あの日来、佐伯との間に流れる空気は、どこか奇妙に凪いでいた。
シフトが被っても、かつてのように肩を貸し合うような無防備な隙が生まれることは一度もなかったし、あれほど執拗だったイジワルの頻度も、目に見えてがくんと減った。
バイトが終われば、あいつの方から『お疲れ』という簡潔な四文字が投げられる。ようやく佐伯に一個の人間としての権利を認められたような、対等な関係になれた気がしていた。
それでいて、どこか拍子抜けするような、胸の奥が少しだけチリつくような。 安心と寂しさが混ざり合った正体不明の感情を、俺はずっと捨てられずに引きずっていた。
「小瀧くん、佐伯くん。今月はバレンタイン関連でアイスケーキが動くと思うから、在庫数を確認しといてくれる?」
アイスケースの霜を払っていた手を止めると、副店長の横山さんが柔らかい声で指示を出してきた。
その瞬間、条件反射のように俺と佐伯の視線がぶつかる。
ほんの一瞬、火花が散るような火照りを感じて、慌てて目を逸らした。
気まずいわけじゃない。 決して気まずくはないのだけれど、自分だけが過剰に意識してしまっているこの感じ。
あの日、肩にかかった佐伯の頭の重みとか、予期せず耳を打った「好きなタイプ」の話。
思い出そうとしなくても、記憶の底からふっと浮かびあがってくる。
しかも、今回の仕事は在庫確認。場所はバックヤードのさらに奥、冷凍室。
密室で、二人きり。 これで緊張するなと言う方が、今の俺にはムリな話だった。
「はい、これリストね。キャラクターコラボのも何個かあるから、種類を間違えずに確認するようにしてね」
横山さんが差し出したバインダー。俺が手を伸ばすより一瞬早く、佐伯がすん……とした表情のまま通り過ぎ、奪い取るようにリストを攫っていった。
「あ、え? あれ……?」
完全に置いていかれ、伸ばした手が空を斬る。困惑する俺を見て、横山さんが楽しそうに口角を上げた。
「……あはは、嫉妬してんのかな!? 寒いと思うから、そこにあるカイロ、貼って作業してね」
からかわれているのは佐伯の方なのに、何故だか俺の顔が熱くなる。
「違いますよ!」と叫びながら、俺は慌てて佐伯の背中を追い、ロッカーから予備のベンチコートをひっ掴んだ。
「さ、佐伯。カイロ貼らなくていいの……?」
追いついて手渡すと、佐伯は無言でバサッとコートを羽織って、一応カイロを受け取ってくれた。
「ありがと、小瀧」
その素っ気ない言い方はいつも通り冷たいはずなのに、口を聞いてもらえるだけで、何故か心細かった胸の奥が少しだけ温かくなる。
俺もベンチコートに袖を通し、重厚な冷凍室のドアを押し開けた。途端に、逃げ場のない冷気が肌を刺す。
「ひっ……さむ……ッ」
吐き出す息は一瞬で真っ白に凍りつき、視界を遮る。室温はマイナス二十度。
四つの巨大な業務用冷凍庫が壁際に並び、白い照明に照らされた壁が、この世の果てのような雰囲気を醸し出していた。
「……じゃあ、手分けして数える?早く終わらせて出たいし」
「俺は左の冷凍庫から潰していくから、小瀧は右側のキャラクターコラボの方でいいよ」
さりげなく、個数が少なくて楽な方を俺に任せてくれる。それが佐伯なりの不器用な優しさなのか、それともただ『お前は遅いから』という皮肉なのか。
判断がつかないまま、俺は無意識にその背中を目で追ってしまった。
『ありがとう』の一言くらい、素直に言えたらいいのに。
喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、頭の中で反芻するにとどめてしまうのは、俺の意地っ張りな悪い癖だ。
佐伯からバインダーをひったくるように受け取り、ポケットから鉛筆を抜く。氷点下の世界では、ボールペンのインクは無力化して固まってしまう。そんな「アイス屋の常識」も、佐伯に教えて貰ったことの一つだった。
お互いの持ち場で作業を開始するため、すれ違う瞬間。 分厚いベンチコート越しに、肩と肩がわずかに触れ合った。
ほんの一瞬、ナイロンの布地が擦れ合っただけ。それなのに、俺の心臓は大きく跳ねた。ドッドッドッ、と重く速い鼓動が、静まり返った冷凍室の中に響き渡ってしまうんじゃないかと思うほど、体の中で暴れ始める。
――ガコン。
冷凍庫の重い扉を開ける音が反響する。 佐伯の作業には一切の迷いも無駄もなかった。一方の俺は、かじかむ指先でラベルの文字を必死に追いながら、寒さと、そして緊張を必死に押し殺していた。
「ケーキ……全部で、二十六?」
確認のためメモを見ながら呟くと、すぐ横から、佐伯の顔がすっと近づいてきた。
