大学生になって初めて挑戦するアルバイトは、小さい頃から大好きだったアイスクリームショップの店員だった。
海外風のポップな内装。アイスケースには、カラフルで何十種類ものアイスが並んでいる。
接客は明るく、家族とでも友達とでも、アイスを食べるならこの店一択――と言っていいほど馴染みのある店だ。
まさか、自分がこの店で働けるなんて、少し夢みたいだった。今日はその初日。緊張と期待で、朝からずーっと胸がバクバクしっぱなし。
「小瀧南緒です、今日からよろしくお願いします」
「店長の佐藤です。こちらこそ今日からよろしくね!」
佐藤店長の名札には、金の星が三つ光っていて、社員としても仕事ができる人なんだとひと目でわかる。明るくてハキハキしていて、佇まいも堂々としている。しっかり新人教育してくれそうな雰囲気に、俺は思わず背筋をぴんと伸ばした。
副店長やバイザーにも挨拶を済ませ、店長に案内されながら従業員向けの休憩スペースへと通される。
向かい合って座り、オリエンテーション用のファイルを読み合わせながら、大まかな説明を受けていた、その時だった。
「お疲れ様です」
休憩室のドアが開いて、一人の男性が入って来る。勤怠を記録する機械にスマホのQRコードをかざす姿を見つけた店長は、嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、ちょうどいい所に。佐伯くん、ちょっとこっちに来てくれる?」
「はい?」
声をかけられた「佐伯」という男性は、出勤したばかりらしく、上着姿のまま足をとめた。
「小瀧くん、うちのアルバイトリーダーの佐伯澄人くんだよ」
第一印象は、正直に言って抜群だった。
整った顔立ちに、すっとした長身。アッシュ系の髪を軽やかに遊ばせ、涼しげな目元をのぞかせる。百人が百人「イケメン」と答えるであろうその外見は、まさに非の打ち所がなかった。
(うわ……めちゃくちゃイケメンじゃん)
特に目を引くのは、色素の薄い瞳だ。蜂蜜のように透き通った、きらきらとした琥珀色。ハーフなのかもしれない。
“あそこのアイス屋さんって、顔採用があるらしいよ”
大学の友達の噂話を聞いた時は半信半疑だったけど、これなら納得だ。
……まあ、俺が採用されたのは、単なるマグレか、よっぽどの人手不足だったからに違いないけれど。
「佐伯くん、こちらが新しく入った小瀧南緒くんです。いつも通り、指導係として教えてあげてね」
店長にそう紹介されて、俺は軽く会釈する。
「あ……えっと、小瀧です。宜しくお願いします」
目の前の俺を見下ろしたまま、腕を組んで顔をじっと眺めてきた。
(えっ、何でそんなにガン見してくんの……?)
まるで品定めでもされているような気分で、めちゃくちゃ居心地が悪いんですけど。
「マジすか。また一から教えるのめんどくさ……俺、この前の面談で言いましたよね。アルバイト教育だけはもう御免だって」
さっきまでのクールな第一印象はどこへやら。あくびをかみ殺しながら、あからさまに面倒そうに頭をかく。その態度にぎょっとして、思わず固まった。
信じられない。店長の前で、それってアリなのか? いや、普通に考えて無しだろ。
「でも、佐伯くんと小瀧くんは同い年だから。話も合うと思うよ?」
店長が苦笑いしながら場をおさめようとしてくれる。同い年でバイトリーダー、ということは高校のときから働いているってことなんだろうか。
さっき見られまくった仕返し、とまでは言わないけれど、佐伯の頭のてっぺんからつま先まで視線を往復させる。
その視線に気付いたのか、佐伯は眉間に皺を寄せると、ポケットに手を突っ込んで俺の方へ向き直って言った。
「へぇ……同い年ってことは大学二年? どこ大?」
「明成大だけど……」
「はっ、Fランじゃん」
背も、頭も、まとめて踏みつけるような言い方に、さすがに口が半開きになる。
店長は軽く苦笑いしつつ、「大丈夫、仕事はできる子だから!」とだけ言い残してその場を離れていった。
佐伯はちらっと一瞥しただけで、表情ひとつ変えない。さっき抱いた「イケメン、格好いい」なんて印象なんて、もう頭から吹き飛んでいた。訂正版は、冷たい・無関心・面倒くさそうの三点セットだ。
こいつが俺の指導係とか、マジで嫌なんだけど。絶対意地悪だし。
「……で、名前なんだっけ?」
「えっと……小瀧。タメなら敬語じゃなくてもいい?」
「あー、もうマジでやだ。無理そ。とりあえず同じことは二回言わないから、メモ取って」
自分は二回も名前を聞いたくせに、よくそんなこと言えるな、と佐伯の顔を見上げる。
完全にやる気ゼロの声に、逆に火がついた。
(こうなったら、一言一句、聞き返す必要のないように全部メモしてやる……!)
