あのー、ちょっといいですか?
誰か、今すぐ俺に休憩時間を与えてください。本当に。マジで。
今日の店、完全に修羅場。もはや飲食店の体を成していない、ただの戦場なんですけど。
あり得ないくらい地獄みたいに忙しい。
連休ではしゃぐキッズたちと、タピオカとクレープに群がる中高生の波が、わんこそば方式で朝、昼、夕と絶え間なく押し寄せてくる。
さっきからドアベルの「チリン♪」という軽快な音が、俺には恐怖の合図にしか聞こえない。視界の端で捉えただけでも、店の外からレジ前にかけて、絶望的な長さの長蛇の列がとぐろを巻いている。
フル稼働している他のメンバーもすっかり顔が死んで虚無の表情になっているし、レジと提供を反復横跳びしている俺のHPは、とうの昔に赤ゲージを叩き出していた。
「いらっしゃいませー! メニューをご覧になってお待ちくださーい!」
声だけは無駄に元気っぽく出るのが、悲しいというか、もはやヤケクソだった。
「小瀧、俺クレープ行くから注文入れる?」
「ん、おっけー。助かる」
熱気こもるカウンターの奥から、平坦でよく通る佐伯の声が飛んでくる。
その声が耳に届いただけで、無意識に強張っていた肩の力がふっと抜ける自分がいる。それがなんだか悔しいような、でも頼もしいような、なんとも複雑な気持ちだ。
でも――最近は、この目が回るような忙しさすら、ほんの少しだけ「悪くないな」と思い始めている自分がいた。
というのも、俺と佐伯の呼吸が、仕事中も妙にピタリと合うようになってきたからだ。
別に「阿吽の呼吸」なんて、熟練の職人みたいな立派なもんじゃない。
けれど、終わらないオーダーの波に飲まれて、俺が半分パニクりそうになった瞬間。
「小瀧はそっち。これ俺が巻くから」
そんな感じで、スッと視界の端から佐伯がフォローに入ってくれる。
その無駄のない動きがあまりに自然で、まるで最初からそうする手順だったかのようにパズルがはまるのだ。
逆に、佐伯が突然「無言のスピード重視モード」に入る瞬間もある。
背中から立ち上る、あの「今は一言も喋る余裕ない」というヒリついた空気。
そうなると俺は俺で、何故か足が勝手に、佐伯の次の動きを予測して動くようになる。焦りやプレッシャーじゃなくて、
「よーし、やったるわ。俺に任せとけ」
って、自分でも不思議なくらい謎のスイッチが入る。
恋人としてだけじゃなく、完全に“バ先の相棒”になれてる感じ。
……いや、相棒なんて言ったら流石に調子乗ってるか。
本当は全部、頭の回転が異常に早い佐伯が俺の動きを先読みして、完璧に合わせてくれているだけだって、分かっている。
それでも、隣で一緒に戦えているという事実が、嬉しいもんは嬉しい。
ふと視線を向けると、甘い匂いを漂わせるクレープ台の向こうで、佐伯が目にも留まらぬ速さで手を動かしながら、ちらっとこちらを見てきた。
口元が、ほんの数ミリだけ笑っているように見える。他人が見たら絶対に気づかない。
仕事モードの無表情の延長なんだろうけど、俺にはその視線が“大丈夫? 疲れてない?”って優しく聞いているみたいに見えてしまう。
「次、クレープの15番入りまーす」
「了解」
さっきまで息が詰まりそうな地獄だったのに、佐伯の声が聞こえると、一瞬だけ空気がクリアに軽くなる。
その軽さを胸の奥でこっそり噛みしめながら、俺はまた、次のお客さんが待つレジへと向き直った。
***
佐伯と付き合うようになって、それなりの月日が経つ。
最悪だった初対面から、意地悪やら閉じ込めやら、感情を振り回されるような出来事を経て、めでたくゴールイン(?)したわけだけど。
交際期間が長くなるにつれて明確に分かったのは――佐伯はとにかく、“絶対に外に出ない男”だということだ。
「今度の休み、テーマパーク行かない?」
「人が多い。並ぶの時間の無駄。汗臭い。無理」
「じゃあ、話題の映画館とか!」
「座席が硬い。隣のやつがポップコーン食う音うるさい。無理」
「夏だし、フェスは!?」
「騒音。尋常じゃない混雑。熱中症のリスク。無理」