「……うん。ズレてないな。これでオッケーだと思う」
佐伯は相変わらずの無表情だ。けれど、吐息がかかるほどの至近距離。真っ白な吐息が俺の頬をかすめ、冷気の中に混じっていく。ただ黙々と、俺の持ったバインダーの数字を目視で確認し、それ以上の言葉を続けない。
それが、余計に俺の心をかき乱す。 あの日以来、ずっと影のように付き纏っていた「意識」が、この極寒の密室で最高潮に達しようとしていた。
「もう終わったし、早く出よ。寒すぎ」
佐伯が短くそう告げた、その直後だった。
――ピー、ピピッ。
静寂を切り裂くように、出入り口の電子錠から、聞いたこともない警告音が響いた。
「……え?」
慌ててドアノブに手を伸ばし、力任せに引くけれど、扉はびくともしない。
「いやいや、え、嘘でしょ……? 佐伯、ドア開かないんだけど!」
焦燥感に突き動かされ、体当たりするように押しても引いても、ドアはエラー音を繰り返すばかりだ。佐伯が横から手を伸ばし、ノブの感触を確かめる。
「……完全にロックされてる。エラーで電子錠が死んだのかも」
「ちょっ……無理無理無理! これ、本気でやばくない!?」
裏返った声が、狭い空間に反響する。救いを求めてポケットを探り――絶望が指先を掠めた。
「スマホ、ロッカーに置いてきてるし……!」
俺は内心パニック状態で、分厚い鉄製のドアを何度も拳で叩いた。
「横山さーん! 誰か! 開けてくださーい!! 横山さーん……っ!」
けれど、鉄扉の向こう側からは何の反応もない。店頭では今頃、陽気なBGMが流れ、接客に追われているのだしたら――気付いて助けてもらう、というのは絶望的だった。
「……とりあえず、無駄な体力使うのやめたら?」
半泣きになる俺をよそに、佐伯はいつも通りの淡々としたトーンで言い放った。そして、ドアの前に座り込む。
「いつ出られるか分からないし、叫んでも酸素と体力を浪費するだけじゃん。横山さんが異変に気づくのを待つのが合理的」
その氷のように冷静な理屈に従って、俺も力なく隣に座り込んだ。
体育座りで少しでも体温を逃がさないよう丸まるけれど、マイナス二十度の冷気は、俺の指先からも熱を奪っていく。
「た、たぶん十五分……いや、十分くらいしたら、流石におかしいって気づいてくれるよね?」
「……どうかな。アメリカでは、行方不明になっていた男性が、十年後にスーパーの巨大冷凍庫の隙間から見つかったっていうニュースがあったけど」
「うわーっ、そういうの今やめてよ! 作り話でしょ!? 作り話だよね!?」
最悪の結末を想起させるエピソードに、俺はガタガタと震え上がった。本気で怯える俺を見て、佐伯は短く溜息をつく。
「マジでうるさい……。少しは静かに出来ねーの?」
ブリザード級の毒舌が、さらに心を凍えさせる。カタカタと震える指を握り込み、必死に吐息を吹きかけても、白い煙は一瞬で消え去る。
その時だった。
腰のあたりに強い手の感触が走り、俺の体は力強い力で佐伯の方へ引き寄せられた。
「なっ……さ、佐伯! 何して……!」
「小瀧に死なれたら、俺が困るから」
それだけ。でも、ベンチコート越しに伝わる微かな圧迫感が、恐怖をちょっとだけ和らげる。
これって、本当に気づいてもらえなかったら……明日、カチコチに凍った俺たちが「在庫」と一緒に発見されるんだろうか。
死ぬときって、どんな感じだろう。
意識が遠のいて、眠るように逝くのか。それとも、痛くて苦しくて……。
「さ、佐伯……ごめん、俺、今めっちゃ怖いかも……」
情けない声が漏れ、視界が滲む。佐伯は一瞬だけ、眉を寄せて困ったような顔を見せた。
「……じゃあ、もっとこっちに寄れば」
その響きに含まれた微かな熱に、涙腺が限界を迎えた。 佐伯は俺のベンチコートのフードを乱暴に被せると、その上から安心させるように、ポンポンと、不器用な手つきで頭を撫でてくれた。
「っう、ぅ……怖い……」
モーターの重低音と、点滅する赤いデジタル表示。 俺はただ、生きたいと思った。
親に感謝を伝えればよかった。弟のプリンを勝手に食べたのを謝ればよかった。あのバンドのライブ、行けばよかった。そんな後悔が押し寄せる。 そして、隣にいるこの「大嫌いなはずの男」に、まだ何も返せていないことに気づく。
「さ、佐伯……」
「なに」
「……俺のこと、嫌いなのに色々教えてくれて、ありがとう。迷惑ばっかかけて、ごめん」
「……急に、縁起でもないこと言わないでくんない?」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、俺は佐伯の体に縋りついた。
