日曜日。とうとうこの日がやってきた。秋季大会の準々決勝だ。直近の夏の甲子園をかけた県予選では、準々決勝で惜しくも敗けてしまった。だからか今日は、オレまで体に力が入ってしまっている。どうにかここを突破して、和矢が率いる新チームの明るい幕開けとなってほしい。そう強く願わずにはいられない。
「初めて来たけど、結構緊張感あんのな。大事な大会なんだっけ」
「うん。秋季大会の成績で、センバツに出られるかかかってるようなもんだから」
なんの気まぐれか、今日は長井も一緒に来ている。俺も行ってみようかな、と言われた時は頭でも打ったのかと思った。最近よく和矢と話していたから、応援したくなったのだろうか。
「センバツって?」
「甲子園球場で春にやる、全国大会。秋の大会成績と他にも色々見て、選考委員会が出る高校を決める。だからセンバツって言われてる。でも、各県必ず1校は選ばれるってわけじゃない」
「へえ。成績だけじゃないって、なんか俺だったら複雑」
「まあ、そうなんだよな。秋季大会で優勝した学校が選考漏れになると、ネットがざわついたりするし」
「吉住くん、野球に詳しいんだね」
「うん、それなりに。好きだからね」
長井の向こうから、こちらを覗くようにして女子がひとり顔を出した。川田さんだ。今日の予定を聞かれて野球部の応援だと答え、じゃあ私もと言われた時は驚いた。
「ねえ長井くん。吉住くんが真ん中だと、色々教えてもらえて私助かるんだけどなあ」
「分かるよ、分かるんだけどごめん! 人を助けると思って、ここは譲ってもらえると助かる」
「はあ、意味分かんない」
川田さんがここにいるのは、川田さんの言葉を借りればオレへのアピールの一環なのだろう。でも「俺ここ!」とオレと川田さんの間を割るようにして、長井が真ん中の座席へ腰を下ろした。長井の真意は分からないけど、正直助かる。オレは和矢の応援に集中したいから。長井の気まぐれが今日発動されて本当によかった。
「あ、そろそろ始まる」
「おお。高良くんの声量すげーな」
「うん。ちいさい頃からあの感じ。ずっと本気なんだよな」
円陣から、オレたちのところまで大きな声が届いてくる。部員全員が腹から声を出しているのに、和矢のそれは聞き取れてしまうほどだ。岩下くんが『高良が地獄みたいに暗い』と言っていたけれど。ひとまず安堵してもいいのかもしれない。体がビリビリするほどの気迫が伝わってきた。
一塁側の観客席に陣取る、ベンチ入りできなかった部員や保護者たちが応援をはじめる。オレたちはホームベースの後方、バックネット裏の前から5列目に座っている。いつもは部員たちの近くで一緒になって声を出すが、今日はできるだけ和矢の近くにいたかった。
和矢たちのチームは後攻に決まったようだ。全員が守備位置につく様子を、扇の要である和矢がホームから見守っている。部員たちにとって、頼れるキャプテンなのだと思う。鼓舞するように和矢が手を上げる姿に、外野、内野、それから投手である岩下くんが、改めて気合を入れたのが見て取れた。
「プレイ!」
主審のコールが球場に響き渡る。マスクをかぶった和矢がミットを構え、岩下くんが球を放つ。ド直球のストレートで1ストライク。最高のスタートに、オレはふうと息をつく。いつの間にか、肩に力が入っていたみたいだ。
「なあ吉住、ストライクがいくつ貯まったらバッター交代なんだっけ」
「3つだな。ストライク3つでワンアウト。スリーアウトで攻守交代」
隣の長井が肘でオレをついて、尋ねてくる。野球に興味を持ってくれるのは単純に嬉しい。答えると、川田さんも身を乗り出してきた。
「へえ。あ、またストライク? じゃあ2個だ。結構楽勝って感じ?」
「さすがにそんなことはないよ。3つ取ればいいと言っても簡単じゃないし、逆にファールが4つで一塁に進まれちゃうし。頭もすごく使うスポーツなんだ」
「ふうん。岩下くんってやっぱりすごいんだね」
「うん。あと、キャッチャーもだね。キャッチャーの配球がすごく重要。ピッチャーにサインを送って、それに合わせて投げてるから。あ、配球って言うのは試合とかバッターの状況を見て——」
オレって野球、特にキャッチャーのこととなるとずいぶんと饒舌になるらしい。ひとりで観にくることが多かったから、自分でも知らなかった。これじゃあ野球の知識をひけらかすおじさんみたいだな、なんて内心苦笑しつつ、試合の経過を見守る。一回の表はひとりも塁に出すことなく抑えることができた。次は和矢たちの攻撃だ。
先頭打者であるショートを守る部員が、まずは塁に出た。2番はレフトを守る1年生で、送りバントが成功しショートの彼が2塁へと進んだ。続く3番は岩下くんだ。初球から上手く捉えた。右中間への二塁打でその間に先頭打者が帰還し、1点を先制することができた。
「よし! まずは1点」
「すげー。うちの高校、強いんだな」
「うん、すごくいい野球してると思うよ」
「吉住くん、めっちゃ嬉しそうだね」
「うん、ずっと応援してるから。……和矢、頑張れ」
ネクストバッターズサークルにいた和矢が、バッターボックスへと入った。
ワンアウト、走者は二塁にひとり。いい状況で4番の和矢に回ってきたと思う。もう1点獲得できるチャンスは大いにある。
1球目、バットを振ったが空振りでストライク。続く2球目3球目はボール。固唾を飲んで見守るオレは、いつの間にか両手をぎゅっと組んでいた。
「和矢……大丈夫。ボール球も見極められてる」
数メートル先に見える背中に、念じることはひとつだ。和矢の今まで積み重ねてきたものが、しっかりと発揮されること。日々の並々ならぬ努力をずっと見てきたから、どうか報われてほしい。
でも、そこからは調子が上がらなかった。スリーボールツーストライク、フルカウントののちファウルゾーンに打ち上げてしまった。
「あれ、ファウルゾーンでもノーバウンドでキャッチしたらアウトになるんだっけ」
「うん、ゾーンは関係ない。これでうちはツーアウトだな」
「マジか。まあ最初だしな」
「うん……」
