「小瀧」
出勤して早々、背後から低く、どこか湿り気を帯びた声で名前を呼ばれた。その瞬間、喉の奥がひゅっと鳴った。
けれど、俺は鉄の意志で前を向いたまま、聞こえないフリを貫き通す。
「……ちょっと、話したいんだけど」
「…………」
返事をする代わりに、佐伯の真横を真顔のまますり抜ける。
鏡で制帽の中に髪が収まっているかを確認すると、俺は逃げるようにバックヤードのドアを押し開け、店頭へと立った。
「おはようございまーす! よろしくお願いします」
今日は二月十四日、バレンタイン本番。
休日の昼下がりということも相まって、店の外には溢れんばかりのカップルや学生たちが列をなしている。
SNSでの宣伝がバズりすぎたせいだ。「映え」と「恋が叶う」というジンクスのダブル効果を求めた熱狂的な空気に当てられながら、迷いを断ち切るように注文を受け始めた。
――あの極寒の冷凍庫事件から今日まで、俺はずっと佐伯を無視し続けていた。
店長には「佐伯くんも反省してるし、そろそろ許してあげてよ」なんて言われた。
ついでに、佐伯も高校生の頃に同じ悪戯をされて、真顔で『え、ガチでおもろくないです』と言い放って店の空気を北極にしたという、いかにもあいつらしい可愛げのないエピソードまで聞かされたけれど。
俺だってガチでおもろくなかった。一ミリも、これっぽっちも。
「小瀧。バイト終わったら、少し話せない?」
この戦場のような忙しさの中で、わざわざ隙を見つけて話しかけてくる。その必死さに、佐伯が本気で焦っているのが伝わってきて胸がチクリと痛んだ。
狭いカウンターの中、すれ違いざまに肩が触れそうになる距離で食い下がられても、俺はつーんと横を向き、ケースの中のどのアイスよりも冷たく無視を決め込む。
話す時間がないわけじゃない。本当は、向き合ってその顔をまともに見てしまったら。
あの日、極限状態で言いかけた「好き」という感情が、また制御不能になって溢れ出してしまうのが、ただ怖いだけだった。
「お待たせしました。ストロベリーチョコレート味です!」
必死に営業スマイルを作ってお客さんにアイスを渡しながら、視界の端で佐伯を盗み見る。
俺と話すのがこれ以上は無理だと悟ったのか、佐伯は諦めたように、でもどこか暗い目をしながらレジの補助へと回っていった。
賑やかな店内の喧騒。甘いチョコレートの香り。
こんなに人が溢れているのに、俺の意識はすぐ隣にいる、世界で一番大っ嫌いで大好きな男の気配にだけ、釘付けになっていた。
「あっ、ほらほら。あのお兄さんいるじゃん、やっぱり今日も超かっこいい……!」
案の定、今日も佐伯の「ガチ恋勢」がカウンターの中にいる本人を見つけて色めき立っている。最初は数人がコソコソ話している程度だったのが、いつの間にかグループの人数は膨れ上がり、店内は異様な熱を帯び始めていた。
無理もない。ビラを配れば開始五分で束ねた紙が消え失せ、通行人がわざわざ貰いに来るほど、佐伯の顔面は整っている。
そうして、戦場のような忙しさの店内でも、彼女たちは熱烈なアプローチを仕掛けにやって来るんだから。
「お兄さん、インスタのDMだけでもやり取りさせてください!」
「俺、そういうの興味ないんで」
飄々とした態度。角が立たない程度に好意をかわしていく。
「声、やばい! カッコいい……」
「分かる、低くて響くよね……。あの、写真撮ってもいいですか?」
女子たちのテンションは最高潮だ。店内はもはやアイス屋ではなく、アイドルの握手会場と化している。
俺は虚無状態でレジを打ちながら、胸の奥がドロドロとした黒い感情に侵食されていくのを止められなかった。
「困るんで、アイスだけでお願いします」
俺には一度だって向けられたことのない「お客様用」の穏やかな微笑み。