小馬鹿にされ、存在を無理だと言われ。こんな負けっぱなしで初日を終えるなんて、絶対に嫌だった。
***
まずはアイスの種類を覚えるよう言われたけれど、数が多いうえに似た名前も多くて、頭の中はみるみるごちゃごちゃになっていった。
ケースの端から端までメモを取りながら、呪文のように長い商品名の略語を確認していく。
チョコレート味のコーナーに差しかかると、さらに混乱した。
似た色合いのパッケージが並んでいて、違いがパッと見ただけでは全然わからない。
「えっと……これがチョコチップで、これがダブルチョコ……?」
「ちがうし。逆だし」
「あ、ありがと。じゃあ、こっちがダブルで――」
俺がアイスを指差して振り返ると、佐伯はアイスのカップを補充しながら、鼻で笑うように言った。
「小瀧って、脳みそ何グラム?」
「……今なんて?」
「いや、軽そうだなって。小学生でも見分けつくけど、覚えられないの?」
目の前で腕を組み、無表情のまま俺を見下ろしてくる。冷房で少しひんやりした店内の空気まで、なんだか刺さるように冷たく感じた。
思わず言い返したくなるけれど、実際に出来ていない自覚があるから、黙り込むしかない。
さっきはメモをとる気満々だったけれど、そもそもの説明のスピードが速すぎて、メモしきれていない。漢字で書く時間も与えられず、小さなメモ帳は自分でも何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。
「じゃあ、次はスクープね。アイスを掬う動作を『スクープ』って言うんだけど……」
佐伯のブリザードのような態度に反して、俺はアイスを掬うディッシャーを片手に、内心で興奮していた。
いつも客として買いに来るとき、ワクワクする場面のひとつ――店員が、大きなアイスタブにディッシャーを滑らせてアイスを丸めてくれる、あの瞬間だ。
「掬い方は二種類あって、最初はラウンド。自分の臍に向かって動かすようにイメージして」
佐伯のお手本を見てから、見よう見まねでやってみる。ぐぐぐ……と体重をかけてみると、思ったよりずっと力が必要そうだ。
なんとかカップに載せて、まあまあ出来たかも……と口元を緩めかけて、慌てて俺は唇の先をすぼめるようにしてそっぽを向くことで堪えた。
「……次はS字スクープ。動きが細かいけど、まぁやってみな」
めちゃくちゃ雑な引継ぎだけれど、佐伯は一度S字スクープを実演してくれた。
その滑らかな動きが経験の豊富さを物語っていて、俺はここでようやく、コイツがバイトリーダーに選ばれた理由に納得がいった。
「さ、佐伯。あの……質問して良い?」
「……簡潔になら答えてやらなくもない」
「えっと、掬い方って、どうして二つあるの?」
「……ここのアイスって、クッキーとかマシュマロが入ってたりするだろ。それを均等に見栄えよく盛り付ける必要があるから」
口調は淡々としていても、説明は簡潔で的確だった。バカな俺でも、こんだけ噛み砕かれればすんなり理解できる。
「うーん、S字めっちゃ難しい。カーブさせられないっていうか……」
何度目かの失敗をした瞬間、横で見ていた佐伯が、俺の右手にスッと手を添えてきた。
「手、添えるから。もう少し手首の力抜いて」
手の甲に、佐伯の体温が乗る。指先の節ごとに微かに筋が浮き、骨格がはっきり見えた。俺より太い、男らしい腕。
無表情の顔とは裏腹に、丁寧に支えてくれているのが分かる。そのギャップが、なんとなく心を落ち着かなくさせた。
「……こう?」
「そう。無理に丸くしようとしないで。手首だけでやろうとすると、すぐ腱鞘炎になる」
耳元に落ちてくる声が近くて、息がかかるほどではないにせよ、意識せずにはいられない距離だった。
「小瀧の手首、すげー細いね」
「えっ?」
不意に名前を呼ばれて、心臓が一段跳ねる。
ちゃんと俺の名前覚えてくれてるんだ、なんて。あまりにも冷たい態度だったから、つい嬉しくなってしまう。
「俺が本気出したら簡単に折れそうだな」
「お、おい! 折るなよ」
「折るわけないじゃん……。こういう風にアイスが減ってきたら、奥の冷凍庫にある在庫を補充するから。ついてきて」
店奥の冷凍庫に並ぶ、バケツのようなアイスタブ。
佐伯がホワイトボードで在庫数を確認し、"CCチョコチップ"と書かれた略語のすぐ横に赤で日付を書き込む。
「商品名は、スタッフ同士では常に略語で呼ぶこと。いちごミルクなら『いちみる』、ポップソーダなら『POP』、ストロベリーチーズケーキなら『ストチ』みたいに、一つずつ決まってるから。他にも、オーダーをメモするときのアルファベット表記――たとえば『R』とか『C』とかもあるんだけど……まぁ、そのへんは配られた冊子の一覧に載ってるから。次回までに覚えてきて
「わ、分かった……」
さっき店長に貰った冊子を頭の中で思いだすけれど、めちゃくちゃ細かい表みたいなのが挟まってた気がする。
……え、マジか。あれ、次のシフトまでに全部覚えるの? 普通に無理そうなんだけど。
ちょっと顔を青くしていると、頭の上から佐伯の怪訝そうな声が降ってきた。
「持てる?」
「あっ……ご、ごめん! ちょっと、考え事してた」
何気なく腕を伸ばしてタブを持ち上げると、かなり重かった。多分、十キロ以上は普通にある。
冷凍庫の扉を体で押し戻そうとすると、佐伯が俺の抱えるアイスタブへ手を伸ばしてきた。
「やっぱ貸して、小瀧」
「いや、大丈夫だって」
「見てて怖い。落として足の指、全部骨折しそう」
脅しみたいな言い方に、思わずひい、と体が縮む。
確かに落としたら骨折しそうだ。でもみんな頑張ってヨイショと運んでいるし、俺だってやらないわけにはいかない。そう伝えようとしたところで、先に言葉を被せられた。
「シフト被ってる日は、俺がやるから。これはお前やんなくていい」
……ん? 今のって、優しくしてくれたってこと?
