月曜日の昼休み。
学園は、いつものように静かでどこか退屈な空気に包まれていた。
窓の外からは、中庭で優雅に談笑する生徒たちの声が聞こえてくる。
「……ふぅ」
職員室の自分のデスクで、五十嵐は温い茶を啜り、一つ大きなため息を吐いた。
週末の悪夢――VIPラウンジでのあの圧倒的な敗北と恐怖から逃れるように、彼は「あれは幻だったのだ」と己に必死で言い聞かせていた。
(そうだ、あれはただの脅しだ。いくら歴史あるボルティア家の令嬢とはいえ、たかが一介の高校生。学園の風紀を司るこの私を、どうこうできるはずがない)
そう強がりながらも、彼の額には嫌な汗が滲み続けている。
いつものように厳格な仮面を張り付け、周囲の教師たちに「週末は指導案の作成で忙しくてね」と虚勢を張っていた。
――時計の針が、正午を指した。
『ピロリン』
『ピロロロ』
『ピロンッ』
職員室のあちこちで、いや、学園中の至る所で、一斉に同じ通知音が鳴り響いた。
毎月一日の正午に自動配信される、学園公式アプリの『学園トピックスニュース』の更新音なのだが、今日は配信日ではない。
五十嵐は特に何も考えず、手元のスマートフォンの画面に目を落とす。
そこに表示されたのは、行事予定を知らせるタイトルではなかった。
『特別号外特集:愛を切り売りする教育者〜五十嵐教諭の課外授業の全貌〜』
「な、なんだこれは……ッ!?」
五十嵐は素っ頓狂な声を上げ、椅子から転げ落ちた。
直後、彼の端末から、そして周囲の教師たちの端末から、最大音量で『あの音声』が再生され始めた。
『そのだらしない髪色はなんだ! 我が校の伝統と品位を――』
朝礼での五十嵐自身の厳格な声。しかし次の瞬間、音声は乱れ、甘ったるい声に切り替わる。
『ああ、パパだよ。私もお前を早く可愛がってやりたいなあ――』
『そ、そそ、そんな……! いや、誤解です!』
画面には高級ホテルの出入り口で若い女性と腕を組む決定的な写真、パパ活アプリでの卑猥なメッセージの羅列、そして極めつけは――先週末、VIPラウンジで無様に逃げ惑いながら、カチャリ、カチャリと安っぽい小銭を差し出す彼の高画質動画。
見下してきた生徒への説教が、己の卑しい悲鳴と混ざり合い、逃げ場のない音の暴力となって職員室を満たしていく。
零の手によるハッキングと情報操作は、悪魔のように完璧だった。
学校のサーバーを経由し、生徒やその保護者だけでなく、この学園の最大のスポンサーたちの端末へ直接ばら撒かれたであろう事実は、もはや誰にも隠蔽できない。
ジリリリリリリリリッ!!!
突然、職員室の電話という電話が一斉に悲鳴を上げ始めた。
激怒した保護者たちからの、クレームの嵐だ。
血相を変えた教頭が五十嵐の胸ぐらを掴み上げ、他の教師たちはまるで汚物を見るような目で彼を囲む。
「い、五十嵐先生! これは一体どういうことですか!!」
「ち、違う、これは罠だ! 私は嵌められたんだ!!」
狂乱した五十嵐は教頭を突き飛ばし、脱兎のごとく職員室を飛び出した。
(理事長に泣きつけば、なんとかしてくれるはずだ!)
