幼なじみ以上、18.44メートル未満

吉住(よしずみ)ー。早く飯食わねえと、昼休み終わっちまうぞー」
「んー……」

 週の半ば、水曜の昼休み。賑やかな教室の中、頬を机にくっつけたオレは、ぼんやりと外を見ることしかできないでいる。心の中はどしゃ降りだというのに。青い空と白い雲、たまに窓を横切る鳥の姿が、オレにはひどく憎たらしい。

「お前……月曜からずっとそんなじゃん。月曜からっていうか、高良(たから)くんが来なくなってから?」
「うう……オレ、和矢(かずや)がいないとほんとダメっぽい」

 6-0で無事トーナメントを勝ち上がれた、秋季大会の3回戦。和矢の様子に心配は残りつつも、勝利に安堵していたのだけれど。異変はおととい、月曜の昼休みに起こった。

《昼休み、そっちに行くのやめる。部室で食ってすぐ練習する》

 とのメッセージが届いて、それから本当に和矢は来なくなってしまったのだ。いや、異変と呼ぶのは語弊があるのかもしれない。和矢と昼休みを過ごせるようになったのはごく最近で、それこそがイレギュラーだったのだ。

「高良くんなしじゃ吉住が生きられないのなんて、今更だろ」
「よくご存知でー……」
「でもまあ、相変わらず放課後の練習は見に行ってんだろ?」
「文化祭の実行委員で忙しくて、先週から行けてない。今週も全部無理そう」
「あー……そうだったな。じゃあ、夜とか会いに行けばいいじゃん。家、隣だって言ってたよな?」
「練習でくたくたで帰ってくんのに、そんなん邪魔でしかないじゃん……」

 和矢が足りない。和矢と出逢ってからこっち、こんなに遠く感じることは初めてだ。心は干からびてカラッカラ。

 長井(ながい)の提案を、オレも考えなかったわけじゃない。でも和矢は野球のために昼休みを削っていて、オレも文化祭実行委員を適当にやるわけにはいかなくて。それで寂しいから会いに来た、だなんて自分勝手すぎる。どうしようもなさが、オレを羽交い締めにしている。

 食欲はやっぱりないけれど、バテてしまってはいけない。のっそりと体を持ち上げて、弁当を開こうとした時だった。窓の外から、乾いた音がかすかに聞こえた。オレにはすぐに分かる。それが和矢のバットが打ったボールの、バッティングネットに当たる音だって。

「和矢……」

 思わず立ち上がって、窓から外を確認する。グラウンドの端に見えるのは、やはり和矢の姿だった。

「高良くん? 練習してんの見えんの?」
「うん、すげー頑張ってる」

 遠くても、手に取るように和矢の表情が分かる。眉間をぎゅっと寄せて歯を食いしばって、一球一球を確かめるように打っている。

「行ってくれば?」
「いや、いい。ここから見られただけで、オレは充分」

 会いたくて会いたくて、会えなくておかしくなっているのはオレが和矢を好きだからだ。和矢に影響があるわけじゃない。それに、そうしたくてもできない、と言ったほうが正しいのかもしれない。いや、もっと言うと必要がない。

「でも高良くんも堪えてるだろ、吉住に会えなくて」
「それはないな。だって和矢はひとりじゃないし」

 和矢がバットを振っているそばに、岩下(いわした)くんの姿が見える。岩下くんがトスを上げているのだ。そばにいるなら、バッテリーを組む岩下くんがいいに決まっている。トスの高さも間の取り方も、バッティングフォームへのアドバイスだって、知識を詰めこんだだけのオレより岩下くんのほうが100億倍の意味がある。

「頑張れ、和矢」

 オレはただ、離れた場所で和矢を応援するだけ。そんなの別に、昔からそうなのだから。オレの寂しさはオレがひとり、噛み殺せばいいだけの話だ。



 次の日。寂しさが体に馴染みはじめたのか、昼休み開始早々お腹が空いた。弁当をゆっくりと食べ、まだふたつ目のおかずを口に入れた頃、和矢がグラウンドに出てきた。きっとかきこむようにして、あのデカい弁当を平らげたのだろう。鬼気迫る様子でバットを振る和矢を眺めながら、おにぎりにかじりついた時。ふと下のほうから「吉住くーん」とオレを呼ぶ声が聞こえてきた。

 オレだって座っているのに、なぜ下から? 不思議に思いつつ振り返ると、机の端っこにちょこんと乗せられた指先が見えた。目で辿っていって誰だか分かった時、オレの体は大げさなくらいにびくんと跳ねた。