いや、でも今までの言動を考えると、多分本当に俺が落とすと思っているだけなんだ、と考え直す。
その後もなんだかんだ――「クソ不器用」とか「職場体験の中学生のがマシ」とか言いながらも、佐伯はちゃんと俺の隣に居て仕事を教えてくれた。
「じゃあ、次はクレープね。こっち来て」
促されるまま、鉄板の前に立つ。温かい鉄板からジュウッと小さな音がする。
佐伯はクレープの素がたっぷり入った銀色の容器を指差し、大きなお玉でそれを掬って見せた。
「生地流して、広げて……鉄板回すのはこうやって」
手際よく、生地を丸く広げていく佐伯。あっという間にクレープの生地がまな板の上に完成し、パパッと手早く店のロゴ入りの包装紙を巻きつけると、俺の顔の前にずいっと突き出した。
「食って」
「え?」
「いいから、一口食ってみて」
突然の言葉に狼狽えながら、俺は手を伸ばす。
でも、佐伯が根元をしっかり握っているので、つまりそのまま食べろということだと理解し、あむ、と大きな一口で齧るようにかぶりついた。
「ん……! 美味ひい」
見た目はふわふわなのに、口の中ではモチモチしている。
クレープって、焼く人によって厚みが出すぎたり、もったりした食感になったりするけれど、これは間違いなく上手だ。メッチャ美味しい。どうせ食べるなら、生クリームとか付けてほしかったくらいだ。
俺がもぐもぐと食べているのを、佐伯はガン見してくる。
(……早く食えってこと……?)
そういえば仕事中だし、と俺が慌てて飲み込むのを確認すると、今度は鉄板の前に来るよう促された。
「最終的には、今食べたのと同じクオリティになるように練習して。あとは実践あるのみ。焼いて」
「わ、わかった」
俺はお玉で生地を掬い、鉄板の上に流す。
同じようにやってみたはずなのに、生地はまるで日本地図のように縦長に広がっていく。
どうやって丸くするんだ……と考えつつ、とりあえずそれっぽく見えるように広げてみた。
「……うわ、まじかそれ」
「何が?」
「いや……下手くそすぎる。なんだこれ、過去一下手くそなんだけど」
言葉が容赦なさすぎて、笑いそうになる。それでも佐伯は一切笑っていなくて、本気でそう思っているらしいことが伝わってくる
家でクレープを焼いたことなんてないし、料理スキルもゼロ。一発成功するわけがない、と俺は開き直りモードに入りつつあった。
「いきなりできるわけないじゃん……」
「俺は初日で出来たけど?」
自慢まで挟む余裕、性格どうなってんだ。鉄板にコイツの手を押し付けてジュージュー言わせてやりたくなるくらい、苛立ちがマックスだ。
その後も、二回、三回では終わらなかった。目の前には、クレープなのかパンケーキなのかわからない謎に厚みのある生地が積み上がっていく。
「……こ、こんな感じでどう?」
「百円で売ってても、誰も買わないと思う」
腕を組んだまま、ばっさりと切り捨てるように言われた。
その冷静さと自信が、余計に俺を焦らせる。鉄板の熱さなのか冷や汗なのか、もうよくわからない汗が額と背中を伝っていく。
「もっと高い所から生地落として」
「でも、ビチャってなりそうで怖くて」
「分かるけど、いいからやれって言ってんの」
その圧に押されて、言われた通りに生地を高い位置から落とす。
すると今までより綺麗な丸い形ができて、薄く延ばすことができた。
「絶望的だったけど、最初よりはマシ」
「……あ、ありがとう」
ようやくお許しが出て、次はレジ金チェック。
レジのお金を全部機械に入れて、表示された金額と同じになるよう手作業で数えるというものだった。
「早くしてくんない? レジ金合わないと帰れないからね」
「ご、ごめん……!」
大量のお札と小銭を数えるけれど、なかなか金額が合わない。どこで間違えているのかも、正直わかっていない。
二回目も合わせることができなくて、退勤時間をとっくに過ぎているのが申し訳なくなってきた。
「……あの……やっぱり合わないから、手伝ってもらっていい?」
ムカつくけど、できるだけ低姿勢で丁寧に助けを求めてみた。
けど、佐伯はパイプ椅子で足を組んで座ったまま、スマホから視線だけを俺に移してこう言った。
「無理。……簡単なのに、なんでできないの? 流石Fランだな」
もう一度やりなおして、金額のメモでも書いた方がいいのかな。
早く終わらせなきゃいけないのに、と焦っていると、ふっと手元が人影で暗くなる。後ろを振り返ると、佐伯がすぐそばに立っていた。
「手伝いはしないけど、やり方は教える。一回だけ」
トントン、とお札を揃えながらそう言うと、佐伯は俺に札勘さつかんのやり方を教えてくれた。
