バ先のダウナー男子に、気付けば毎日溶かされています♡


 佐伯のマンションの最寄り駅で電車を降りた瞬間、夜風の冷たさも心地よく、胸の高鳴りに合わせて歩幅も自然と弾んだ。

「十一時……うん、余裕で間に合う」

 時計を確認して、声が緩む。大切に抱えたケーキの箱は少し重い。しかし、それすら愛おしく嬉しい。
 今日、この重さを佐伯に渡せるのだと思うと、足取りは羽が生えたように軽くなる。その瞬間だった。

 ポケットの中でスマホがブルッと震えた。画面を見ると、“佐伯 澄人”の文字が光っている。
 え……なんで今? エスパー? タイミング良すぎない?
 出ないわけにはいかない。俺は少し焦りながら通話ボタンを押した。

「も、もしもし? 澄人?」
『――お前、今どこに居るの? 外?』

 背筋がゾクリとした。なぜ分かった?
 電話越しの風の音? それとも歩く足音?

「え、あ、うん。ちょっとコンビニ。アイス買いに……出た、とこ」

 自分でも情けなくなるほど浅い嘘。でも、サプライズを死守するには、他に言い訳が浮かばない。

『……ふーん』

 低くて、温度の一切ない声。
 恋人になっても、こういう不意打ちの時だけは、未だに何を考えているのか全く読めない。

「あ、あのさ、なんか用だったの? 急ぎ?」

 そう言いながら、駅から続く細い道に入り、ちょっとしたショートカットになる小さな階段を下りようとした――その時だった。
 ほんの一瞬。気の緩みか、靴底の滑りか、つま先が段差に嫌な角度で引っかかった。

「あっ」

 視界が、ふわっと傾く。
 重力が俺を引きずり下ろし、そのままスローモーションのように地面が迫ってくる。
 両手で抱えていたケーキの箱がふわりと宙に浮き、耳に当てていたスマホが手からすっぽ抜けた。

 ――――ドンッ!!

 鈍く、重い衝撃と共に、アスファルトに打ち付けられた膝に鋭い痛みが走る。
 スマホは道路の真ん中で派手にバウンドし、通話画面が虚しく光を放っていた。

「いったぁ……うわ、血……!」

 お気に入りだったオフホワイトのワイドパンツの膝部分が破け、じわっと赤い血が滲んでくるのが街灯の下で見えた。

 やばい。これ、やばい。痛い。
 そして、そんな痛みよりももっと最悪なのは――道路脇に無惨に転がる、白いケーキの箱。
 角は無惨にひしゃげて潰れ、地面の汚れが付いている。中身がどうなっているかなんて、箱を開けなくても容易に想像がついた。
 終わった……。

 その時、少し離れた場所に落ちているスマホから、かすかに佐伯の声が聞こえた。

『南緒? おい、聞こえてる?』

 名前を呼ばれる声に、痛みを堪えて慌ててスマホへ手を伸ばす。
 膝はズキズキと脈打つように痛む。でも、それよりも、今のこの惨状が佐伯にバレることの方がよっぽど怖かった。

「ご、ごめん! いま……スマホ、手から滑って……落としただけ。……で、何?」
『すげぇ音したからビビった。お前無事か? あのさ――』

 そこまで言ったところで、画面が一瞬チカッと強く光って――そのまま、プツンと真っ暗になった。

「……え?」

 放射状にひび割れた画面をタップしても、電源ボタンを長押ししても、もう何も反応しない。
 壊れた。なんで、よりによって今日に限って。
 膝からは出血、お気に入りのズボンは最悪の状態で、連絡手段のスマホも壊れた。

 でも、そんなことより――ケーキ。

 震える指で、ひしゃげた箱をそっと持ち上げる。重心が偏っていて、中でぐしゃぐしゃに崩れているのが手の感触で分かる。
 ほんの数時間前まで、完璧な誕生日サプライズに胸を躍らせ、ルンルン気分で歩いていた俺の心が、箱と一緒にきゅうっと音を立てて潰れた。
 佐伯の家までは、ここから歩いてあと五分。でも、足がすくんで動かない。
 こんな、ゴミみたいになった箱を持って行っても、喜んでもらえるわけがない。
 脳内に浮かぶのは、ドアを開けた時の無表情の佐伯。
 「何それ」と冷たい目で眉間に皺を寄せる佐伯。想像しただけで胸が痛む。
 ワイドパンツには血が滲み、よく見れば肘もすりむいている。見た目は泥だらけでボロボロだ。

