「お待たせしました」
襖を出てすぐ。ぱっと花が咲くように、珀弥の明るい笑顔が現れた。ふさふさの尾が嬉しそうに揺れている。
「では、こちらです」
珀弥を先頭に、奈珠那たちは廊下を歩き出した。
「奈珠那様、歩幅はおつらくないですか? ゆっくりで大丈夫ですよ」
珀弥は振り返りながら、奈珠那に気遣いの言葉をかける。
「……大丈夫、です」
「それはよかったです」
珀弥は胸を張り、導くように前へ進む。ほんの数歩なのに、部屋を出たときの重苦しい空気とはまるで違う。神域の静けさの中に、珀弥は誰よりも輝く灯りのように存在していた。
──弟がいたら、こんな感じなのかな。
奈珠那の緊張がまた少しほどけた。
⁂
廊下の角を曲がると、ほんのりと湯気の立つ匂いが漂ってきた。奈珠那の胃が、きゅるりと小さく鳴る。恥ずかしさで袖を握りしめたが、珀弥は気づかないふりをしてくれた。
「こちらが食事のお部屋です」
珀弥が立ち止まり、襖を開ける。ふわりと香る出汁の甘い匂いが奈珠那の鼻先をくすぐった。
「どうぞ、お入りください」
促されて部屋に足を踏み入れると、低い卓の上に並べられた膳が目に入った。柔らかく煮込まれている根菜、ほろりとほぐれほうな白身魚、ゆらゆらと湯気立つ白粥。質素でありながら、とれも丁寧に調理されている。それらは磨き上げられた陶器に美しく添えられていた。
──こんな贅沢な食事……私のために?
奈珠那は思わず息を呑み、立ち尽くす。
「奈珠那様、どうぞお掛けください。瓊環様も」
にこにことすすめる珀弥の横で、瓊環の眉がわずかに寄った。
「珀弥……なぜ膳が三つもある?」
「みんなで食べたほうが美味しいって聞きました! だから人間は、こうしてみんなで食卓を囲むんですよね、奈珠那様」
誇らしげに胸を張っている珀弥を前に、奈珠那は言葉を失った。
そもそも“みんなで食べる”という習慣を彼女は知らない。幼い頃から孤独に育ってきた奈珠那にとって、食事は空腹を満たすための行為でしかなかった。誰かと一緒に味わうものだなんて、考えたことすらないのだ。だから珀弥の純粋までの問いに、どう返せばいいのかわからなかった。
瓊環は目を伏せ、深いため息をひとつつく。
「お前というやつは……。本当に、余計なことを」
「余計じゃありませんよ。奈珠那様が来られて初めての食事ですから。歓迎の気持ちは大事です」
耳がぴんと立てながら言い返す珀弥に、瓊環はまたため息をこぼした。
「奈珠那様、ご一緒してもよろしいですか?」
急に声をかけられ、言葉を詰まらせる奈珠那。もちろん断る理由などあるはずもない。初対面とはいえ、ここまで丁重にもてなされているのだ。「はい」と答えるのが礼儀に当たるのだろう。
そうわかっていても、すぐに返事をする勇気は出なかった。
「奈珠那様?」
ひょいと瓊環が奈珠那の顔を覗き込む。彼の無邪気な好意にはまだ慣れそうにないが、その無邪気さが奈珠那の凍っていた心を少しずつ溶かしはじめていたのも確かだった。
「……あ、はい。あの、みなさんが嫌でなければ……」
「嫌なわけないじゃないですか。ね、瓊環様?」
「好きにしろ」
言葉と裏腹に、瓊環はため息をつきながらも先に膳の前へと腰を下ろした。
「さ、奈珠那様も」
「……はい」
三人で席についた途端、食卓の香りが一段と近く感じられた。それに混じって、胸の奥がじんわりとほどけていくような感覚が広がる。
──なんだろう……こんなの、初めてかもしれない。
胸に熱が伝うのと同時に、緊張でこわばっていた肩の力もふっと抜けていった。
「それでは、いただきます」
「……いただきます」
二人が箸をつけたのを見届けて、奈珠那もやっと食事に手を伸ばした。ゆっくりとひと口、口に運ぶ。
──美味しい……。