「まず、枚数は必ず十枚ずつにまとめる。数えるときは、手前から奥に向かって滑らせるように。数え終わったら必ず確認して、間違ってたら最初からやり直し」
俺は指先を震わせながら、佐伯の動きを真似してみる。お札を十枚ずつまとめてトントンと揃え、滑らせるように数える――その動きは、やっぱりぎこちない。
「あと、金種ごとに分けるのは基本。混ざったまま数えると、後で絶対に間違えるから」
佐伯は淡々と説明する。
それでも、その長くてきれいな指先の正確さとリズムの良さに、俺は思わず見とれてしまった。
「はい、じゃあ後は……」
「もう一回やってみる!」
教わった通りのやり方で、もう一度数え直す。
佐伯は黙って隣に立ったまま、手の動きをさりげなく確認していた。
数え終わると、合っていた分を机の端に仕分けてくれる。……一応、それなりに優しいところもあるっぽい。
「三十八万四千五百二十七円……合ってる! 合ってるよね?」
「あー、やっと終わった。ほら、さっさと着替えろよ。警備の時間になるから」
喜びを分かち合う間もなく捲し立てられ、慌ててロッカーから私服を取り出して着替える。
カーテンを開くと、佐伯はまたパイプ椅子に腰かけ、スマホで退勤用のQRコードの画面を表示していた。
「ごめん、お待たせ……準備できた!」
歩きながらダウンのジッパーを上げようとするけれど、金具が噛んでなかなか上がらない。
まあ後でいいか、とそのまま佐伯の元へ行くと、俺を見た佐伯は手に持っていた鍵とスマホをポケットにしまい、無言で立ち上がった。
「……貸して」
俺のダウンの金具に手を伸ばし、ぐっと力を入れる佐伯。
ガッツリ噛んで動かないその様子に、俺は目の前の佐伯を見上げて言った。
「いいよ、あとで直すから」
早く帰りたいはずなのに、と申し訳なさで言うと、佐伯は無言のまま何度か上げ下げを繰り返す。
長い前髪に隠れてよく見えないけれど、その視線の先は手元に向けられていた。額が触れそうになり、俺は思わず俯いた。
「……見えないんだけど」
「ご、ごめん……」
不意に、佐伯と目が合う。いくら苦手な相手でも、イケメンに直視されると思わず狼狽えて顔を背けた。
噛んだ部分が外れると、カチリと合わせてくれる。
「はい、出来た」
「あ……ありがとう……」
不意打ちで親切にされ、素直にお礼を伝えると、佐伯はすたすたと出口へ向かう。俺もその後を追った。
慣れた手つきで外の鍵をかけるその背中に、思わず言葉を投げかけた。
「あの、佐伯。今日はいろいろ教えてくれてありがとう。迷惑いっぱいかけちゃったけど……俺、頑張るから!」
態度は悪かったけど、結局最後まで隣にいて、ちゃんと教えてくれた。
本当は嫌なヤツじゃないのかも――そんな淡い期待を込めて伝える俺に、佐伯は俺を見下ろしたまま言った。
「じゃあね、二歳児」
「…………え?」
「自分で服着られないし、アイスもクレープも、幼児のお粘土みたいだから」
「はぁぁああ!?」
俺の絶叫をよそに、佐伯はすました顔で踵を返し、反対方向へ歩いていく。
今日一日、怒られてばかりで、慣れないバイトに必死でついていくだけで精いっぱいだったのに。
最後の最後で、さりげなくファスナーを直してくれたりしたから、素直にお礼を言ったのに!
なのに、別れ際が「お疲れ様」じゃなくて「二歳児」って何だよ。ムカつくし失礼だし、アイスが粘土って……確かに、まだお客さんに出せるクオリティではないけれど。
……それなのに、反対方向へ歩く佐伯の背中を目で追ってしまった自分が、一番意味わからない。
体はぐったりなのに、心だけずーっとザワザワしている。
厳しくて意地悪で、初対面なのに距離の取り方もわからない相手なのに、どうして気になってしまうんだろう。もう何が何だか、訳がわからない。
「……明日も、佐伯とシフト一緒なのかな」
振り回されるのはもう懲り懲りなのに、佐伯のことをつい気にしてしまう自分がいる。
きっとこれはアレだ。苦手だから脳が敵として認識していて、そのせいで余計に気になってしまうんだ。
だけど頭の中には、あの時ファスナーを上げてくれた佐伯の、無駄に整った顔がちらつく。
『――はい、出来た』
あの時、少しだけ笑っていたような……いや、やっぱり馬鹿にされてただけか。緊張と疲れで、幻覚でも見てたのかもしんないし。
シフト表を見つめ、俺の名前の真上にある『佐伯』の文字を指でなぞる。初日からこんな大変だなんて、思いもしなかった。
溜息をつきながら、さらに先の予定に目を走らせる。
「……うわ! 次のシフトもあいつと一緒じゃん!」
佐伯と俺の名前が並ぶ欄を見つけ、思わず叫んでしまった。通りすがるカップルやサラリーマンたちが、何事かとこちらを振り返る。
