「小瀧くん、悪いんだけどビラ配り行ける?」
「え、今からですか……?」
「うん、今日ちょーっと売上的にマズいから……クーポン配って、お客さん集めたいんだよね」
夕方の店内。寒さが増してきたせいか、客足は先週よりも確実に遠のいている。
俺はその暇なスキマ時間さえ有効活用しようと、キッズサンデーを作る練習をしていた。
外はすでに薄暗くなって、街灯がぼんやりと光を帯び始める時間帯だ。
内心でげんなりしながらも、俺は一番下っ端の立場上断る事が出来ずに、仕方なく頷いた。
(……やだなぁ。寒いし、昨日だって二回も配ったのに)
心の中で愚痴をこぼしつつ、バックヤードに下がった。
くるぶしまで隠れる長さのベンチコートを貸してもらえるけれど、寒さはやっぱり身に沁みる。
「最後に使ったの、誰だよ。ちゃんと戻せって言われてんのに……」
独り言をこぼしながら更衣室のロッカーを開けるけれど、目当てのベンチコートは一向に見つかる気配がない。
いや、正確には、あるべき場所に戻っていないんだ。なんで当たり前のことが出来ないかなぁ、とイライラが胸の奥で小さく膨れ上がる。
早く行かないと、怒られるのは俺なのに。
仕方なく、自分のロッカーから私服のアウターを取り出し、羽織って裏口から店の外に出た。
「いらっしゃいませー、ただいまクーポン券をお配りしておりまーす」
手にしたビラの束がずっしりと重い。ノルマは特にないので、時間さえ過ぎればいいのだけれど。
開始10分も経たないうちに、俺は盛大なくしゃみをして震え上がった。
「……ぶぇっくしょい!」
大学に着ていけるように、デザイン重視で買った丈が短めのアウターだから、暖かさなんて期待できない。
冷たい風が、スカスカの生地を通り抜けて肌に突き刺さる。
さっさと終わらせたい一心で時計を見れば、まだあと20分以上もある。
このクソ寒い日に、「アイスを買おう」なんて大人はいないだろう。クーポンを手渡しても、ほとんどの人がそっけなく目を逸らし、首を振るだけだった。
冷えた手でビラを差し出し、断られる度に、心もどんよりと沈んでいく。
「へっくしゅん!」
もう一度、盛大なくしゃみをしていると、不意に背後から声がかかった。
「すみません、店の前でデカいくしゃみするの、やめてもらっていいですか?」
お客さんに注意されたのかと思って、慌てて振り返ると、そこに立っていたのは佐伯だった。
「チッ、お前かよ」
思わず舌打ちをすると、佐伯は若干苛立った表情で俺を見下ろす。
「お前、なんでベンチコート着てないの? バカでけぇくしゃみして、営業妨害もいい加減にしろ」
「違うの! 俺はちゃんと、いつものとこ探したの! なのに、掛ってなかったんだってば」
俺が正論で言い返すとは思わなかったのか、佐伯は目を丸くして一瞬黙った。
どうだ、初めて俺が勝ったぞ! と心の中でこっそり笑う。
すると、佐伯はおもむろに自分のダウンとパーカーのファスナーを下ろすと、その場でバサッと脱ぎ始めた。
「え、なに、なんで脱いでんの!? 露出!?」
「お前、ほんっとキーキーうるさい。救急車のサイレン並みだな」
左右のこめかみを片手で抑え、まるで俺の声のせいで頭痛がするとでもアピールするかのように、ため息をつく佐伯。
「……これ着とけ」
薄手のアウターの上に、佐伯のスウェットパーカーと黒いダウンを重ね着される。
ファスナーは上まできっちり閉められた。三枚重ね。やけに腕も丈も長いダウンに包まれた俺は、色も相まってペンギンのようだった。
「この格好、まじダサくない? 佐伯の腕の長さなんなの」
「いや、小瀧の腕が異様に短い。ウデミジカ族」
「俺を変な種族にするな!」
怒り狂う俺を、佐伯はため息混じりに見やる。
「お前が配っとく間に、俺がもう一回バックヤード探すから。それでも無ければ店長に相談しとく」
「……わかった」
佐伯が従業員用裏口へ向かう背中を見送ると、俺はふうっと小さく息を吐いた。
指先をちょっとだけ覗かせて、ビラを持ったまま、その上着に口元を埋める。
佐伯が直前まで着ていたから、体温が残っていてあったかい。服からほんのり、爽やかで落ち着いた香水の匂いがする。
(どこのブランドだろう、初めてかいだ匂いかも。あんまし有名なやつじゃないのかな……)
そんなことを、とぼんやり考える。いや、知ったところで、って感じだけれど。
気を取り直し、俺は無心でビラを配り切った。
外国人の親子連れには、ノリと勢いで渡す。若い女の子のグループやカップルには、反応を見ながら粘って押し切る。
