今日は佐伯と、閉店までを任されるシフトだった。
とりあえず無難に業務を進めながら、それなりに言葉を交わす。
また何か意地悪をされるんじゃないか、からかわれるんじゃないかと身構えていたけれど、当の佐伯からは特に何も仕掛けられなかった。
いつも通り淡々とした態度で働く横顔をちらちらと盗み見ながら、拍子抜けしているのか、それとも安堵しているのか。自分でもよくわからない感情を抱えたまま、俺は目の前の接客を続けていた。
「佐伯くん、小瀧くん。空いてるから休憩入ってねー」
「えっ……」
ぶっちゃけ、休憩なんて入りたくない。佐伯と二人になると、毎回何か起きてる気がする。
馬車馬のように働くから、俺とこいつを密室に二人きりにしないでください! と、心の中で必死に懇願する。
「あぁ、いつもより休憩速いからビックリさせちゃった? 大丈夫だよ、今ならお客さんも少ない時間だし」
「……あ、分かりました。すみません、お先に休憩いただきます」
ちょっと気まずい気持ちで従業員用の休憩スペースに向かうと、俺はソファに座った。
黒い合皮で、ところどころ剥げてスポンジがむき出しになっているボロいやつ。でも薄くて硬いパイプ椅子よりは、座り心地がマシだった。
スマホを取り出して、なんとなくSNSを開く。別に見たいものがあるわけじゃない。ただ、画面に集中しているふりをしたかった。
「お疲れ」
ドアを開けたのは佐伯だった。
俺も「お疲れ……」と小さな声で返し、自然にスマホへ視線を戻す。
今スマホ見てますから。自分の世界に入ってるんで、話しかけないで下さいね。
そんなアピールも虚しく、佐伯が俺の隣に腰を下ろした。
部屋の広さと椅子の数を考えれば、わざわざ俺の隣を選ぶ理由なんてひとつもないはずなのに。
……死ぬほど椅子はあるのに、なんで?
「あー疲れた、ちょっと休憩」
戸惑っていると、佐伯は俺の肩に凭れるように頭を寄せてきた。
一瞬で思考停止。スマホを持ったまま固まる。
さっきまで流れていたタイムラインが、目の前にあるのに何も読めなくなった。
「えっと……」
「いつまでもクレープ作れない赤ちゃんが居るから、実質ワンオペでしんどいわー」
ぐさり。ぐさり。佐伯の言葉が俺の胸に刺さる。
それは紛れもない事実で、俺は未だに一人でクレープをうまく作れなくて、佐伯に頼りきりになっている。注文が入るたびに「俺に振らないでくれ」と念じながら動いている自分が情けない。
「そ、それは……俺も申し訳ないって思ってるよ。練習も、してるんだけど上手く行かなくて……」
言葉はムカつくけど、肩を貸すことを嫌がるのも逆に感じ悪い気がして、一応そのままにしてみる。
「バカ」だの「二歳児」だの「ばぶちゃん」だの、散々言っておいて、何これ。甘えてんの? それとも俺は奴隷なの?
文句を言いたいのに、それより先に心臓がうるさくなってしまって、言葉が出てこない。
「……佐伯、昨日まで試験だったって、店長から聞いた。お疲れ」
佐伯となかなかシフトが被らないから、気になって店長に聞いたら、そう教えてくれた。それを聞いてちょっとホッとしている自分がいたのは内緒だ。シフトが被らない理由があるなら、別にいい。ただ何となく、理由が分かって安心したかっただけで、深い意味はない……多分。
「あー、うん。あんま寝てなかったから、ちょっと肩貸して」
距離感、なに? バグですか? そんなことするキャラだったっけ?
俺に対して、こういうことができる人間だったっけ。
無言のまま頷くけれど、心臓が体の中で暴れまわる。
(……いいけど、なんか……急に馴れ馴れしいって言うか……)
ちら、と目を横にずらすと、さらりと光に透けるような細い髪が目に入った。
いつもは軽くヘアセットされているのに、今日は少しだけ乱れている。試験続きで、気を使う余裕もなかったのかもしれない。そんな些細なことに気づいてしまう自分が、なんとなく嫌だった。
嫌でも漂ってくる佐伯の匂いは清潔感があって、さっきまで忙しく動き回っていたせいか、少しだけ汗の混じった体温がある。だけど、全然嫌じゃない。むしろ、なんでか体がそっちに引き寄せられそうになるのを、必死でこらえていた。
スマホの画面なんて、もう目に入ってこないし、手の中でただの黒い板と化している。
なんで? ……なんでこんな普通に寄りかかってくるんだよ。
普通じゃないのは俺の方なのか。こんなことで動揺してるのは、俺だけなのか。
肩に預けられたその横顔は、いつもよりちょっとだけ幼く見えた。
あの鋭い目元も今は閉じていて、店頭でお客さんに向ける愛想笑いとも、俺に向けてくる冷ややかな無表情とも違う。どちらでもない、素に近い顔だ。
「あの、佐伯……」
小声で呼んでみても、返事はない。その代わり、佐伯の呼吸がふっと深くなる。
……寝落ちしたにしては、早すぎない?