「……とりあえず、行くのが……先かな……」

 ぱんぱん、と震える手で砂を払う。独り言の声に力はない。
 でも、行かないと。
 誕生日が終わってしまう前に、今日という日が終わる前に、どうしても佐伯の家へ行きたかった。
 サプライズなんて、もうどうでもよくなるほど心はズタズタに痛かったけど。それでも、ただ、間に合うように会いたかった。

 俺はぐしゃぐしゃになったケーキ箱を大事に抱え直し、痛む足を引きずりながら、ふらふらと歩き出した。

 ***

 佐伯のマンションのエントランス。預かっている合鍵を震える手で差し込み、オートロックを解除する。
 ピピッ、と小さく鳴ったその音だけで、胸がどきんと跳ねた。
 誰もいない静かな廊下。壁に片手をつき、ずる……ずる……と身体を滑らせるようにして歩く。
 片腕には、転倒の衝撃で黒く擦れたケーキの箱。
 歩くたびに、膝にじんじんと響く痛みが全身に広がっていくようだった。

「はぁ……ほんとに最悪……」

 何もない道で転ぶのなんて、小学生以来何年ぶりだろう。自分のドジさ加減への独り言さえ情けなくて、視界がぼやけて涙がまた滲む。
 一番奥の角部屋へ向かう長い廊下。普段なら秒で歩ける距離が、今日は永遠みたいに遠く感じる。
 足を運ぶたび、布越しに血が固まりかけた傷口がひきつるみたいに痛い。
 捻挫とか骨折じゃないと思うけど、かなり派手にこけた。膝の下あたりがズキズキして、足の裏にまでその鈍い痛みが響いている。
 ちょっとだけ休憩……と思って、冷たい壁に背を預けると――。

「南緒!」

 静まり返ったマンションの廊下に、佐伯の切羽詰まった声が裂けるように響いた。
 あまりに突然のことで、俺はビクッと肩を大きく震わせて顔を上げた。

「お前、何でスマホの電源切って……って、何これ。どういう状況……」

 廊下の奥、自宅のドアから飛び出してきた佐伯は、スマホを片手に握りしめ、部屋着のTシャツの上に上着を雑にひっかけただけの姿だった。
 前も閉めていなくて、靴も踵を潰して履いている。その慌てぶりと焦りが、全身からそのまま露わになっていた。額にかかった髪も乱れていて、普段の隙のない完璧さとは程遠い。

 俺は、心配させまいとなんとか明るい空気を装おうとして、引きつった顔でぐしゃっと笑い、潰れたケーキの箱を前に差し出した。

「さ、さぷら〜〜〜いず……!」

 しかし、佐伯の眉間の皺は一ミリも緩まない。むしろ、信じられないものを見るように、さらに深く刻まれた。

「……いや、スマホのGPS動いてたから、お前がこっち向かってるのは分かってたし。マジで何してんの? お前」

 ……へ? GPS?
 なにそれ、どういうこと? いつの間にそんなの入れてたの? 俺のプライバシーってどこ行ったの?

 ツッコミどころが多すぎて慌ててスマホを取り出そうとしてから、ああ、そうだ。さっき落として、画面が死んだんだったと思い出す。
 真っ黒に沈んだバキバキのスマホ、破けかけて血がこびりついたズボン、そして汚れたケーキの箱。
 全部を順に目で追ってから、佐伯は頭を抱えるように、深くて気の沈んだため息をついた。

「お、お誕生日サプライズに来ました……」

 もう言い訳も、強がって隠しきる気力もない。
 「てへっ、転んじゃった」なんて可愛く誤魔化すつもりだったのに、痛みと気まずさで頬が引きつるだけだった。
 ただ立っているだけで、自分の不甲斐なさと情けなさに泣けてくる。