逃げ走りながら、彼は震える手で理事長のプライベート番号へ電話をかける。
しかし、スピーカーから聞こえてきたのは、突き放すような声。
『学園の顔に泥を塗ったばかりか、ボルティア家の御園様にまで手を出そうとしたそうですね。ご自分が誰の逆鱗に触れたか分かってらっしゃいますか? 貴方一人のせいで、この私が……学園が消し飛ばされるところです! 二度と顔を見せないでいただけますか。教員免許ごと、社会から抹消してさしあげましょう』
「り、理事長……っ、どうか私をお助け——」
ツーツー、という無機質な切断音。
社会的な死。
彼が見栄と偽善で築き上げてきた薄っぺらい権力の城が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
「あ、ああ、ああああっ……!」
五十嵐は頭を抱え、無様な悲鳴を上げながら廊下を駆け抜け、中庭へと転がり出た。
しかし、そこも彼にとっての地獄に変わっていた。
すべての生徒がスマートフォンを片手に、彼を取り囲むように立ち尽くしていたのだ。
昨日まで彼が権力で支配し、見下していたはずの迷える子羊たちの、嫌悪に満ちた蔑みの眼差し。
その群衆の最前列に、一人の少女が立っていた。
五十嵐に髪色を責め立てられていた、あの栗色の髪の令嬢だ。
彼女は五十嵐を一瞥すると、腕につけていた不自然に大人びたブランドの時計を外し、中庭のゴミ箱へ、何の未練もなく捨てた。
カラン、という虚ろな音が響く。
そして、這いつくばる五十嵐にはもう目もくれず、中庭を見下ろす特別寮のバルコニーに向かって、深く、心からの敬意を込めた淑女の礼を捧げる。
それに倣うように、周囲の生徒たちも次々とバルコニーを見上げる。
五十嵐が弾かれたように見上げると。
学園で最も高いその場所で、太陽の光を乱反射するハニーブロンドの髪を風に揺らしながら、一人の少女が静かに微笑んでいた。
「あらあら。はしたない。偽りの愛は、白日の下に晒されるとひどく醜いものですわね」
翡翠はいっそあどけなく微笑んで小首を傾げ、眼下で蠢く滑稽な元教師を、慈愛すら滲ませた瞳で見下ろしていた。
可憐な微笑みの下には、標的を徹底的に踏みにじった圧倒的な強者の冷徹さが宿っている。
彼女の放った『本物の悪』が、結果としてこの学園の淀んだ空気を浄化し、新たな絶対君主の誕生を知らしめたのだ。
「此度の遊戯はお気に召しましたか、お嬢様」
背後の影から、庭師の姿をした零が進み出る。
他のすべての人間には死神のような殺意を向ける彼が、翡翠の前でだけは、狂信的なまでの熱と甘い愛着を孕んだ瞳で跪いていた。
「そうね、退屈を紛らわすのには適当な喜劇だったわ。ご苦労様、零。おかげで箱庭の風通しが、ほんの少しだけ良くなったみたい」
「勿体なきお言葉。……お嬢様の美しい御足を汚す雑草は、今後もすべて、この私が根絶やしにいたしましょう」
零は恭しく翡翠の靴の甲に額をすり寄せ、忠誠の口付けを落とす。
翡翠はそれを咎めることもなく、ただつまらなそうに一度目を伏せると、顎を反らして青く澄み渡った空を見上げた。
愛も道徳も信じない。
己の美学の名の元に、彼女はこれからも優雅に、世界を踏み躙っていく。
学園は、いつものように静かでどこか退屈な空気に包まれていた。
窓の外からは、中庭で優雅に談笑する生徒たちの声が聞こえてくる。
「……ふぅ」
職員室の自分のデスクで、五十嵐は温い茶を啜り、一つ大きなため息を吐いた。
週末の悪夢――VIPラウンジでのあの圧倒的な敗北と恐怖から逃れるように、彼は「あれは幻だったのだ」と己に必死で言い聞かせていた。
(そうだ、あれはただの脅しだ。いくら歴史あるボルティア家の令嬢とはいえ、たかが一介の高校生。学園の風紀を司るこの私を、どうこうできるはずがない)
そう強がりながらも、彼の額には嫌な汗が滲み続けている。
いつものように厳格な仮面を張り付け、周囲の教師たちに「週末は指導案の作成で忙しくてね」と虚勢を張っていた。
――時計の針が、正午を指した。
『ピロリン』
『ピロロロ』
『ピロンッ』
職員室のあちこちで、いや、学園中の至る所で、一斉に同じ通知音が鳴り響いた。
毎月一日の正午に自動配信される、学園公式アプリの『学園トピックスニュース』の更新音なのだが、今日は配信日ではない。
五十嵐は特に何も考えず、手元のスマートフォンの画面に目を落とす。
そこに表示されたのは、行事予定を知らせるタイトルではなかった。
『特別号外特集:愛を切り売りする教育者〜五十嵐教諭の課外授業の全貌〜』
「な、なんだこれは……ッ!?」
五十嵐は素っ頓狂な声を上げ、椅子から転げ落ちた。
直後、彼の端末から、そして周囲の教師たちの端末から、最大音量で『あの音声』が再生され始めた。
『そのだらしない髪色はなんだ! 我が校の伝統と品位を――』
朝礼での五十嵐自身の厳格な声。しかし次の瞬間、音声は乱れ、甘ったるい声に切り替わる。
『ああ、パパだよ。私もお前を早く可愛がってやりたいなあ――』
『そ、そそ、そんな……! いや、誤解です!』
画面には高級ホテルの出入り口で若い女性と腕を組む決定的な写真、パパ活アプリでの卑猥なメッセージの羅列、そして極めつけは――先週末、VIPラウンジで無様に逃げ惑いながら、カチャリ、カチャリと安っぽい小銭を差し出す彼の高画質動画。
見下してきた生徒への説教が、己の卑しい悲鳴と混ざり合い、逃げ場のない音の暴力となって職員室を満たしていく。
零の手によるハッキングと情報操作は、悪魔のように完璧だった。
学校のサーバーを経由し、生徒やその保護者だけでなく、この学園の最大のスポンサーたちの端末へ直接ばら撒かれたであろう事実は、もはや誰にも隠蔽できない。
ジリリリリリリリリッ!!!