和矢に続く5番もフライをキャッチされスリーアウト。岩下くんはホームに還ることなく攻守交代となった。二塁からベンチへと戻ってくる岩下くんが、和矢の背中を叩くのが見える。きっと、切り替えようぜと前向きな声かけをしているのだろう。そうだ、まだ試合は始まったばかりだ。先制点は獲得できたし、岩下くんの球は最初からキレッキレだった。きっと大丈夫だ。
「ねえねえ吉住くん、今ので1回が終わりってことで合ってる? あそこのボード見る感じだと」
「ああ、うん。そうだよ。それぞれのチームが攻撃を表裏でやって、1回。それを9回まで。同点だったら延長もあるけど、それが基本だね」
「へえ。野球って忍耐力もいるんだねえ。私は絶対できないな」
「うん。すごいことをやってるよね。集中力切らすわけにはいかないし。でもきっと勝てるよ。オレは信じてる」
その後、0−1のまま試合は進んでいった。岩下くんはもちろんのこと、相手チームのピッチャーもすごく上手い。進塁できても点には繋がらない。拮抗したまま回を重ね、ついに9回の表。抑えられれば裏に行くことなく和矢たちの勝利となるが、ここで試合が動いた。打者がふたり続けて進塁し、次の打者の長打でふたりともホームインしてしまった。
「え、今ので向こうに2点入ったってことだよね?」
「だなあ。これで2−1」
「負けてるじゃん……ええ、やだあ」
「どうにか2点のまま抑えて、裏で挽回すればいい。まだ悲観することないんじゃないかな。な、吉住。おーい、吉住ー?」
長井と川田さんの会話はきちんと聞こえているのに、オレは返事をできないでいる。確かに悲観することはない。アウトはふたつ貯まっているし、1点差なら全然巻き返せる。でも、油断できないのも事実だ。
今、マウンド上に和矢と岩下くん、内野の部員とベンチからひとりの伝令が集合してタイムを取っている。伝令は2年生で、和矢と岩下くんの肩を抱いてなにかを話している。きっと、リラックスできるような言葉を伝えているのだと思う。最後にひとつかけ声をかけて、全員がそれぞれの位置に戻った。
いい気分転換になったのだろう。軽快にストライクを重ね、チェンジに持ちこむことができた。運命のかかった9回裏のスタートだ。
「はあ、私まで緊張したあ……えっと、2点入れれば勝ちで合ってる?」
「そうだね。でもとりあえず1点だけでも延長に持ちこめるよね。だよな吉住。……うん、やっぱり答えてくれなそう」
打順はちょうど1番からだ。一塁側の観客席から、今日いちばんの応援が響き渡っている。オレもチームみんなの奮闘を心から願った。けれど——
1番、2番が続けて三振となり、一気にアウトがふたつになってしまった。9回裏、ツーアウト。ここで踏ん張らないと、新チームのスタートはここで終わってしまう。
「ねえ長井くん、これやばい?」
「ヤバそうだね……」
もうオレは答えないと踏んだのか、川田さんは直接長井に質問している。そうだ、すごくヤバい。
「でも、野球って最後の最後まで分かんないんだ」
「お、吉住がしゃべった」
「そういうもんなの?」
「うん。9回裏ツーアウトで絶体絶命に思えるけど……ここからの挽回は充分あり得る。そういう試合、何度も見てきたから。オレたちにできるのは、信じることだけだよ」
「信じるだけ。なるほどな」
「なんか……いいね。吉住くんがいるから来ただけだけど、野球っておもしろいかも」
「ほんと? そう思ってもらえたなら、オレも嬉しい」
バッターボックスに3番の岩下くんが入る。相手チームは、抑えて絶対に勝ちを取りたい場面だ。固唾を飲んで見守る。ボールをふたつ挟んで、ツーストライク。流れが変わったのは、その後だった。岩下くんの打ったボールがショートの横を抜けそうになったが、飛びつかれてしまった。まずい。岩下くんは一塁ベースへヘッドスライディングで滑りこむ。ショートからの送球と、ほぼ同時に見えた。球場中の視線が、一塁の塁審へと注がれる。まるで頭の中に残る残像をしっかり確認するような1秒ののち、両手が横へと広げられた。
「っ、セーフだ!」
岩下くんが拳を天に突き上げ、観客席やベンチからも嬌声が上がる。
「は……っ、よかった。はは、岩下くんすげー。空気がガラッと変わった」
岩下くんが繋げたこの1本は、とても大きい。思わず声が震え、目をつむって深呼吸をする。次は、和矢の打席だ。
目を開けると、バッターボックスに立つ和矢の背中が見えた。ああ、今すぐ走り寄って背中をたたけたらいいのに。和矢ならやれるよって、信じてるって伝えたい。
「頑張れ、和矢……」
両手をぎゅっと組んで、眉間にすりつけて願う。ちょっとだけ息が苦しい。
相手チームのピッチャーが球を放つ。和矢が思いっきりバットを振る。ミットにボールが収まる音が響いた。ストライクだ。こういう時は、気持ちの切り替えが肝心だ。和矢もそう考えているらしく、いつもこんなシーンでは大きく肩を上下させ深呼吸するのだと以前教えてくれた——のだけれど。
「あれ?」
その動きが見えないな、なんて思った次の瞬間にはまた、パン! という乾いた音が球場を包んでいた。和矢はバットを振れず、見送ってのストライクふたつ目。だめだな、なんて落胆の声が、通路を挟んだ隣に座るおじさんから聞こえてきた。後ろに座るのは相手チームの関係者なのだろう、勝ちを確信したような言葉。次の瞬間、オレの体は勝手に動いていた。
「え? おい、吉住!?」
階段を駆け下り、手すりをぎゅっと掴んで身を乗り出す。
「和矢! 深呼吸!」
ベンチからも観客席からも、絶え間なく声援が飛んでいる。だからオレの声は届かないかもしれない。届いていたところで、意味があるのかどうかも。でも叫ばずにいられない。
「いつもの和矢で絶対大丈夫だから! オレ、信じてるから!」
信じることしかできない、見ているだけのオレなんて。でもその根拠がちゃんとある。一心に野球に打ちこむ和矢をずっとずっと見てきたから。
瞬間、和矢の肩がちいさく上下した。ふっと力が抜けたのがここから見ていても分かる。それでいて、バットを持つ手にはグッと力がこもって。
