「欲しいものがあったら、なんでもおっしゃって下さい」
目覚めてから、何度この言葉を聞いただろう。
ホテルのスイートルームのような部屋には、テレビも電話も、インターネットにつながるものも一切ない。
ただ、部屋の隅に鎮座している小さな筒形のAIロボットだけが、唯一の話し相手だった。
「私のスマホを返して」
「ご要望にはお答えできません」
「家族と連絡を取らせて」
「ご要望にはお答えできません」
「ここはどこなの」
「お答えできません」
何度同じやり取りを繰り返しても、答えは同じだった。
未知は、この部屋を観察する。
家具はすべて角が丸く、危ないものは何もない。
――けれど、
部屋の扉も、窓も、開けることは叶わない。
唯一、外界とつながっているのは、食事を運んでくる配膳箱だけだった。
朝、昼、夜と食事が届いた。
そして、今は朝食だ。
プラスチックのケースに並ぶ料理は、いっぱしのイングリッシュ・ブレックファストだった。
クリーム色のスポーティーなTシャツ姿に着替えた未知は、「いただきます」と誰に聞かれることもなく手を合わせ、使い捨てのカトラリーを持つ。
今は七月三十一日の午前なのだろう。
昨日の夕食に、「食べたいものは」と聞かれたから、好奇心から「フルコースディナー」とロボットに告げると、配膳箱から出てきたのは、まさにフルコースをテイクアウトしたような豪華な料理だった。
温かい前菜、魚料理、肉料理、デザートまで、どれもホテルのような味だった。
けれど、今と同じく、誰が作ったかも知れない透明なプラスチックのケースに入れられていた。
「何か欲しいものは」と夕食の後に聞かれたので、自分が夏祭り会場からずっと朝顔柄の浴衣を着ていたのを思い出し、
「Sサイズのティーン向けの動きやすい服と、二十三・五センチのスニーカー、防水のもの」
と告げた。
今朝の朝食と共に、配膳箱に届いていたので、早速着替えた。
至れり尽くせりのサービスを受けているようだ。
でも、不必要なほど匿名性が高く、何も探れない。
届いた服のブランドは、良く見知ったスポーツブランドのもの。クリーム色のTシャツにカーキのハーフパンツ、黒のキャップとシューズといったもので、今まで袖の通したことのないタイプの服だった。
鏡を見ると、なんとなく、着せられている感があった。
朝食を終えて、最後のパックのオレンジジュースを飲み干してから、再度AIロボットに向き合う。
「あなたの目的は?」
未知は、ロボットに問いかけた。
回答まで、珍しく、しばらくの間があった。
そうして、ようやくあたらしい回答が出た。
しかしそれは、思っていたものよりずっと最悪なものだった。
「あなたを、サマーゲームパーティーに参加させるためです」
******
その頃、県警本部では、有栖川美知(ありすがわみち)誘拐事件の捜査会議が続いていた。
「有栖川美知嬢の政治的価値について」
その議題が持ち上がると、佐藤とみゆおは、隠そうともせず顔をしかめた。
彼らは、未知を「カード」や「手駒」としてしか見ない、大人たちの冷徹な視線に辟易していた。特にみゆおは、ハイヤーの中で未知が見せた、大人たちの勝手な枠に等身大の自分を押し込もうとする鮮烈なまでの「健気さ」を直視していた。それだけに、目の前で繰り広げられる事務的な議論が、ひどく空々しく感じられた。
有栖川美知。父は外交官の有栖川琢磨(たくま)。
東欧の某国の駐在に一家で同行し、七歳の頃に一度、テロ組織による誘拐を経験している。その際は無傷で解放されたが、それは組織の一味である少年・イワンが、美知の知性に執着し、仲間に引き入れようとしたためだと推測されていた。
「これが、現在拘留中のイワンの顔写真です」