……提案した端から、全部秒で却下される。
俺のウキウキした「これ行きたい!」は、佐伯の氷のような「しんどい」「無理」というマジトーンで毎回バッサリ切り捨てられるのだ。
少しでも共通点を見つけて、普通のお出かけデートがしたかった俺は、「じゃあ、好きなこととか趣味とか無いの?」と前に聞いてみたことがある。
その時、真顔で返ってきた答えは、
「2000ピースのミルクパズル」
……頭良すぎて、絶対頭おかしい。真っ白なパズルに何を見出してるんだ。
それでも恋人の好きなことならと、俺も一度挑戦してみたけれど、開始2ピース目で気が狂いそうになって挫折した。
でも、その代わり――佐伯の家での「おうちデート」は、数え切れないほどたくさんした。
俺の家は狭いし、服は散らかっているし、生活感が爆散していてとてもじゃないが人を呼べる状態じゃない。結果、自然と綺麗で広い佐伯の家が、俺たちの定番になった。
「バカすぎ。なんでこの文字数でまとまらないの」
「生後6か月から入園できる保育所からやり直せ」
相変わらず口の悪さは健在でボロクソに言われつつも、大学のレポートを徹夜で手伝ってもらう日もあった。
ネトフリで映画を観ていたはずなのに、途中で視線が絡んでベッドでイチャついたり。
食事をプロテインだけで済ませようとする佐伯に代わって、俺がエプロンを借りてご飯を作る日もあった。
気づけば、週末婚みたいな状態になっていた。
一時期、それに本気で浮かれて「俺って、なんか澄人の通い妻っぽくない?♡」なんて、冗談めかして言ったことがある。
「通い妻って言うほど、お前家事してないだろ」
一刀両断。普通に真顔で返されて、めちゃくちゃ恥ずかしかった。
だって、佐伯の家にはふっかふかになる最新式のドラム式乾燥機も、文句も言わず床を舐めるように掃除するルンバも居るんだもん。俺がやること、マジでなくね?
でも――二人きりの家の中では、佐伯は本当に優しくて、どうしようもなく甘い。
まるで別人が憑依したみたいに、スキンシップが多いのだ。
バ先では、仲間にも店長にも、なんならスーパーバイザーにすら、ナチュラル通り魔みたいに正論の刃でグサグサ刺していくくせに。
キッチンでご飯を作っていると、当然のように後ろから抱きついてきて、俺の肩に顎を乗せながら「手際悪すぎ」とか文句を言う。なのに、その腕は絶対に離そうとしない。
一緒にお風呂に入れば、シャンプーの最中に俺の顎を強引に掴んで後ろを向かされ、息が詰まるような深いキスをして……そのまま、そのまますることもまぁ、何回かあった。片手じゃ数え切れないくらいには。
告白、初デート、初エッチ。
気持ちをぶつけ合ったあの出来事以来、俺たちは蜜月モードに突入していた。
佐伯の大きな手に触れられるたびに、溺れるみたいに安心して……そして、どんどん欲張りになっていく自分がいる。
俺たちのおうちデートは、いつも静かで、甘くて、肌の奥からじわじわと熱くて。
これ以上ないくらい、毎日が幸せで満ちていた。
***
夜の十時を少し過ぎた頃だった。
怒涛のシフトを終え、ヘトヘトの体でバ先からダッシュ帰宅した俺は、玄関でスニーカーを蹴り飛ばすように脱ぎ捨て、そのままリビングへ向かった。
帰り際、更衣室で佐伯に「南緒、今日……泊まってく?」と、少し期待を滲ませた声で言われた瞬間、胸がギュッと締め付けられた。
泊まりたい。泊まりたいに決まってる。でも――今日だけは、ダメ。
「きょ、今日はちょっと……課題? があって……いや、洗濯物干しっぱなし? いや、あの……」
自分でも何を言ったのか覚えていないくらいしどろもどろで、不審者レベルの怪しい言い訳をして逃げてきた。
だって、そのまま泊まったら、準備していたサプライズができない。
案の定、佐伯は分かりやすく眉をひそめ、微妙にムッとした顔をしていた。
でも俺は、その不機嫌な横顔すら心の中でニヤニヤ眺めながら見送り、「ごめん佐伯、俺は今、超重大なミッションの真っ最中なんだ……!」と心の中で激しく土下座しつつ帰宅した。