バットが思い切り振り抜かれる。硬い球が弾かれて、小気味いい音が響き渡る。ああ、飛んでいる。和矢の打った球が、遠く遠くへ。思いっきり走る和矢が、ぴょんぴょん跳ねながら塁を回る岩下くんに追いつきそうだ。
「っ、ホームラン? はは、マジ? ほら、和矢はすごいんだよ」
ホームインしたふたりに部員たちが駆け寄る。最高のシーンが、オレの視界にぼやける。
「あ……」
もみくちゃにされている和矢が、こちらを見ている気がする。慌てて目を拭ったら、こちらに突き出される拳が見えた。ああもう、そんなの余計に泣いてしまうのに。鼻を啜りながら、震える口元で笑って。オレも和矢に向かって拳を示した。
試合が終了し、互いのチームが向かい合う。ありがとうございました! と大きな声が響き渡る。改めて、安堵が体に広がっていく。前回から不調の見えていた和矢だけれど、サヨナラホームランでチームを勝利に導けて、本当によかった。
和矢たちはこの後改めてお互いを称え合って、明日へとすぐに歩きだすのだろう。誇らしく感じながら、長井たちのところに戻ろうと階段を上がっている時だった。
「陽真!」
「っ、え?」
オレの名前を呼ぶ和矢の声が、突然球場中に響き渡った。何事かと慌てて振り返れば、ベンチへ戻る部員たちの中、ひとり立ち止まってこちらを見る和矢の姿があった。
「まだ帰んな!」
「な、なに……」
戸惑いが大きくて、どうしたらいいか分からない。だって、こんなことは一度もなかった。
「陽真頼む! 帰んな! 待ってて!」
「和矢……」
すごく必死に、両手を口元に添えて叫んでいる。その様子に、わけが分からないままなのにまた涙がぶり返しそうになる。
「吉住ー、応えてやれ。高良くん、お前の返事待ってんぞー」
長井の言葉にそちらを振り返る。長井はどこか得意げに笑って、親指を立ててみせた。
「長井……」
そうだよな。他でもない和矢が、オレに言葉を届けている。応えない意外の選択肢は、そもそもなかった。長井に頷いてみせ、大きく息を吸いこむ。
「分かったー! ここで待ってるからー!」
和矢ほどの大声は出ないけど、届けと強く願いながら叫ぶ。すると、和矢がこちらに拳を突き出した。笑ってくれているのもよく見える。届いたしるしだ。
「はは、よかった」
オレも拳を返したら、和矢はようやくベンチへと入っていった。この後だって和矢たちはやることがたくさんある。クールダウンなどの体のケアや、道具も手入れするだろう。それからもちろんミーティング。和矢の心ゆくまで、みんなと過ごしてほしい。
ふうとひとつ息を吐いて、席へと戻る。それを待っていたかのように、長井が立ち上がった。
「俺はようやくお役御免な気がするから、帰るとするか」
「お役御免? どういう意味?」
「まあ、それは週明けにでも。てかよかったな、勝てて」
「……うん、本当に」
「吉住のおかげだな」
「そんなことはないだろ」
「俺はあると思うけどな。じゃあ、マジで帰るわ」
観客席を後にする長井に手を振る。すれ違う瞬間には、喜びを分かち合うハイタッチをした。今日、長井もここにいてくれて本当によかった。見えなくなるまで見送ってから、オレはそっと深呼吸をする。
苦しみながらもまっすぐに野球をする和矢を見ていたら、オレもまっすぐな人間でいたい、と背筋の伸びる思いがした。だから、今この瞬間にきちんとしておきたいことがひとつあった。また席のほうを振り返って、そこに座っている彼女に声をかける。
「川田さん。ちょっといいかな」
ひとりまたひとりと観客席から人がいなくなる。ぼんやりグラウンドを眺めているのもいいけど、なんだか落ち着かなくなってきた。ここで待つようにと和矢には言われたけれど、外で待つことにしようか。階段を駆け下り球場から出ると、ちょうど和矢たちと鉢合わせた。
「あ、和矢」
「陽真。今そっち行くところだった」
和矢が立ち止まると、岩下くんもそれに倣うように並び立った。他の部員たちは、そのまま駅のほうへと歩いていってしまう。
「吉住くん!」
「岩下くん、今日もすごくキレキレの球だったね。勝ててよかった、おめでとう!」
「はは、あんがと! まあ勝てたのは、吉住くんのおかげだけどな」
「…………? そんなことはないと思うけど」
「そんなことありまくりでしょ。なあ、高良」
わけの分からないことを言いながらニヤニヤして、岩下くんが和矢を肘で小突く。それを払い除けた和矢は、怪訝な顔でオレと岩下くんを交互に見やる。
「陽真と岩下、なんでそんな普通に話してんだ? 喋ったことなかったよな?」
「あ、やべっ」
「……岩下?」
「あっは、じゃあ俺は帰ろうっと! じゃあね吉住くん! マジで今日はあんがと!」
「う、うん。お疲れ様」
慌てたように手を振って、先を行く部員たちの元へ岩下くんは駆けてゆく。手を振り返していると、和矢が大きなため息をついて頭を抱えてしまった。
「和矢? 大丈夫か?」
「……まあアイツは今度しばく。それより、陽真」
「っ、へ?」
心配で顔を覗きこんだら、間近で目が合ってしまった。こんなに近くにいることさえちょっと久しぶりなのに、これはちょっと刺激が強い。そう思ったのに。それどころか、手をぎゅっと握られてしまった。
「え、なに!?」
「ちょっとあっち行こ」
「へ……っ、ちょ、和矢、手!」
手を引かれるまま、球場の建物沿いに歩いていく。今日の試合も全て終わり、車ももう停まっていない駐車場が見えた頃。和矢が立ち止まり、ぐっと顔を寄せてきた。何事かと思わず後ずさったオレの背中は、球場の壁についてしまう。
「か、和矢? ちょっと近いかも……てかあの、手」
「陽真」
「……うん」
和矢が近い。手も繋いだまま。和矢の熱でどうにかなりそうなのに、あまりに真剣な顔でオレの名前を呼ぶから。和矢の言葉にまっすぐ心を向けるしかなくなってしまう。
「聞きたいこととか言いたいこと、色々あるけど。ありがとな。さっきの、俺の最終打席の時」
「え?」
「陽真の声が聞こえて、落ち着くことができた。あのホームランは、陽真のおかげだ」
