翌日体育館に行くと、おれはまるでヒーローみたいに先輩たちにもてはやされ、感謝された。
「緋山くん! フルネーム、教えて」
「……ヒヤマ、リズです」
渋ったのち、告げる。すると一瞬静かになった周囲は、一拍の後どっと声を上げた。
「かわいい名前」
「リズちゃんじゃん」
「初めてかも、そんな名前」
おれはその空気にいたたまれなくなる。ずきりと胸が痛んで、うまく笑みを作れなくなる。
その時だった。
「───…どうも」
おれと先輩の間に、すらりと高い人物が立った。艶のある髪の隙間から、凛とした瞳がこちらを見ている。
バスケ部期待の星である、長身イケメン男だった。
先輩たちが口々に声をあげて、嬉しそうに抱き合う。
「これで俺たち、また一歩優勝に近づいたな!」
「やった、やったぞ。本当にありがとう!」
……ほんとに、入部するんだ。
のらりくらりとかわして逃げるんじゃないかと、心のどこかでは思っていた。それなのに、ちゃんとバスケの格好をして、体育館にやってきた。Tシャツにはこの辺りでは強豪と名高い学校名が刻まれている。
Tシャツから視線を戻すと、また目が合う。というか、さっきからこの男はずっとおれのことを見ていた。
その瞳の強さにどうしたらいいかわからなくなって、視線を逸らす。
心臓が妙な音を立てている。
この入部が正解だったのか、間違いだったのか、もう、おれにはよくわからない。
落ちたため息は、雑音に紛れて消えていった。
*
まっすぐに弧を描いたボールがゴールに吸い込まれていく。これで6本目だ。ブザーが鳴り、試合の終了を知らせる。練習試合とはいえ、白熱した試合だった。息が上がっている選手たちがこちらに歩いてくる。女性マネージャーであるサヤカさんが、「ドリンク!」とおれを振り向いたので、あわてて用意していたドリンクを次々と手渡す。
サヤカさんはてきぱきと仕事をこなすから、ドリンクを待つ選手が少なく、おれよりもスムーズだ。申し訳なくてできるだけ急ごうとするけれど、選手たちはサヤカさんのほうへと列を作ってゆく。
「あ、高瀬く……」
サヤカさんの差し出したドリンクの前を素通りして、おれの前に並んだ人物。彼こそが、このチームの期待の星であり、おれの不本意入部を促した存在である高瀬昴だ。
「それ、ちょうだい」
おれが持っているドリンクを指さす。ボトルが水滴で少し濡れている。ポタ、と一粒コートに落ちた。
無表情だから、何を考えているのかわからない。視界の隅でサヤカさんが顔をしかめるのが見えた。そばにあったタオルでボトルを拭き、ドリンクを手渡すと、指先が触れる。熱い体温が伝わり、びくりと肩が跳ねる。
なに動揺してんだ、おれ。
「……さんきゅ」
「お、おつかれ」
無表情で受け取った高瀬はドリンクを飲んで、汗を拭く。浮き出た輪郭と鎖骨。彫刻みたいだ。
最後にストレッチをして、コートに礼をして、部活が終わる。選手たちがストレッチをしているあいだにドリンク、タイマーの後始末をする。
「このあと自主練付き合ってくんない?」
作業をしていると、ふいに頭上から声がかかる。
視線をあげるとそこには高瀬がいた。
パス出しとボール拾いもマネージャーの務めだ。今日はこの後特に予定もないので、承諾する。自主練なんて必要ないくらい上手いのに、真面目だな、と感心しながら。
「おつかれ」
汗を拭きとっている高瀬と、その側に腰をおろしているおれを見て、先輩が声をかけて去っていく。あわてて立ち上がって挨拶をする。
「ちゃんと電気消してゴールしまって帰ってね」
忠告をしてサヤカさんが最後に体育館を出ていく。そうして、ふたりきりになった
夜の体育館は音を立てないと静まり返りすぎてなんだかこわい。