家に着くと、息を整えてそっと冷蔵庫の扉を開ける。
「ふふ、美味しそう」
冷気と共に現れたそれを見て、思わず笑みが漏れた。俺が日中に手作りした「佐伯の誕生日ケーキ」が、そこに鎮座している。
丸一日、いや、失敗した試作を含めたら丸一ヶ月かけて完成させた、渾身の一台。
「お前、料理もスイーツも絶望的に才能ねぇよ」と散々バカにしてきたあの男が、このプロ顔負け(?)の出来を見てどんな顔をするのか……想像しただけでワクワクして、頬が緩む。
泣いたらどうしよう。いや、あの佐伯に限って絶対ないけど。
初めて一緒に迎える、恋人の誕生日だ。
これまで実家でも一人暮らしでも料理なんか全然しなかったのに、佐伯のためだと思うと、自然に「喜ばせたい」「作りたい」という気持ちが湧いてくる。そんな自分自身の変化にも、内心驚いている。
佐伯の誕生日を控えた俺は、実は先月から地味にリサーチ活動を始めていた。
“何が欲しいのか”“どんなものなら喜ぶのか”。
でも、佐伯は本当に謎だらけの男だった。
「欲しいものとかさ……誕生日、ある?」
「ない」
「あっ、じゃあ行きたい場所は? どこでも付き合うよ!」
「家でいい」
全部即答。あまりに即答すぎて逆に清々しいくらいだ。
「若くして悟りでも開いてんの?」ってレベルで、物欲というものが欠落していて、俺には理解できない思考回路だった。
部屋を見渡しても、彼を形作るものが分かるようで分からない。
最新の電子書籍端末はあるのに、俺が行っても触りもしない。音楽にも興味がないらしい。
以前、バ先の飲み会で俺が流行りのラブソングを歌っても「は?」って顔をしていて、二人きりになった時に「頭の悪そうな歌詞の歌だなって思った」なんて酷いことを言われた。折角、お前を想って可愛い曲を歌ったのにさ。
服はめちゃくちゃオシャレで似合っているのに、クローゼットの中はモノトーンばかりで特定のブランドへのこだわりはゼロ。本人曰く、「毎朝、服を選ぶ決断の時間を割いてるだけ」らしい。スティーブ・ジョブズかよ。
俺と居ない時間に何をしているのか。何が好きで、何に心が動くのか。本当に謎だった。
だからこそ、すごく悩んだ。
物をあげて増やすと、部屋の邪魔になって嫌がるかもしれない。
好きな色も分からない。派手なイベントも嫌い。
気取ったレストランのフルコースなんて、絶対に「普通に家で食いたい」と文句を言うに決まっている。
……そうやって思考を巡らせた時、ふと“ケーキなら消える”と思いついた。
形として残らないし、場所も取らない。でも、俺の手作りの気持ちだけは、確かに残せる。
そして今日、それなりのクオリティで完成したのだ。
真っ白なクリームを丁寧にナッペして、ごちゃごちゃしないようにフルーツの配置は控えめに、洗練されたデザインを目指した。
佐伯は砂糖の暴力的な甘さが苦手だから、豆乳をベースにして、後味の軽い甘さ控えめに調整した。
プロの味には敵わないかもしれない。でもそれでいい。これは“俺が、大好きな恋人のために初めて作ったケーキ”なのだから。
崩れないように箱にそっとケーキを入れ、俺は急いでシャワーへ直行した。
汗を雑に洗い流し、お気に入りのTシャツとパーカーを羽織る。
心臓はずっと早鐘を打っていて、踊りっぱなしだ。今日の俺は、間違いなく人生で一番テンションが高かった。
玄関の鏡の前で、持ち物を最終チェックする。
「スマホ……鍵……PASMO……ケーキ……よし!」
これから俺は、人生初の――“彼氏の誕生日サプライズ♡深夜の突撃訪問”を敢行する。
ドアを開けた時の、佐伯の驚いた顔が見たい。ちょっとでも喜んでくれたら嬉しい。
いや、驚くだけでもいいし、「夜中に何してんの」って呆れられても、怒られてもいい。
とにかく、俺が彼のためだけにしたことに、少しでも心を動かして反応してくれたら、それだけでいい。
そう思ったら、もう足が勝手に動き出している。
俺はルンルン気分で、バカみたいに浮かれながら、玄関のドアを勢いよく閉めた。