肩にかかる重さがさっきより増して、思わず背筋が伸びた。
佐伯の体温が、じわじわと肩の奥まで染み込んでくる。温かくて重くて、それがどうしようもなく心地よくて、振り払えない。
誰かに見られたら完全に誤解されるだろうけど、今日はもう誰も出勤してこない。
店長も、よっぽどじゃなきゃこの休憩室には来ないだろうし。
冷蔵庫の低いモーター音と、空調の吹き出し口から漏れる風の音だけが、部屋に満ちている。
こんなに静かな空間に佐伯と二人でいたことなんて、今まで一度もなかったと思う。
体感では五分以上は経った気がしたのに、佐伯が起きる気配はまるでなかった。
「佐伯、そろそろ肩が痛いんだけど……」
当然ながら返事なし。深い眠りに落ちている。
いびきをかいてないだけマシだけど、こんなに爆睡するほど疲れてたのかと思うと、胸の奥に妙な庇護欲みたいなものが湧いてしまう。
疲れてるんだ、とか。
それなのに俺の分まで仕事いっぱいさせてゴメン、とか。
普段は散々言われてばかりなのに、こうして眠っている顔を見ていると、不思議と怒れなくなってしまう。
少しだけ顔を覗き込むように、俺は頭を下げた。
(……うわぁ、睫毛、めっちゃ長い。肌、きれい)
ふに、とそのほっぺに反対の手で触れてみる。
全然、起きない。起きてる時にやったら、殺されそう。
今しかチャンスはないかも。ふにふにふに、と何度もそのほっぺを押すと、なんか、腹立つくらい柔らかかった。
唇がほんの少し乾いていて、リップ塗れよ、と心の中で文句を言いながら、気づけば顔がさっきよりさらに近くなっていた。
(あと数センチで、ホントにキスできそう。これがキスする時の、佐伯の恋人目線……なんつって)
頭の中でそう言葉にした瞬間、自分の心拍数がわかるくらい、耳の奥が熱くなった。
恋人、なんて単語を、佐伯に結びつけて考えたのは初めてで。それがひどく自然に頭に浮かんできたことが、余計に怖くなる。
そこまで考えた瞬間、その線の綺麗な二重瞼がゆっくりと開いた。
「……ありがと、小瀧。助かった」
ぎゅんっと、スポーツカー並みの加速で俺の顔は横を向いた。
「い、いや……別に……」
声が裏返りそうになるのを必死に抑える。
もっと眠たげにぼんやり起きてくると思ったのに、ばっちり目が開いている。
俺の顔が近かったことに気づいていたとしたら、と思ったら恥ずかしさで消えたくなった。こいつはアンドロイドか何かなの?
