──泣くほどのことか。
そう口にしたあと、瓊環は自分でも意外なほど奈珠那の様子が気になっていた。
彼女が流した涙の理由など、一目見れば嫌でも理解できた。ありふれた、ただの食事。それを「普通」と知らずに育った故の、純粋な歓喜だった。
ここに来るまでずっと怯えていた少女が、今は慎重に、紛れもなく自分の意思で箸を取っている。奈珠那の緋色の瞳が、恐怖ではなく新しい光を映しているのがわかった。
「……面倒なやつだ」
無意識のうちにこぼれた言葉に、隣にいる珀弥が「何がです?」と首を傾げる。
答える気など、なかった。
⁂
食事を終えると、誰よりも先に奈珠那が立ち上がった。
「あの……私が片付けますので……下げ膳の場所を教えてくれませんか?」
彼女の声音には要らぬほどの慎ましさが滲んでいた。
「とんでもないです。オレがやりますから、そのままにしておいてください」
「でも……こんなに立派な食事をいただいて何もしないなんて、申し訳なくて……」
「いいんですよ。奈珠那様は大事なお方なんですから」
珀弥は胸に手を当てながら笑った。見返りを求めるでも、善意を誇示するでもなく、心の底から奈珠那を気遣っているのがわかるほど自然に。
──相変わらず、無駄にまっすぐなやつだな。
瓊環は胸の内でぼそりと毒づきながらも、否定はしなかった。珀弥のそういうところには、他人を安心させる力がある。奈珠那も例外ではないのだろう。
だが、奈珠那はそれに甘えず大きく腰を折った。
「お願いします……私にも、やらせてください」
彼女の懇願じみた声には、優しく扱われることへの感謝よりも、働かなければここに居場所はないという、悲痛なまでの義務感が込められているようだった。
「ですけど……」
珀弥が戸惑いを見せたところで、瓊環は退屈そうに肘掛けに寄りかかったまま口を開く。
「いいんじゃないか」
「でも、瓊環様……!」
「好きにさせろ。止めたところで、こいつは落ち着かんだろ」
それだけ言うと奈珠那は身体の前に両手を揃え、再度深々と頭を下げた。
「……はい、よろしくお願いします」
膳を抱え、珀弥の指示に従いながら迷いなく下膳の作業に取りかかっていく。初めての場所で勝手がわからないはずなのに、手際は慣れている。ぎこちなさはあるものの、その動きには長年の経験を感じさせた。
「なにもせずに、とは言ったものの。奈珠那様が手伝ってくれたら、すぐに終わりそうですね」
彼女の動きに珀弥も瓊環と同じことを思ったのだろう。感心するように笑っていた。
「お力になれるように……頑張ります」
奈珠那の顔に、うっすらと笑みが浮かんだように見えた。
──皮肉なものだ。
綺麗な着物に身を包み、食卓を囲んでいたときよりも、こうして雑役に手を伸ばしている今のほうが、よほど人間らしく映る。
酷使されることが己の生の実感だと覚えてしまっているのだろう。どれだけ自分を低く見積もってきたのか、想像するまでもない。
乱暴に扱われてきたはずなのに、いまだに折れずに立っている。弱いようで、誰よりも強い。強いようで、今にも消えてしまいそうに儚い。
──本当に、矛盾だらけのやつだな。
ほんの少し触れればひどく傷つきそうなのに、細い身体の奥には不思議な生命力が宿っているようだった。壊れそうで、壊れない。危うくて、放っておけるほど冷たくもなれない。
──厄介な娘だ。
瓊環は小さく息を吐き、膳を抱えて運んでいく奈珠那の細い背中を見送った。
⁂
膳の片付けが終わるやいなや、奈珠那は当然のように庭や部屋の掃除へと移った。
落ち着きがない──というのは違う。彼女は、何かしていなければ心の置き所がないのだ。
瓊環は竹箒で庭の掃き掃除をしている奈珠那へと声をかけた。
「少しは休めばいいものを」
「……そんな訳には……。それに……掃除は、嫌いではないので」
「なぜ?」
「なぜでしょう……。綺麗になると、ほっとするから……でしょうか」
困ったような顔をする奈珠那に、瓊環は「ふうん」とだけ返した。
本当に「ほっとする」という感覚を知っているのか、それともただ言葉を当てはめただけなのか。食卓で涙をこぼしたときの、ふいにのぞいた奥底の少女らしい素顔と、いま目の前にいる彼女が同じなのか、瓊環には判断がつかなかった。
「あの……目障りでしたら、やめますので……」
奈珠那は掃除の手を止め、箒の柄を握りしめる。肩が縮まり、視線は足元へ落ちた。叱責されるのを覚悟した者の姿勢だ。
──またそれか。
ほとほと呆れたように息をつく。
誰も咎めていないというのに、勝手に身を縮め、勝手に怯え、勝手に許しを請おうとする。習性──というよりは、根深い呪いのように絡みついている彼女なりの生存戦略なのだろう。
「やりたいようにすればいい」