捜査員の一人がスクリーンに映し出した写真に、「逮捕時に撮影されたイワンの素顔だ」と付け加える。
肩まで伸びた金色の巻き毛。焦点の定まらない、うつろで濁った緑色の瞳。そして、どこか覇気のない凡庸な表情。
「……これが?」
みゆおは、喉の奥に引っかかるような違和感を覚えた。
あの聡明な未知が、かつて心惹かれたであろう少年にしては、あまりにも頼りなく、空っぽに見えたからだ。
「被疑者は変装の名人であり、これまで確実な素顔を晒したことはありません。逮捕時も、潜入していた学校の生徒に偽装していました。現時点では、これが彼の真実の姿です」
続いて、画面には重厚なサミット会場が映し出された。
「本年四月、サミット爆破を目論んだ東欧系テロ組織の入国に合わせ、被疑者イワンも日本へ潜入。サミット爆破は未遂に終わり、テロリストたちは逮捕され、現在F拘置所にて拘留中。本国への送還を調整中ですが、粛清の懸念から事実上難航しています。また、イワン本人は単身で有栖川美知嬢が在籍する市立第一中学校内へ、生徒に偽装して潜伏。先日、同校敷地内にて、有栖川家専属のボディーガードが被疑者の身柄を確保し、現行犯逮捕に至った。……というのが、これまでの経緯です」
会議室に、凍りついたような沈黙が訪れる。
「このテロ組織が粛清対象となっているならば、組織メンバーの釈放と亡命を目的とした、交渉のカードと考えるのが妥当ではないでしょうか」
「いや……」
佐藤が、その見解に冷たく異を唱えた。
「本来、組織として動くならば、四月の時点であんな目立つ形で学校に潜伏したり、有栖川美知との個人的な接触など、危険を冒すだけのメリットがない。もっと効率的で、確実な手段があるはずだ」
佐藤は、胸の奥で渦巻く違和感を、確信へと変えていく。
「これは、組織の作戦じゃない。……何か、もっと別の目的があるんじゃないのか?」
目覚めてから、何度この言葉を聞いただろう。
ホテルのスイートルームのような部屋には、テレビも電話も、インターネットにつながるものも一切ない。
ただ、部屋の隅に鎮座している小さな筒形のAIロボットだけが、唯一の話し相手だった。
「私のスマホを返して」
「ご要望にはお答えできません」
「家族と連絡を取らせて」
「ご要望にはお答えできません」
「ここはどこなの」
「お答えできません」
何度同じやり取りを繰り返しても、答えは同じだった。
未知は、この部屋を観察する。
家具はすべて角が丸く、危ないものは何もない。
――けれど、
部屋の扉も、窓も、開けることは叶わない。
唯一、外界とつながっているのは、食事を運んでくる配膳箱だけだった。
朝、昼、夜と食事が届いた。
そして、今は朝食だ。
プラスチックのケースに並ぶ料理は、いっぱしのイングリッシュ・ブレックファストだった。
クリーム色のスポーティーなTシャツ姿に着替えた未知は、「いただきます」と誰に聞かれることもなく手を合わせ、使い捨てのカトラリーを持つ。
今は七月三十一日の午前なのだろう。
昨日の夕食に、「食べたいものは」と聞かれたから、好奇心から「フルコースディナー」とロボットに告げると、配膳箱から出てきたのは、まさにフルコースをテイクアウトしたような豪華な料理だった。
温かい前菜、魚料理、肉料理、デザートまで、どれもホテルのような味だった。
けれど、今と同じく、誰が作ったかも知れない透明なプラスチックのケースに入れられていた。
「何か欲しいものは」と夕食の後に聞かれたので、自分が夏祭り会場からずっと朝顔柄の浴衣を着ていたのを思い出し、
「Sサイズのティーン向けの動きやすい服と、二十三・五センチのスニーカー、防水のもの」
と告げた。
今朝の朝食と共に、配膳箱に届いていたので、早速着替えた。