あの極寒の密室で、逃げ場のない距離で。匂いも吐息も、心臓の音さえも、これでもかってくらい俺に叩きつけてきたくせに。俺はそれに振り回されて、勝手に自爆して、勝手にボロボロになったのに。
なんで今、その優しさを、赤の他人に無料で配って歩いてるんだよ。
「……お待たせしました。クレープでお待ちの四番の方ー」
女子たちが佐伯を見て「顔面強すぎ」「死ぬ」と盛り上がるたびに、胸のど真ん中をぎゅううっと万力で締め付けられるように痛む。
これが「嫉妬」だなんて、口が裂けても認めたくない。そもそも、俺に嫉妬する権利なんかない。俺はあいつの恋人でもなんでもない、ただのバイト仲間だ。
それでも自分一人でイライラして、馬鹿みたいにモヤモヤして。その言葉以外、この焦げ付くような不快感に当てはまる名前が見つからなかった。
俺にばっかり意地悪して。俺にだけ、あんな温度の狂った距離感で接して。俺の情緒だけを、ぐちゃぐちゃにしてくるくせに。
バイト仲間ですらない誰かに、あんなにスマートに、綺麗に笑いかけている姿を見るのはつらい。
悔しくて、情けなくて、喉の奥に熱い塊がじわじわと溜まっていく。
ステンレスの什器に映る自分の情けない顔を見ないように、ディッシャーを回し続ける。
(俺にも、ちょっとは優しくしろよ。……バカ)
そんな風に、心の中で、あの日と同じ「届かない言葉」を小さく呟いた。
***
バイトが終わり、やり場のないモヤモヤを抱えたまま更衣室で着替えを済ませる。
エプロンを畳む指先にも苛立ちが滲み、大学のテキストや飲みかけのペットボトルでごちゃついたリュックの底に、それを乱暴に押し込んだ。勤怠アプリの「退勤」をタップした、その時だ。
「小瀧」
店鍵のチェックを終えたらしい佐伯が、背後から声をかけてきた。
「……話しかけんなって言ってんじゃん」
反射的に跳ね除けたけれど、声が微かに震えて裏返ってしまった。案の定、佐伯はその動揺を見逃さない。
けれど、バカにされたくないという俺のプライドが、引きつった笑みで自分を武装しようとしていた。
「……冷凍庫の件、本当に謝るから。……悪かった」
「は? 別に全然気にしてないし。佐伯が勝手に引き摺ってるだけじゃん」
つん、と横を向く。ロッカーの中で、俺の心みたいに空になったハンガーが揺れて、ゴンと虚しい音を立てた。
佐伯は俺のぎこちない態度に溜息をこぼし、視線を合わせようと少し屈んで顔を覗き込んでくる。
「……なら、なんでそんなに怒ってんの?」
「はぁ!? 別に怒ってないし。ただ話したくないだけだし」
眉間に大袈裟なしわを寄せ、上着のスナップを急いで留める。
すると、顔の横に佐伯の手が伸びてきて、そのままロッカーを背に挟み込まれるような形になった。
「どこが。……バイト中、ずっと不貞腐れた顔で、俺のこと見てたくせに」
蜂蜜色の瞳を細めて、佐伯が逃がさないと言わんばかりの圧で覗き込んでくる。
「近いし。……マジで、やめてくんない?」
腕の間をすり抜けようと肩を捻るけれど、佐伯は反対側の手もついて、とうとう俺を両腕の中に閉じ込めた。
そのオーラは「逃がさない」という気迫そのもので、俺は俯くほかなくなる。
「……どういう気持ちで俺のこと見てたの?」
静かなトーンで聞かれ、俺は思わず唇を噛んだ。お前こそ、どんな気持ちでそんなことを聞くんだ。
これ以上知るのが怖くて、俺は早口で捲し立てた。
「いや、別に? 今日も佐伯澄人のおかげで売上目標達成して、みんなハッピーで万々歳ですよね! ガチ恋ファンもニコニコ、平和に一日が終わって良かったじゃん!」
投げ捨てるように言って、俺は両手で佐伯を突き飛ばすように押した。俺が逃げると察した佐伯が自分の荷物を取ろうとロッカーを開けた、その瞬間。
――バサバサバサッ、と雪崩のようにチョコの箱が床に落ちた。