「……ちゃっかり俺のコートで鼻水拭くなよ」
「だ、だって……佐伯のこと意地悪だから大嫌いだけど、ちゃんとお礼言わないまま死ぬの、絶対嫌だから……ッ!」
「死なない、大丈夫。絶対助かる」
佐伯が呆れたように俺を見つめる。でも、その手はしっかりと俺を抱き留めたままだ。
「あ、あともう一個……言わなきゃいけないこと、あって……」
「……まだあんのかよ」
呆れたような佐伯の声。けれど、今夜、このままここで凍えて死ぬかもしれないなら、胸の奥にあるものを全部さらけ出しておきたい。
格好悪くても、場違いでも、今のこの瞬間だけは後悔したくないんだ。
告白なんて、二十年の人生で一度もしたことがない。
寒さで麻痺しかけている唇を必死に動かして、ぎゅう……と凍えて青白くなった手で、佐伯のベンチコートの胸元を、力の限り掴みしめる。
「……っ、」
息を呑む気配。それを受け止めて応えるみたいに、佐伯の俺より一回り大きな手のひらが、俺の震える手の上にそっと重なった。
その僅かな温もりが、佐伯の静かな鼓動が、手のひらを通じて伝わってくる。 たまらなくなって、じわじわと涙が瞳の奥からせり上がってきた。
「小瀧?」
不思議そうに名前を呼ばれ、俺はゆっくりと顔を上げた。
普段は透き通るように白い佐伯の肌は、刺すような冷気の中でいっそう青白く、まるで氷のようだった。
けれど、その鼻先や耳たぶだけが痛々しいほど赤く染まっていて、長い睫毛の先には、凍りついた微かな霜がダイヤモンドの粉みたいに光っている。
その光景に、もう佐伯も俺も、本当にダメになってしまうかもしれないという思いが過る。
俺は掴んだ胸元をさらに強く握りしめ、喉の奥に張り付いた熱を振り絞るようにして、震える言葉を絞り出した。
「……あの、俺さ……その、佐伯のこと、ほんとは……本当は」
視界が涙で滲んでいく。マイナス二十度の容赦ない極寒の中で、俺の心臓の音だけが、うるさいくらいにドクドクと鳴り響いていた。
意地悪で、不器用で、ぶっきらぼうで。
でも、バイト中、誰よりも俺のことを見てくれている、お前のことが――。
「す、好き……っ」
その二文字が震える唇から溢れ落ちた、まさにその時だった。
佐伯が、深く大きなため息をひとつ吐き出し、弾かれたように立ち上がった。
「え、な、何……?」
驚いて見上げる俺を置き去りにして、佐伯は無言のまま出口のドアへと歩み寄る。そして、壁にある小さな銀色のスイッチカバーを開き、その隙間に長い指を差し込んだ。
――ピロリン。
電子レンジの加熱終了を知らせるような、あまりにも気の抜けた電子音が響いた。
あれほど頑なに俺たちを閉じ込めていた分厚いドアが、拍子抜けするほどあっけない音を立てて、カチャンと開く。
「……え?」
喉の奥から、乾いた声が漏れる。
ゆっくりと振り返った佐伯は、口角をわずかに、楽しげに吊り上げて言った。
「ごめん。普通に、内側から解除できる緊急用ボタンあるんだよね」
「……はぁぁぁあ!? まじ笑えん! 最悪!!」
今までの人生で、間違いなく一番デカい声が出た。
何、コイツ。 信じられない。
最低、最悪。人間として性格がマジで終わってる。
「いや、ごめん。小瀧がマジでこの世の終わりみたいな絶望顔してたから、つい、からかいたくなっちゃって」
「お、お前……嘘、ついてたの!? 閉じ込められたって!」
佐伯は、頬の片側だけをピクリと上げて、薄く笑った。
「え? 俺は一言も閉じ込められたなんて言ってない。『ドア、閉まってるね』とは言ったけど。勝手にパニクったのはお前だろ」
言葉は穏やかだけど、そこに含まれた意地の悪い笑顔が、凍りついた胸の奥で火花のように弾けた。
「ちょっと遊んだだけじゃん。……悪かったって」
「……絶対やだ。もう二度と口きかない。お前の言うことなんて、一生聞かない!」
「いや、これ俺も入りたての頃に、先輩にやられた伝統の悪戯で――」
「俺は、本気で死ぬかもって思ったんだよ!!」
叫んだ瞬間、堪えていた涙が決壊するようにぶわっと溢れ出した。
手の甲で何度拭っても、次から次へと熱い雫がこぼれ落ちる。 冷気で鼻先はヒリヒリと痛み、指先は痺れて感覚すらおぼつかない。
それなのに、体だけが怒りで沸騰しそうだった。
「……あのさ、ずっと前から感じてたから、ハッキリ言うけど」
視界が歪む。止まらない涙が頬を伝い、顎から滴り落ちる。泣くのはダサい、格好悪い。
そう分かっているのに、一度溢れた感情はもう自分でも止められなかった。