ふ、と息をついた高瀬が立ち上がる。休憩は終わったみたいだ。
「シュート練したい。パス出してもらってもいい?」
「わかった」
高瀬はスリーポイントラインに立つ。ボールを高瀬に向けて放ると、そのボールは高瀬の手に吸い込まれて、それからきれいな弧を描いた。ゴールネットを揺らす。それを拾って、もう一度パスを出す。高瀬がシュート体制を作る。
何度も、何度も、そのシュートフォームを目に焼き付ける。
──きれいだ、と思った。
部活中にも思ったけれど、彼のシュートフォームには変な癖がない。ゴールにボールを入れる、というただひとつの目的のために無駄な動きをすべて省いたシュートだ。無駄を省くということは簡単に見えて、すごくむずかしい。小さいときに始めた選手は、その時に癖がついてしまうから、それを治すのにはかなりの時間がかかるからだ。
スリーポイントを100本決めた高瀬は、フリースロー、ゴール下と位置を変えてシュートを打っていく。たまにシュートが外れて、転がったボールを拾いに行くと、高瀬は顔を歪めて「悪い」とつぶやく。
そんな顔しなくても。むしろ、このシュート率の高さは化け物だ。
ひととおり練習が終わると、時刻は10時を過ぎていた。
ドリンクとタオルを手渡す。ボールをかごに返し、ゴールをしまう。長い棒をゴールに引っ掛け、くるくるとまわす。単純作業だが、これが地味にきつい。
いつのまにか帰る支度を整えた高瀬が扉とカーテンをしめている。
「手伝ってもらって、ごめん」
「いやこちらこそ。付き合ってくれてありがとう」
ゴールをしまい終え、ステージ付近の荷物をとりにいく。すると高瀬がおれの鞄を持って立っていた。差し出された荷物を受け取ろうとすると、ふいに高瀬の唇が動いた。
「……スバル」
「え?」
「俺の名前、スバルだから。そう呼んで」
突然の申し出にうろたえる。チームメイトも、クラスメイトも、全員高瀬と呼んでいる。おれだけ下の名前で呼ぶのはなんだかはばかられる。けれどおれに拒否権などないとでもいうように、高瀬がおれの顔をのぞきこんでくる。
「お願い」
宝石みたいな目がこちらを見ている。いつも死んだ目をしているくせに、こういうときの高瀬は、ずるい。
「……す、ばる」
絞りだした声で呼ぶと、高瀬──いや、スバルは満足そうにうなずいた。
「これからはそれでよろしく」
細くなった目がおれをとらえる。なんだか妙に胸が騒いで、思わず目を逸らした。静まり返った体育館に、鼓動の音が響いてしまいそうだ。
「帰るか」
「うん」
ふたりで体育館を出る。そのときだった。
ザーと激しい音を立てて雨が降ってくる。暗闇のなか、街灯に照らされた雨粒がきらきらと光って落ちてくる。
「まじか、雨だ」
少し憂鬱そうにしながらスバルが折り畳み傘を取り出す。
朝快晴だったから、雨なんて降るわけないと思っていた。おれも今度から常に折り畳み傘を持つようにしよう。
どうせここから家までそんなに距離はないから、走れば大丈夫だろう。決意を固めたおれを見たスバルが「なにしてんの?」と首を傾げた。
「あー……おれ、傘ないから。走ろうと思って」
「いや、俺持ってるから。一緒に入ろう」
「いやいや、悪いし」
「家どこ? 送る。電車使うなら駅まで」
決定事項とでもいうようにスバルの持つ傘がおれをかばうように傾く。
「迷惑だろ」
「風邪ひくよ。全然迷惑じゃないから、送らせて」
横を振り向くと、思った以上に近い距離におどろく。まわりが暗いから、スバルがどんな顔をしているかよくわからない。ただきれいな目がじっとおれを見ていることだけはわかった。
「……ありがと」
「全然」
