上から覗き込む瓊環の瞳はどこか愉しげで、それでいて射すくめるほど鋭い。着物が畳にすれる音が、妙に大きく耳に響く。
「……神、さま……?」
「こうすれば、俺を愛すのだろう?」
瓊環の指先が奈珠那の肩へ伸びた。桜色の衣の襟が落とされ、肌に冷たい空気が触れた瞬間。奈珠那の頭の中で、あの夜の記憶が弾けた。
生贄として万年桜まで連れてこられ、見ぐるみを剥がされた──あの大勢の視線と、荒々しい手の感触。
身体が一瞬ほど硬直し、すぐに震え始める。押し返すこともできず、喉が詰まり「嫌だ」とも叫べない。
「……っ……ふっ……」
次第に涙がこぼれ落ち、嗚咽に合わせて肩が震える。抵抗ではなく 、「怖い」という幼い反応だった。
その変化は、押し伏せていた瓊環にも伝わったらしい。金の瞳が色を失ったように細められた。
「……興が醒めた」
冷たく吐き捨てるように言いながらも、奈珠那の肩にかかっていた衣を元あったように治す。押さえつけていた手も離され、瓊環は彼女から距離をとった。
「触れられただけで泣くとは……」
続きを言いかけて口を閉じた瓊環の眉間に、わずかなしわが寄る。苛立ちのようでいて、困惑にも近い表情だった。
「申し訳、ございません……」
奈珠那も身体を起こし、必死に呼吸を整える。それを見つめる瓊環の視線は、先ほどまでの強引さをほんの少しだけ失っていた。
「泣くな。泣かれると……扱いづらい」
声音は変わらず、低く冷たい。けれど、金色の目はどうしてか奈珠那からは離れなかった。
「神様……私……」
「神様などと呼ぶな。瓊環。そう呼べ」
「瓊環、様……。ごめんなさい……。私、その……生贄としてのお役目を……」
言いかけた奈珠那の震えがひときわ強くなる。生贄として差し出された以上、役目を果たせなければ自分には価値がない。そんな思い込みが固く根を張っていた。
「くだらない。生贄など、なんの意味も持たん。人間たちの都合のいい解釈だ」
吐き捨てるような声音なのに、そこにはほんのわずかな苛立ちが混じっているように思えた。同時に、奈珠那が“生贄”という言葉に縛られていること自体が気に食わない、と言うようでもあった。
「……では、私は……」
奈珠那の声は答えを求めるように、か細くなっていった。
生贄ですらない自分には、いったい何の価値があるのだろう。他者から褒められたことも、必要とされた実感もなく生きてきた奈珠那には、答えがひとつも浮かばない。
「俺を、ただ愛せばいい」
俯いた奈珠那に落ちた言葉は、先ほどまでの支配とは違っていた。ひどく傲慢で、勝手で、理不尽なのに、どこかで答えのように響く。
「お前が生贄かどうかなど、どうでもいい。俺が望むのは、奈珠那というひとりの女だ」
甘くも優しくもない声色。しかし金色の瞳の奥には、決して揺るがない確信があったような気がした。
どうして彼がここまで愛されることに執着するのか、奈珠那にはわからない。
けれど。自分の存在が望まれたのは、生まれて初めてだった。たとえその望みが歪んだものでも、たとえそこに善意がひとつもなくても──胸がわずかに熱くなるのを、奈珠那は止められなかった。
「……私は……えと……」
言葉が続かず、何を返せばいいのかもわからない。胸元を押さえて、乱れた呼吸を落ち着けようとすることしかできなかった。
奈珠那の沈黙を、瓊環はじっと見つめている。その視線に奈珠那の心臓がどきりと跳ねた。
彼女は沈黙という間が苦手だ。黙っていれば怒鳴られる──それは、幼少期から繰り返されていた日常だった。だからこそ、「何か言わなければ」と怯えながら過ごしていたはずなのに。気いたときには、口からこぼれるのは謝罪の言葉ばかりになっていた。
謝ってしまえば、余計に痛い思いをしなくて済む。それが一番楽な方法なのだと、奈珠那は幼くして感情を押し殺すことを覚えたのだ。
しかし、それゆえに奈珠那は、自分の気持ちをどう言葉にすればいいのかわからなくなっていた。
瓊環の視線と沈黙に耐えきれなくなった奈珠那は、また頭を下げる。
「申し訳ございません……」
なにが悪いのか、謝っている奈珠那自身も理解はしていなかった。
「謝罪ばかりだな、お前は」
瓊環がもらしたため息は、呆れか苛立ちか判別がつかない。だが、不思議と奈珠那を責める色はなかった。