「えっ、岩下くん!?」
「こんにちはー。やーっと吉住くんと喋れた。いっつも高良に邪魔されるからさあ」
「和矢が邪魔……? えっ、ていうか、なんでここに? 和矢にトス上げてたんじゃ……」
「それなら今日は他のヤツがやってる。てか、高良が昼休みにバッティングやってるの知ってんだ。さすが吉住くーん」
「それは……まあ、ここから見えるし」
「ふうん? まあいいや。あのさ、俺、吉住くんにどうっしても! お願いしたいことがあって!」
「お願い? オレに?」

 岩下くんと1対1で話していることが、すごく不思議に感じる。和矢を介して物理的に近くにいたことは何度もあるけれど、話す機会は一度もなかった。緊張してしまう。その腕が放るボールのキレをよく知っているし、なんと言ったって和矢の大事な相棒だ。オレなんかじゃ、絶対に敵わない人。思わずごくんと唾を飲みこむ。

「そう! もちろんそれは、高良のことなんだけどさ」
「っ、和矢の?」
「うん。頼む! 吉住くん!」
「わっ、え、なに!? ちょ、岩下くん落ち着いて」

 両手を合わせてパン! と音を鳴らしたかと思えば、立ち上がった岩下くんはオレの肩をガシッと掴んだ。それどころか、体ごと揺さぶられる。目の端にこちらを眺める長井が映る。ただ見てるんじゃなくて助けてほしい。

「アイツ、どうにかしてよお〜」

 あんなに勢いがよかったのに、今度はへなへなと眉を下げた岩下くんは、がっくりと項垂れてしまった。ずいぶんと騒がしい人で、ちょっと意外だ。マウンドに立っている時の岩下くんは、孤高の王子のような佇まいをしているから。

 そんなことより、と言っては悪いが、今は和矢のことが気になる。どうにかしてとは、一体どういう意味だろう。

「え、っと……どうにかしてって?」
「日曜の試合、吉住くんも来てたよな? どう思った?」
「どうって……勝ててよかったよ。6-0で不安なく見てられた。岩下くんのボール、キレキレだったし」
「ふふん、まあね」
「でも……和矢はいつもの和矢じゃなかったなって」
「そう! それ! さすが吉住くんすぎる。それで今アイツ、不安になっちゃってんだよ。それをどうにかしてほしくて、俺は吉住くんに会いに来たってわけ!」

 岩下くんが和矢のために奔走していることは分かった。和矢が不安定だという話もすごく心配だ。和矢のためなら、なんだってしたい。でも、オレなんかにできることがあるだろうか。

 ああ、今更分かった。オレは心のどこかで、練習を見に行けない今の状況にホッとしている。だって、また味わうかもしれない。日曜の試合の時のように、和矢がオレを見てくれないことへのショックを。和矢を心配しながらもその実オレは、それ以上に自分の心がかわいいのだ。ひどく情けない。

「オレにできることなんかなにもないよ……岩下くんがいれば大丈夫でしょ」
「俺じゃダメだからここに来たの! 腹痛いって嘘ついて、高良の目を盗んで!」
「あのさ……和矢が邪魔するとか目を盗んでとか、どういう意味?」

 さっきからずっと気になっていた。岩下くんの言葉には、重要ななにかが含まれている気がする。

「だって俺、高良から吉住くんへの接触禁止令出てるもん」
「え、なにそれ」
「バラされるって思ってんじゃない?」
「なにを?」
「そりゃあ高良の……」

 岩下くんが、和矢のことを口にしようとした時だった。

「吉住ー、呼び出しだよ」

 とクラスの女子に声をかけられた。

「え? 呼び出し?」

 首を傾げながらそちらを見ると、教室の出入り口にひとりの女子が立っていた。たしか、隣のクラスの川田(かわた)さんだっけ。クラスの男子たちが、めっちゃかわいいと騒いでいた覚えがある。そんな子がオレになんの用だろう。でも今は、岩下くんと話しているわけで。どうしたものかと岩下くんに目を向けると、

「わーお、これ高良に知られたら大変だわ」

 と気の毒そうな顔をしてみせた。やっぱり岩下くんの言葉が宇宙語みたいに分からない。首を傾げれば、岩下くんは両手を合わせてパンと音を鳴らした。

「おっけ。乙女の邪魔をするわけにはいかんから、今日のところは退散するわ。あの子のとこ、行ったげて」
「う、うん。分かった」
「あっ! 俺がここに来たことは高良には内緒な! 高良といる時に俺と会っても、喋ったことありませんって態度するんだぞ!?」
「分かんないけど分かった」

 うちの高校のエースは、どうやらずいぶんと自分勝手なところがあるらしい。でもまあ、それでこそエースを張っていられるのかも。ちょっと傲慢で、自信満々に捕手のサインに首を振るくらいが、きっといい。