身に染みる、やさしい味付け。残飯のように固くも冷たくもない。噛むたびに、ちゃんと味がする。
「どうですか、お口に合いましたか?」
「……はい。あの……すごく、美味しいです」
「よかったです。久々に腕を振るった甲斐がありました。瓊環様の好き嫌いが多いこともあり、普段はあまり食事を作らないんです。奈珠那様に合うかどうか、少し心配でして」
「俺に食事など必要ない」
無愛想に言い捨てる神に、「瓊環様らしいです」と珀弥が苦笑した。
「奈珠那様は好き嫌いありますか?」
「……えと、私……何が好きで、何が嫌いなのか……そういうの、考えたこともなくて……」
正直に答えると、二人の動きが同時に止まった。
──あっ……。
奈珠那の顔が一瞬にして陰る。自分の発言のせいで、空気が冷えた気がしたのだ。すぐさま「ごめんなさい」という言葉がでかかる。その寸前で、珀弥がにこりと微笑んだ。
「では、これからいろんなものを食べましょう。奈珠那様が好きだと思えるもの、絶対ありますよ」
「俺は付き合わないからな」
「そんなこと言わずに。やっぱり、みんなで食べたほうが美味しいじゃないですか。ね、奈珠那様」
──みんなで……食べたほうが……。
何気なく放たれた珀弥のその言葉が、心のいちばん奥にぽたりと落ちた。当たり前のようで、奈珠那には一度も与えられたことのなかった当たり前。その光景が目の前にある。
「……っ」
気づけば、頬につっと温かいものが伝っていた。自分でも理由のわからない涙だった。
「奈珠那様!?」
「ごめ、なさい……なんでか……急に……」
「もしかして、無理して食べてました!? だとしたら、本当にごめんなさい! オレ……」
「違うんです……!」
言葉をかぶせるように奈珠那は首を振る。
「……その、とても美味しくて……。私、こんなに美味しいもの食べたの初めてで……それで……」
いつも以上に声が震えた。うまく説明できないけれど、単純に美味しいからだけではない。みんなで食べるという奈珠那の中には存在しなかった温もりが胸を満たして、あふれたのだった。
「奈珠那様……大丈夫ですか?」
「あ、えと……本当に、悲しいとかじゃなくて……。なんだか、すごく……あったかいんです」
涙を拭う奈珠那を前に、瓊環は箸を止めた。じっと彼女を見つめ、少しだけ言葉を選ぶようにしてから、ぽつりと口を開く。
「泣くほどのことか。このくらい普通だろう」
普通──その言葉に奈珠那は目を見開いた。普通を知らずに育ってきた奈珠那にとって、それは果てしなく遠い言葉にも聞こえた。
「……はい。きっと、普通なんですよね。でも……私には、すごく……」
言葉にできない気持ちが喉につかえる。だが、不思議と苦しくはなかった。それは長年押し殺されてきた感情が、堰を切って流れ出したような感覚だった。
「……すごく、嬉しいんです」
弱々しくも、奈珠那の感情が現れている一言。神とその神使が、同時に目を細める。瓊環はどこか呆気に取られたように、珀弥は驚きながらも奈珠那の不慣れな喜びを感じ取ったように。
「じゃあ、もっと食べましょう! はい、これもどうぞ。瓊環様も」
「おい、勝手に盛るな」
「いいじゃないですか。奈珠那様が『嬉しい』って言ったんですから」
言い合いながら皿を押しつけ合う二人のやり取りを見て、奈珠那から自然と小さな笑みがこぼれた。
自分だけが輪の外にいるのではなく、気づけば当たり前のように席が一つ用意されている──そんな光景が奈珠那には少しだけ眩しく映る。たけど、その眩しさは心の奥底で密かに憧れていた世界だった。
この先にある“普通”を、ぶっきらぼうの神様と、無邪気な神使が少しずつ教えてくれるかもしれない。
奈珠那はあふれる思いを噛み締めるように息を吸い、もう一度箸を取った。