「とりあえず……手当。ほら、俺に掴まれ」
「ま、待って。まだ上手く歩けない……ぶっちゃけ、結構痛いから」

「あー、めんどくさ。肩じゃなくて首んとこしっかり掴めって言ってんの」

 その瞬間、思考が完全に停止した。
 次に気づいたときには、体がふわりと浮き上がっていた。

 佐伯が、俺を、軽々とお姫様抱っこしているのだ。

「え、ちょ、ちょっと……! 降ろして!」

 恥ずかしい。何これ。ドラマかよ。恥ずかし過ぎて死ぬんだけど。
 ケーキの箱を落とさないように抱え直す俺の腕の下で、佐伯の太い腕が落ちないようにしっかりと支えてくれている。

「暴れたら落とすよ? ちゃんと掴まってろ」

 乱暴な言葉とは裏腹に、俺の痛む足に響かないよう慎重に歩く、その佐伯なりの不器用な愛情を感じる行動に、じわり、と涙がこみあげてきて。俺は恥ずかしくて、顔を佐伯の首筋にぎゅっと埋めた。
 そこから伝わる佐伯の体温が熱くて、自分の心臓がばくばくと早鐘を打ってうるさい。

 佐伯は何も言わずに、ただ、玄関のドアを少し乱暴に開けた。オートロックのマンションとはいえ、鍵もかけずに飛び出してきたんだって分かって、俺を心配してくれたのだという事実だけで、胸がまた苦しくなる。
 ベッドにそっと下ろされ、佐伯は俺の右足首をそっと支えた。
 ズボンの裾がゆっくりとまくり上げられると、膝のあたりの赤黒い痛々しい痣と、擦りむけた傷口が露わになる。

「……っ」

 視界がぐらりと揺れた。血がまだ少し滲んでいる。
 俺は反射的に目を逸らした。血、ほんと無理。見ると余計痛くなる。
 佐伯は黙ったまま棚から白い救急セットを取り出し、ためらいも迷いもなく消毒液をドバッと傷口にかける。
 痛みで震える足を片手で制し、ボタボタ落ちる液体をティッシュで丁寧にぬぐい、柔らかいコットンを傷口に押し当ててくれた。

「あの……澄人サン……怒ってます……?」
「うん」

 返事の語尾の低さが、怒り・呆れ・疲れ、全部の感情をミキサーにかけて混ぜたように聞こえる。その丸めた背中が雄弁に語っていた。
 「なんでいつもこうなるかな」って。俺が一番、自分自身に対してそう思っているのに。
 やがて、大きめのガーゼが付いた絆創膏をハサミでカットして丁寧に貼ると、佐伯は無言でゴミを捨てに立ち上がった。

「……手当してくれて、ありがと」

 ぽつ、と自然に口から出た言葉は、空気に溶けて消えていきそうに弱々しかった。
 佐伯はベッド横に立ち、腕を組んで、真上から冷ややかな視線で俺を見下ろす。

「お前の恋人で居たら、俺、心臓がいくつあっても足り無さそう。正直、ここまで手がかかって面倒な奴だと思わなかった」

 静かで、冷静で、けれどナイフみたいに真っ直ぐ刺さる言葉。

「……俺のこと、迷惑ってこと?」
「普通に考えて迷惑だろ。夜中に連絡もつかずに血だらけで現れるとか、ホラーかよ」

 一瞬で返ってきた言葉に、胸の奥がぎゅっと雑巾みたいに締め付けられる。
 正論すぎて、一言も反論できない。
 俺が彼を喜ばせたくてしたこと、全部が裏目に出た。無駄な嘘までついて、勝手に来て、勝手に怪我して、スマホ壊して、ケーキもダメにして……。
 普通の優しい恋人なら、「痛かったね、来てくれてありがとう」って優しく包んでくれるのかもしれない。でも、佐伯は違う。どれだけ愛していても、非合理的で正しいこと以外は容赦なくバッサリ切る人だ。