「佐伯って、なんでそんなに意地悪なの? どんだけ俺のこと嫌いなの?」
胸の奥を鋭い爪で掻き毟られたような痛みが、ずっと、ずっと続いている。
「他のバイトの人たちには……もっと明るく返事したり、優しく教えたり、褒めたりしてるじゃん! なのに……俺の時だけ、いつもひどいこと言って、からかって。……なんで俺だけなの……?」
ぐすっ、と大きくしゃくり上げるたび、情けなく肩が震えた。
「俺だって……本当は……もっと、佐伯に優しくしてほしかったのに……っ」
確かに、俺は要領も悪い。手先だってお世辞にも器用とは言えないし、性格も可愛げがあるとは言いがたい。
けど、それでも。俺はいつだって、佐伯に認めてほしかった。
迷惑をかけている自覚がある分、少しでもあいつの背中に追いつきたくて、慣れない手つきで必死に食らいついてきたんだ。
意地悪を言われても、散々からかわれても、俺なりに一生懸命やってきたつもりだった。
いつか、他のアルバイトの皆にたまにふっと目元を緩めて笑う、あの柔らかな表情を。ほんの一瞬でいいから、俺にも向けてほしい。
そんなささやかで、けれど誰にも打ち明けられないまま抱え込んできた独りよがりの願いが、今はもう、止める術もなく溢れだしていた。
「……っ、ふ、うぅ……っ」
ハタチの男が人前で出すべきじゃない、無様なしゃくり上げ。けれど一度決壊した涙腺から溢れる涙は、鼻先を刺すような痛みと一緒に頬を伝い落ちていく。
「……小瀧」
目の前で俺の号泣を黙って受け止めていた佐伯は、さすがにバツの悪そうな、見たこともないほど動揺した顔をしていた。
いつもの鉄面皮はどこへ行ったのか、その瞳はひどく狼狽えていて、俺を見つめる睫毛が微かに震えている。
あんなに自信満々に俺を振り回していたはずの男が、俺の涙ひとつで、言葉を失くして立ち尽くしていた。
(バカみたいだ。本当に、馬鹿みたい。こんな奴に、認められたいなんて思ってたなんて――)
いつか佐伯の隣に立てるようにと、必死に背伸びをしていた自分。
あまつさえ、散々弄ばれて、心根の優しさを勝手に期待して、好きになりかけていた自分。
そう思うと、こみ上げてくるのは怒りよりも、救いようのない滑稽さで。
俺はぐしゃぐしゃに濡れた顔を力任せに拭った。
「……満足した? 俺の泣き顔が見たくて、やったんでしょ?」
その瞬間、佐伯の顔から余裕が消えた。
そうやって強い言葉で責め立てて傷つけてやらないと、俺自身の心が、粉々に砕けてしまいそうだった。
「いや、そういうつもりじゃ……」
「良かったじゃん、最高の泣き顔が見られて。佐伯様のドッキリ、大成功だね!」
精一杯笑っても、佐伯は石像のように黙り込んだ。
その時――。
「あれ、どうしたの? 喧嘩?」
異変を察した副店長の横山さんが駆け寄ってきた。
俺の真っ赤な鼻と、涙でぐちゃぐちゃになった顔を見て、目を見開いている。
「え……ちょっと、何? 佐伯くん、どういうことかちゃんと説明して」
「……すいません。俺が泣かせました。冷凍室が開かないって、嘘をついて」
横山さんが「あ~……」と、呆れたように額に手を当てた。
「まだその伝統、残ってたの? 佐伯くんがまさかやる側になるとは思わなかったけど……。ほら、小瀧くんガタガタ震えてるじゃん。今日はもう帰っていいよ。佐伯くんの方は、あとで俺がみっちり絞るから」
俺はもう、言葉を返す気力すら残っていなかった。ただ力なく頷き、ベンチコートを乱暴にハンガーへ戻す。
そして、逃げるように更衣室へ向かった。
「小瀧、待って」
その呼びかけも無視して、俺は一度も振り返らなかった。
佐伯が今、どんな顔をして俺の背中を見ているかなんて、知りたくもない。見たいとも、思わなかった。
着替えを荒っぽく済ませ、裏口の重いドアを押し開ける。
外へ出た瞬間、バタンと閉まるドアの音と同期するように、胸の奥がぐしゃっと崩れて、また涙が溢れた。
「……っ、ふ、……」
コートの袖で拭っても拭っても、追いつかない。
あんな酷いことされなければ、俺はあそこまで言わなかったのに。
佐伯はどんな気持ちで俺のあの告白を聞いていたんだろう。
ほくそ笑んでいたのかもしれないし、底なしにバカにしていたのかもしれない。
考えれば考えるほど、凍えた指先とは対照的に、胸の奥がぎゅうっと、焼け付くように痛んだ。
そして何より――。
あんな無茶苦茶な喧嘩をしてしまって、この先どうやって仲直りすればいいのか、見当もつかない。
次に会うとき、俺はどんな顔をすればいいんだろう。
涙で腫れぼったくなった瞼を指で強く押さえながら、いつもよりずっと重い足取りで、バ先を後にした。