「なんとなくだが、お前がどんな環境で育ったかは推し量れた。謝罪は癖だな」
「……申し訳」
「俺の前では無闇に謝るな。気に食わない」
瓊環は、さらに深くため息をつく。叱責の響きなのに、奈珠那を庇うようにも聞こえた。怒られたわけではない。かといって、優しいわけでもない。ただ彼が奈珠那の震えを見て言葉を選んでいるのだけは、なぜかわかった。
彼女の胸の奥に、戸惑いとも安堵ともつかない熱がかすかに灯る。奈珠那は小さく息を吸い、震える指先を膝の上でぎゅっと握った。謝らずに返せる言葉を、初めて探したのだ。
「瓊環様……あの……私、なんかを……」
たとたどしく口を開きかけたとき、襖の向こうから元気な声が響いた。
「瓊環様、奈珠那様。準備が整いました!」
珀弥の明るい声で張りつめていた空気が緩んだ。
「行くぞ」
短く告げて瓊環は立ち上がる。
「どちらへ……?」
「食事だ。人間は食わねば死ぬ。その身体、ろくに飯にもありつけていなかったのだろう」
奈珠那は顔を伏せる。彼の言うとおりだった。彼女に与えられた膳は、いつも残り物の端だけ。炊事は奈珠那の役目でも、口にしていいのは皆が食べ終えてからの残り。空腹に慣れすぎたせいもあり、それが当たり前だと疑問すら抱かなかった。
すべてを見透かしたように、瓊環の視線は奈珠那の貧相な体つきをしっかり捉えていた。
「よろしい……のですか?」
「お前を迎え入れたのは、こちらの都合だ。それに、一年という猶予まで与えている。今すぐに殺しはしない」
淡々と告げられた「猶予」という言葉は、奈珠那の余命宣告のようにも聞こえる。その発言の主は目の前にいる冷酷な神、なのに。
「ほら。行くぞ」
ほんの少しだけ身を屈め、こちらの前に手を差し出す瓊環に──どうしてか、少し安心してしまった。促す声は不器用で、優しさと命令の境界が曖昧だったせいかもしれない。
彼は、自分の命を握っている相手。そのはずなのに、押し倒されたときに抱いたような恐怖はなかった。
奈珠那は差し出された手を見つめる。触れたら戻れなくなる気がした。だが、拒む理由はひとつもない。
「……はい」
触れ合れた指先は、驚くほどあたたかかった。
「……神、さま……?」
「こうすれば、俺を愛すのだろう?」
瓊環の指先が奈珠那の肩へ伸びた。桜色の衣の襟が落とされ、肌に冷たい空気が触れた瞬間。奈珠那の頭の中で、あの夜の記憶が弾けた。
生贄として万年桜まで連れてこられ、見ぐるみを剥がされた──あの大勢の視線と、荒々しい手の感触。
身体が一瞬ほど硬直し、すぐに震え始める。押し返すこともできず、喉が詰まり「嫌だ」とも叫べない。
「……っ……ふっ……」
次第に涙がこぼれ落ち、嗚咽に合わせて肩が震える。抵抗ではなく 、「怖い」という幼い反応だった。
その変化は、押し伏せていた瓊環にも伝わったらしい。金の瞳が色を失ったように細められた。
「……興が醒めた」
冷たく吐き捨てるように言いながらも、奈珠那の肩にかかっていた衣を元あったように治す。押さえつけていた手も離され、瓊環は彼女から距離をとった。
「触れられただけで泣くとは……」
続きを言いかけて口を閉じた瓊環の眉間に、わずかなしわが寄る。苛立ちのようでいて、困惑にも近い表情だった。
「申し訳、ございません……」
奈珠那も身体を起こし、必死に呼吸を整える。それを見つめる瓊環の視線は、先ほどまでの強引さをほんの少しだけ失っていた。
「泣くな。泣かれると……扱いづらい」
声音は変わらず、低く冷たい。けれど、金色の目はどうしてか奈珠那からは離れなかった。
「神様……私……」
「神様などと呼ぶな。瓊環。そう呼べ」
「瓊環、様……。ごめんなさい……。私、その……生贄としてのお役目を……」
言いかけた奈珠那の震えがひときわ強くなる。生贄として差し出された以上、役目を果たせなければ自分には価値がない。そんな思い込みが固く根を張っていた。
「くだらない。生贄など、なんの意味も持たん。人間たちの都合のいい解釈だ」
吐き捨てるような声音なのに、そこにはほんのわずかな苛立ちが混じっているように思えた。同時に、奈珠那が“生贄”という言葉に縛られていること自体が気に食わない、と言うようでもあった。
「……では、私は……」
