじゃないか――。
そんな不安が胸に溜まって、どうしても吐き出さずにはいられなかった。
「……別に、行ってもいいけど」
返ってきたのは、相変わらずちょっと上から目線のぶっきらぼうな返事。
それでも、OKをもらえただけで一瞬にして浮かれてしまった俺は、「水族館は?」「映画館は?」「ショッピングは?」と、頭に浮かんだプランを次々にまくしたてた。
「え、それはだるい」
「じゃあ、佐伯はどこでデートがしたいの?」
不満げに口を尖らせて訊ねると、佐伯は顎に手を添えたまましばらく黙り込み、視線を落とした。
「……考えとく。あとで連絡するから、日曜日10時、駅のロータリーで」
俺の思い描いていた、手を繋いで歩くようなラブラブの理想像とは程遠い。
完全に主導権を佐伯に握られたまま、俺たちの初デートは幕を開けようとしていた。
***
そして数日後。
スマートフォンにぽつんと送られてきた、たった一行のメッセージとURLだけを頼りに、俺は今日という日を迎えていた。
『ここに行くから』
行き先は、郊外にある広大な国営の湖畔公園。
緑豊かな自然いっぱいの場所で、休日ならファミリーやカップルで賑わう定番のスポットだ。
……あの無愛想な佐伯が、よりによって公園? 一体そこで何をするつもりなんだろう。
それがずっと分からなくて、この数日間、スマホで「公園デート 定番」とか検索してみたりもした。
けれど、どう考えても佐伯がバドミントンでキャッキャと盛り上がったり、水鳥を眺めて「可愛いね」なんて感動したりするタイプには思えない。
それでも、待ちに待った初デートというだけで、身体は自然とウキウキしてしまっていた。
この日のために服も新しく買い新調し、髪も少し整えてもらった。さらに気合いが空回りした結果……勢い余って、軽いお弁当まで準備してる。
駅のロータリーでそわそわと落ち着かなく立っていると、一台の車が静かに近づいてきて、俺の目の前でピタッと停まった。
運転席の窓が少しだけ開き、ハンドルを握った佐伯が、軽く手を上げて合図をしてくる。
「小瀧、乗って」
「うん、ありがと!」
いつも通りの落ち着いたトーンなのに、その声を聞いただけで胸がぎゅっと切なく跳ねる。
緊張しながら助手席に乗り込むと、俺はさっきコンビニで買ってきたばかりのホットコーヒーを、佐伯のほうへ差し出した。少しでもドライブ中の寒さが紛れれば、と思って買ったものだ。
「……え、わざわざ?」
「うん。運転してもらうし、これくらい」
「ありがと」
受け取った佐伯が、ほんの少しだけ、本当に心なしか目元を緩めた。
バイト先では滅多に見せることのない、ひどく柔らかい表情。
うわ、やばい。ちょっと初めて見る顔かもしれない……。
「小瀧のそういう優しいところ、好きだよ」
「――っ」
不意打ちの直球に、心臓が跳ね上がる。
しかし佐伯はそれ以上何も言わず、すぐに視線を正面に戻すと、静かにギアを「R」へと落とした。
上半身を少しだけ捻り、助手席の背もたれに長い腕を回して、後ろへと視線を滑らせる。
横顔はいつも通り淡々としていて涼しげなのに、綺麗に浮き出た首筋のラインも、ジャケット越しに動く男らしい肩の骨格も、どうしようもないほどの色気を感じさせて。
当の本人はそんなこと微塵も意識していないんだろうから、余計にタチが悪い。
「運転中の恋人にされたら絶対ドキドキする仕草・大定番」をこれでもかと正面から喰らい、俺は言葉を失って、ぽけーっとその一連の動作を見つめてしまった。
「……どうかした?」
「い、いや……なんでもない」
バックを終えた車が前を向いた瞬間、ハッと我に返って慌てて窓の外の景色へと視線を逃がす。
それなのに、一度火がついてしまった頬は、いつまでもぽやぽやと熱を持ったまま冷めてくれなかった。
***
一時間ほど車を走らせて到着した公園は、すっかり冬の空気に包まれていて、人影もまばらだった。
澄み渡った青空の下、広大な湖の水面が、まるで太陽を砕いて散りばめたみたいにキラキラと細かく光っている。遮るもののない広々とした芝生の上を、冷たい風だけが静かに通り抜けていた。
「……結構、空いてるね」
「混んでるよりは、良いと思うけど」
ぽつりと呟いた佐伯の後ろを歩きながら、ただただ広い敷地を進んでいく。
バイト中にはプライベートな話なんてほとんどしてこなかったから、いざ二人きりになると、何を話せばいいのか分からなくなってしまう。
大学でのことやバイト先の人間関係など、無難な話題を見つけてはポツポツと言葉を交わすけれど、どうしても会話が途切れがちになる。
(……佐伯、退屈してないかな)
不安がどんどん膨らんで、俺は恐る恐るその横顔を見上げた。
「……あのさ、佐伯。ここ、何もないし……つまんなくない?」
俺の言葉に、佐伯はぴくりとも表情を動かさない。
ただ、歩調を少しだけ緩めると、前を向いたままぶっきらぼうに言った。
「俺は、小瀧と居られるなら何処でもいいから」
そのぶっきらぼうな響きが、冷えた胸の奥にふっと温かく灯る。
嬉しさを噛み締めるように小さく頷きながら、俺はポケットから手を出して、隣を歩く佐伯の方へそっと手を伸ばした。
凍えそうな空気の中で触れ合った佐伯の手は、意外なほど熱を持っていて温かい。