シフトが被っても、かつてのように肩を貸し合うような無防備な隙が生まれることは一度もなかったし、あれほど執拗だったイジワルの頻度も、目に見えてがくんと減った。
バイトが終われば、あいつの方から『お疲れ』という簡潔な四文字が投げられる。ようやく佐伯に一個の人間としての権利を認められたような、対等な関係になれた気がしていた。
それでいて、どこか拍子抜けするような、胸の奥が少しだけチリつくような。 安心と寂しさが混ざり合った正体不明の感情を、俺はずっと捨てられずに引きずっていた。
「小瀧くん、佐伯くん。今月はバレンタイン関連でアイスケーキが動くと思うから、在庫数を確認しといてくれる?」
アイスケースの霜を払っていた手を止めると、副店長の横山さんが柔らかい声で指示を出してきた。
その瞬間、条件反射のように俺と佐伯の視線がぶつかる。
ほんの一瞬、火花が散るような火照りを感じて、慌てて目を逸らした。
気まずいわけじゃない。 決して気まずくはないのだけれど、自分だけが過剰に意識してしまっているこの感じ。
あの日、肩にかかった佐伯の頭の重みとか、予期せず耳を打った「好きなタイプ」の話。
思い出そうとしなくても、記憶の底からふっと浮かびあがってくる。
しかも、今回の仕事は在庫確認。場所はバックヤードのさらに奥、冷凍室。
密室で、二人きり。 これで緊張するなと言う方が、今の俺にはムリな話だった。
「はい、これリストね。キャラクターコラボのも何個かあるから、種類を間違えずに確認するようにしてね」
横山さんが差し出したバインダー。俺が手を伸ばすより一瞬早く、佐伯がすん……とした表情のまま通り過ぎ、奪い取るようにリストを攫っていった。
「あ、え? あれ……?」
完全に置いていかれ、伸ばした手が空を斬る。困惑する俺を見て、横山さんが楽しそうに口角を上げた。
「……あはは、嫉妬してんのかな!? 寒いと思うから、そこにあるカイロ、貼って作業してね」
からかわれているのは佐伯の方なのに、何故だか俺の顔が熱くなる。
「違いますよ!」と叫びながら、俺は慌てて佐伯の背中を追い、ロッカーから予備のベンチコートをひっ掴んだ。
「さ、佐伯。カイロ貼らなくていいの……?」
追いついて手渡すと、佐伯は無言でバサッとコートを羽織って、一応カイロを受け取ってくれた。
「ありがと、小瀧」
その素っ気ない言い方はいつも通り冷たいはずなのに、口を聞いてもらえるだけで、何故か心細かった胸の奥が少しだけ温かくなる。
俺もベンチコートに袖を通し、重厚な冷凍室のドアを押し開けた。途端に、逃げ場のない冷気が肌を刺す。
「ひっ……さむ……ッ」
吐き出す息は一瞬で真っ白に凍りつき、視界を遮る。室温はマイナス二十度。
四つの巨大な業務用冷凍庫が壁際に並び、白い照明に照らされた壁が、この世の果てのような雰囲気を醸し出していた。
「……じゃあ、手分けして数える?早く終わらせて出たいし」
「俺は左の冷凍庫から潰していくから、小瀧は右側のキャラクターコラボの方でいいよ」
さりげなく、個数が少なくて楽な方を俺に任せてくれる。それが佐伯なりの不器用な優しさなのか、それともただ『お前は遅いから』という皮肉なのか。
判断がつかないまま、俺は無意識にその背中を目で追ってしまった。
『ありがとう』の一言くらい、素直に言えたらいいのに。
喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、頭の中で反芻するにとどめてしまうのは、俺の意地っ張りな悪い癖だ。
佐伯からバインダーをひったくるように受け取り、ポケットから鉛筆を抜く。氷点下の世界では、ボールペンのインクは無力化して固まってしまう。そんな「アイス屋の常識」も、佐伯に教えて貰ったことの一つだった。
お互いの持ち場で作業を開始するため、すれ違う瞬間。 分厚いベンチコート越しに、肩と肩がわずかに触れ合った。
ほんの一瞬、ナイロンの布地が擦れ合っただけ。それなのに、俺の心臓は大きく跳ねた。ドッドッドッ、と重く速い鼓動が、静まり返った冷凍室の中に響き渡ってしまうんじゃないかと思うほど、体の中で暴れ始める。
――ガコン。
冷凍庫の重い扉を開ける音が反響する。 佐伯の作業には一切の迷いも無駄もなかった。一方の俺は、かじかむ指先でラベルの文字を必死に追いながら、寒さと、そして緊張を必死に押し殺していた。
「ケーキ……全部で、二十六?」
確認のためメモを見ながら呟くと、すぐ横から、佐伯の顔がすっと近づいてきた。