「ええ……いや、あれは和矢の努力の賜物だろ。マジですごかったよ」
「そう言ってくれてすげー嬉しいけど。今日のはマジで、陽真のおかげなんだ。陽真の声が聞こえた瞬間、他の音が全部なくなった。俺、ここ最近ずっとダサかったのに……信じてるって陽真が言ってくれて、やっと息ができた気がした」
「和矢……和矢がダサかったことなんて一回もなかったよ。ほんとに。和矢はオレにとって、昔からずっと……いちばんカッコいいヤツだから」
「っ、陽真……」
「わっ! へ、和矢? なあ、近いってば……」
和矢の体温より、届けてくれる言葉に意識を向けられていたはずなのに。オレの両肩をそっと掴んだかと思えば、和矢の額が左肩に乗せられてしまった。
「俺、今から本当にすげーダサいこと言うから。このまま聞いてほしい。ダメか?」
「……っ、和矢にお願いされたらオレ、断れないじゃん」
「ん、陽真のそういうとこ、分かってて言った。ずるくてごめんな」
「ううん、いいよ」
なんだろう、和矢の声が甘く聞こえる気がする。耳のすぐそばで話しているからかな。直接体に響くからうっかりしたら倒れてしまいそうで、和矢の腰の部分のユニフォームをそっと掴む。
「俺、陽真がずっと俺のこと見てくれんの、嬉しいってずっと思ってた」
「そ、うなんだ」
「うん。陽真が文化祭の準備で練習見に来なくなったの、思った以上にさみしかった」
「え、マジ?」
「すげーマジ。それで……マジで情けない話だけど、陽真が足りなくて調子がでなくなったんだと思う。俺、先週の試合全然打てなかっただろ?」
「……うん」
「それもやっぱり情けなくて、せっかく来てくれてんのに陽真のほう見れなくて。もうそこから、マジで負のループ」
「負のループ」
「ふ、そう」
そうか、あの日オレのほうを見なかったのは、そういう理由だったんだ。オレが足りなくて、という話も正直頭が追いつかない。驚きつつ和矢の言葉を復唱すると、和矢が息を抜くように笑った。それから、オレの肩に乗せたままの額を擦りつけるように揺らして先を続ける。
「バッティングが全然ダメだったから、昼休みも練習したい。だから陽真と昼飯も食えない。文化祭はまだだから、放課後つい探しても、どこにも陽真はいない。それがすげーきつかったけど、大会は待ってくれないから練習するしかない。そしたら、陽真が……」
「…………? オレが?」
「……女子に、告られてた」
「へ……」
和矢が顔を上げる。川田さんと話した後、渡り廊下で出くわした時と同じ顔だ。どうして、そんな辛そうにするんだろう。
「今日も一緒に来てるの見て、死ぬかと思った」
「和矢? なに言って……」
「陽真、俺じゃダメか? もう遅いのは分かってる。でも俺は……ずっと陽真が好きだった」
「っ、え?」
「男同士なのにとか、悩む暇もなかった。俺の世界はずっと、陽真でいっぱいだから。陽真以外、要らない」
「っ、和矢!」
「っ、陽真?」
想像もしなかったことが起きている。和矢がオレを好き? ずっと? 正直信じられない。聞き返して、本当かって確かめたい。でもそれ以上に、オレも気持ちを届けたくなる。和矢の大きな背中にしがみつく。
「オレもだよ、オレも和矢が好き! ずっと、ずっと好きだった。なんだよぉ、和矢もとか、オレ全然気づかなかった」
「っ、マジで? でも、あの女子と付き合ってるんだよな? 確か……付き合ってって言われて、分かった、って」
「…………? 言ってない。だって付き合ってねえもん。一週間返事は待ってって言われたけど、フライングでそれもさっき断った。どうせ待ったって、オレの気持ちは和矢以外に動かないし」
「はあー、マジか……俺は絶対もう付き合ってるって思って、すげー凹んで……マジ? 両想いで合ってる?」
「……ん、合ってる。よな?」
「ふ、ああ」
ほっとしたのか、和矢の体から力が抜けたのが伝わってくる。少し寄りかかってきたのが重たくて、でもそれすらも嬉しいのだから笑える。だってみんなの頼れるキャプテンが、オレの前でだけはこうなるのかな、なんて思ったから。腕にさらに力をこめて、目をつぶって浸ってしまう。
「陽真」
「んー?」
「あー、あのさ。嫌だったら絶対そう言ってほしいんだけど」
「…………? うん」
和矢のお願いは断れないんだってば。そう思いつつ、話の続きを促すために頷く。すると和矢は、オレの耳元にくちびるを寄せてきた。広い球場でも、今はオレたちしかいないのに。内緒話みたいにして、和矢は言う。
「その……今すごく、キス、してえんだけど」
「っ、え?」
「俺、こういうの初めてだから分かんねえけど、さすがに早すぎ? だよな?」
「和矢……どうなんだろうな。オレも初めてだから分かんない……から、いいんじゃない? その、オレと和矢だけのことだし」
「陽真……」
和矢の眉間がくしゅっと寄っている。今まではそれが辛そうだったのに。この瞬間、そこにあるのはオレへの想いなんだと分かる。だって、きっとオレも同じ顔をしているから。和矢が好きで、好きで好きで堪らなくて、一秒でも早く触れたくて苦しい。
「和矢、早く」
「っ、陽真……」
どこかおそるおそる、くちびる同士が触れ合った。一秒にも満たない、ほんの一瞬だ。そこからはもう、お互い夢中になってしまう。和矢がいる。確かめるみたいにくり返す。和矢もそんな風に感じながら、キスしてくれているのかな。そう思うと堪らなくて和矢の下くちびるを食んだら、首の後ろを支えられてしまった。あーあ、もう逃げられない。逃げる気なんてないけれど。
キスをしながらも頭の端っこでは、これから先のことを考える自分がいる。秋季大会は10月頭に終わって、それからすぐに文化祭。そしたらオレは——そこでまぶたを開けたら、和矢と目が合った。
「なに? なんか俺以外のこと考えてんの?」
なんて言って、くちびるを尖らせてみせる。
「……まさか。和矢以外のことなんか、考えてない」
本当に、和矢のことしか考えてない。でもたしかに、未来より今この瞬間を味わっていたいかも。
「じゃあ、もう一回」