突然、職員室の電話という電話が一斉に悲鳴を上げ始めた。
激怒した保護者たちからの、クレームの嵐だ。
血相を変えた教頭が五十嵐の胸ぐらを掴み上げ、他の教師たちはまるで汚物を見るような目で彼を囲む。
「い、五十嵐先生! これは一体どういうことですか!!」
「ち、違う、これは罠だ! 私は嵌められたんだ!!」
狂乱した五十嵐は教頭を突き飛ばし、脱兎のごとく職員室を飛び出した。
(理事長に泣きつけば、なんとかしてくれるはずだ!)
逃げ走りながら、彼は震える手で理事長のプライベート番号へ電話をかける。
しかし、スピーカーから聞こえてきたのは、突き放すような声。
『学園の顔に泥を塗ったばかりか、ボルティア家の御園様にまで手を出そうとしたそうですね。ご自分が誰の逆鱗に触れたか分かってらっしゃいますか? 貴方一人のせいで、この私が……学園が消し飛ばされるところです! 二度と顔を見せないでいただけますか。教員免許ごと、社会から抹消してさしあげましょう』
「り、理事長……っ、どうか私をお助け——」
ツーツー、という無機質な切断音。
社会的な死。
彼が見栄と偽善で築き上げてきた薄っぺらい権力の城が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
「あ、ああ、ああああっ……!」
五十嵐は頭を抱え、無様な悲鳴を上げながら廊下を駆け抜け、中庭へと転がり出た。
しかし、そこも彼にとっての地獄に変わっていた。
すべての生徒がスマートフォンを片手に、彼を取り囲むように立ち尽くしていたのだ。
昨日まで彼が権力で支配し、見下していたはずの迷える子羊たちの、嫌悪に満ちた蔑みの眼差し。
その群衆の最前列に、一人の少女が立っていた。
五十嵐に髪色を責め立てられていた、あの栗色の髪の令嬢だ。
彼女は五十嵐を一瞥すると、腕につけていた不自然に大人びたブランドの時計を外し、中庭のゴミ箱へ、何の未練もなく捨てた。
カラン、という虚ろな音が響く。
そして、這いつくばる五十嵐にはもう目もくれず、中庭を見下ろす特別寮のバルコニーに向かって、深く、心からの敬意を込めた淑女の礼を捧げる。
それに倣うように、周囲の生徒たちも次々とバルコニーを見上げる。
五十嵐が弾かれたように見上げると。
学園で最も高いその場所で、太陽の光を乱反射するハニーブロンドの髪を風に揺らしながら、一人の少女が静かに微笑んでいた。
「あらあら。はしたない。偽りの愛は、白日の下に晒されるとひどく醜いものですわね」
翡翠はいっそあどけなく微笑んで小首を傾げ、眼下で蠢く滑稽な元教師を、慈愛すら滲ませた瞳で見下ろしていた。
可憐な微笑みの下には、標的を徹底的に踏みにじった圧倒的な強者の冷徹さが宿っている。
彼女の放った『本物の悪』が、結果としてこの学園の淀んだ空気を浄化し、新たな絶対君主の誕生を知らしめたのだ。
「此度の遊戯はお気に召しましたか、お嬢様」
背後の影から、庭師の姿をした零が進み出る。
他のすべての人間には死神のような殺意を向ける彼が、翡翠の前でだけは、狂信的なまでの熱と甘い愛着を孕んだ瞳で跪いていた。
「そうね、退屈を紛らわすのには適当な喜劇だったわ。ご苦労様、零。おかげで箱庭の風通しが、ほんの少しだけ良くなったみたい」
「勿体なきお言葉。……お嬢様の美しい御足を汚す雑草は、今後もすべて、この私が根絶やしにいたしましょう」
零は恭しく翡翠の靴の甲に額をすり寄せ、忠誠の口付けを落とす。
翡翠はそれを咎めることもなく、ただつまらなそうに一度目を伏せると、顎を反らして青く澄み渡った空を見上げた。
愛も道徳も信じない。
己の美学の名の元に、彼女はこれからも優雅に、世界を踏み躙っていく。

![[シナリオ]朧廻国 心を繋ぐ双命の符](https://novema.jp/img/member/1393403/5pedue7kco-thumb.jpg)