「……うん。ズレてないな。これでオッケーだと思う」
佐伯は相変わらずの無表情だ。けれど、吐息がかかるほどの至近距離。真っ白な吐息が俺の頬をかすめ、冷気の中に混じっていく。ただ黙々と、俺の持ったバインダーの数字を目視で確認し、それ以上の言葉を続けない。
それが、余計に俺の心をかき乱す。 あの日以来、ずっと影のように付き纏っていた「意識」が、この極寒の密室で最高潮に達しようとしていた。
「もう終わったし、早く出よ。寒すぎ」
佐伯が短くそう告げた、その直後だった。
――ピー、ピピッ。
静寂を切り裂くように、出入り口の電子錠から、聞いたこともない警告音が響いた。
「……え?」
慌ててドアノブに手を伸ばし、力任せに引くけれど、扉はびくともしない。
「いやいや、え、嘘でしょ……? 佐伯、ドア開かないんだけど!」
焦燥感に突き動かされ、体当たりするように押しても引いても、ドアはエラー音を繰り返すばかりだ。佐伯が横から手を伸ばし、ノブの感触を確かめる。
「……完全にロックされてる。エラーで電子錠が死んだのかも」
「ちょっ……無理無理無理! これ、本気でやばくない!?」
裏返った声が、狭い空間に反響する。救いを求めてポケットを探り――絶望が指先を掠めた。
「スマホ、ロッカーに置いてきてるし……!」
俺は内心パニック状態で、分厚い鉄製のドアを何度も拳で叩いた。
「横山さーん! 誰か! 開けてくださーい!! 横山さーん……っ!」
けれど、鉄扉の向こう側からは何の反応もない。店頭では今頃、陽気なBGMが流れ、接客に追われているのだしたら――気付いて助けてもらう、というのは絶望的だった。
「……とりあえず、無駄な体力使うのやめたら?」
半泣きになる俺をよそに、佐伯はいつも通りの淡々としたトーンで言い放った。そして、ドアの前に座り込む。
「いつ出られるか分からないし、叫んでも酸素と体力を浪費するだけじゃん。横山さんが異変に気づくのを待つのが合理的」
その氷のように冷静な理屈に従って、俺も力なく隣に座り込んだ。
体育座りで少しでも体温を逃がさないよう丸まるけれど、マイナス二十度の冷気は、俺の指先からも熱を奪っていく。
「た、たぶん十五分……いや、十分くらいしたら、流石におかしいって気づいてくれるよね?」
「……どうかな。アメリカでは、行方不明になっていた男性が、十年後にスーパーの巨大冷凍庫の隙間から見つかったっていうニュースがあったけど」
「うわーっ、そういうの今やめてよ! 作り話でしょ!? 作り話だよね!?」
最悪の結末を想起させるエピソードに、俺はガタガタと震え上がった。本気で怯える俺を見て、佐伯は短く溜息をつく。
「マジでうるさい……。少しは静かに出来ねーの?」
ブリザード級の毒舌が、さらに心を凍えさせる。カタカタと震える指を握り込み、必死に吐息を吹きかけても、白い煙は一瞬で消え去る。
その時だった。
腰のあたりに強い手の感触が走り、俺の体は力強い力で佐伯の方へ引き寄せられた。
「なっ……さ、佐伯! 何して……!」
「小瀧に死なれたら、俺が困るから」
それだけ。でも、ベンチコート越しに伝わる微かな圧迫感が、恐怖をちょっとだけ和らげる。
これって、本当に気づいてもらえなかったら……明日、カチコチに凍った俺たちが「在庫」と一緒に発見されるんだろうか。
死ぬときって、どんな感じだろう。
意識が遠のいて、眠るように逝くのか。それとも、痛くて苦しくて……。
「さ、佐伯……ごめん、俺、今めっちゃ怖いかも……」
情けない声が漏れ、視界が滲む。佐伯は一瞬だけ、眉を寄せて困ったような顔を見せた。
「……じゃあ、もっとこっちに寄れば」
その響きに含まれた微かな熱に、涙腺が限界を迎えた。 佐伯は俺のベンチコートのフードを乱暴に被せると、その上から安心させるように、ポンポンと、不器用な手つきで頭を撫でてくれた。
「っう、ぅ……怖い……」
モーターの重低音と、点滅する赤いデジタル表示。 俺はただ、生きたいと思った。
親に感謝を伝えればよかった。弟のプリンを勝手に食べたのを謝ればよかった。あのバンドのライブ、行けばよかった。そんな後悔が押し寄せる。 そして、隣にいるこの「大嫌いなはずの男」に、まだ何も返せていないことに気づく。
「さ、佐伯……」
「なに」
「……俺のこと、嫌いなのに色々教えてくれて、ありがとう。迷惑ばっかかけて、ごめん」
「……急に、縁起でもないこと言わないでくんない?」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、俺は佐伯の体に縋りついた。