誰か、今すぐ俺に休憩時間を与えてください。本当に。マジで。
今日の店、完全に修羅場。もはや飲食店の体を成していない、ただの戦場なんですけど。
あり得ないくらい地獄みたいに忙しい。
連休ではしゃぐキッズたちと、タピオカとクレープに群がる中高生の波が、わんこそば方式で朝、昼、夕と絶え間なく押し寄せてくる。
さっきからドアベルの「チリン♪」という軽快な音が、俺には恐怖の合図にしか聞こえない。視界の端で捉えただけでも、店の外からレジ前にかけて、絶望的な長さの長蛇の列がとぐろを巻いている。
フル稼働している他のメンバーもすっかり顔が死んで虚無の表情になっているし、レジと提供を反復横跳びしている俺のHPは、とうの昔に赤ゲージを叩き出していた。
「いらっしゃいませー! メニューをご覧になってお待ちくださーい!」
声だけは無駄に元気っぽく出るのが、悲しいというか、もはやヤケクソだった。
「小瀧、俺クレープ行くから注文入れる?」
「ん、おっけー。助かる」
熱気こもるカウンターの奥から、平坦でよく通る佐伯の声が飛んでくる。
その声が耳に届いただけで、無意識に強張っていた肩の力がふっと抜ける自分がいる。それがなんだか悔しいような、でも頼もしいような、なんとも複雑な気持ちだ。
でも――最近は、この目が回るような忙しさすら、ほんの少しだけ「悪くないな」と思い始めている自分がいた。
というのも、俺と佐伯の呼吸が、仕事中も妙にピタリと合うようになってきたからだ。
別に「阿吽の呼吸」なんて、熟練の職人みたいな立派なもんじゃない。
けれど、終わらないオーダーの波に飲まれて、俺が半分パニクりそうになった瞬間。
「小瀧はそっち。これ俺が巻くから」
そんな感じで、スッと視界の端から佐伯がフォローに入ってくれる。
その無駄のない動きがあまりに自然で、まるで最初からそうする手順だったかのようにパズルがはまるのだ。
逆に、佐伯が突然「無言のスピード重視モード」に入る瞬間もある。
背中から立ち上る、あの「今は一言も喋る余裕ない」というヒリついた空気。
そうなると俺は俺で、何故か足が勝手に、佐伯の次の動きを予測して動くようになる。焦りやプレッシャーじゃなくて、
「よーし、やったるわ。俺に任せとけ」
って、自分でも不思議なくらい謎のスイッチが入る。
恋人としてだけじゃなく、完全に“バ先の相棒”になれてる感じ。
……いや、相棒なんて言ったら流石に調子乗ってるか。
本当は全部、頭の回転が異常に早い佐伯が俺の動きを先読みして、完璧に合わせてくれているだけだって、分かっている。
それでも、隣で一緒に戦えているという事実が、嬉しいもんは嬉しい。
ふと視線を向けると、甘い匂いを漂わせるクレープ台の向こうで、佐伯が目にも留まらぬ速さで手を動かしながら、ちらっとこちらを見てきた。
口元が、ほんの数ミリだけ笑っているように見える。他人が見たら絶対に気づかない。
仕事モードの無表情の延長なんだろうけど、俺にはその視線が“大丈夫? 疲れてない?”って優しく聞いているみたいに見えてしまう。
「次、クレープの15番入りまーす」
「了解」
さっきまで息が詰まりそうな地獄だったのに、佐伯の声が聞こえると、一瞬だけ空気がクリアに軽くなる。
その軽さを胸の奥でこっそり噛みしめながら、俺はまた、次のお客さんが待つレジへと向き直った。
***
佐伯と付き合うようになって、それなりの月日が経つ。
最悪だった初対面から、意地悪やら閉じ込めやら、感情を振り回されるような出来事を経て、めでたくゴールイン(?)したわけだけど。
交際期間が長くなるにつれて明確に分かったのは――佐伯はとにかく、“絶対に外に出ない男”だということだ。
「今度の休み、テーマパーク行かない?」
「人が多い。並ぶの時間の無駄。汗臭い。無理」
「じゃあ、話題の映画館とか!」
「座席が硬い。隣のやつがポップコーン食う音うるさい。無理」
「夏だし、フェスは!?」
「騒音。尋常じゃない混雑。熱中症のリスク。無理」