 嵐のようにやってきた岩下くんは、また嵐のように去っていく。それを見送ってから、オレは教室の出入り口へと向かった。


「かっこいいなって前から思ってて。彼女いないって聞いたんだけど、私と付き合わない?」
「へ……えっ? もしかして、オレに言ってる?」
「そう、吉住くんに告白してる」

 ここではなんだからと連れていかれたのは、体育館へと続く渡り廊下だった。そして、まさかのこの状況。想像もしていなかったから、まぬけな声が出てしまった。そんなオレを見て、川田さんがくすくすと笑う。すごく恥ずかしい。

 こんなシチュエーション、男子高校生の憧れだよな。でもオレの胸を占めるのは、もうずっとひとりの男だけだ。

「えっと、ごめんなさい。付き合えないです」
「なんで?」
「な、なんでってなに!?」

 予想だにしなかった返答に、今度は声が裏返ってしまった。一体オレのどこをかっこいいと思ったか分からないけど、今ので幻滅したことだろう。そう思ったのに。

「うーん。まさかの展開だな」
「まさかの展開?」
「そう。断られる想定してなかったんだよね。ね、即決じゃなくてさ、ちょっと考えてみない?」
「いや、でもオレ……」
「お願い。それでもダメだったら諦めるから。そうだな、1週間。1週間後に気持ちが変わってたら、私と付き合ってほしいな」

 1週間どころか何日経っても、それどころか地球がひっくり返ったって、気持ちが変わることはないけれど。ここは頷かないと、納得してくれない雰囲気だ。仕方ない、1週間後に改めて断ればいいだけだ。

「うん、分かった」
「ほんと? ふふ、よかった。じゃあ、アピール頑張っちゃおうかな。一週間よろしくね」
「うん。よろしく?」

 圧倒されながらも、求められるままに握手を交わした。ほほ笑んだ顔で肩をすくめ、じゃあまたね、と川田さんは去っていく。

 岩下くんといい川田さんといい、嵐が吹き荒れる昼休みだったな。なんだかどっと疲れた。大きく息をつき、教室に戻ろうと踵を返す。けれど校舎内へと進むことは、残念ながら叶わなかった。まさかの人物が、すぐそこに立っていたからだ。

「っ、和矢」
「……おう」

 なんでこんなところに和矢がいるんだ? 振り返ったらいたのだから、川田さんと話しているところも見られたのだろう。もしかして、話の内容まで聞かれただろうか。一方的に和矢に恋しているだけだとは言え、なんだか居た堪れなくなる。

「え、っと。バッティングの練習してたよな、休憩?」
「まあ、そんなとこ。水なくなったから買いに来た」
「そっか! オレは教室に戻るとこ」
「……陽真(はるま)
「ん?」
「さっきの女子と……いや、なんでもない。時間もうないし、行くわ」
「あ、和矢!」

 声をかけたけれど、和矢は急ぐように行ってしまった。眉間をぎゅっと寄せて、くちびるを噛んだ顔がどこか苦しそうだった。

 なぜそんな顔をしていたのだろう。オレのせい? そう思ってみても、理由の見当はちっともつかなくて。いつもより小さく見える、それでも大きな背中をただただ見送ることしかできなかった。


 翌日、またしても岩下くんがオレの元へとやってきた。和矢の様子がおかしいらしい。なんでも、地獄みたいに暗いとか。ものすごく心配だ。もうあさってには秋季大会の準々決勝だってあるのに。でも、どうにかしてよと岩下くんに乞われても、やっぱりオレにできることなんてきっとない。グラウンドの熱い砂の上、昨日の昼休みの渡り廊下。オレの中の真新しい和矢の記憶は、背中や苦しそうな顔ばかりだから。

 そのまた翌日、今度は長井が泣きついてきた。何事かと問えば、「他のクラスの女子のことまでは、さすがに把握できねーって……」と返ってきた。

「どういう意味?」
「んー……なあ吉住、確認だけどお前は一途なんだよな?」

 なんの話をしているのかハッキリとは教えてくれないが、その質問に浮かぶ顔も答えもひとつしかない。

「当たり前じゃん。しつこいくらいに一途だよ、ずっと」

 和矢への想いはもはや、年季が入っていると言ってもいい。ここ数日は心も物理的な距離も離れてしまっているけれど、それだけは揺るがない。ああ、言葉にしたことでなんだかスッキリした。今週末、応援に行ってもまた和矢はこっちを見もしないかも、と怖気づく心があったけれど。絶対に行く。応援する。和矢の夢が進む先を、オレも一緒に見たいから。

「ん、それ聞いて安心した。変な心配してたから、有り得ないって言っといたからな」
「なあマジでなんの話?」
「それ言ったら殺されるから無理。でも悪いことじゃねえよ。てかマジで、早く収まって。俺のためにも」
「はあ……マジで意味分からん」