恥ずかしさも忘れて、俺は二重丸のマークを呆然と見つめることしかできなかった。
海外風のポップな内装。アイスケースには、カラフルで何十種類ものアイスが並んでいる。
接客は明るく、家族とでも友達とでも、アイスを食べるならこの店一択――と言っていいほど馴染みのある店だ。
まさか、自分がこの店で働けるなんて、少し夢みたいだった。今日はその初日。緊張と期待で、朝からずーっと胸がバクバクしっぱなし。
「小瀧南緒です、今日からよろしくお願いします」
「店長の佐藤です。こちらこそ今日からよろしくね!」
佐藤店長の名札には、金の星が三つ光っていて、社員としても仕事ができる人なんだとひと目でわかる。明るくてハキハキしていて、佇まいも堂々としている。しっかり新人教育してくれそうな雰囲気に、俺は思わず背筋をぴんと伸ばした。
副店長やバイザーにも挨拶を済ませ、店長に案内されながら従業員向けの休憩スペースへと通される。
向かい合って座り、オリエンテーション用のファイルを読み合わせながら、大まかな説明を受けていた、その時だった。
「お疲れ様です」
休憩室のドアが開いて、一人の男性が入って来る。勤怠を記録する機械にスマホのQRコードをかざす姿を見つけた店長は、嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、ちょうどいい所に。佐伯くん、ちょっとこっちに来てくれる?」
「はい?」
声をかけられた「佐伯」という男性は、出勤したばかりらしく、上着姿のまま足をとめた。
「小瀧くん、うちのアルバイトリーダーの佐伯澄人くんだよ」
第一印象は、正直に言って抜群だった。
整った顔立ちに、すっとした長身。アッシュ系の髪を軽やかに遊ばせ、涼しげな目元をのぞかせる。百人が百人「イケメン」と答えるであろうその外見は、まさに非の打ち所がなかった。
(うわ……めちゃくちゃイケメンじゃん)
特に目を引くのは、色素の薄い瞳だ。蜂蜜のように透き通った、きらきらとした琥珀色。ハーフなのかもしれない。
“あそこのアイス屋さんって、顔採用があるらしいよ”
大学の友達の噂話を聞いた時は半信半疑だったけど、これなら納得だ。
……まあ、俺が採用されたのは、単なるマグレか、よっぽどの人手不足だったからに違いないけれど。
「佐伯くん、こちらが新しく入った小瀧南緒くんです。いつも通り、指導係として教えてあげてね」
店長にそう紹介されて、俺は軽く会釈する。
「あ……えっと、小瀧です。宜しくお願いします」
目の前の俺を見下ろしたまま、腕を組んで顔をじっと眺めてきた。
(えっ、何でそんなにガン見してくんの……?)
まるで品定めでもされているような気分で、めちゃくちゃ居心地が悪いんですけど。
「マジすか。また一から教えるのめんどくさ……俺、この前の面談で言いましたよね。アルバイト教育だけはもう御免だって」
さっきまでのクールな第一印象はどこへやら。あくびをかみ殺しながら、あからさまに面倒そうに頭をかく。その態度にぎょっとして、思わず固まった。
信じられない。店長の前で、それってアリなのか? いや、普通に考えて無しだろ。
「でも、佐伯くんと小瀧くんは同い年だから。話も合うと思うよ?」
店長が苦笑いしながら場をおさめようとしてくれる。同い年でバイトリーダー、ということは高校のときから働いているってことなんだろうか。
さっき見られまくった仕返し、とまでは言わないけれど、佐伯の頭のてっぺんからつま先まで視線を往復させる。
その視線に気付いたのか、佐伯は眉間に皺を寄せると、ポケットに手を突っ込んで俺の方へ向き直って言った。
「へぇ……同い年ってことは大学二年? どこ大?」
「明成大だけど……」
「はっ、Fランじゃん」
背も、頭も、まとめて踏みつけるような言い方に、さすがに口が半開きになる。
店長は軽く苦笑いしつつ、「大丈夫、仕事はできる子だから!」とだけ言い残してその場を離れていった。
佐伯はちらっと一瞥しただけで、表情ひとつ変えない。さっき抱いた「イケメン、格好いい」なんて印象なんて、もう頭から吹き飛んでいた。訂正版は、冷たい・無関心・面倒くさそうの三点セットだ。
こいつが俺の指導係とか、マジで嫌なんだけど。絶対意地悪だし。
「……で、名前なんだっけ?」
「えっと……小瀧。タメなら敬語じゃなくてもいい?」
「あー、もうマジでやだ。無理そ。とりあえず同じことは二回言わないから、メモ取って」
自分は二回も名前を聞いたくせに、よくそんなこと言えるな、と佐伯の顔を見上げる。
完全にやる気ゼロの声に、逆に火がついた。
(こうなったら、一言一句、聞き返す必要のないように全部メモしてやる……!)