そんなやり方で時間きっかりになったのを確認して、震えながら店内に戻ると、佐伯は女子高生二人組にアイス入りのクレープを作っていた。
きゃっきゃっと盛り上がる女の子たちは、佐伯の姿を見つめながら「ビジュ良すぎ」「ガチイケメンじゃん」と囁き合う。店内が静かなせいで、どれだけ声をひそめても丸聞こえだった。
一方、佐伯は死んだ顔でカットしたバナナやイチゴを生地にひょいひょい載せる。
いつもの姿を見ているから分かる。絶対「めんどくせー」と思いながら作っているに違いない。
手渡されたクレープと共に、自撮りした女子高生たちは店の外へ出て行った。
その背中を見て、扉が閉まった途端、佐伯が盛大に溜息をつく。
俺はその背後から近づいて、クイ、と袖を引っ張って自分の方へ向かせた。
「佐伯、あの……これ、返す。普通にあったかかった」
「……『人に物を返すときは、きちんとお礼する』ってお前のママに教わらなかった?」
嘲笑うように指摘され、鼻の横に皺を寄せながら、俺は「ありがとうございます」とめちゃくちゃ小さい声で答えた。
マジでいちいち、癪に触るんだよなぁ。確かに上着は助かったけど。
「へぶしっ!」
アイスタブを拭きながら、顔を背けてまたくしゃみをすると、店の自動ドアが開いた。
さっき俺が外でビラを配った、外国人の親子連れだ。
メニューを指さし相談していて、流暢すぎる英語は聞き取れない。かろうじて、幼稚園くらいの子どもが発する簡単な単語がわかる程度だった。
「Hi, could you tell me which flavor is your most popular?」
まぶしい笑顔で声をかけられ、俺は思わず作り笑いを浮かべる。
頭の中で単語を必死に組み立てるけれど、どうしても口から出てこない。
俺は英語が異常なくらい苦手だ。バカだから、そもそも得意科目もないんだけど……。
「あ、えーと… our… most… popular… flavor… is… um…」
単語をひねり出すも、口ごもる俺を見て、佐伯がすっとやってきた。
メニュー表を指差し、滑らかな英語で答える。
「Our most popular flavor is ‘Mint Choco Chip’.
It’s refreshing, not too sweet, and the chocolate chunks give a nice texture.」
外国人はにっこり笑ってうなずき、スムーズに会計を済ませる。
俺はその横で、口をポカンと開けたまま見ているしかなかった。
「ポップといちみる、チョコミント。レギュラーカップで作れる?」
「……あ、うん。了解」
佐伯が受けたオーダーをメモで渡してくれ、俺は扉をスライドしてカップを手に持つ。
スクープして盛り付けたアイスを渡しながら、英語が下手だったことを「ソーリー」と繰り返すと、外国人の母親らしき女性は「とんでもない! いいのよ!」といったニュアンスで、明るく笑ってくれた。
再び静かになった店内で、俺はそっと佐伯に近づき、その横顔に笑みを向けた。
「佐伯……英語喋れるんだ? 超ビックリしたんだけど」
「喋れるだろ、普通に。お喋り出来ない赤ちゃんは、社会が雇ってくれないよ?」
マジで言い方が最悪。
直球で俺の事を馬鹿にしていて、お前に人としての心は無いのか、と聞きたくなる。
「……大学で英語とかやってんの?」
「あー、それはそう。専攻が英語とフラ語だから」
英語に加えてフランス語まで。チートだわ、と頭の中でぼんやり思う。
なんとなく、大学で講義を受ける佐伯の姿を想像していると――
「へっくしゅん!!」
また盛大なくしゃみ。やばい、本当に風邪ひいたかも。
鼻もずびずびするし、この後熱出たりして……と考えていると、背後から手のひらで視界を覆われた。
「えっ、あの、世界が見えないんですが」
「……お前、ちょっと熱あんじゃねぇの?」
佐伯が背後から俺の額に手を当てている。
その手は少しひんやりしていて、気持ちいい。
「……小瀧はバックヤードでノベルティの用意でもしといて。客少ないし、あと俺一人でもなんとかなる」
アイスケーキを事前予約してくれた人向けのノベルティと、ラッピング用のPP袋を渡される。
俺はその言葉に甘えて、そろそろと後方に下がろうとすると、肩にふわっと何かをかけられた。視線を落とすと、それは佐伯の白いパーカーだった。
「……え、これ着たら店長に怒られるんじゃ……?」
「俺が説明しとくから」
そう言い残すと、佐伯は俺の代わりにひとりで店頭に立ってくれた。
(……なんか、今日はめっちゃ優しくない?)