「ご、ごめん。もうこんなことしないから」
「南緒の色んな『もうしない』って、今まで一回でも守ったことある? 無いよね」

 ぐさっ。豆腐メンタルの俺は、その追い打ちの一言でついに限界を突破した。

「……だって、誕生日だから……びっくりさせたかった。喜んでくれるかなって……頑張って……」
「GPSで見てたから、普通に気付いてたし。お前が変な動きしてるの、なんも驚くことなかったわ。駅前でコケた音と、スマホの通信が急にぶっ壊れたのだけは流石にビビったけど」

 隣に腰を下ろし、バキバキに割れた俺のスマホの残骸を呆れたように眺める佐伯。
 佐伯は、俺の泣き顔が最大の弱点だって分かってる。だからあえて正論で叩きのめして悪用するつもりじゃないのは分かる。でも、もう感情のダムが無理だった。
 俺が今して欲しいのは、論理的な説教でも、壊れたスマホの話でもない。

「うぅ……っ、ふ……うぐっ……ごめぇん……」

 声を我慢できなくて、子供みたいな嗚咽が漏れた。
 すると佐伯は、小さくため息をついてから、静かに横から手を伸ばし、そっと俺の頭を抱き寄せた。強すぎず、弱すぎず、泣いて震える俺をすっぽりと包み込むような腕。

「……ホント、バカ可愛い。こんなボロボロになってまで来て、これで俺が『わあ、ありがとう、嬉しい』って素直に喜ぶとでも思ったの?」
「99%ないって思ったけど……ちょっとだけ……っ、喜ぶ顔、見たかったんだよぉ……」

 佐伯の鎖骨のあたりに額が触れる。
 その場所から伝わる肌の熱が、俺の涙の温度と混ざり合っていく。
 口調とは反対に、ゆっくり、丁寧に、背中と髪を撫でられた。その優しすぎる手つきだけで、また泣きそうになる。

「まぁ、南緒がどうしてもやりたいなら、と思って黙って放置してたけど。……夜遅くに出歩いて、怪我するのはもうやめて。マジで寿命縮むから。分かった?」

 低く、でもどこか微かに震えているような声。
 俺の血だらけの姿を見て、心底怖かったんだって、言葉にしなくてもその体温から痛いほど伝わってくる。
 呼吸がひゅっと鳴り、俺は鼻をすすりながら、ベッドの脇に置かれた無惨な箱を指差した。

「ほんとはね……これ……じゃーんって見せたかったんだ……うまくできたから……」

 佐伯は俺から少し離れると、箱に手を伸ばし、潰れた蓋を開けた。
 そして中身を見た瞬間、ほんの一瞬だけ、あの佐伯が目を大きく見開いた。

「……『出来た』ってことは、これ、南緒の手作りなの?」
「うん。……一ヶ月、練習した」
「……どこかの店で、買ったんじゃなくて?」

 呆れでも、怒りでもなく。ただ、静かに驚いていた。
 そのまま、しばらく深い沈黙が落ちる。佐伯の視線はひしゃげたケーキに落ちたまま、口元を硬く結んでいる。
 やっぱ、手作りなんて重いかな。ていうか、箱からしてグチャグチャだし、どう受け取ったらいいのか困ってるのかも。
 俺は佐伯の沈黙の理由が読めずに、あれこれネガティブな考えを巡らせる。
 でも、嬉しい、怒ってる、面倒くさい……そのどれにも当てはまらないような、複雑な表情をしている。
 やがて、一度だけ深く溜息をついて、佐伯は俺の方を見ないまま、静かに呟くように言った。

「……こんなんされて、どうしたらいいの、俺」

 ほんの息が漏れたような声だった。
 いつものフラットで低い声なのに、根底が微かに震えているような、今まで聞いたことのないトーンで。
 耳の奥でその響きが残響して、俺の心臓が一瞬きゅっと止まる。

 え、待って。嬉しいって言ってくれるはずの場面で、なんでそんな、迷子みたいな声を出すんだよ。
 なんだか怖くなって、俺は涙の名残でくしゃっとした目を上げた。

「澄人?」

 佐伯の表情は真剣で、ぎゅっと苦しげに眉が寄っていた。
 喜ぶでも呆れるでもなく、俺を見つめ返した瞳から放たれたのは、この一ヶ月、俺が全く予想もしなかった言葉だった。