……提案した端から、全部秒で却下される。
俺のウキウキした「これ行きたい!」は、佐伯の氷のような「しんどい」「無理」というマジトーンで毎回バッサリ切り捨てられるのだ。
少しでも共通点を見つけて、普通のお出かけデートがしたかった俺は、「じゃあ、好きなこととか趣味とか無いの?」と前に聞いてみたことがある。
その時、真顔で返ってきた答えは、
「2000ピースのミルクパズル」
……頭良すぎて、絶対頭おかしい。真っ白なパズルに何を見出してるんだ。
それでも恋人の好きなことならと、俺も一度挑戦してみたけれど、開始2ピース目で気が狂いそうになって挫折した。
でも、その代わり――佐伯の家での「おうちデート」は、数え切れないほどたくさんした。
俺の家は狭いし、服は散らかっているし、生活感が爆散していてとてもじゃないが人を呼べる状態じゃない。結果、自然と綺麗で広い佐伯の家が、俺たちの定番になった。
「バカすぎ。なんでこの文字数でまとまらないの」
「生後6か月から入園できる保育所からやり直せ」
相変わらず口の悪さは健在でボロクソに言われつつも、大学のレポートを徹夜で手伝ってもらう日もあった。
ネトフリで映画を観ていたはずなのに、途中で視線が絡んでベッドでイチャついたり。
食事をプロテインだけで済ませようとする佐伯に代わって、俺がエプロンを借りてご飯を作る日もあった。
気づけば、週末婚みたいな状態になっていた。
一時期、それに本気で浮かれて「俺って、なんか澄人の通い妻っぽくない?♡」なんて、冗談めかして言ったことがある。
「通い妻って言うほど、お前家事してないだろ」
一刀両断。普通に真顔で返されて、めちゃくちゃ恥ずかしかった。
だって、佐伯の家にはふっかふかになる最新式のドラム式乾燥機も、文句も言わず床を舐めるように掃除するルンバも居るんだもん。俺がやること、マジでなくね?
でも――二人きりの家の中では、佐伯は本当に優しくて、どうしようもなく甘い。
まるで別人が憑依したみたいに、スキンシップが多いのだ。
バ先では、仲間にも店長にも、なんならスーパーバイザーにすら、ナチュラル通り魔みたいに正論の刃でグサグサ刺していくくせに。
キッチンでご飯を作っていると、当然のように後ろから抱きついてきて、俺の肩に顎を乗せながら「手際悪すぎ」とか文句を言う。なのに、その腕は絶対に離そうとしない。
一緒にお風呂に入れば、シャンプーの最中に俺の顎を強引に掴んで後ろを向かされ、息が詰まるような深いキスをして……そのまま、そのまますることもまぁ、何回かあった。片手じゃ数え切れないくらいには。
告白、初デート、初エッチ。
気持ちをぶつけ合ったあの出来事以来、俺たちは蜜月モードに突入していた。
佐伯の大きな手に触れられるたびに、溺れるみたいに安心して……そして、どんどん欲張りになっていく自分がいる。
俺たちのおうちデートは、いつも静かで、甘くて、肌の奥からじわじわと熱くて。
これ以上ないくらい、毎日が幸せで満ちていた。
***
夜の十時を少し過ぎた頃だった。
怒涛のシフトを終え、ヘトヘトの体でバ先からダッシュ帰宅した俺は、玄関でスニーカーを蹴り飛ばすように脱ぎ捨て、そのままリビングへ向かった。
帰り際、更衣室で佐伯に「南緒、今日……泊まってく?」と、少し期待を滲ませた声で言われた瞬間、胸がギュッと締め付けられた。
泊まりたい。泊まりたいに決まってる。でも――今日だけは、ダメ。
「きょ、今日はちょっと……課題? があって……いや、洗濯物干しっぱなし? いや、あの……」
自分でも何を言ったのか覚えていないくらいしどろもどろで、不審者レベルの怪しい言い訳をして逃げてきた。
だって、そのまま泊まったら、準備していたサプライズができない。
案の定、佐伯は分かりやすく眉をひそめ、微妙にムッとした顔をしていた。
でも俺は、その不機嫌な横顔すら心の中でニヤニヤ眺めながら見送り、「ごめん佐伯、俺は今、超重大なミッションの真っ最中なんだ……!」と心の中で激しく土下座しつつ帰宅した。