その背中を見つめつつ、俺は佐伯のパーカーに腕を通して、バックヤードに下がった。
一つ一つノベルティをラッピングしながら、頬杖をつく。
(もっと、意地悪言われるかと思ってたんだけど……)
もうあったかくはないけど、袖のあたりから香りがする。
あー、やっぱこれ、めっちゃいい匂いかも。あとで何使ってるか聞いてみよ。
買わない。絶対買わないけど、ただ知りたいだけ。
そこから一時間かけて俺はラッピングを大量にやって、段ボール一箱分くらいになった。
洗い物まで済ませたくれた佐伯が、バックヤードに戻ってきたので、俺はパーカーを脱いで返そうとした。それを見た佐伯が顔をしかめる。
「えー、洗って返してくんない?」
「は!? さっきはそんなこと言わなかったじゃん!」
「常識だと思うけど」
まあ確かに、それもそうか……と脱ぐのをやめ、俺たちは退勤の準備を始める。
ちょっとの間の沈黙が気まずくて、俺は何気なく話題を振った。
「てか、佐伯ってさ、なんの香水つかってんの?」
「……え、なに?」
「なんか、このパーカー着てる時いい匂いしてたんだけど、めっちゃ好きな匂いだなって。……あ、もしかして香水じゃなくて、柔軟剤?」
俺の顔を見た佐伯は少し目を泳がせる。
めっちゃ教えたくなさそう。ていうか、この意地悪大魔神が俺なんかに教えるわけないか、と目を逸らすと、佐伯はいつもより小さな声で言った。
「……ないんだけど」
「え?」
「香水も、柔軟剤も苦手で使ってないんだけど」
しばし沈黙が流れる。
じゃあこの匂いって……と途中まで考えたところで、ぼっとコンロに火がついたかのように俺は恥ずかしくなった。
「あ、ごめん、今の嘘。てゆーか、俺が鼻バカなんだわ。なんか違う匂いと間違ってんのかも」
自分でも言ってて意味が分からない。
必死に言葉を並べ立てると、佐伯は嬉々として、新しいおもちゃを得た子供のように俺に近づいてきた。
「へー、なに? 俺の上着クンクンして、香水の匂いだと思ったの?」
「してない、してない。やー、マジでミスだわ。『ミスター鼻バカ』って呼んでいいよ、マジで」
もう自分をひたすら貶すしかない。そうじゃないと恥ずかしくて死にそう。穴があったら入りたい。
けど、佐伯はロッカーを背にした俺の顔の横に、とん、と軽く手をついて言った。
「……小瀧は、なんの香水使ってんの?」
そのまま首筋に顔を近づけられたから、思わず目を閉じて頭を傾けてしまった。
……いやいや、何してんの、俺。ホイホイ、こんなん受けいれちゃダメだろ。
「つ、つけてない、今日は」
「へー……俺も『めっちゃ好きな匂い』かも」
俺が言ったことをそっくりそのまま返され、ますます恥ずかしい。
吐息が鎖骨や首筋のあたりに掛って、やんわりと佐伯の胸を手で押し返す。
「ちょ、もうマジでやめて。何かくすぐったいし」
「ここ、小瀧の弱点なんだ」
佐伯の声がめちゃくちゃ楽しそうで、肩口にふっと息を吹きかけられる。
「ねぇ、ほんとセクハラ。電車でそれやるオッサンいるけどさ、お前はその顔だから今許されてるだけだからね!?」
「ふーん。何? 小瀧って、俺の顔 好きなの?」
……もうやだ。深ーい穴が欲しい。どんどん自分で自分の首を絞めている気がする。
佐伯はそのまま体を離すと、ロッカーに鍵をかけてダウンを羽織った。
いや、急に帰るスイッチいれるなよ。ほんと、どこまでマイペースなんだ……。
「これ、いつ返したらいい?」
「次のシフト被る時とかでいいよ」
「わかった、ありがとう」
佐伯のパーカーを、寒いのでそのまま着て帰ることにした。
従業員用の裏口を出る。今日は何を別れの挨拶代わりに言われるんだろう、と身構えると、佐伯が俺の両肩を掴む。
「えっ?」
俺が間抜けな声を出すと、そのままゆっくりと顔が近づいてきて、目が合う。というか、見つめ合っている。
(なに、なになに、なにこれ……?)
ぎゅ、と反射で両目を閉じると、佐伯が俺の髪に鼻を寄せた感触があった。
「……じゃーね、ばぶちゃん」
そんな声が降ってきて、俺はぱち、と目を開ける。
「はっ……?」
まって、なんで「二歳児」から退化してんの?
ぽかんとする俺を見て、佐伯は鼻で笑いながら言った。
「小瀧の髪は、赤ちゃんみたいな香りがする」
そのまま佐伯はくるりと背中を向けて歩いて行く。
一方で、鞄に手を添えたまま、俺はぼへーっと立ち尽くしていた。
「言い返さなきゃ」と頭で考えるほど、現実は遠のいていく。
それよりも、佐伯の匂いをいいなと思ったこと。あいつの顔が純粋に好きなこと。そんなバカみたいに素直な気持ちを、遠回しに伝えてしまったこと。
肩を掴まれたとき、思わずキスされるんじゃないかと勘違いしたこと。
頭の中はぐちゃぐちゃなのに、心の中はそんな記憶ばかりで溢れかえっていて、もうどうしようもない。
「うわぁあ……無理無理、ないないない……もうやだ……!」
思わずその場にしゃがみ込んでしまった。
次に会う時、マジで俺、どんな顔したらいいの。
顔を埋めた腕からも、佐伯の匂いがして困る。本当に困る。
なのに、もう一度だけ、その匂い深く吸い込んでしまう自分がいた。