そっと指先を絡めて恋人繋ぎにすると、佐伯が一瞬だけ、驚いたようにこちらを見た。少しだけ繋ぐ力を強めてくれたのが分かって、また胸が小さく跳ねる。
「……あ、あのさ。俺、今日……作って来たんだ。その、ご飯」
「え?」
今度は、佐伯の端正な眉が分かりやすく動いた。
俺は背負っていた大きめのリュックのファスナーを引っ張り、中からレジャーシートとお弁当のパックをチラリと覗かせてみせる。
「公園デートだって言うから、ピクニックとかいいかなって……。佐伯が何好きなのか分かんなかったから、一応色々詰めてきたんだけど……」
すると佐伯はぽかんと目を丸くし、合点がいったようにぽつりと溢した。
「……待ち合わせのとき、なんでそんなデカいリュック背負って来てんのかなって思ってたわ」
「え……いや、その……」
直球で指摘されると、急に恥ずかしくなって頬が熱くなる。
「だ、だって、冬季営業でお店がほとんど閉まってるみたいだったし、現地で食べるところが無かったら困るなと思って!」
「……駅のロータリーで待ってる姿、遠足前の幼稚園児みたいだなと思って見てた」
「はぁ!? まだそれ言う!? 俺、お前と同い年なんですけど!」
怒った風に顔を背けながらも、佐伯の少し照れたような横顔を見ていると、胸の奥がくすぐったくてたまらなくなる。
相変わらず口を開けば意地悪ばかりなのに、全然嫌じゃない。むしろ、そんなところまで愛おしく感じてしまっている自分に気づいて、すぐに顔が綻んでしまう。
佐伯も観念したように口元をほんの少しだけ緩め、目線だけをこちらに向けた。
「……じゃあ、どこかシート広げられる場所探すか」
「うん!」
湖が一望できる芝生の、背の低い木の木陰。
通り抜ける風は少し冷たいけれど、柔らかな陽射しが優しく差し込む場所に、俺はレジャーシートを広げた。
男二人で座るにはほんの少し小さめのシート。けれど逆に、それがお互いの体温を感じられるちょうどいい距離感に思えた。
今朝早起きして作ったお弁当を、パックごとシートの上に並べていく。
サンドイッチに、定番のウィンナー、卵焼き、茹でたブロッコリー。それから、少し大きめのおにぎりをいくつか。
「ごめんね、本当は何が好きか事前に聞けば良かったんだけど……。手の内を明かしたら、なんかサプライズ感なくなってつまんないかなって思って」
俺なりに一生懸命頑張って作った、なんてことのない“普通の”お弁当。お洒落さには欠けるけれど、味だけはどうにか練習したし……たぶん、食べられる味にはなっているはず。
佐伯はしばらく無言で並んだおかずを見つめていたけれど、やがておにぎりをひとつ手に取ると、それ以上言葉を足すこともなく「いただきます」と小さく呟いて口をつけた。
「……普通に美味い」
咀嚼しながら、佐伯の目が細められる。その満足そうな表情を見た瞬間、俺は心の底からホッと肩の力を抜いた。
箸を動かしながら、佐伯がちらりとこちらを盗み見てくる。
「小瀧の家って、いつもこういう弁当作ってもらってたの?」
「うん。幼稚園の頃から高校の部活まで、ずっとこんな感じだったかな」
「……そっか。もっと食べていい?」
「もちろん! いっぱいあるからたくさん食べてよ」
そこからの佐伯の食欲は凄まじかった。俺が予想していた倍以上のハイペースで、あっという間にお弁当をすべて平らげてしまったのだ。
綺麗になったパックを片付け、水筒のお茶をゴクゴクと飲み干すと、佐伯は――すとん、と脱力したように、俺の太もも目掛けて倒れ込んできた。
佐伯の重みのある頭が、俺の膝の上に乗っている。
「腹いっぱいで眠くなってきた」
「はぁ!?」
「ちょっと昼寝するから。後で起こして」
……こんな半強制的な膝枕がこの世にあっていいのだろうか。
佐伯は文句を言わせないスピードでそのままそっと目を閉じ、穏やかな風の音に溶けるように、すーすーと規則正しい呼吸を整え始めた。
遮るもののない至近距離。無防備に波打つ長い睫毛。
緊張でガチガチになりながらも、俺はそっと、あいつのサラサラした髪に指先で触れてみる。乾いた冬の空気の匂いと、佐伯がいつもつけているシャンプーの清潔な香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
(佐伯の匂いだ……)
ほんの一瞬。その心地いい香りに引き寄せられるように、俺がふっと顔を近づけた、まさにその瞬間だった。
ぱち、と佐伯の切れ長な目が開いて、心臓がドクンと跳ね上がる。
逃げようとするより早く、佐伯の大きな手が俺の後頭部をぐいっと強引に掴み、下へと引き寄せた。
「さ、佐伯っ……!?」
「今のは、小瀧が悪い」
すぐ目の前にある、低く微熱を帯びた声。
「……ほんと、俺の匂い嗅ぐの好きだよね」
言い終えるのと同時に唇が重なって、恥ずかしさのあまり逃げ出そうと肩をバシバシと叩いても、佐伯は頭を固定したまま少しも手を緩めてくれない。
やがて、ちゅ、と小さく名残惜しいリップ音を残して唇が離されると、佐伯はそのまま満足したようにうつ伏せに寝返りを打ち、ぷいと横を向いてしまった。
熱された頭のまま、くしゃくしゃになった髪を落ち着かせるように撫で直す。
俺はもう、真っ赤になっているであろう顔を隠すこともできず、ただその愛おしい横顔を見つめることしかできなかった。