小馬鹿にされ、存在を無理だと言われ。こんな負けっぱなしで初日を終えるなんて、絶対に嫌だった。
***
まずはアイスの種類を覚えるよう言われたけれど、数が多いうえに似た名前も多くて、頭の中はみるみるごちゃごちゃになっていった。
ケースの端から端までメモを取りながら、呪文のように長い商品名の略語を確認していく。
チョコレート味のコーナーに差しかかると、さらに混乱した。
似た色合いのパッケージが並んでいて、違いがパッと見ただけでは全然わからない。
「えっと……これがチョコチップで、これがダブルチョコ……?」
「ちがうし。逆だし」
「あ、ありがと。じゃあ、こっちがダブルで――」
俺がアイスを指差して振り返ると、佐伯はアイスのカップを補充しながら、鼻で笑うように言った。
「小瀧って、脳みそ何グラム?」
「……今なんて?」
「いや、軽そうだなって。小学生でも見分けつくけど、覚えられないの?」
目の前で腕を組み、無表情のまま俺を見下ろしてくる。冷房で少しひんやりした店内の空気まで、なんだか刺さるように冷たく感じた。
思わず言い返したくなるけれど、実際に出来ていない自覚があるから、黙り込むしかない。
さっきはメモをとる気満々だったけれど、そもそもの説明のスピードが速すぎて、メモしきれていない。漢字で書く時間も与えられず、小さなメモ帳は自分でも何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。
「じゃあ、次はスクープね。アイスを掬う動作を『スクープ』って言うんだけど……」
佐伯のブリザードのような態度に反して、俺はアイスを掬うディッシャーを片手に、内心で興奮していた。
いつも客として買いに来るとき、ワクワクする場面のひとつ――店員が、大きなアイスタブにディッシャーを滑らせてアイスを丸めてくれる、あの瞬間だ。
「掬い方は二種類あって、最初はラウンド。自分の臍に向かって動かすようにイメージして」
佐伯のお手本を見てから、見よう見まねでやってみる。ぐぐぐ……と体重をかけてみると、思ったよりずっと力が必要そうだ。
なんとかカップに載せて、まあまあ出来たかも……と口元を緩めかけて、慌てて俺は唇の先をすぼめるようにしてそっぽを向くことで堪えた。
「……次はS字スクープ。動きが細かいけど、まぁやってみな」
めちゃくちゃ雑な引継ぎだけれど、佐伯は一度S字スクープを実演してくれた。
その滑らかな動きが経験の豊富さを物語っていて、俺はここでようやく、コイツがバイトリーダーに選ばれた理由に納得がいった。
「さ、佐伯。あの……質問して良い?」
「……簡潔になら答えてやらなくもない」
「えっと、掬い方って、どうして二つあるの?」
「……ここのアイスって、クッキーとかマシュマロが入ってたりするだろ。それを均等に見栄えよく盛り付ける必要があるから」
口調は淡々としていても、説明は簡潔で的確だった。バカな俺でも、こんだけ噛み砕かれればすんなり理解できる。
「うーん、S字めっちゃ難しい。カーブさせられないっていうか……」
何度目かの失敗をした瞬間、横で見ていた佐伯が、俺の右手にスッと手を添えてきた。
「手、添えるから。もう少し手首の力抜いて」
手の甲に、佐伯の体温が乗る。指先の節ごとに微かに筋が浮き、骨格がはっきり見えた。俺より太い、男らしい腕。
無表情の顔とは裏腹に、丁寧に支えてくれているのが分かる。そのギャップが、なんとなく心を落ち着かなくさせた。
「……こう?」
「そう。無理に丸くしようとしないで。手首だけでやろうとすると、すぐ腱鞘炎になる」
耳元に落ちてくる声が近くて、息がかかるほどではないにせよ、意識せずにはいられない距離だった。
「小瀧の手首、すげー細いね」
「えっ?」
不意に名前を呼ばれて、心臓が一段跳ねる。
ちゃんと俺の名前覚えてくれてるんだ、なんて。あまりにも冷たい態度だったから、つい嬉しくなってしまう。
「俺が本気出したら簡単に折れそうだな」
「お、おい! 折るなよ」
「折るわけないじゃん……。こういう風にアイスが減ってきたら、奥の冷凍庫にある在庫を補充するから。ついてきて」
店奥の冷凍庫に並ぶ、バケツのようなアイスタブ。
佐伯がホワイトボードで在庫数を確認し、"CCチョコチップ"と書かれた略語のすぐ横に赤で日付を書き込む。
「商品名は、スタッフ同士では常に略語で呼ぶこと。いちごミルクなら『いちみる』、ポップソーダなら『POP』、ストロベリーチーズケーキなら『ストチ』みたいに、一つずつ決まってるから。他にも、オーダーをメモするときのアルファベット表記――たとえば『R』とか『C』とかもあるんだけど……まぁ、そのへんは配られた冊子の一覧に載ってるから。次回までに覚えてきて
「わ、分かった……」
さっき店長に貰った冊子を頭の中で思いだすけれど、めちゃくちゃ細かい表みたいなのが挟まってた気がする。
……え、マジか。あれ、次のシフトまでに全部覚えるの? 普通に無理そうなんだけど。
ちょっと顔を青くしていると、頭の上から佐伯の怪訝そうな声が降ってきた。
「持てる?」
「あっ……ご、ごめん! ちょっと、考え事してた」
何気なく腕を伸ばしてタブを持ち上げると、かなり重かった。多分、十キロ以上は普通にある。
冷凍庫の扉を体で押し戻そうとすると、佐伯が俺の抱えるアイスタブへ手を伸ばしてきた。
「やっぱ貸して、小瀧」
「いや、大丈夫だって」
「見てて怖い。落として足の指、全部骨折しそう」
脅しみたいな言い方に、思わずひい、と体が縮む。
確かに落としたら骨折しそうだ。でもみんな頑張ってヨイショと運んでいるし、俺だってやらないわけにはいかない。そう伝えようとしたところで、先に言葉を被せられた。
「シフト被ってる日は、俺がやるから。これはお前やんなくていい」
……ん? 今のって、優しくしてくれたってこと?
