幼なじみ以上、18.44メートル未満

「それじゃあ今日はここまで」

 担任の先生の号令で、放課後の教室が一気に騒がしくなる。

 10月も半ば、エアコンもさすがに仕事を終えて窓から風が入っている。解放感は、週末に文化祭を無事に終えたばかりのオレにも広がっている。でも、胸にあるのはそれだけじゃなかったりする。リュックからジャージの上下を取り出して、ひとつ息を吐く。

「そっか、いよいよ今日からか」
長井(ながい)〜……どうしよ、めっちゃ緊張してきた」
「平気だろ。吉住(よしずみ)は野球の知識バッチリだし……最強の彼氏がいるし?」

 後半部分は小声で言いながら、長井がオレを小突いてくる。冷やかされているのに、オレはそれを無下にはできない。

 オレと和矢(かずや)の関係に長井がずいぶんと心を砕いてくれていたと知ったのは、あの準々決勝の後すぐの月曜だった。昼休みにこのクラスへやって来た和矢が言ったのだ、『長井には世話になったから、俺たちの関係を報告したい』と。振り返ってみれば、思い当たる瞬間がいくつもあった。ふたりがオレには分からない会話をしていたことだとか、試合の日にオレと川田(かわた)さんの間に座ったのだって。

 長井の言葉を借りれば、オレと和矢は“収まるところに収まった”というわけだ。

「それは、まあ……素直に嬉しい、けど」
「おっと。俺の前でそういう顔すんのやめれる? あらぬ誤解を招いても困るから」
「へ……どういう意味?」
「あっち。すげー顔させちゃってんじゃん」

 いつかみたいに両手を顔の横に掲げながら、長井が教室の入口を目線で示す。そこに立っていたのは和矢だ。クラス中の視線を一気に集めている。以前からそうだったけど、今は尚更だ。

 和矢たちは、この高校創立以来の偉業を成し遂げた。秋季大会で見事優勝したのだ。その部のキャプテンとなれば、注目を集めるに決まっている。でも和矢は意に介す様子もなく、こちらへと向かってくる。

「ちょ、高良(たから)くん誤解っすからね? 高良くんの話してただけなんで」
「別に長井のことは疑ってない。陽真(はるま)のそういう顔、他のヤツに見られんのは嫌だけど。陽真、行くぞ」
「うん。てか、迎えにこなくてもいいって言ったのに」
「そうだけど、俺が来たかったから」
「へへ、そっか」

 ほっとしたように息をついた長井が、じゃあ頑張れよと見送ってくれる。手を振ると、隣で和矢も手を振っていた。なんだかんだでふたりの仲が続いているのが嬉しい。長井の敬語は未だに抜けないみたいだけれど。


「2年の吉住陽真です。今日からマネージャーとして入部させてもらうことになりました。みんなをサポートできるように頑張ります、よろしくお願いします!」

 グラウンドの端っこ、大勢の野球部員たちの前で、勢いよく頭を下げる。長井や和矢のおかげで、いくらか緊張はほぐれた気でいたけれど。ちょっと声が裏返ってしまった。

 夕暮れ時、ふたりきりの球場で和矢と想いを打ち明けあって、オレはひとつの決意をした。この部のマネージャーになることだ。オレにはプレイヤーは向いていなかった。信じることしかできない、そのはずだったけれど。支えることならできるかもしれない。他でもない、和矢がそう思わせてくれたから。詰めこんだ知識と、それから、和矢に届けられる力が少しでもあるのなら――余すことなく使いたい。

 ただ、こんな大事な時期に入部しても受け入れてもらえるのか。それが気がかりだった。のだけれど——頭を上げた瞬間、オレはつい仰け反ってしまった。頭を下げる前より、みんなが迫ってきていたからだ。

「すげー! あの吉住くんじゃん!」
「えっ! 入部してくれんの!? マジ助かる……」
「地区大会、優勝する気しかしなくなってきた!」
「えーっと……どういうこと?」

 反応に困って、隣に立つ和矢を見上げる。でも気まずそうに目を逸らされてしまった。じゃあ代わりに、と言わんばかりに、岩下(いわした)くんが和矢とは反対側に並び立つ。

「吉住くんは、部内ですでに有名人だったからね」
「えっ、なんで!?」
「吉住くんは高良の精神安定剤だって、みんなの共通認識。高良はたしかに頼れるキャプテンだけど、まあそうなると高良より吉住くんのほうが位は上になるよね。神様みたいなもんでしょ、俺ら野球部の」
「ええ、なにそれ……」

 困惑していると、和矢がオレの隣で頭を抱えだした。それを見て励ますどころか岩下くんはゲラゲラと笑って、準備体操始めようぜと部員たちに声をかけた。グラウンドに広がるみんなを満足そうに見て、高良が使いものにならなそうだから俺が言ってみた、なんてピースサインをしてみせる。

「そうだ。なあ高良、もうさすがに吉住くんへの接触禁止令も解除でいいよな?」
「っ、岩下、お前それ……!」
「ああ、ごめんごめん。でも吉住くんにはもうこの話、しちゃってるから。今更気にすんなって」
「……もう俺、今日ろくに野球できないかも」
「あっは! ウケる! じゃあ俺も行くわ。あ、高良は吉住くんに部室案内してから来いよ」

 爽やかな笑顔を残して、岩下くんはグラウンドへ駆けていく。オレたちは、その背中を見送ることしかできなかった。


 気を取り直すように、和矢がひとつ咳払いをした。先生に断りを入れ、岩下くんに言われた通りに部室へと向かう。他の部の部室と連なった作りで、野球部は左から2番目だ。ロッカーがいくつも並んでいて、長机がひとつと折りたたみの椅子が数脚。ホワイトボードには、大きく“目指せ、明治神宮野球大会!”と書いてある。来週から始まる、秋季大会で決まった各県の代表と戦う地区大会で優勝できたら、出場できる大会だ。

