静かな電車内。ドア脇に並ぶ俺と佐伯の間には、言葉にならない熱が漂っていた。
ときどき盗み見る佐伯の横顔は、相変わらず何を考えているのか読めない。
降りるまで一度も視線が合うことはなかったけれど、最寄り駅に着いて、人気のない河川敷を歩き始めた時。
冷えた空気の中で佐伯が無言で俺の手を取った。
「……佐伯……」
問いかけようとした唇は、そのままあいつの上着のポケットへと誘い込まれる。
ポケットの中で、時折指先が微かに触れ合う。
(これって、一応……佐伯も俺のことを「好き」ってことでいいんだよな……?)
確信が持てないまま、ただ暗い道を歩き、佐伯のマンションへと向かう。
部屋に着くと、佐伯はいつもの無愛想な顔のまま冷蔵庫を開け、手早く夜食を作り始めた。
俺は、大学生の一人暮らしとは思えないほど清潔で洗練された1DKのソファに腰を下ろし、その背中をぼんやりと眺める。
深い青のアクセントクロスが、モノトーンの家具を際立たせていた。
「はい、出来た」
差し出されたのは、ビールによく合いそうな手料理。
大した興味もないバラエティ番組を流しながら、俺たちは乾杯もせず、各自のペースで喉を潤した。
「……佐伯、これ美味しい」
「ああ、それ……味付け適当だけど」
そう言ってふいっと横を向く佐伯の態度は、照れているのか気まずいのか、相変わらず分かりづらい。
けれど、食後。佐伯はクローゼットから無造作にスウェットの上下を放って寄越した。
「風呂、先入れば」
借りたぶかぶかの部屋着を着てリビングに戻ると、二本目のビールを開けていた佐伯の視線が、俺の首元から足首までをゆっくりと二往復した。
「えっと、服……貸してくれて、アリガトウゴザイマス」
あまりに熱心な視線に、思わず片言で礼を言う。
佐伯は「別に」と短く返すと、ネイビーの毛布を広げ、枕の位置を整え始めた。
(……えっ。まさか……もう、寝る準備ってこと?)
核心に触れないまま、この夜が終わってしまう。
もやもやとした焦燥感が胸を掠めたそのとき、佐伯がふと俺を見上げた。
「てか、小瀧さぁ。……付き合う? 俺と」
――心臓が、跳ねた。
なんだ、その言い方。あまりにも軽すぎるだろ。
まるで「今からコンビニでも行く?」って誘うような、あまりにも日常的なトーンだった。
「えっ……なんて?」
「いや、付き合う? って。だって、小瀧って好きじゃん。俺のこと」
予想の斜め上を行く「確信」に満ちた言葉に、息が詰まる。
「……小瀧は俺のこと、ずっと好きだと思ってたんだけど。違う?」
「ちがくは、ない……けど、」
普通、もっとこう、甘酸っぱい台詞とかあるだろ。
けれど佐伯は、「じゃあ決まり」とでも言うようにクッションを敷き、床に横になろうとする。
「俺、もう寝るから。小瀧はベッド使って。……おやすみ」
「は、はぁ? なんでこんな大事なシーンで寝るの? あり得なくない!?」
「有り得なくない。有り得ていることを、俺が今証明してるから」
「屁理屈言うな! おい、マジでズルだぞそれ……っ」
たまらず肩を掴んで揺さぶると、佐伯はようやく重い瞼を開き、低く、熱を持った声で呟いた。
「……無理だから。それ以上、近づいて来ないでくんない? 俺、小瀧が思ってるほど我慢強い人間じゃないの。……流石にばぶちゃんでも、意味わかる?」
一瞬で部屋の空気が変わった。
いつも冷たいはずの佐伯から、むせ返るような欲が漏れ出している。
けれど俺は、今日という日をこのまま終わらせたくなくて、素直すぎる一言をこぼしてしまった。
「でも……さすがに、先に寝られるのは寂しいんだけど……」
少しの間をおいてから、おもむろに起き上がった佐伯は、俺の身体をひょいと抱き上げると、そのままベッドへ押し倒した。
「えっ、ちょっ、佐伯……?」
「……俺、これでもめっちゃ我慢してんだよね。小瀧のこと、ぶっちゃけ結構前から好きだったし。だから、これ以上近づかれると、本当に止まれないから」
「ま、まって……佐伯が俺を好きになったの、いつから……?」
「……覚えてない。初対面からかも」
その告白は、これまでのどんな意地悪よりも衝撃的だった。
俺のことを二歳児したあの日から、ずっとだなんて。信じられないんだけど。
戸惑う俺を組み敷いたまま、佐伯の大きな手が俺の指を絡め取る。
「だから、離れて。じゃないと――」
「でもっ! 今晩、俺と離れて寝るのは……俺を一人で帰すのと、同じことだと思う」
俺がそう呟くと、佐伯は深い溜息をついた。
「――なんでそんな煽ってくるかなぁ」
ちょっと苛立った口調で叱られて、言い返すより先に熱い唇が重なった。
初めてのキス。唇の温度と圧だけで、全身が溶けてしまいそうなほど熱くなる。
「ん、さ……佐伯、まっ……」
「小瀧、好きだよ。すげぇ好き。……マジで可愛すぎて、頭おかしくなりそう」
淡々とした声のまま、狂おしいほど甘い言葉が耳を打つ。
額、頬、耳。 気持ちを伝えるように何度も繰り返されるキスに、俺は呼吸を忘れてただ身を委ねた。
全身から、佐伯にもっと触って欲しいという気持ちがこみあげてくる。
「なんつー顔してんの、マジで」
力強く抱きしめられ、鼓動がダイレクトに伝わってくる。
俺は恥ずかしさのあまり、慌てて腰を引いてしまった。
「……小瀧のこと、俺なりに大事にしたいって思ってんの。正直、今日こんなことまで想定してなかった。今日はこれで勘弁して。……マジで余裕ないから」
背中から回された腕の強さに、佐伯の本気が痛いほど伝わってくる。
お互いに生殺しのような、もどかしくて、でも堪らなく幸せな時間。
佐伯なりの精一杯の本音と、俺を「大事にしたい」と言ってくれたことがどうしようもなく嬉しくて、俺は腕の中でこくんと小さく頷いた。
「……この体勢で寝るなら、いいよ」
そう強がってみせると、さらにぎゅっと、後ろから包み込まれるように強く抱き寄せられた。
意地悪で、傲慢で、だけど誰よりも俺を求めてくれている、世界で一番大好きな腕。
耳元で低く囁かれた「おやすみ」という声は、店にあるどのフレーバーよりも、世界中のどんなアイスクリームよりも甘く、俺を深い眠りへと誘っていった。