家に着くと、息を整えてそっと冷蔵庫の扉を開ける。
「ふふ、美味しそう」
冷気と共に現れたそれを見て、思わず笑みが漏れた。俺が日中に手作りした「佐伯の誕生日ケーキ」が、そこに鎮座している。
丸一日、いや、失敗した試作を含めたら丸一ヶ月かけて完成させた、渾身の一台。
「お前、料理もスイーツも絶望的に才能ねぇよ」と散々バカにしてきたあの男が、このプロ顔負け(?)の出来を見てどんな顔をするのか……想像しただけでワクワクして、頬が緩む。
泣いたらどうしよう。いや、あの佐伯に限って絶対ないけど。
初めて一緒に迎える、恋人の誕生日だ。
これまで実家でも一人暮らしでも料理なんか全然しなかったのに、佐伯のためだと思うと、自然に「喜ばせたい」「作りたい」という気持ちが湧いてくる。そんな自分自身の変化にも、内心驚いている。
佐伯の誕生日を控えた俺は、実は先月から地味にリサーチ活動を始めていた。
“何が欲しいのか”“どんなものなら喜ぶのか”。
でも、佐伯は本当に謎だらけの男だった。
「欲しいものとかさ……誕生日、ある?」
「ない」
「あっ、じゃあ行きたい場所は? どこでも付き合うよ!」
「家でいい」
全部即答。あまりに即答すぎて逆に清々しいくらいだ。
「若くして悟りでも開いてんの?」ってレベルで、物欲というものが欠落していて、俺には理解できない思考回路だった。
部屋を見渡しても、彼を形作るものが分かるようで分からない。
最新の電子書籍端末はあるのに、俺が行っても触りもしない。音楽にも興味がないらしい。
以前、バ先の飲み会で俺が流行りのラブソングを歌っても「は?」って顔をしていて、二人きりになった時に「頭の悪そうな歌詞の歌だなって思った」なんて酷いことを言われた。折角、お前を想って可愛い曲を歌ったのにさ。
服はめちゃくちゃオシャレで似合っているのに、クローゼットの中はモノトーンばかりで特定のブランドへのこだわりはゼロ。本人曰く、「毎朝、服を選ぶ決断の時間を割いてるだけ」らしい。スティーブ・ジョブズかよ。
俺と居ない時間に何をしているのか。何が好きで、何に心が動くのか。本当に謎だった。
だからこそ、すごく悩んだ。
物をあげて増やすと、部屋の邪魔になって嫌がるかもしれない。
好きな色も分からない。派手なイベントも嫌い。
気取ったレストランのフルコースなんて、絶対に「普通に家で食いたい」と文句を言うに決まっている。
……そうやって思考を巡らせた時、ふと“ケーキなら消える”と思いついた。
形として残らないし、場所も取らない。でも、俺の手作りの気持ちだけは、確かに残せる。
そして今日、それなりのクオリティで完成したのだ。
真っ白なクリームを丁寧にナッペして、ごちゃごちゃしないようにフルーツの配置は控えめに、洗練されたデザインを目指した。
佐伯は砂糖の暴力的な甘さが苦手だから、豆乳をベースにして、後味の軽い甘さ控えめに調整した。
プロの味には敵わないかもしれない。でもそれでいい。これは“俺が、大好きな恋人のために初めて作ったケーキ”なのだから。
崩れないように箱にそっとケーキを入れ、俺は急いでシャワーへ直行した。
汗を雑に洗い流し、お気に入りのTシャツとパーカーを羽織る。
心臓はずっと早鐘を打っていて、踊りっぱなしだ。今日の俺は、間違いなく人生で一番テンションが高かった。
玄関の鏡の前で、持ち物を最終チェックする。
「スマホ……鍵……PASMO……ケーキ……よし!」
これから俺は、人生初の――“彼氏の誕生日サプライズ♡深夜の突撃訪問”を敢行する。
ドアを開けた時の、佐伯の驚いた顔が見たい。ちょっとでも喜んでくれたら嬉しい。
いや、驚くだけでもいいし、「夜中に何してんの」って呆れられても、怒られてもいい。
とにかく、俺が彼のためだけにしたことに、少しでも心を動かして反応してくれたら、それだけでいい。
そう思ったら、もう足が勝手に動き出している。
俺はルンルン気分で、バカみたいに浮かれながら、玄関のドアを勢いよく閉めた。