少しずつ暮れる陽のオレンジ、ユニフォームの汗と土が混じった匂い、それから和矢の体温。オレたちはまたしばらくの間、キスをやめられなくなってしまった。
「初めて来たけど、結構緊張感あんのな。大事な大会なんだっけ」
「うん。秋季大会の成績で、センバツに出られるかかかってるようなもんだから」
なんの気まぐれか、今日は長井も一緒に来ている。俺も行ってみようかな、と言われた時は頭でも打ったのかと思った。最近よく和矢と話していたから、応援したくなったのだろうか。
「センバツって?」
「甲子園球場で春にやる、全国大会。秋の大会成績と他にも色々見て、選考委員会が出る高校を決める。だからセンバツって言われてる。でも、各県必ず1校は選ばれるってわけじゃない」
「へえ。成績だけじゃないって、なんか俺だったら複雑」
「まあ、そうなんだよな。秋季大会で優勝した学校が選考漏れになると、ネットがざわついたりするし」
「吉住くん、野球に詳しいんだね」
「うん、それなりに。好きだからね」
長井の向こうから、こちらを覗くようにして女子がひとり顔を出した。川田さんだ。今日の予定を聞かれて野球部の応援だと答え、じゃあ私もと言われた時は驚いた。
「ねえ長井くん。吉住くんが真ん中だと、色々教えてもらえて私助かるんだけどなあ」
「分かるよ、分かるんだけどごめん! 人を助けると思って、ここは譲ってもらえると助かる」
「はあ、意味分かんない」
川田さんがここにいるのは、川田さんの言葉を借りればオレへのアピールの一環なのだろう。でも「俺ここ!」とオレと川田さんの間を割るようにして、長井が真ん中の座席へ腰を下ろした。長井の真意は分からないけど、正直助かる。オレは和矢の応援に集中したいから。長井の気まぐれが今日発動されて本当によかった。
「あ、そろそろ始まる」
「おお。高良くんの声量すげーな」
「うん。ちいさい頃からあの感じ。ずっと本気なんだよな」
円陣から、オレたちのところまで大きな声が届いてくる。部員全員が腹から声を出しているのに、和矢のそれは聞き取れてしまうほどだ。岩下くんが『高良が地獄みたいに暗い』と言っていたけれど。ひとまず安堵してもいいのかもしれない。体がビリビリするほどの気迫が伝わってきた。
一塁側の観客席に陣取る、ベンチ入りできなかった部員や保護者たちが応援をはじめる。オレたちはホームベースの後方、バックネット裏の前から5列目に座っている。いつもは部員たちの近くで一緒になって声を出すが、今日はできるだけ和矢の近くにいたかった。
和矢たちのチームは後攻に決まったようだ。全員が守備位置につく様子を、扇の要である和矢がホームから見守っている。部員たちにとって、頼れるキャプテンなのだと思う。鼓舞するように和矢が手を上げる姿に、外野、内野、それから投手である岩下くんが、改めて気合を入れたのが見て取れた。
「プレイ!」
主審のコールが球場に響き渡る。マスクをかぶった和矢がミットを構え、岩下くんが球を放つ。ド直球のストレートで1ストライク。最高のスタートに、オレはふうと息をつく。いつの間にか、肩に力が入っていたみたいだ。
「なあ吉住、ストライクがいくつ貯まったらバッター交代なんだっけ」
「3つだな。ストライク3つでワンアウト。スリーアウトで攻守交代」
隣の長井が肘でオレをついて、尋ねてくる。野球に興味を持ってくれるのは単純に嬉しい。答えると、川田さんも身を乗り出してきた。
「へえ。あ、またストライク? じゃあ2個だ。結構楽勝って感じ?」
「さすがにそんなことはないよ。3つ取ればいいと言っても簡単じゃないし、逆にファールが4つで一塁に進まれちゃうし。頭もすごく使うスポーツなんだ」
「ふうん。岩下くんってやっぱりすごいんだね」
「うん。あと、キャッチャーもだね。キャッチャーの配球がすごく重要。ピッチャーにサインを送って、それに合わせて投げてるから。あ、配球って言うのは試合とかバッターの状況を見て——」
オレって野球、特にキャッチャーのこととなるとずいぶんと饒舌になるらしい。ひとりで観にくることが多かったから、自分でも知らなかった。これじゃあ野球の知識をひけらかすおじさんみたいだな、なんて内心苦笑しつつ、試合の経過を見守る。一回の表はひとりも塁に出すことなく抑えることができた。次は和矢たちの攻撃だ。
先頭打者であるショートを守る部員が、まずは塁に出た。2番はレフトを守る1年生で、送りバントが成功しショートの彼が2塁へと進んだ。続く3番は岩下くんだ。初球から上手く捉えた。右中間への二塁打でその間に先頭打者が帰還し、1点を先制することができた。
「よし! まずは1点」
「すげー。うちの高校、強いんだな」
「うん、すごくいい野球してると思うよ」
「吉住くん、めっちゃ嬉しそうだね」
「うん、ずっと応援してるから。……和矢、頑張れ」
ネクストバッターズサークルにいた和矢が、バッターボックスへと入った。
ワンアウト、走者は二塁にひとり。いい状況で4番の和矢に回ってきたと思う。もう1点獲得できるチャンスは大いにある。
1球目、バットを振ったが空振りでストライク。続く2球目3球目はボール。固唾を飲んで見守るオレは、いつの間にか両手をぎゅっと組んでいた。
「和矢……大丈夫。ボール球も見極められてる」
数メートル先に見える背中に、念じることはひとつだ。和矢の今まで積み重ねてきたものが、しっかりと発揮されること。日々の並々ならぬ努力をずっと見てきたから、どうか報われてほしい。
でも、そこからは調子が上がらなかった。スリーボールツーストライク、フルカウントののちファウルゾーンに打ち上げてしまった。
「あれ、ファウルゾーンでもノーバウンドでキャッチしたらアウトになるんだっけ」
「うん、ゾーンは関係ない。これでうちはツーアウトだな」
「マジか。まあ最初だしな」
「うん……」
和矢に続く5番もフライをキャッチされスリーアウト。岩下くんはホームに還ることなく攻守交代となった。二塁からベンチへと戻ってくる岩下くんが、和矢の背中を叩くのが見える。きっと、切り替えようぜと前向きな声かけをしているのだろう。そうだ、まだ試合は始まったばかりだ。先制点は獲得できたし、岩下くんの球は最初からキレッキレだった。きっと大丈夫だ。