「……ちゃっかり俺のコートで鼻水拭くなよ」
「だ、だって……佐伯のこと意地悪だから大嫌いだけど、ちゃんとお礼言わないまま死ぬの、絶対嫌だから……ッ!」
「死なない、大丈夫。絶対助かる」
佐伯が呆れたように俺を見つめる。でも、その手はしっかりと俺を抱き留めたままだ。
「あ、あともう一個……言わなきゃいけないこと、あって……」
「……まだあんのかよ」
呆れたような佐伯の声。けれど、今夜、このままここで凍えて死ぬかもしれないなら、胸の奥にあるものを全部さらけ出しておきたい。
格好悪くても、場違いでも、今のこの瞬間だけは後悔したくないんだ。
告白なんて、二十年の人生で一度もしたことがない。
寒さで麻痺しかけている唇を必死に動かして、ぎゅう……と凍えて青白くなった手で、佐伯のベンチコートの胸元を、力の限り掴みしめる。
「……っ、」
息を呑む気配。それを受け止めて応えるみたいに、佐伯の俺より一回り大きな手のひらが、俺の震える手の上にそっと重なった。
その僅かな温もりが、佐伯の静かな鼓動が、手のひらを通じて伝わってくる。 たまらなくなって、じわじわと涙が瞳の奥からせり上がってきた。
「小瀧?」
不思議そうに名前を呼ばれ、俺はゆっくりと顔を上げた。
普段は透き通るように白い佐伯の肌は、刺すような冷気の中でいっそう青白く、まるで氷のようだった。
けれど、その鼻先や耳たぶだけが痛々しいほど赤く染まっていて、長い睫毛の先には、凍りついた微かな霜がダイヤモンドの粉みたいに光っている。
その光景に、もう佐伯も俺も、本当にダメになってしまうかもしれないという思いが過る。
俺は掴んだ胸元をさらに強く握りしめ、喉の奥に張り付いた熱を振り絞るようにして、震える言葉を絞り出した。
「……あの、俺さ……その、佐伯のこと、ほんとは……本当は」
視界が涙で滲んでいく。マイナス二十度の容赦ない極寒の中で、俺の心臓の音だけが、うるさいくらいにドクドクと鳴り響いていた。
意地悪で、不器用で、ぶっきらぼうで。
でも、バイト中、誰よりも俺のことを見てくれている、お前のことが――。
「す、好き……っ」
その二文字が震える唇から溢れ落ちた、まさにその時だった。
佐伯が、深く大きなため息をひとつ吐き出し、弾かれたように立ち上がった。
「え、な、何……?」
驚いて見上げる俺を置き去りにして、佐伯は無言のまま出口のドアへと歩み寄る。そして、壁にある小さな銀色のスイッチカバーを開き、その隙間に長い指を差し込んだ。
――ピロリン。
電子レンジの加熱終了を知らせるような、あまりにも気の抜けた電子音が響いた。
あれほど頑なに俺たちを閉じ込めていた分厚いドアが、拍子抜けするほどあっけない音を立てて、カチャンと開く。
「……え?」
喉の奥から、乾いた声が漏れる。
ゆっくりと振り返った佐伯は、口角をわずかに、楽しげに吊り上げて言った。
「ごめん。普通に、内側から解除できる緊急用ボタンあるんだよね」
「……はぁぁぁあ!? まじ笑えん! 最悪!!」
今までの人生で、間違いなく一番デカい声が出た。
何、コイツ。 信じられない。
最低、最悪。人間として性格がマジで終わってる。
「いや、ごめん。小瀧がマジでこの世の終わりみたいな絶望顔してたから、つい、からかいたくなっちゃって」
「お、お前……嘘、ついてたの!? 閉じ込められたって!」
佐伯は、頬の片側だけをピクリと上げて、薄く笑った。
「え? 俺は一言も閉じ込められたなんて言ってない。『ドア、閉まってるね』とは言ったけど。勝手にパニクったのはお前だろ」
言葉は穏やかだけど、そこに含まれた意地の悪い笑顔が、凍りついた胸の奥で火花のように弾けた。
「ちょっと遊んだだけじゃん。……悪かったって」
「……絶対やだ。もう二度と口きかない。お前の言うことなんて、一生聞かない!」
「いや、これ俺も入りたての頃に、先輩にやられた伝統の悪戯で――」
「俺は、本気で死ぬかもって思ったんだよ!!」
叫んだ瞬間、堪えていた涙が決壊するようにぶわっと溢れ出した。
手の甲で何度拭っても、次から次へと熱い雫がこぼれ落ちる。 冷気で鼻先はヒリヒリと痛み、指先は痺れて感覚すらおぼつかない。
それなのに、体だけが怒りで沸騰しそうだった。
「……あのさ、ずっと前から感じてたから、ハッキリ言うけど」
視界が歪む。止まらない涙が頬を伝い、顎から滴り落ちる。泣くのはダサい、格好悪い。
そう分かっているのに、一度溢れた感情はもう自分でも止められなかった。
「佐伯って、なんでそんなに意地悪なの? どんだけ俺のこと嫌いなの?」