襖を出てすぐ。ぱっと花が咲くように、珀弥の明るい笑顔が現れた。ふさふさの尾が嬉しそうに揺れている。
「では、こちらです」
珀弥を先頭に、奈珠那たちは廊下を歩き出した。
「奈珠那様、歩幅はおつらくないですか? ゆっくりで大丈夫ですよ」
珀弥は振り返りながら、奈珠那に気遣いの言葉をかける。
「……大丈夫、です」
「それはよかったです」
珀弥は胸を張り、導くように前へ進む。ほんの数歩なのに、部屋を出たときの重苦しい空気とはまるで違う。神域の静けさの中に、珀弥は誰よりも輝く灯りのように存在していた。
──弟がいたら、こんな感じなのかな。
奈珠那の緊張がまた少しほどけた。
⁂
廊下の角を曲がると、ほんのりと湯気の立つ匂いが漂ってきた。奈珠那の胃が、きゅるりと小さく鳴る。恥ずかしさで袖を握りしめたが、珀弥は気づかないふりをしてくれた。
「こちらが食事のお部屋です」
珀弥が立ち止まり、襖を開ける。ふわりと香る出汁の甘い匂いが奈珠那の鼻先をくすぐった。
「どうぞ、お入りください」
促されて部屋に足を踏み入れると、低い卓の上に並べられた膳が目に入った。柔らかく煮込まれている根菜、ほろりとほぐれほうな白身魚、ゆらゆらと湯気立つ白粥。質素でありながら、とれも丁寧に調理されている。それらは磨き上げられた陶器に美しく添えられていた。
──こんな贅沢な食事……私のために?
奈珠那は思わず息を呑み、立ち尽くす。
「奈珠那様、どうぞお掛けください。瓊環様も」
にこにことすすめる珀弥の横で、瓊環の眉がわずかに寄った。
「珀弥……なぜ膳が三つもある?」
「みんなで食べたほうが美味しいって聞きました! だから人間は、こうしてみんなで食卓を囲むんですよね、奈珠那様」
誇らしげに胸を張っている珀弥を前に、奈珠那は言葉を失った。
そもそも“みんなで食べる”という習慣を彼女は知らない。幼い頃から孤独に育ってきた奈珠那にとって、食事は空腹を満たすための行為でしかなかった。誰かと一緒に味わうものだなんて、考えたことすらないのだ。だから珀弥の純粋までの問いに、どう返せばいいのかわからなかった。
瓊環は目を伏せ、深いため息をひとつつく。
「お前というやつは……。本当に、余計なことを」
「余計じゃありませんよ。奈珠那様が来られて初めての食事ですから。歓迎の気持ちは大事です」
耳がぴんと立てながら言い返す珀弥に、瓊環はまたため息をこぼした。
「奈珠那様、ご一緒してもよろしいですか?」
急に声をかけられ、言葉を詰まらせる奈珠那。もちろん断る理由などあるはずもない。初対面とはいえ、ここまで丁重にもてなされているのだ。「はい」と答えるのが礼儀に当たるのだろう。
そうわかっていても、すぐに返事をする勇気は出なかった。
「奈珠那様?」
ひょいと瓊環が奈珠那の顔を覗き込む。彼の無邪気な好意にはまだ慣れそうにないが、その無邪気さが奈珠那の凍っていた心を少しずつ溶かしはじめていたのも確かだった。
「……あ、はい。あの、みなさんが嫌でなければ……」
「嫌なわけないじゃないですか。ね、瓊環様?」
「好きにしろ」
言葉と裏腹に、瓊環はため息をつきながらも先に膳の前へと腰を下ろした。
「さ、奈珠那様も」
「……はい」
三人で席についた途端、食卓の香りが一段と近く感じられた。それに混じって、胸の奥がじんわりとほどけていくような感覚が広がる。
──なんだろう……こんなの、初めてかもしれない。
胸に熱が伝うのと同時に、緊張でこわばっていた肩の力もふっと抜けていった。
「それでは、いただきます」
「……いただきます」
二人が箸をつけたのを見届けて、奈珠那もやっと食事に手を伸ばした。ゆっくりとひと口、口に運ぶ。
──美味しい……。