いや、でも今までの言動を考えると、多分本当に俺が落とすと思っているだけなんだ、と考え直す。
その後もなんだかんだ――「クソ不器用」とか「職場体験の中学生のがマシ」とか言いながらも、佐伯はちゃんと俺の隣に居て仕事を教えてくれた。
「じゃあ、次はクレープね。こっち来て」
促されるまま、鉄板の前に立つ。温かい鉄板からジュウッと小さな音がする。
佐伯はクレープの素がたっぷり入った銀色の容器を指差し、大きなお玉でそれを掬って見せた。
「生地流して、広げて……鉄板回すのはこうやって」
手際よく、生地を丸く広げていく佐伯。あっという間にクレープの生地がまな板の上に完成し、パパッと手早く店のロゴ入りの包装紙を巻きつけると、俺の顔の前にずいっと突き出した。
「食って」
「え?」
「いいから、一口食ってみて」
突然の言葉に狼狽えながら、俺は手を伸ばす。
でも、佐伯が根元をしっかり握っているので、つまりそのまま食べろということだと理解し、あむ、と大きな一口で齧るようにかぶりついた。
「ん……! 美味ひい」
見た目はふわふわなのに、口の中ではモチモチしている。
クレープって、焼く人によって厚みが出すぎたり、もったりした食感になったりするけれど、これは間違いなく上手だ。メッチャ美味しい。どうせ食べるなら、生クリームとか付けてほしかったくらいだ。
俺がもぐもぐと食べているのを、佐伯はガン見してくる。
(……早く食えってこと……?)
そういえば仕事中だし、と俺が慌てて飲み込むのを確認すると、今度は鉄板の前に来るよう促された。
「最終的には、今食べたのと同じクオリティになるように練習して。あとは実践あるのみ。焼いて」
「わ、わかった」
俺はお玉で生地を掬い、鉄板の上に流す。
同じようにやってみたはずなのに、生地はまるで日本地図のように縦長に広がっていく。
どうやって丸くするんだ……と考えつつ、とりあえずそれっぽく見えるように広げてみた。
「……うわ、まじかそれ」
「何が?」
「いや……下手くそすぎる。なんだこれ、過去一下手くそなんだけど」
言葉が容赦なさすぎて、笑いそうになる。それでも佐伯は一切笑っていなくて、本気でそう思っているらしいことが伝わってくる
家でクレープを焼いたことなんてないし、料理スキルもゼロ。一発成功するわけがない、と俺は開き直りモードに入りつつあった。
「いきなりできるわけないじゃん……」
「俺は初日で出来たけど?」
自慢まで挟む余裕、性格どうなってんだ。鉄板にコイツの手を押し付けてジュージュー言わせてやりたくなるくらい、苛立ちがマックスだ。
その後も、二回、三回では終わらなかった。目の前には、クレープなのかパンケーキなのかわからない謎に厚みのある生地が積み上がっていく。
「……こ、こんな感じでどう?」
「百円で売ってても、誰も買わないと思う」
腕を組んだまま、ばっさりと切り捨てるように言われた。
その冷静さと自信が、余計に俺を焦らせる。鉄板の熱さなのか冷や汗なのか、もうよくわからない汗が額と背中を伝っていく。
「もっと高い所から生地落として」
「でも、ビチャってなりそうで怖くて」
「分かるけど、いいからやれって言ってんの」
その圧に押されて、言われた通りに生地を高い位置から落とす。
すると今までより綺麗な丸い形ができて、薄く延ばすことができた。
「絶望的だったけど、最初よりはマシ」
「……あ、ありがとう」
ようやくお許しが出て、次はレジ金チェック。
レジのお金を全部機械に入れて、表示された金額と同じになるよう手作業で数えるというものだった。
「早くしてくんない? レジ金合わないと帰れないからね」
「ご、ごめん……!」
大量のお札と小銭を数えるけれど、なかなか金額が合わない。どこで間違えているのかも、正直わかっていない。
二回目も合わせることができなくて、退勤時間をとっくに過ぎているのが申し訳なくなってきた。
「……あの……やっぱり合わないから、手伝ってもらっていい?」
ムカつくけど、できるだけ低姿勢で丁寧に助けを求めてみた。
けど、佐伯はパイプ椅子で足を組んで座ったまま、スマホから視線だけを俺に移してこう言った。
「無理。……簡単なのに、なんでできないの? 流石Fランだな」
もう一度やりなおして、金額のメモでも書いた方がいいのかな。
早く終わらせなきゃいけないのに、と焦っていると、ふっと手元が人影で暗くなる。後ろを振り返ると、佐伯がすぐそばに立っていた。
「手伝いはしないけど、やり方は教える。一回だけ」
トントン、とお札を揃えながらそう言うと、佐伯は俺に札勘さつかんのやり方を教えてくれた。
「まず、枚数は必ず十枚ずつにまとめる。数えるときは、手前から奥に向かって滑らせるように。数え終わったら必ず確認して、間違ってたら最初からやり直し」