至れり尽くせりのサービスを受けているようだ。
でも、不必要なほど匿名性が高く、何も探れない。
届いた服のブランドは、良く見知ったスポーツブランドのもの。クリーム色のTシャツにカーキのハーフパンツ、黒のキャップとシューズといったもので、今まで袖の通したことのないタイプの服だった。
鏡を見ると、なんとなく、着せられている感があった。
朝食を終えて、最後のパックのオレンジジュースを飲み干してから、再度AIロボットに向き合う。
「あなたの目的は?」
未知は、ロボットに問いかけた。
回答まで、珍しく、しばらくの間があった。
そうして、ようやくあたらしい回答が出た。
しかしそれは、思っていたものよりずっと最悪なものだった。
「あなたを、サマーゲームパーティーに参加させるためです」
******
その頃、県警本部では、有栖川美知(ありすがわみち)誘拐事件の捜査会議が続いていた。
「有栖川美知嬢の政治的価値について」
その議題が持ち上がると、佐藤とみゆおは、隠そうともせず顔をしかめた。
彼らは、未知を「カード」や「手駒」としてしか見ない、大人たちの冷徹な視線に辟易していた。特にみゆおは、ハイヤーの中で未知が見せた、大人たちの勝手な枠に等身大の自分を押し込もうとする鮮烈なまでの「健気さ」を直視していた。それだけに、目の前で繰り広げられる事務的な議論が、ひどく空々しく感じられた。
有栖川美知。父は外交官の有栖川琢磨(たくま)。
東欧の某国の駐在に一家で同行し、七歳の頃に一度、テロ組織による誘拐を経験している。その際は無傷で解放されたが、それは組織の一味である少年・イワンが、美知の知性に執着し、仲間に引き入れようとしたためだと推測されていた。
「これが、現在拘留中のイワンの顔写真です」
捜査員の一人がスクリーンに映し出した写真に、「逮捕時に撮影されたイワンの素顔だ」と付け加える。
肩まで伸びた金色の巻き毛。焦点の定まらない、うつろで濁った緑色の瞳。そして、どこか覇気のない凡庸な表情。
「……これが?」
みゆおは、喉の奥に引っかかるような違和感を覚えた。
あの聡明な未知が、かつて心惹かれたであろう少年にしては、あまりにも頼りなく、空っぽに見えたからだ。
「被疑者は変装の名人であり、これまで確実な素顔を晒したことはありません。逮捕時も、潜入していた学校の生徒に偽装していました。現時点では、これが彼の真実の姿です」
続いて、画面には重厚なサミット会場が映し出された。
「本年四月、サミット爆破を目論んだ東欧系テロ組織の入国に合わせ、被疑者イワンも日本へ潜入。サミット爆破は未遂に終わり、テロリストたちは逮捕され、現在F拘置所にて拘留中。本国への送還を調整中ですが、粛清の懸念から事実上難航しています。また、イワン本人は単身で有栖川美知嬢が在籍する市立第一中学校内へ、生徒に偽装して潜伏。先日、同校敷地内にて、有栖川家専属のボディーガードが被疑者の身柄を確保し、現行犯逮捕に至った。……というのが、これまでの経緯です」
会議室に、凍りついたような沈黙が訪れる。
「このテロ組織が粛清対象となっているならば、組織メンバーの釈放と亡命を目的とした、交渉のカードと考えるのが妥当ではないでしょうか」
「いや……」
佐藤が、その見解に冷たく異を唱えた。
「本来、組織として動くならば、四月の時点であんな目立つ形で学校に潜伏したり、有栖川美知との個人的な接触など、危険を冒すだけのメリットがない。もっと効率的で、確実な手段があるはずだ」
佐藤は、胸の奥で渦巻く違和感を、確信へと変えていく。
「これは、組織の作戦じゃない。……何か、もっと別の目的があるんじゃないのか?」