ドッドッドッ、と心臓が怖いくらい強く鳴っていた。
佐伯は俺の動揺なんて眼中にないって感じで立ち上がり、ドアに手をかける。
そして振り返りざま、おそろしく自然な声で言った。
「また肩貸して。寝不足、多分続くから」
「え、あ……うん」
反射的に返事してしまった。断る選択肢が、頭の中に一瞬も浮かばなかったのはなんでだろう。
佐伯は満足そうに小さく笑って、店へ戻っていく。
その表情が、いつもの皮肉げな笑い方とは少しだけ違う気がして、俺はそれをうまく飲み込めないまま、ただ見送った。
その背中が扉の向こうに消えてから、ようやく俺は呼吸を思い出した。
肩にはまだ重みの名残があって、そこだけが熱い。体の芯には、さっきの体温がまだ残っているみたいで、なかなか消えてくれなかった。
(……立ってるのがやっとなんですけど。俺の方こそ、誰か肩貸してほしい)
それでも、佐伯の「また」がいつなのか、気になってしまって。
気づけば俺は、吸い寄せられるようにシフト表の前に立ち、佐伯と休憩が被る時間をチェックしてしまっていた。
とりあえず無難に業務を進めながら、それなりに言葉を交わす。
また何か意地悪をされるんじゃないか、からかわれるんじゃないかと身構えていたけれど、当の佐伯からは特に何も仕掛けられなかった。
いつも通り淡々とした態度で働く横顔をちらちらと盗み見ながら、拍子抜けしているのか、それとも安堵しているのか。自分でもよくわからない感情を抱えたまま、俺は目の前の接客を続けていた。
「佐伯くん、小瀧くん。空いてるから休憩入ってねー」
「えっ……」
ぶっちゃけ、休憩なんて入りたくない。佐伯と二人になると、毎回何か起きてる気がする。
馬車馬のように働くから、俺とこいつを密室に二人きりにしないでください! と、心の中で必死に懇願する。
「あぁ、いつもより休憩速いからビックリさせちゃった? 大丈夫だよ、今ならお客さんも少ない時間だし」
「……あ、分かりました。すみません、お先に休憩いただきます」
ちょっと気まずい気持ちで従業員用の休憩スペースに向かうと、俺はソファに座った。
黒い合皮で、ところどころ剥げてスポンジがむき出しになっているボロいやつ。でも薄くて硬いパイプ椅子よりは、座り心地がマシだった。
スマホを取り出して、なんとなくSNSを開く。別に見たいものがあるわけじゃない。ただ、画面に集中しているふりをしたかった。
「お疲れ」
ドアを開けたのは佐伯だった。
俺も「お疲れ……」と小さな声で返し、自然にスマホへ視線を戻す。
今スマホ見てますから。自分の世界に入ってるんで、話しかけないで下さいね。
そんなアピールも虚しく、佐伯が俺の隣に腰を下ろした。
部屋の広さと椅子の数を考えれば、わざわざ俺の隣を選ぶ理由なんてひとつもないはずなのに。
……死ぬほど椅子はあるのに、なんで?
「あー疲れた、ちょっと休憩」
戸惑っていると、佐伯は俺の肩に凭れるように頭を寄せてきた。
一瞬で思考停止。スマホを持ったまま固まる。
さっきまで流れていたタイムラインが、目の前にあるのに何も読めなくなった。
「えっと……」
「いつまでもクレープ作れない赤ちゃんが居るから、実質ワンオペでしんどいわー」
ぐさり。ぐさり。佐伯の言葉が俺の胸に刺さる。
それは紛れもない事実で、俺は未だに一人でクレープをうまく作れなくて、佐伯に頼りきりになっている。注文が入るたびに「俺に振らないでくれ」と念じながら動いている自分が情けない。
「そ、それは……俺も申し訳ないって思ってるよ。練習も、してるんだけど上手く行かなくて……」
言葉はムカつくけど、肩を貸すことを嫌がるのも逆に感じ悪い気がして、一応そのままにしてみる。
「バカ」だの「二歳児」だの「ばぶちゃん」だの、散々言っておいて、何これ。甘えてんの? それとも俺は奴隷なの?
文句を言いたいのに、それより先に心臓がうるさくなってしまって、言葉が出てこない。
「……佐伯、昨日まで試験だったって、店長から聞いた。お疲れ」
佐伯となかなかシフトが被らないから、気になって店長に聞いたら、そう教えてくれた。それを聞いてちょっとホッとしている自分がいたのは内緒だ。シフトが被らない理由があるなら、別にいい。ただ何となく、理由が分かって安心したかっただけで、深い意味はない……多分。
「あー、うん。あんま寝てなかったから、ちょっと肩貸して」
距離感、なに? バグですか? そんなことするキャラだったっけ?
俺に対して、こういうことができる人間だったっけ。
無言のまま頷くけれど、心臓が体の中で暴れまわる。
(……いいけど、なんか……急に馴れ馴れしいって言うか……)
ちら、と目を横にずらすと、さらりと光に透けるような細い髪が目に入った。
いつもは軽くヘアセットされているのに、今日は少しだけ乱れている。試験続きで、気を使う余裕もなかったのかもしれない。そんな些細なことに気づいてしまう自分が、なんとなく嫌だった。
嫌でも漂ってくる佐伯の匂いは清潔感があって、さっきまで忙しく動き回っていたせいか、少しだけ汗の混じった体温がある。だけど、全然嫌じゃない。むしろ、なんでか体がそっちに引き寄せられそうになるのを、必死でこらえていた。
スマホの画面なんて、もう目に入ってこないし、手の中でただの黒い板と化している。
なんで? ……なんでこんな普通に寄りかかってくるんだよ。
普通じゃないのは俺の方なのか。こんなことで動揺してるのは、俺だけなのか。
肩に預けられたその横顔は、いつもよりちょっとだけ幼く見えた。
あの鋭い目元も今は閉じていて、店頭でお客さんに向ける愛想笑いとも、俺に向けてくる冷ややかな無表情とも違う。どちらでもない、素に近い顔だ。
「あの、佐伯……」
小声で呼んでみても、返事はない。その代わり、佐伯の呼吸がふっと深くなる。
……寝落ちしたにしては、早すぎない?