女子アルバイト全員分かと思うほどの山。
沈黙のあと、追い打ちをかけるようにもう一つ、箱が乾いた音を立てて落ちる。
「……うわ、マジか。だる……」
本人はこれっぽっちも嬉しそうじゃない。けれど、その山に驚きもしないあいつの「選ばれし者」としての余裕が、余計に俺の胸をチクチクと刺した。
佐伯が一つずつ拾い集めるのを無視できず、俺は備品コーナーから持ち帰り用の大きな紙袋を二つ取って、ぶっきらぼうに突き出した。
「……これに入れていけば。そんなんじゃ電車乗れないでしょ」
呆気にとられたような佐伯を無視して、一つずつ、これでもかと想いの込められたラッピングを一緒に拾い集める。
こいつ、お返しとかどうするんだろ。大学でも告白されてるのかな。
一人で勝手に更なるモヤモヤを募らせていたその時、最後の一つで、佐伯と手が重なった。
「――っ、」
熱い鉄に触れたみたいにぱっと手を離し、リュックを背負うと、バンッ!とロッカーを叩きつけるように閉める。
逃げようとした手首を、佐伯の大きな手が強く掴んだ。
「ちょ、何!? マジで謝罪とか要らないから、離してよ!」
「……いい加減、しんどくない? その態度」
本気で俺との仲を憂いているような、切実な目を向けられて、脆い涙腺がじわりと熱を帯びる。
けれど、俺はあえて自分を尖らせた。
「自分が意地悪したくせに、される側になったら許してなんて、都合良すぎるだろ!」
叫んだ瞬間に後悔が押し寄せる。こんな喧嘩を続けたいわけじゃない。俺だってそろそろ折れたい。
だけど、天邪鬼の角が、どうしても、どうしても抜けてくれないんだ。
「……小瀧さ。苺、好き?」
「……苺? 好きだけど、何の関係があんの?」
あまりに脈絡のない質問に、拍子抜けして問い返す。
佐伯は無言のまま、従業員用の冷蔵庫を静かに開けた。
中から取り出されたのは、丁寧にラッピングされた持ち帰り用のクレープ。それを、俺の目の前に差し出してきた。
「……あげる」
「え……?」
いつもの刺すような冷たさじゃない。ほんの少しだけ熱を帯びた、甘い声だった。
クレープと佐伯の顔を交互に見つめ、困惑して受け取れずにいると、佐伯は促すように言葉を重ねた。
「小瀧スペシャル。俺が焼いたから、味は保証する」
なんだそれ。こいつ、こんな変なこと言う奴だったっけ?
毒気が抜かれた俺は、怪しんでジロリと見上げる。
「……何それ。これで、俺の機嫌を取ろうって魂胆?」
「カスタード、生クリーム、苺とチョコ。あとはブラウニー。……全部、お前の好きなのだろ」
佐伯は、照れを隠すようにわずかに目を伏せて言った。
それは間違いなく、俺がクレープの練習中に「いつかこれを全部載せて食べたい」と溢していた、最強のトッピング全部載せだった。
おずおずと手を伸ばし、袋の上から綺麗に詰まったトッピングを見つめる。
すると、耳を疑うような言葉が降ってきた。
「俺からの、バレンタイン」
一拍、間が空く。俺は顔を上げられないまま、完全に固まってしまった。
まさかそんなことを言われるとも、こんな特別なものを贈られるとも思っていなかった。
必死で頭を回転させて、逃げ道のような言葉を探す。
「……貰ったら、お返ししなきゃいけなくなるじゃん」
「いいよ。勝手に俺が作りたかっただけだし」
クレープの袋から漂う甘い香りに、頑なだった心がじわじわと解けていく。
佐伯は上着を羽織り、山のようなチョコが入った紙袋を二つ手に取ると、謝罪を拒み続けていた俺から離れるように背を向けた。
「……お前、マジで意味わかんない。なんで、こういうことして来んの……?」
どういう意図があって、俺に意地悪して、翻弄して、それなのに急にこんな風に優しくしてくるんだ。
佐伯がロッカーの扉をバタンと閉めた。その時、袖口から覗く手首に、小さな湿布が貼ってあるのが目に入る。