「ねえねえ吉住くん、今ので1回が終わりってことで合ってる? あそこのボード見る感じだと」
「ああ、うん。そうだよ。それぞれのチームが攻撃を表裏でやって、1回。それを9回まで。同点だったら延長もあるけど、それが基本だね」
「へえ。野球って忍耐力もいるんだねえ。私は絶対できないな」
「うん。すごいことをやってるよね。集中力切らすわけにはいかないし。でもきっと勝てるよ。オレは信じてる」
その後、0−1のまま試合は進んでいった。岩下くんはもちろんのこと、相手チームのピッチャーもすごく上手い。進塁できても点には繋がらない。拮抗したまま回を重ね、ついに9回の表。抑えられれば裏に行くことなく和矢たちの勝利となるが、ここで試合が動いた。打者がふたり続けて進塁し、次の打者の長打でふたりともホームインしてしまった。
「え、今ので向こうに2点入ったってことだよね?」
「だなあ。これで2−1」
「負けてるじゃん……ええ、やだあ」
「どうにか2点のまま抑えて、裏で挽回すればいい。まだ悲観することないんじゃないかな。な、吉住。おーい、吉住ー?」
長井と川田さんの会話はきちんと聞こえているのに、オレは返事をできないでいる。確かに悲観することはない。アウトはふたつ貯まっているし、1点差なら全然巻き返せる。でも、油断できないのも事実だ。
今、マウンド上に和矢と岩下くん、内野の部員とベンチからひとりの伝令が集合してタイムを取っている。伝令は2年生で、和矢と岩下くんの肩を抱いてなにかを話している。きっと、リラックスできるような言葉を伝えているのだと思う。最後にひとつかけ声をかけて、全員がそれぞれの位置に戻った。
いい気分転換になったのだろう。軽快にストライクを重ね、チェンジに持ちこむことができた。運命のかかった9回裏のスタートだ。
「はあ、私まで緊張したあ……えっと、2点入れれば勝ちで合ってる?」
「そうだね。でもとりあえず1点だけでも延長に持ちこめるよね。だよな吉住。……うん、やっぱり答えてくれなそう」
打順はちょうど1番からだ。一塁側の観客席から、今日いちばんの応援が響き渡っている。オレもチームみんなの奮闘を心から願った。けれど——
1番、2番が続けて三振となり、一気にアウトがふたつになってしまった。9回裏、ツーアウト。ここで踏ん張らないと、新チームのスタートはここで終わってしまう。
「ねえ長井くん、これやばい?」
「ヤバそうだね……」
もうオレは答えないと踏んだのか、川田さんは直接長井に質問している。そうだ、すごくヤバい。
「でも、野球って最後の最後まで分かんないんだ」
「お、吉住がしゃべった」
「そういうもんなの?」
「うん。9回裏ツーアウトで絶体絶命に思えるけど……ここからの挽回は充分あり得る。そういう試合、何度も見てきたから。オレたちにできるのは、信じることだけだよ」
「信じるだけ。なるほどな」
「なんか……いいね。吉住くんがいるから来ただけだけど、野球っておもしろいかも」
「ほんと? そう思ってもらえたなら、オレも嬉しい」
バッターボックスに3番の岩下くんが入る。相手チームは、抑えて絶対に勝ちを取りたい場面だ。固唾を飲んで見守る。ボールをふたつ挟んで、ツーストライク。流れが変わったのは、その後だった。岩下くんの打ったボールがショートの横を抜けそうになったが、飛びつかれてしまった。まずい。岩下くんは一塁ベースへヘッドスライディングで滑りこむ。ショートからの送球と、ほぼ同時に見えた。球場中の視線が、一塁の塁審へと注がれる。まるで頭の中に残る残像をしっかり確認するような1秒ののち、両手が横へと広げられた。
「っ、セーフだ!」
岩下くんが拳を天に突き上げ、観客席やベンチからも嬌声が上がる。
「は……っ、よかった。はは、岩下くんすげー。空気がガラッと変わった」
岩下くんが繋げたこの1本は、とても大きい。思わず声が震え、目をつむって深呼吸をする。次は、和矢の打席だ。
目を開けると、バッターボックスに立つ和矢の背中が見えた。ああ、今すぐ走り寄って背中をたたけたらいいのに。和矢ならやれるよって、信じてるって伝えたい。
「頑張れ、和矢……」
両手をぎゅっと組んで、眉間にすりつけて願う。ちょっとだけ息が苦しい。
相手チームのピッチャーが球を放つ。和矢が思いっきりバットを振る。ミットにボールが収まる音が響いた。ストライクだ。こういう時は、気持ちの切り替えが肝心だ。和矢もそう考えているらしく、いつもこんなシーンでは大きく肩を上下させ深呼吸するのだと以前教えてくれた——のだけれど。
「あれ?」
その動きが見えないな、なんて思った次の瞬間にはまた、パン! という乾いた音が球場を包んでいた。和矢はバットを振れず、見送ってのストライクふたつ目。だめだな、なんて落胆の声が、通路を挟んだ隣に座るおじさんから聞こえてきた。後ろに座るのは相手チームの関係者なのだろう、勝ちを確信したような言葉。次の瞬間、オレの体は勝手に動いていた。
「え? おい、吉住!?」
階段を駆け下り、手すりをぎゅっと掴んで身を乗り出す。
「和矢! 深呼吸!」
ベンチからも観客席からも、絶え間なく声援が飛んでいる。だからオレの声は届かないかもしれない。届いていたところで、意味があるのかどうかも。でも叫ばずにいられない。
「いつもの和矢で絶対大丈夫だから! オレ、信じてるから!」
信じることしかできない、見ているだけのオレなんて。でもその根拠がちゃんとある。一心に野球に打ちこむ和矢をずっとずっと見てきたから。
瞬間、和矢の肩がちいさく上下した。ふっと力が抜けたのがここから見ていても分かる。それでいて、バットを持つ手にはグッと力がこもって。
バットが思い切り振り抜かれる。硬い球が弾かれて、小気味いい音が響き渡る。ああ、飛んでいる。和矢の打った球が、遠く遠くへ。思いっきり走る和矢が、ぴょんぴょん跳ねながら塁を回る岩下くんに追いつきそうだ。