奈珠那の声は答えを求めるように、か細くなっていった。
生贄ですらない自分には、いったい何の価値があるのだろう。他者から褒められたことも、必要とされた実感もなく生きてきた奈珠那には、答えがひとつも浮かばない。
「俺を、ただ愛せばいい」
俯いた奈珠那に落ちた言葉は、先ほどまでの支配とは違っていた。ひどく傲慢で、勝手で、理不尽なのに、どこかで答えのように響く。
「お前が生贄かどうかなど、どうでもいい。俺が望むのは、奈珠那というひとりの女だ」
甘くも優しくもない声色。しかし金色の瞳の奥には、決して揺るがない確信があったような気がした。
どうして彼がここまで愛されることに執着するのか、奈珠那にはわからない。
けれど。自分の存在が望まれたのは、生まれて初めてだった。たとえその望みが歪んだものでも、たとえそこに善意がひとつもなくても──胸がわずかに熱くなるのを、奈珠那は止められなかった。
「……私は……えと……」
言葉が続かず、何を返せばいいのかもわからない。胸元を押さえて、乱れた呼吸を落ち着けようとすることしかできなかった。
奈珠那の沈黙を、瓊環はじっと見つめている。その視線に奈珠那の心臓がどきりと跳ねた。
彼女は沈黙という間が苦手だ。黙っていれば怒鳴られる──それは、幼少期から繰り返されていた日常だった。だからこそ、「何か言わなければ」と怯えながら過ごしていたはずなのに。気いたときには、口からこぼれるのは謝罪の言葉ばかりになっていた。
謝ってしまえば、余計に痛い思いをしなくて済む。それが一番楽な方法なのだと、奈珠那は幼くして感情を押し殺すことを覚えたのだ。
しかし、それゆえに奈珠那は、自分の気持ちをどう言葉にすればいいのかわからなくなっていた。
瓊環の視線と沈黙に耐えきれなくなった奈珠那は、また頭を下げる。
「申し訳ございません……」
なにが悪いのか、謝っている奈珠那自身も理解はしていなかった。
「謝罪ばかりだな、お前は」
瓊環がもらしたため息は、呆れか苛立ちか判別がつかない。だが、不思議と奈珠那を責める色はなかった。
「なんとなくだが、お前がどんな環境で育ったかは推し量れた。謝罪は癖だな」
「……申し訳」
「俺の前では無闇に謝るな。気に食わない」
瓊環は、さらに深くため息をつく。叱責の響きなのに、奈珠那を庇うようにも聞こえた。怒られたわけではない。かといって、優しいわけでもない。ただ彼が奈珠那の震えを見て言葉を選んでいるのだけは、なぜかわかった。
彼女の胸の奥に、戸惑いとも安堵ともつかない熱がかすかに灯る。奈珠那は小さく息を吸い、震える指先を膝の上でぎゅっと握った。謝らずに返せる言葉を、初めて探したのだ。
「瓊環様……あの……私、なんかを……」
たとたどしく口を開きかけたとき、襖の向こうから元気な声が響いた。
「瓊環様、奈珠那様。準備が整いました!」
珀弥の明るい声で張りつめていた空気が緩んだ。
「行くぞ」
短く告げて瓊環は立ち上がる。
「どちらへ……?」
「食事だ。人間は食わねば死ぬ。その身体、ろくに飯にもありつけていなかったのだろう」
奈珠那は顔を伏せる。彼の言うとおりだった。彼女に与えられた膳は、いつも残り物の端だけ。炊事は奈珠那の役目でも、口にしていいのは皆が食べ終えてからの残り。空腹に慣れすぎたせいもあり、それが当たり前だと疑問すら抱かなかった。
すべてを見透かしたように、瓊環の視線は奈珠那の貧相な体つきをしっかり捉えていた。
「よろしい……のですか?」
「お前を迎え入れたのは、こちらの都合だ。それに、一年という猶予まで与えている。今すぐに殺しはしない」
淡々と告げられた「猶予」という言葉は、奈珠那の余命宣告のようにも聞こえる。その発言の主は目の前にいる冷酷な神、なのに。
「ほら。行くぞ」
ほんの少しだけ身を屈め、こちらの前に手を差し出す瓊環に──どうしてか、少し安心してしまった。促す声は不器用で、優しさと命令の境界が曖昧だったせいかもしれない。
彼は、自分の命を握っている相手。そのはずなのに、押し倒されたときに抱いたような恐怖はなかった。
奈珠那は差し出された手を見つめる。触れたら戻れなくなる気がした。だが、拒む理由はひとつもない。
「……はい」
触れ合れた指先は、驚くほどあたたかかった。