「陽真のロッカーはここな」
「わ、もう名前貼ってもらってる。しかもこれ、和矢の字だ」
「よく分かったな」
「当たり前」
「ふ、そっか。仕事内容だけど、1年にひとりマネージャーがいるからそいつに聞いてくれ」
「分かった。オレ、頑張るよ」

 ロッカーに貼ってある、上手とはちょっと言いづらい“吉住”の字を指でなぞる。これから毎日ここへ通う、それがオレの生活の一部になるのだと改めて噛みしめる。

「俺としては、陽真はいるだけでいいんだけどな」
「そういうわけにはいかないだろ」
「まあな。でも……あいつらが言ってたことは本当だから」
 振り返ると、和矢は長机に腰かけてこちらを見ていた。
「精神安定剤、ってやつ?」

 とおどけて言えば、和矢が苦笑しながらオレの指先を握る。

「そうだな」
「部員共通認識ってのにはびっくりしたけど……和矢のそういう存在でいられるのなら、オレは嬉しいよ」
「そう言ってもらえると助かる」
「……あ、そう言えばあれはどういう意味だ? 岩下くんの、オレへの接触禁止令」
「あー、あれは……」

 気まずそうに目を逸らし、和矢は自分の首に手を当てる。指先から体温が離れたのはさみしいけれど、ずっと気になっていたことだ。

「岩下に言ったことがあんだよ。陽真のことが好きだ、って」
「えっ、マジで?」
「うっかりしてた。アイツの性格的に、絶対に陽真にバラされることは目に見えてたから……だから言ったんだ、接触禁止だって」
「そうだったんだ……」
「まあ、いつの間にか破られてたみたいだけどな」
「はは、そうだな。でも、岩下くんはバラしたりしてないよ。いや、今思えばなんか言いかけてた気もしないでもないけど……和矢のこと心配して、オレのとこに来ただけだったから」
「そうか。陽真がそう言うなら信じる」

 岩下くんと話すようになってからこっち、和矢と岩下くんの関係性がよく見えるようになった。和矢はどこか邪険に扱うような素振りを見せるし、岩下くんは岩下くんで和矢をおちょくるようなところもある。信頼関係がなせるもの、という印象だ。信じているから保てる、ふたりだけの距離感なのだろう。

「なんかさ、オレ反省した」
「反省? なにが?」
「うーん、なんていうか……」

 つい反省なんて言葉を零してしまったけれど。和矢と岩下くんの関係に嫉妬していました、なんて恥ずかしくて言えるわけがない。だってバッテリーは、そういうんじゃない。オレの邪な気持ちを物差しにしたこと自体、本当は間違っている。あの頃のオレにとっては重要で、和矢を想う故だったとしてもだ。

「やっぱりバッテリーって尊いなって思っただけ」
「尊い?」
「そう。ほらオレ、野球すげー好きだから。バッテリーの唯一無二な関係性って、堪らないんだよ」
「へえ。それでなんで反省するんだ?」
「それは……オレにはどうしたって、和矢にとってのそういう存在にはなれないから? はは、やっぱり変なこと言ってるよな」

 どうやらオレは、ごまかすのが下手なようだ。ここは逃げるが勝ちだろう。後ずさりながら入口へ向かい、ドアノブに手をかける。でも捻るより先に、そこに和矢の手が背後から重なった。そしてもう片手は、オレの腹に回されていて。

「っ、和矢?」
「俺が今日をどんだけ楽しみにしてたか、分かってる?」
「え?」
「陽真が野球をやめた日……すげー悲しかったくせに、俺は同じ選択を取れなかった。もう野球は俺の一部になってたから。でも、また陽真とチームメイトになれた。それって俺の野球人生で、いちばんの出来事かもしれねぇ」
「っ、こないだの優勝じゃなくて?」
「それは更新してくつもりだから。陽真、こっち」

 顎に手を添えられて、誘われるがままにゆっくりと振り返る。

「和矢……オレも嬉しいよ。かたちは変わったけど、またチームの一員になれて」
「うん。陽真」
「あ……」

 ゆっくりと和矢の顔が近づいてきて、くちびるが重なった。和矢の両手はドアにつかれていて、逃げられない。

「和矢、ダメだって」
「なんで?」
「だって、こんなところで……みんなの大事なキャプテンを、たぶらかしてる気分」
「は……? ふ、なんだそれ」
「だって、背徳感、やばい……」

 言葉の合間合間で、和矢のキスが降ってくる。くすくすと笑っているから、吐息がちょっとくすぐったい。

「たぶらかしてるってのは、俺のセリフだろうな」
「…………? なんで?」
「みんなの大事なマネージャーだから」
「なったばっかで、それはない、だろ」
「いや、あるだろ。……言ってて腹立ってきたな。陽真は俺の彼氏なんだけど」
「え? はは、想像で妬いてる?」
「そう。俺の片想いは年季が入ってるから」
「それなら、オレだって」

 幼なじみ兼恋人になったばかりのオレたちに、新たにチームメイトという関係が加わった。18.44メートルには敵わないことに焦燥感があったけど——新しいかたちで、和矢とグラウンドに立てる。オレだからできる支え方が、必ずある。

「和矢」

 そろそろ行こうと、和矢の胸をトンとたたく。くちびるが離れて、だけど眉間をくしゅっと寄せて和矢が言う。

「わかった。でも、あと3秒」
「ふ、3秒な」

 走り出した先にはきっと、オレたちだけの景色が待っている。