そう告げると、奈珠那はか細い声で「……はい」と返し、再び箒を動かし始める。その姿は命じられたからではなく、拒まれなかったことに安堵しているようにも見えた。
少しして、奈珠那の裾が黒く染まっているのが目に入った。ちらりと見えた黒ずみは、先ほど珀弥と台所で火の後始末をした際についた煤だろう。
「裾が汚れている」
ふと言うと、奈珠那はびくりと肩を震わせ「あ……」と小さく息を呑んだ。
「申し訳ございません……! いただいたお召し物なのに、すぐ汚してしまうなんて……!」
慌てて裾を握り、隠すように抱え込む。そして、勢いよく腰を折った。その素早い所作は長年の癖を物語っていた。
「好きにしろと言ったのは俺だ。咎めたりはせん」
「……ですが、こんな上等な着物を……」
「これで消える」
瓊環は指先で軽く印を切り、布を払う。空気中に分解していくように、煤はたちまち消えていった。
「……お手を煩《わずら》わせていまい、申し訳……」
「無闇に謝罪するな、と言ったばかりだろう」
「あ……すみま……」
途中で口をつぐむ。そして迷うように視線を揺らしたあと、奈珠那は小さく息を吸った。
「瓊環様……。あの……ありがとう、ございます」
たどたどしくも必死に絞り出した礼だった。
感謝の言葉ひとつ言うのにも、こんなに時間がかかるとは。人から温もりをもらったことがないから、感謝の仕方すら知らない少女。
ならば、果たして。そんな人間が、誰かを愛することなどできるのだろうか。
──一年以内に、俺を愛せ……か。
言い渡したのは他でもない、瓊環だ。だが今の彼女を見れば見るほど、それはあまりにも無謀で、滑稽にさえ思えてくる。
愛を知らぬ者に、どうやって愛を教える?
──別の人間のほうがよかったか。
しかし、その考えは形にはならず、すぐに霧散していった。代わりを探す理由も、探さない理由も、瓊環には等しく価値がない。長い時を生きた神にとって、彼女との契約はただの退屈しのぎにすぎないものだった。
──実に面倒だ。
不要だと判断すれば、一年と待たず終わらせればいいだけだ。それだけの話のはずなのに、何度も思考を巡らせても奈珠那を切り捨てる判断だけが成立しなかった。
理由を探しても、理屈に合う答えは出てこない。情など存在しない。期待も、執着も、何もあるはずがない。なのにどうしてか、思考は同じところで立ち止まり続ける。
気づけば、瓊環のほうこそ矛盾だらけになっていた。
そう口にしたあと、瓊環は自分でも意外なほど奈珠那の様子が気になっていた。
彼女が流した涙の理由など、一目見れば嫌でも理解できた。ありふれた、ただの食事。それを「普通」と知らずに育った故の、純粋な歓喜だった。
ここに来るまでずっと怯えていた少女が、今は慎重に、紛れもなく自分の意思で箸を取っている。奈珠那の緋色の瞳が、恐怖ではなく新しい光を映しているのがわかった。
「……面倒なやつだ」
無意識のうちにこぼれた言葉に、隣にいる珀弥が「何がです?」と首を傾げる。
答える気など、なかった。
⁂
食事を終えると、誰よりも先に奈珠那が立ち上がった。
「あの……私が片付けますので……下げ膳の場所を教えてくれませんか?」
彼女の声音には要らぬほどの慎ましさが滲んでいた。
「とんでもないです。オレがやりますから、そのままにしておいてください」
「でも……こんなに立派な食事をいただいて何もしないなんて、申し訳なくて……」
「いいんですよ。奈珠那様は大事なお方なんですから」
珀弥は胸に手を当てながら笑った。見返りを求めるでも、善意を誇示するでもなく、心の底から奈珠那を気遣っているのがわかるほど自然に。
──相変わらず、無駄にまっすぐなやつだな。
瓊環は胸の内でぼそりと毒づきながらも、否定はしなかった。珀弥のそういうところには、他人を安心させる力がある。奈珠那も例外ではないのだろう。
だが、奈珠那はそれに甘えず大きく腰を折った。
「お願いします……私にも、やらせてください」
彼女の懇願じみた声には、優しく扱われることへの感謝よりも、働かなければここに居場所はないという、悲痛なまでの義務感が込められているようだった。
「ですけど……」
珀弥が戸惑いを見せたところで、瓊環は退屈そうに肘掛けに寄りかかったまま口を開く。
「いいんじゃないか」
「でも、瓊環様……!」
「好きにさせろ。止めたところで、こいつは落ち着かんだろ」
それだけ言うと奈珠那は身体の前に両手を揃え、再度深々と頭を下げた。
「……はい、よろしくお願いします」
膳を抱え、珀弥の指示に従いながら迷いなく下膳の作業に取りかかっていく。初めての場所で勝手がわからないはずなのに、手際は慣れている。ぎこちなさはあるものの、その動きには長年の経験を感じさせた。
「なにもせずに、とは言ったものの。奈珠那様が手伝ってくれたら、すぐに終わりそうですね」