俺は指先を震わせながら、佐伯の動きを真似してみる。お札を十枚ずつまとめてトントンと揃え、滑らせるように数える――その動きは、やっぱりぎこちない。
「あと、金種ごとに分けるのは基本。混ざったまま数えると、後で絶対に間違えるから」
佐伯は淡々と説明する。
それでも、その長くてきれいな指先の正確さとリズムの良さに、俺は思わず見とれてしまった。
「はい、じゃあ後は……」
「もう一回やってみる!」
教わった通りのやり方で、もう一度数え直す。
佐伯は黙って隣に立ったまま、手の動きをさりげなく確認していた。
数え終わると、合っていた分を机の端に仕分けてくれる。……一応、それなりに優しいところもあるっぽい。
「三十八万四千五百二十七円……合ってる! 合ってるよね?」
「あー、やっと終わった。ほら、さっさと着替えろよ。警備の時間になるから」
喜びを分かち合う間もなく捲し立てられ、慌ててロッカーから私服を取り出して着替える。
カーテンを開くと、佐伯はまたパイプ椅子に腰かけ、スマホで退勤用のQRコードの画面を表示していた。
「ごめん、お待たせ……準備できた!」
歩きながらダウンのジッパーを上げようとするけれど、金具が噛んでなかなか上がらない。
まあ後でいいか、とそのまま佐伯の元へ行くと、俺を見た佐伯は手に持っていた鍵とスマホをポケットにしまい、無言で立ち上がった。
「……貸して」
俺のダウンの金具に手を伸ばし、ぐっと力を入れる佐伯。
ガッツリ噛んで動かないその様子に、俺は目の前の佐伯を見上げて言った。
「いいよ、あとで直すから」
早く帰りたいはずなのに、と申し訳なさで言うと、佐伯は無言のまま何度か上げ下げを繰り返す。
長い前髪に隠れてよく見えないけれど、その視線の先は手元に向けられていた。額が触れそうになり、俺は思わず俯いた。
「……見えないんだけど」
「ご、ごめん……」
不意に、佐伯と目が合う。いくら苦手な相手でも、イケメンに直視されると思わず狼狽えて顔を背けた。
噛んだ部分が外れると、カチリと合わせてくれる。
「はい、出来た」
「あ……ありがとう……」
不意打ちで親切にされ、素直にお礼を伝えると、佐伯はすたすたと出口へ向かう。俺もその後を追った。
慣れた手つきで外の鍵をかけるその背中に、思わず言葉を投げかけた。
「あの、佐伯。今日はいろいろ教えてくれてありがとう。迷惑いっぱいかけちゃったけど……俺、頑張るから!」
態度は悪かったけど、結局最後まで隣にいて、ちゃんと教えてくれた。
本当は嫌なヤツじゃないのかも――そんな淡い期待を込めて伝える俺に、佐伯は俺を見下ろしたまま言った。
「じゃあね、二歳児」
「…………え?」
「自分で服着られないし、アイスもクレープも、幼児のお粘土みたいだから」
「はぁぁああ!?」
俺の絶叫をよそに、佐伯はすました顔で踵を返し、反対方向へ歩いていく。
今日一日、怒られてばかりで、慣れないバイトに必死でついていくだけで精いっぱいだったのに。
最後の最後で、さりげなくファスナーを直してくれたりしたから、素直にお礼を言ったのに!
なのに、別れ際が「お疲れ様」じゃなくて「二歳児」って何だよ。ムカつくし失礼だし、アイスが粘土って……確かに、まだお客さんに出せるクオリティではないけれど。
……それなのに、反対方向へ歩く佐伯の背中を目で追ってしまった自分が、一番意味わからない。
体はぐったりなのに、心だけずーっとザワザワしている。
厳しくて意地悪で、初対面なのに距離の取り方もわからない相手なのに、どうして気になってしまうんだろう。もう何が何だか、訳がわからない。
「……明日も、佐伯とシフト一緒なのかな」
振り回されるのはもう懲り懲りなのに、佐伯のことをつい気にしてしまう自分がいる。
きっとこれはアレだ。苦手だから脳が敵として認識していて、そのせいで余計に気になってしまうんだ。
だけど頭の中には、あの時ファスナーを上げてくれた佐伯の、無駄に整った顔がちらつく。
『――はい、出来た』
あの時、少しだけ笑っていたような……いや、やっぱり馬鹿にされてただけか。緊張と疲れで、幻覚でも見てたのかもしんないし。
シフト表を見つめ、俺の名前の真上にある『佐伯』の文字を指でなぞる。初日からこんな大変だなんて、思いもしなかった。
溜息をつきながら、さらに先の予定に目を走らせる。
「……うわ! 次のシフトもあいつと一緒じゃん!」
佐伯と俺の名前が並ぶ欄を見つけ、思わず叫んでしまった。通りすがるカップルやサラリーマンたちが、何事かとこちらを振り返る。
恥ずかしさも忘れて、俺は二重丸のマークを呆然と見つめることしかできなかった。