胸の奥を鋭い爪で掻き毟られたような痛みが、ずっと、ずっと続いている。
「他のバイトの人たちには……もっと明るく返事したり、優しく教えたり、褒めたりしてるじゃん! なのに……俺の時だけ、いつもひどいこと言って、からかって。……なんで俺だけなの……?」
ぐすっ、と大きくしゃくり上げるたび、情けなく肩が震えた。
「俺だって……本当は……もっと、佐伯に優しくしてほしかったのに……っ」
確かに、俺は要領も悪い。手先だってお世辞にも器用とは言えないし、性格も可愛げがあるとは言いがたい。
けど、それでも。俺はいつだって、佐伯に認めてほしかった。
迷惑をかけている自覚がある分、少しでもあいつの背中に追いつきたくて、慣れない手つきで必死に食らいついてきたんだ。
意地悪を言われても、散々からかわれても、俺なりに一生懸命やってきたつもりだった。
いつか、他のアルバイトの皆にたまにふっと目元を緩めて笑う、あの柔らかな表情を。ほんの一瞬でいいから、俺にも向けてほしい。
そんなささやかで、けれど誰にも打ち明けられないまま抱え込んできた独りよがりの願いが、今はもう、止める術もなく溢れだしていた。
「……っ、ふ、うぅ……っ」
ハタチの男が人前で出すべきじゃない、無様なしゃくり上げ。けれど一度決壊した涙腺から溢れる涙は、鼻先を刺すような痛みと一緒に頬を伝い落ちていく。
「……小瀧」
目の前で俺の号泣を黙って受け止めていた佐伯は、さすがにバツの悪そうな、見たこともないほど動揺した顔をしていた。
いつもの鉄面皮はどこへ行ったのか、その瞳はひどく狼狽えていて、俺を見つめる睫毛が微かに震えている。
あんなに自信満々に俺を振り回していたはずの男が、俺の涙ひとつで、言葉を失くして立ち尽くしていた。
(バカみたいだ。本当に、馬鹿みたい。こんな奴に、認められたいなんて思ってたなんて――)
いつか佐伯の隣に立てるようにと、必死に背伸びをしていた自分。
あまつさえ、散々弄ばれて、心根の優しさを勝手に期待して、好きになりかけていた自分。
そう思うと、こみ上げてくるのは怒りよりも、救いようのない滑稽さで。
俺はぐしゃぐしゃに濡れた顔を力任せに拭った。
「……満足した? 俺の泣き顔が見たくて、やったんでしょ?」
その瞬間、佐伯の顔から余裕が消えた。
そうやって強い言葉で責め立てて傷つけてやらないと、俺自身の心が、粉々に砕けてしまいそうだった。
「いや、そういうつもりじゃ……」
「良かったじゃん、最高の泣き顔が見られて。佐伯様のドッキリ、大成功だね!」
精一杯笑っても、佐伯は石像のように黙り込んだ。
その時――。
「あれ、どうしたの? 喧嘩?」
異変を察した副店長の横山さんが駆け寄ってきた。
俺の真っ赤な鼻と、涙でぐちゃぐちゃになった顔を見て、目を見開いている。
「え……ちょっと、何? 佐伯くん、どういうことかちゃんと説明して」
「……すいません。俺が泣かせました。冷凍室が開かないって、嘘をついて」
横山さんが「あ~……」と、呆れたように額に手を当てた。
「まだその伝統、残ってたの? 佐伯くんがまさかやる側になるとは思わなかったけど……。ほら、小瀧くんガタガタ震えてるじゃん。今日はもう帰っていいよ。佐伯くんの方は、あとで俺がみっちり絞るから」
俺はもう、言葉を返す気力すら残っていなかった。ただ力なく頷き、ベンチコートを乱暴にハンガーへ戻す。
そして、逃げるように更衣室へ向かった。
「小瀧、待って」
その呼びかけも無視して、俺は一度も振り返らなかった。
佐伯が今、どんな顔をして俺の背中を見ているかなんて、知りたくもない。見たいとも、思わなかった。
着替えを荒っぽく済ませ、裏口の重いドアを押し開ける。
外へ出た瞬間、バタンと閉まるドアの音と同期するように、胸の奥がぐしゃっと崩れて、また涙が溢れた。
「……っ、ふ、……」
コートの袖で拭っても拭っても、追いつかない。
あんな酷いことされなければ、俺はあそこまで言わなかったのに。
佐伯はどんな気持ちで俺のあの告白を聞いていたんだろう。
ほくそ笑んでいたのかもしれないし、底なしにバカにしていたのかもしれない。
考えれば考えるほど、凍えた指先とは対照的に、胸の奥がぎゅうっと、焼け付くように痛んだ。
そして何より――。
あんな無茶苦茶な喧嘩をしてしまって、この先どうやって仲直りすればいいのか、見当もつかない。
次に会うとき、俺はどんな顔をすればいいんだろう。
涙で腫れぼったくなった瞼を指で強く押さえながら、いつもよりずっと重い足取りで、バ先を後にした。