彼女の動きに珀弥も瓊環と同じことを思ったのだろう。感心するように笑っていた。
「お力になれるように……頑張ります」
奈珠那の顔に、うっすらと笑みが浮かんだように見えた。
──皮肉なものだ。
綺麗な着物に身を包み、食卓を囲んでいたときよりも、こうして雑役に手を伸ばしている今のほうが、よほど人間らしく映る。
酷使されることが己の生の実感だと覚えてしまっているのだろう。どれだけ自分を低く見積もってきたのか、想像するまでもない。
乱暴に扱われてきたはずなのに、いまだに折れずに立っている。弱いようで、誰よりも強い。強いようで、今にも消えてしまいそうに儚い。
──本当に、矛盾だらけのやつだな。
ほんの少し触れればひどく傷つきそうなのに、細い身体の奥には不思議な生命力が宿っているようだった。壊れそうで、壊れない。危うくて、放っておけるほど冷たくもなれない。
──厄介な娘だ。
瓊環は小さく息を吐き、膳を抱えて運んでいく奈珠那の細い背中を見送った。
⁂
膳の片付けが終わるやいなや、奈珠那は当然のように庭や部屋の掃除へと移った。
落ち着きがない──というのは違う。彼女は、何かしていなければ心の置き所がないのだ。
瓊環は竹箒で庭の掃き掃除をしている奈珠那へと声をかけた。
「少しは休めばいいものを」
「……そんな訳には……。それに……掃除は、嫌いではないので」
「なぜ?」
「なぜでしょう……。綺麗になると、ほっとするから……でしょうか」
困ったような顔をする奈珠那に、瓊環は「ふうん」とだけ返した。
本当に「ほっとする」という感覚を知っているのか、それともただ言葉を当てはめただけなのか。食卓で涙をこぼしたときの、ふいにのぞいた奥底の少女らしい素顔と、いま目の前にいる彼女が同じなのか、瓊環には判断がつかなかった。
「あの……目障りでしたら、やめますので……」
奈珠那は掃除の手を止め、箒の柄を握りしめる。肩が縮まり、視線は足元へ落ちた。叱責されるのを覚悟した者の姿勢だ。
──またそれか。
ほとほと呆れたように息をつく。
誰も咎めていないというのに、勝手に身を縮め、勝手に怯え、勝手に許しを請おうとする。習性──というよりは、根深い呪いのように絡みついている彼女なりの生存戦略なのだろう。
「やりたいようにすればいい」
そう告げると、奈珠那はか細い声で「……はい」と返し、再び箒を動かし始める。その姿は命じられたからではなく、拒まれなかったことに安堵しているようにも見えた。
少しして、奈珠那の裾が黒く染まっているのが目に入った。ちらりと見えた黒ずみは、先ほど珀弥と台所で火の後始末をした際についた煤だろう。
「裾が汚れている」
ふと言うと、奈珠那はびくりと肩を震わせ「あ……」と小さく息を呑んだ。
「申し訳ございません……! いただいたお召し物なのに、すぐ汚してしまうなんて……!」
慌てて裾を握り、隠すように抱え込む。そして、勢いよく腰を折った。その素早い所作は長年の癖を物語っていた。
「好きにしろと言ったのは俺だ。咎めたりはせん」
「……ですが、こんな上等な着物を……」
「これで消える」
瓊環は指先で軽く印を切り、布を払う。空気中に分解していくように、煤はたちまち消えていった。
「……お手を煩《わずら》わせていまい、申し訳……」
「無闇に謝罪するな、と言ったばかりだろう」
「あ……すみま……」
途中で口をつぐむ。そして迷うように視線を揺らしたあと、奈珠那は小さく息を吸った。
「瓊環様……。あの……ありがとう、ございます」
たどたどしくも必死に絞り出した礼だった。
感謝の言葉ひとつ言うのにも、こんなに時間がかかるとは。人から温もりをもらったことがないから、感謝の仕方すら知らない少女。
ならば、果たして。そんな人間が、誰かを愛することなどできるのだろうか。
──一年以内に、俺を愛せ……か。
言い渡したのは他でもない、瓊環だ。だが今の彼女を見れば見るほど、それはあまりにも無謀で、滑稽にさえ思えてくる。
愛を知らぬ者に、どうやって愛を教える?
──別の人間のほうがよかったか。
しかし、その考えは形にはならず、すぐに霧散していった。代わりを探す理由も、探さない理由も、瓊環には等しく価値がない。長い時を生きた神にとって、彼女との契約はただの退屈しのぎにすぎないものだった。
──実に面倒だ。
不要だと判断すれば、一年と待たず終わらせればいいだけだ。それだけの話のはずなのに、何度も思考を巡らせても奈珠那を切り捨てる判断だけが成立しなかった。
理由を探しても、理屈に合う答えは出てこない。情など存在しない。期待も、執着も、何もあるはずがない。なのにどうしてか、思考は同じところで立ち止まり続ける。
気づけば、瓊環のほうこそ矛盾だらけになっていた。