身に染みる、やさしい味付け。残飯のように固くも冷たくもない。噛むたびに、ちゃんと味がする。
「どうですか、お口に合いましたか?」
「……はい。あの……すごく、美味しいです」
「よかったです。久々に腕を振るった甲斐がありました。瓊環様の好き嫌いが多いこともあり、普段はあまり食事を作らないんです。奈珠那様に合うかどうか、少し心配でして」
「俺に食事など必要ない」
無愛想に言い捨てる神に、「瓊環様らしいです」と珀弥が苦笑した。
「奈珠那様は好き嫌いありますか?」
「……えと、私……何が好きで、何が嫌いなのか……そういうの、考えたこともなくて……」
正直に答えると、二人の動きが同時に止まった。
──あっ……。
奈珠那の顔が一瞬にして陰る。自分の発言のせいで、空気が冷えた気がしたのだ。すぐさま「ごめんなさい」という言葉がでかかる。その寸前で、珀弥がにこりと微笑んだ。
「では、これからいろんなものを食べましょう。奈珠那様が好きだと思えるもの、絶対ありますよ」
「俺は付き合わないからな」
「そんなこと言わずに。やっぱり、みんなで食べたほうが美味しいじゃないですか。ね、奈珠那様」
──みんなで……食べたほうが……。
何気なく放たれた珀弥のその言葉が、心のいちばん奥にぽたりと落ちた。当たり前のようで、奈珠那には一度も与えられたことのなかった当たり前。その光景が目の前にある。
「……っ」
気づけば、頬につっと温かいものが伝っていた。自分でも理由のわからない涙だった。
「奈珠那様!?」
「ごめ、なさい……なんでか……急に……」
「もしかして、無理して食べてました!? だとしたら、本当にごめんなさい! オレ……」
「違うんです……!」
言葉をかぶせるように奈珠那は首を振る。
「……その、とても美味しくて……。私、こんなに美味しいもの食べたの初めてで……それで……」
いつも以上に声が震えた。うまく説明できないけれど、単純に美味しいからだけではない。みんなで食べるという奈珠那の中には存在しなかった温もりが胸を満たして、あふれたのだった。
「奈珠那様……大丈夫ですか?」
「あ、えと……本当に、悲しいとかじゃなくて……。なんだか、すごく……あったかいんです」
涙を拭う奈珠那を前に、瓊環は箸を止めた。じっと彼女を見つめ、少しだけ言葉を選ぶようにしてから、ぽつりと口を開く。
「泣くほどのことか。このくらい普通だろう」
普通──その言葉に奈珠那は目を見開いた。普通を知らずに育ってきた奈珠那にとって、それは果てしなく遠い言葉にも聞こえた。
「……はい。きっと、普通なんですよね。でも……私には、すごく……」
言葉にできない気持ちが喉につかえる。だが、不思議と苦しくはなかった。それは長年押し殺されてきた感情が、堰を切って流れ出したような感覚だった。
「……すごく、嬉しいんです」
弱々しくも、奈珠那の感情が現れている一言。神とその神使が、同時に目を細める。瓊環はどこか呆気に取られたように、珀弥は驚きながらも奈珠那の不慣れな喜びを感じ取ったように。
「じゃあ、もっと食べましょう! はい、これもどうぞ。瓊環様も」
「おい、勝手に盛るな」
「いいじゃないですか。奈珠那様が『嬉しい』って言ったんですから」
言い合いながら皿を押しつけ合う二人のやり取りを見て、奈珠那から自然と小さな笑みがこぼれた。
自分だけが輪の外にいるのではなく、気づけば当たり前のように席が一つ用意されている──そんな光景が奈珠那には少しだけ眩しく映る。たけど、その眩しさは心の奥底で密かに憧れていた世界だった。
この先にある“普通”を、ぶっきらぼうの神様と、無邪気な神使が少しずつ教えてくれるかもしれない。
奈珠那はあふれる思いを噛み締めるように息を吸い、もう一度箸を取った。