歩幅がそろう。スバルは背が高いから、当然足も長いわけで。違うはずの歩幅を合わせてくれる。こういう細かな気遣いができるところも、モテるんだろうな、と思った。バスケ部とコートを分け合っている女子バレー部の部員たちが休憩時間にスバルのことを見ていること。サヤカさんがスバルのことを特別視していること。輪の中にいれば、そういうことには自然と気が付く。
「リズ」
急に名前を呼ばれてびくりと肩が跳ねる。動揺しているのが自分でもよくわかった。
『かわいい名前』
『リズちゃんじゃん!』
入部初日、先輩たちに名前をいじられたのがフラッシュバックする。無意識のうちに、すこし、呼吸が浅くなった。
「なんで、急に、名前?」
「俺だけ名前呼びしてもらうのは悪いかなって」
「いや、全然。むしろおれ、苗字のほうがいい」
「どうして?」
ぴた、と足がとまる。それに合わせてスバルの足も止まった。
「自分の名前……あんま、好きじゃないから」
傘に打ち付ける雨の音が強くなる。言ってしまってから、雨音で聞こえてなければいいと思った。けれど、スバルにはばっちりと届いてしまったらしい。
「好きじゃないの。どうして」
また、その目だ。不純物がいっさい混ざっていないような瞳。この目にとらわれると、おれはもう、どうしていいかわからなくなる。深層を突かれているような気持ちになるのだ。
「……リズ、って。女性みたいな響きだし、珍しいから」
昔から、女性と間違えられることが多かった。それに背も高くなければ屈強でもないから、名前に引き寄せられているみたいで嫌だったのだ。
おれも、もっと力強い名前が良かった。スバルみたいに。
スバルは何も言わない。雨音がふっとやわらかくなる瞬間があった。
スバルの傘が、おれに深く傾く。
水滴がきらめいて、落ちた。
「俺は好きだよ」
その雨音に紛れるようにして言葉が落とされる。え、と顔をあげると真剣なスバルの瞳とぶつかった。
「すごく似合っててきれいな名前だと思う。リズが嫌いでも、俺が好きでいるから」
そう言ったスバルから目が離せなかった。
「……な、に言って」
どくん、どくんと鼓動がうるさい。
瞳を揺らしたスバルが、少し上を向いて、ゆっくりと歩きだす。耳がほんのりと赤い。自分の耳を触ってみると、同じように熱を持っていた。
「──雷、鳴るかな」
ぽつりとつぶやいたスバルは空を見上げる。さっきまでの熱っぽい空気を誤魔化すような声だった。
「そうかも、な。雨、強いし」
雷は大の苦手だったけれど、それも昔の話だ。いまは嫌だなと思う程度で、怯えるほどではない。
「スバルは、苦手なの? 雷」
「いや、別に」
前を向いたままスバルが答える。やはり、気まずさを誤魔化すためのぼやきだったみたいだ。
家の前につく。スバルはおれが濡れないように、屋根のあるところまで傘を傾けてくれた。おかげでスバルの肩が濡れている。それ、と指をさすと「大丈夫だから。どうせ帰って着替えるし」と言われた。
もうあたりは真っ暗だ。スバルはここからひとりで大丈夫だろうか。
「大丈夫。もう高校生だし」
「え」
「顔に書いてあった。心配って」
お見通しだったようだ。ほんの少し笑みがこぼれる。スバルは黙っておれの顔を見ていた。
「送ってくれてありがと、スバル」
その瞬間、スバルは目を細めて、ふわりと微笑んだ。柔らかな表情が、おれの目に映る。
雷が落ちたような衝撃を受けた。
スバルはそれから身を翻して、闇の中に消えていく。
……あんな顔で、笑うんだ。
すさまじい破壊力だった。普段無表情のスバルは、笑うとあんなにも優しい顔になるのだ。わけのわからない感情にとらわれる。
スバルの姿が見えなくなっても、おれはしばらく、彼が消えていった方から目を離せないでいた。