肩にかかる重さがさっきより増して、思わず背筋が伸びた。
佐伯の体温が、じわじわと肩の奥まで染み込んでくる。温かくて重くて、それがどうしようもなく心地よくて、振り払えない。
誰かに見られたら完全に誤解されるだろうけど、今日はもう誰も出勤してこない。
店長も、よっぽどじゃなきゃこの休憩室には来ないだろうし。
冷蔵庫の低いモーター音と、空調の吹き出し口から漏れる風の音だけが、部屋に満ちている。
こんなに静かな空間に佐伯と二人でいたことなんて、今まで一度もなかったと思う。
体感では五分以上は経った気がしたのに、佐伯が起きる気配はまるでなかった。
「佐伯、そろそろ肩が痛いんだけど……」
当然ながら返事なし。深い眠りに落ちている。
いびきをかいてないだけマシだけど、こんなに爆睡するほど疲れてたのかと思うと、胸の奥に妙な庇護欲みたいなものが湧いてしまう。
疲れてるんだ、とか。
それなのに俺の分まで仕事いっぱいさせてゴメン、とか。
普段は散々言われてばかりなのに、こうして眠っている顔を見ていると、不思議と怒れなくなってしまう。
少しだけ顔を覗き込むように、俺は頭を下げた。
(……うわぁ、睫毛、めっちゃ長い。肌、きれい)
ふに、とそのほっぺに反対の手で触れてみる。
全然、起きない。起きてる時にやったら、殺されそう。
今しかチャンスはないかも。ふにふにふに、と何度もそのほっぺを押すと、なんか、腹立つくらい柔らかかった。
唇がほんの少し乾いていて、リップ塗れよ、と心の中で文句を言いながら、気づけば顔がさっきよりさらに近くなっていた。
(あと数センチで、ホントにキスできそう。これがキスする時の、佐伯の恋人目線……なんつって)
頭の中でそう言葉にした瞬間、自分の心拍数がわかるくらい、耳の奥が熱くなった。
恋人、なんて単語を、佐伯に結びつけて考えたのは初めてで。それがひどく自然に頭に浮かんできたことが、余計に怖くなる。
そこまで考えた瞬間、その線の綺麗な二重瞼がゆっくりと開いた。
「……ありがと、小瀧。助かった」
ぎゅんっと、スポーツカー並みの加速で俺の顔は横を向いた。
「い、いや……別に……」
声が裏返りそうになるのを必死に抑える。
もっと眠たげにぼんやり起きてくると思ったのに、ばっちり目が開いている。
俺の顔が近かったことに気づいていたとしたら、と思ったら恥ずかしさで消えたくなった。こいつはアンドロイドか何かなの?
ドッドッドッ、と心臓が怖いくらい強く鳴っていた。
佐伯は俺の動揺なんて眼中にないって感じで立ち上がり、ドアに手をかける。
そして振り返りざま、おそろしく自然な声で言った。
「また肩貸して。寝不足、多分続くから」
「え、あ……うん」
反射的に返事してしまった。断る選択肢が、頭の中に一瞬も浮かばなかったのはなんでだろう。
佐伯は満足そうに小さく笑って、店へ戻っていく。
その表情が、いつもの皮肉げな笑い方とは少しだけ違う気がして、俺はそれをうまく飲み込めないまま、ただ見送った。
その背中が扉の向こうに消えてから、ようやく俺は呼吸を思い出した。
肩にはまだ重みの名残があって、そこだけが熱い。体の芯には、さっきの体温がまだ残っているみたいで、なかなか消えてくれなかった。
(……立ってるのがやっとなんですけど。俺の方こそ、誰か肩貸してほしい)
それでも、佐伯の「また」がいつなのか、気になってしまって。
気づけば俺は、吸い寄せられるようにシフト表の前に立ち、佐伯と休憩が被る時間をチェックしてしまっていた。