今日一日の激務。そして、俺のために焼いてくれたクレープ。その重みを想うと、ぐっと胸の奥から「好き」が溢れ出しそうになった。
恥ずかしさを誤魔化したくて、俺は半分拗ねた顔のままパイプ椅子に腰を下ろし、包みにかじりつく。
流れる沈黙。鼻の先がツンとするのを隠すように、独り言をこぼした。
「……美味しい」
「なら良かった」
振り返った佐伯が、うっすらと、けれど優しく微笑んだ。
俺が夢中で食べ続けるのをじっと見守って、佐伯は消え入りそうな声で呟く。
「……小瀧、マジでごめん。流石にやりすぎた。もう二度としないから」
その瞳があまりにも申し訳なさそうに揺れているのが、だんだん可笑しくなってきた。
『もういいってば』と笑うと、重苦しい空気は一気に夜風へと消えていく。
食べ終わるのを待っていてくれた佐伯と一緒に、裏口を出る。 鍵を閉める金属音。
風は相変わらず冷たかったけれど、さっきまでのぎこちない空気はもう、二人の間のどこにもなかった。
「……じゃ、お疲れ」
「うん、お疲れ」
ぎこちなかった時間の終わりに、俺のほうからようやく、穏やかな声で挨拶を返すことができた。
そこから反対方向へと歩き出す、二つの足音。
次の角を曲がってしまえば、俺は駅へ、あいつは自分の家へと帰っていく。ただそれだけ、いつも通りのことなのに、猛烈な名残惜しさが、さっき飲み込んだクレープの甘さと一緒に胸の奥から突き上げてくる。
口の中に残るその甘い余韻が、「もしかして」という甘い予感で俺を満たしていく。
けれど、期待して、そのあとで傷つくのはやっぱり怖い。
もし、俺ばっかりが佐伯を「そういう目」で見ていたとしたら?
あいつにとって、今の時間はただの「クレープを添えただけの、気まずさを消すための謝罪」だったとしたら?
――でも、このまま今日を終わらせたくない。
今ここで呼び止めなければ、明日バイト先でどんな顔をして会えばいいのか、ますます分からなくなる。
一歩ごとに遠ざかっていく佐伯の背中に置いていかれないように、俺は衝動のまま、勢いよく振り返った。
「さ、佐伯っ!」
振り返った先、佐伯はポケットに手を突っ込んだまま立ち止まっていた。
まるで、俺が呼び止めることを最初から分かっていたかのような、静かな眼差しで俺を見つめている。
「……なに?」
眉を下げて、困ったように優しく笑う。その顔を見たら、もう、我慢なんてできなかった。
俺は佐伯の元へと駆け寄り、その胸に飛び込むようにして顔を伏せた。
「……泣いてんじゃん、小瀧」
呆れたような、けれど極上に甘い声。佐伯の親指の腹が、頬を伝う涙を優しく拭い去る。
俺はその広い胸に額をこつん、と預けた。
「また俺のせい?」
「そうだよ。だから……ないでよ」
「ん? ……今、なんて言ったの?」
佐伯の手が、俺の後頭部をやさしく包み込む。
「……一人で帰さないで、って……言ってます」
震える声でそう告げ、勇気を振り絞って佐伯の瞳を見上げた。
佐伯は一瞬だけ驚いたように目を見開き、やがて、この上なく愛おしそうな微笑みを浮かべて見せた。
そのまま、俺の手は優しく引かれ、温かなコートのポケットの中へと誘い込まれる。
「……小瀧が、帰らなければいいんだよ。今夜は」
もっとはっきり「俺の家に来い」と言えばいいのに。
「好きだ」とはっきり言葉にしてくれればいいのに。
けれど、そんな不器用な誘い文句の代わりに、暗いポケットの中で、佐伯の指が俺の指を甘ったるく、何度も、何度もなぞる。
意地悪で、傲慢で、でも誰よりも俺を熱くさせるこの男が、たまらなく好きで。
世界中のどんなアイスクリームよりも甘くて、蕩けるようなバレンタインの夜。
俺の心臓は、このまま壊れてしまうんじゃないかと思うほど、高く鳴り響いていた。