「っ、ホームラン? はは、マジ? ほら、和矢はすごいんだよ」
ホームインしたふたりに部員たちが駆け寄る。最高のシーンが、オレの視界にぼやける。
「あ……」
もみくちゃにされている和矢が、こちらを見ている気がする。慌てて目を拭ったら、こちらに突き出される拳が見えた。ああもう、そんなの余計に泣いてしまうのに。鼻を啜りながら、震える口元で笑って。オレも和矢に向かって拳を示した。
試合が終了し、互いのチームが向かい合う。ありがとうございました! と大きな声が響き渡る。改めて、安堵が体に広がっていく。前回から不調の見えていた和矢だけれど、サヨナラホームランでチームを勝利に導けて、本当によかった。
和矢たちはこの後改めてお互いを称え合って、明日へとすぐに歩きだすのだろう。誇らしく感じながら、長井たちのところに戻ろうと階段を上がっている時だった。
「陽真!」
「っ、え?」
オレの名前を呼ぶ和矢の声が、突然球場中に響き渡った。何事かと慌てて振り返れば、ベンチへ戻る部員たちの中、ひとり立ち止まってこちらを見る和矢の姿があった。
「まだ帰んな!」
「な、なに……」
戸惑いが大きくて、どうしたらいいか分からない。だって、こんなことは一度もなかった。
「陽真頼む! 帰んな! 待ってて!」
「和矢……」
すごく必死に、両手を口元に添えて叫んでいる。その様子に、わけが分からないままなのにまた涙がぶり返しそうになる。
「吉住ー、応えてやれ。高良くん、お前の返事待ってんぞー」
長井の言葉にそちらを振り返る。長井はどこか得意げに笑って、親指を立ててみせた。
「長井……」
そうだよな。他でもない和矢が、オレに言葉を届けている。応えない意外の選択肢は、そもそもなかった。長井に頷いてみせ、大きく息を吸いこむ。
「分かったー! ここで待ってるからー!」
和矢ほどの大声は出ないけど、届けと強く願いながら叫ぶ。すると、和矢がこちらに拳を突き出した。笑ってくれているのもよく見える。届いたしるしだ。
「はは、よかった」
オレも拳を返したら、和矢はようやくベンチへと入っていった。この後だって和矢たちはやることがたくさんある。クールダウンなどの体のケアや、道具も手入れするだろう。それからもちろんミーティング。和矢の心ゆくまで、みんなと過ごしてほしい。
ふうとひとつ息を吐いて、席へと戻る。それを待っていたかのように、長井が立ち上がった。
「俺はようやくお役御免な気がするから、帰るとするか」
「お役御免? どういう意味?」
「まあ、それは週明けにでも。てかよかったな、勝てて」
「……うん、本当に」
「吉住のおかげだな」
「そんなことはないだろ」
「俺はあると思うけどな。じゃあ、マジで帰るわ」
観客席を後にする長井に手を振る。すれ違う瞬間には、喜びを分かち合うハイタッチをした。今日、長井もここにいてくれて本当によかった。見えなくなるまで見送ってから、オレはそっと深呼吸をする。
苦しみながらもまっすぐに野球をする和矢を見ていたら、オレもまっすぐな人間でいたい、と背筋の伸びる思いがした。だから、今この瞬間にきちんとしておきたいことがひとつあった。また席のほうを振り返って、そこに座っている彼女に声をかける。
「川田さん。ちょっといいかな」
ひとりまたひとりと観客席から人がいなくなる。ぼんやりグラウンドを眺めているのもいいけど、なんだか落ち着かなくなってきた。ここで待つようにと和矢には言われたけれど、外で待つことにしようか。階段を駆け下り球場から出ると、ちょうど和矢たちと鉢合わせた。
「あ、和矢」
「陽真。今そっち行くところだった」
和矢が立ち止まると、岩下くんもそれに倣うように並び立った。他の部員たちは、そのまま駅のほうへと歩いていってしまう。
「吉住くん!」
「岩下くん、今日もすごくキレキレの球だったね。勝ててよかった、おめでとう!」
「はは、あんがと! まあ勝てたのは、吉住くんのおかげだけどな」
「…………? そんなことはないと思うけど」
「そんなことありまくりでしょ。なあ、高良」
わけの分からないことを言いながらニヤニヤして、岩下くんが和矢を肘で小突く。それを払い除けた和矢は、怪訝な顔でオレと岩下くんを交互に見やる。
「陽真と岩下、なんでそんな普通に話してんだ? 喋ったことなかったよな?」
「あ、やべっ」
「……岩下?」
「あっは、じゃあ俺は帰ろうっと! じゃあね吉住くん! マジで今日はあんがと!」
「う、うん。お疲れ様」
慌てたように手を振って、先を行く部員たちの元へ岩下くんは駆けてゆく。手を振り返していると、和矢が大きなため息をついて頭を抱えてしまった。
「和矢? 大丈夫か?」
「……まあアイツは今度しばく。それより、陽真」
「っ、へ?」
心配で顔を覗きこんだら、間近で目が合ってしまった。こんなに近くにいることさえちょっと久しぶりなのに、これはちょっと刺激が強い。そう思ったのに。それどころか、手をぎゅっと握られてしまった。
「え、なに!?」
「ちょっとあっち行こ」
「へ……っ、ちょ、和矢、手!」
手を引かれるまま、球場の建物沿いに歩いていく。今日の試合も全て終わり、車ももう停まっていない駐車場が見えた頃。和矢が立ち止まり、ぐっと顔を寄せてきた。何事かと思わず後ずさったオレの背中は、球場の壁についてしまう。
「か、和矢? ちょっと近いかも……てかあの、手」
「陽真」
「……うん」
和矢が近い。手も繋いだまま。和矢の熱でどうにかなりそうなのに、あまりに真剣な顔でオレの名前を呼ぶから。和矢の言葉にまっすぐ心を向けるしかなくなってしまう。
「聞きたいこととか言いたいこと、色々あるけど。ありがとな。さっきの、俺の最終打席の時」
「え?」
「陽真の声が聞こえて、落ち着くことができた。あのホームランは、陽真のおかげだ」
「ええ……いや、あれは和矢の努力の賜物だろ。マジですごかったよ」