「こんな……見返りもなく尽くされてさ。……いつか南緒が俺に愛想尽かして離れて行ったら、俺、絶対耐えらんないんだけど」

 ――息が止まった。
 なんで、なんでそうなる?
 なんで一番愛情を伝えて、喜ぶはずの場面で、佐伯は「俺が離れていく終わり」を想像しているのか分からない。
 俺は焦って身を乗り出した。

「離れるわけないじゃん。澄人、どうしたの? なんでそんなこと言うの」

 問いかけた瞬間、佐伯は自嘲するようにゆっくりと視線を落とした。

「……嬉しい、けど。戸惑ってるっていうか……南緒のことが好き過ぎて、もしもいつか――」
「俺……今日は、そんな悲しい話しに来たんじゃない。澄人のこと大好きだよ、って伝えに来たんだよ」

 手首を掴む手を解き、俺は両手でそっと佐伯の頬を包み込み、その髪を撫でる。
 指先が触れるたび、彼の熱い体温や、かすかに震える息遣いが伝わってきた。
 佐伯は薄く唇を開いたまま、魔法をかけられたように固まっている。
 それが、彼の心が激しく揺れていて、感情がキャパオーバーになっている状態だということは、これまでの積み重ねで分かった。何度も見てきたから。
 でも――その強張った姿を見ているだけで、俺の心はぎゅっと締め付けられるように痛んだ。

「バイトでも家でも、俺ばっかりいっぱい迷惑かけてごめん。でも、澄人に出会えて本当に良かったし、俺のこと、こんな風に特別に恋人にしてくれてありがとうって、毎日思ってる。大好きだよ。それに……今日は澄人の誕生日だから。俺と出会うために産まれて来てくれて、生きててくれてありがとう、澄人」

 声を震わせながら、精一杯の、飾らない正直な気持ちを伝える。

 すると、佐伯はしばらく無言で俺の目を見つめたあと。
 切なさと、何かを堪えるような表情を隠すように、目元を片手で覆い、静かに肩を震わせていた。
 いつも完璧で冷徹な佐伯が、初めて見せるその弱々しい姿に、俺も驚きと戸惑いを隠せなくて、心の中では大パニックだった。

(どうしよう、俺、泣かせちゃった。喜んで欲しかっただけなのに……)

 我慢できずに、俺はぎゅっとその広い背中に両腕を回して、強く抱きしめる。
 俺より大きくて頼もしいはずのその背中を、ぽん、ぽん、と小さな子供をあやすように、落ち着かせるリズムでゆっくり叩く。

「澄人、大好きだよ。お誕生日おめでとう。……今年だけじゃない。来年も、再来年も、これからもずっと、俺が一番にお祝いしてあげる」

 言葉では表せないほど深く結びついた愛情が、俺と佐伯の間に確かにあった。
 勝手に溢れそうになるこの熱い気持ちを、どんな言葉を使っても伝えきれないのがもどかしい。
 佐伯は体をそっと離すと、俺の手のひらに自分の唇を寄せ、頬を擦り寄せた。
 流れるようにそのまま俺の体を抱きしめ、肩口に顔を深く埋めると、耳元に当たるその吐息は小さく震えている。
 そっと、擦り寄る佐伯の髪をくしゃっと撫で、ゆっくりと両手でその頭を包み込んだ。

 なんだろう。
 雷を怖がる子供が、親の背中に抱きついたり、抱っこをせがんで甘えるような。そういう純粋な安心感を求めている気がする。

 何度か軽いキスはした。
 けれど、その後も佐伯が求めたのは、それ以上のものではなくて。
 心の奥の空洞が温かく満たされるような、ただひたすらに密着するだけの、優しいスキンシップだった。

「澄人、大好き。俺の中で、いちばん大事だよ」
「…………俺も」

 いつも、俺ばかりが感情を言葉にしていて。
 いつも、佐伯はそれに黙って頷くか、相槌やキスで返事をして誤魔化すのに。
 今日は、その短い返事だけで、お互いをどうしようもなく愛し合っていることを確認できたような気がした。