「そう言ってくれてすげー嬉しいけど。今日のはマジで、陽真のおかげなんだ。陽真の声が聞こえた瞬間、他の音が全部なくなった。俺、ここ最近ずっとダサかったのに……信じてるって陽真が言ってくれて、やっと息ができた気がした」
「和矢……和矢がダサかったことなんて一回もなかったよ。ほんとに。和矢はオレにとって、昔からずっと……いちばんカッコいいヤツだから」
「っ、陽真……」
「わっ! へ、和矢? なあ、近いってば……」
和矢の体温より、届けてくれる言葉に意識を向けられていたはずなのに。オレの両肩をそっと掴んだかと思えば、和矢の額が左肩に乗せられてしまった。
「俺、今から本当にすげーダサいこと言うから。このまま聞いてほしい。ダメか?」
「……っ、和矢にお願いされたらオレ、断れないじゃん」
「ん、陽真のそういうとこ、分かってて言った。ずるくてごめんな」
「ううん、いいよ」
なんだろう、和矢の声が甘く聞こえる気がする。耳のすぐそばで話しているからかな。直接体に響くからうっかりしたら倒れてしまいそうで、和矢の腰の部分のユニフォームをそっと掴む。
「俺、陽真がずっと俺のこと見てくれんの、嬉しいってずっと思ってた」
「そ、うなんだ」
「うん。陽真が文化祭の準備で練習見に来なくなったの、思った以上にさみしかった」
「え、マジ?」
「すげーマジ。それで……マジで情けない話だけど、陽真が足りなくて調子がでなくなったんだと思う。俺、先週の試合全然打てなかっただろ?」
「……うん」
「それもやっぱり情けなくて、せっかく来てくれてんのに陽真のほう見れなくて。もうそこから、マジで負のループ」
「負のループ」
「ふ、そう」
そうか、あの日オレのほうを見なかったのは、そういう理由だったんだ。オレが足りなくて、という話も正直頭が追いつかない。驚きつつ和矢の言葉を復唱すると、和矢が息を抜くように笑った。それから、オレの肩に乗せたままの額を擦りつけるように揺らして先を続ける。
「バッティングが全然ダメだったから、昼休みも練習したい。だから陽真と昼飯も食えない。文化祭はまだだから、放課後つい探しても、どこにも陽真はいない。それがすげーきつかったけど、大会は待ってくれないから練習するしかない。そしたら、陽真が……」
「…………? オレが?」
「……女子に、告られてた」
「へ……」
和矢が顔を上げる。川田さんと話した後、渡り廊下で出くわした時と同じ顔だ。どうして、そんな辛そうにするんだろう。
「今日も一緒に来てるの見て、死ぬかと思った」
「和矢? なに言って……」
「陽真、俺じゃダメか? もう遅いのは分かってる。でも俺は……ずっと陽真が好きだった」
「っ、え?」
「男同士なのにとか、悩む暇もなかった。俺の世界はずっと、陽真でいっぱいだから。陽真以外、要らない」
「っ、和矢!」
「っ、陽真?」
想像もしなかったことが起きている。和矢がオレを好き? ずっと? 正直信じられない。聞き返して、本当かって確かめたい。でもそれ以上に、オレも気持ちを届けたくなる。和矢の大きな背中にしがみつく。
「オレもだよ、オレも和矢が好き! ずっと、ずっと好きだった。なんだよぉ、和矢もとか、オレ全然気づかなかった」
「っ、マジで? でも、あの女子と付き合ってるんだよな? 確か……付き合ってって言われて、分かった、って」
「…………? 言ってない。だって付き合ってねえもん。一週間返事は待ってって言われたけど、フライングでそれもさっき断った。どうせ待ったって、オレの気持ちは和矢以外に動かないし」
「はあー、マジか……俺は絶対もう付き合ってるって思って、すげー凹んで……マジ? 両想いで合ってる?」
「……ん、合ってる。よな?」
「ふ、ああ」
ほっとしたのか、和矢の体から力が抜けたのが伝わってくる。少し寄りかかってきたのが重たくて、でもそれすらも嬉しいのだから笑える。だってみんなの頼れるキャプテンが、オレの前でだけはこうなるのかな、なんて思ったから。腕にさらに力をこめて、目をつぶって浸ってしまう。
「陽真」
「んー?」
「あー、あのさ。嫌だったら絶対そう言ってほしいんだけど」
「…………? うん」
和矢のお願いは断れないんだってば。そう思いつつ、話の続きを促すために頷く。すると和矢は、オレの耳元にくちびるを寄せてきた。広い球場でも、今はオレたちしかいないのに。内緒話みたいにして、和矢は言う。
「その……今すごく、キス、してえんだけど」
「っ、え?」
「俺、こういうの初めてだから分かんねえけど、さすがに早すぎ? だよな?」
「和矢……どうなんだろうな。オレも初めてだから分かんない……から、いいんじゃない? その、オレと和矢だけのことだし」
「陽真……」
和矢の眉間がくしゅっと寄っている。今まではそれが辛そうだったのに。この瞬間、そこにあるのはオレへの想いなんだと分かる。だって、きっとオレも同じ顔をしているから。和矢が好きで、好きで好きで堪らなくて、一秒でも早く触れたくて苦しい。
「和矢、早く」
「っ、陽真……」
どこかおそるおそる、くちびる同士が触れ合った。一秒にも満たない、ほんの一瞬だ。そこからはもう、お互い夢中になってしまう。和矢がいる。確かめるみたいにくり返す。和矢もそんな風に感じながら、キスしてくれているのかな。そう思うと堪らなくて和矢の下くちびるを食んだら、首の後ろを支えられてしまった。あーあ、もう逃げられない。逃げる気なんてないけれど。
キスをしながらも頭の端っこでは、これから先のことを考える自分がいる。秋季大会は10月頭に終わって、それからすぐに文化祭。そしたらオレは——そこでまぶたを開けたら、和矢と目が合った。
「なに? なんか俺以外のこと考えてんの?」
なんて言って、くちびるを尖らせてみせる。
「……まさか。和矢以外のことなんか、考えてない」
本当に、和矢のことしか考えてない。でもたしかに、未来より今この瞬間を味わっていたいかも。
「じゃあ、もう一回」
少しずつ暮れる陽のオレンジ、ユニフォームの汗と土が混じった匂い、それから和矢の体温。オレたちはまたしばらくの間、キスをやめられなくなってしまった。



