万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

 差し出された珀弥の手に触れようとした瞬間、奈珠那ははっとして自分の姿を見下ろした。
 薄い長襦袢一枚。風が吹けば素肌がのぞいてしまいそうな心許(こころもと)ない姿だ。
 
「……あ、あの、私……こんな格好で……」

 途端に頬が熱くなる。万年桜の下で倒れたときのままの格好だと思い出し、羞恥が押し寄せてきた。

「あ、そうでした!」
 
 珀弥が耳をぴんと立て、慌てたように部屋の隅を指さす。
 
「瓊環様がご用意していった着物があります。奈珠那様のお好きにお召し替えください」

 そこには淡い桜色を基調とした衣が、丁寧に畳まれて置かれていた。花びらを幾重にも織り込んだように、儚くも艶がある着物。ただの絹ではないのかもしれない。手に触れずとも、その上質さが伝わってきた。
 
「……着替えて、いいんですか?」
「もちろんです。奈珠那様のお召し物ですから」

 珀弥は部屋をぐるりと見回して付け加えた。

「この部屋も、瓊環様が“奈珠那様のために”とこしらえたお部屋なんですよ。ですから、どうか気兼ねなく。入り用があればいつでも、なんなりと、この珀弥に申し付けください」

 あまりにも大げさな言葉に、奈珠那は珀弥を見つめることしかできなかった。そんなふうに扱われたことなど、一度もない人生だったのだ。なんと返せばいいのか分からず、口を開きかけては閉じる。
 奈珠那の戸惑いを払拭するように、珀弥が目元を和らげた。

「ささ、遠慮しないで! オレは外で待っていますから、準備ができたら声をかけてくださいね」
「……あ、りがとう……ございます」

 珀弥は「では」と一礼して部屋を出ていく。その尾がふわりと揺れながら扉の向こうへ消えた瞬間、神域の空気がひときわ静まり返った気がした。
 奈珠那はゆっくりと寝台から身を起こし、桜色の衣に指先を触れた。驚くほど柔らかく、春の空気をそのまま織り込んだような温もりを感じる。

 ──着替えたら……あの神様と会うのね……。

 胸が高鳴るのは、不安か、緊張か、それとも別の何かか。奈珠那はひとつ息を呑み、衣を胸元に抱き寄せた。

 袖を通した着物は、布が肌に吸い付くように奈珠那の身体に馴染んだ。軽いのに守られているような安心感がある。帯を締めるのに少し手間取りながらも、着替えを進める。きゅっと結び切って、姿見に映る自分を見た奈珠那は、たまらず視線をそらした。

 ──こんなの、私じゃないみたい……。

 滑らかで艶やかな絹の着物は、少し動くだけで光をすくう。
 虐げられて育ってきた彼女には、当然のように着物など新調してもらえなかった。普段の着物は継ぎを当てながら何年も着潰したもの。千佳のお下がりでさえ、「贅沢すぎる」ともらったことはなかったのだ。

 だからこそ、今身に着けている衣は自分に似合わない気がしてならなかった。鏡に映る姿は確かに奈珠那なのに、別の誰かのようで落ち着かなくなる。
 しばらく姿見の前から動かずにいると、控えめなノックが響いた。
 
「奈珠那様、ご準備はお済みですか?」

 扉越しの声は先ほどよりも柔らかい。奈珠那は「あ、はい」と小さく返し、扉を開けた。

「うわあ、とってもお似合いです!」

 珀弥の耳がぴょこんと立った。年相応の無邪気な笑顔に、奈珠那の緊張が少しだけほどける。

「……そうですか?」
「ええ、お綺麗ですよ」

 ふさふさの尻尾も、言葉に合わせて嬉しそうに揺れていた。

「それでは、瓊環様のもとへご案内いたします。まだ歩くのがつらければ言ってください。ゆっくりで大丈夫ですから」
「……はい。お願いします」

 自然と歩幅を合わせてくれる神使の横を、奈珠那は恐る恐る進んでいく。廊下の先に満ちる光は、桜色の霧のように揺蕩(たゆた)っていた。

 しばらく歩いた先。
 とある部屋の前で珀弥が足を止めた。ほのかに漂った桜の香りに、奈珠那の胸がわずかにざわつく。
 
「瓊環様。奈珠那様をお連れしました」

 彼の声に応じて、襖が音もなくひとりでに開いた。

「……失礼、いたします」

 促されるように部屋の中へ歩みを進めると、視界がふっと開けた。
 部屋の外は小さな庭になっていて、そこには何本もの桜が並んでいる。花びらが舞い散るように光の粒が浮遊していている光景に、奈珠那は改めてここが現実ではないのだと実感した。
 
 そして、その桜の前に延びる縁側に、ひとりの男が腰掛けていた。風もないのに、かすかになびく長い銀髪。真っ白な衣をまとったその神は、ここが世界の中心であるかのように悠然と庭を眺めていた。

「来たか」

 ゆるりと向けられた視線に、奈珠那の背筋がしゃんと伸びた。無表情なのに、こちらへ向けられた視線は容赦がない。その一瞥(いちべつ)だけで息が詰まるほどに神は美しく、そして冷たかった。

「瓊環様、お待たせいたしました。奈珠那様には」
「下がれ、珀弥」

 低く、自然に命じる声。逆らうという概念すら存在しないような響きだった。

「かしこまりました。では、オレは準備をば。奈珠那様、また後ほど」

 珀弥はにこりと微笑んだ。その笑みは先ほどまでと変わらない、ごく普通の少年的なものだった。瓊環の冷淡な声も、命令口調も、彼にとっては日常なのだろう。奈珠那が息を呑む間に、珀弥は襖を閉めていった。

 二人きり──そう思った途端に、空気が変わった。
 桜の香りが濃くなる。背筋が粟立つほどの、妖しい気配。逃げ道を塞ぐように、部屋そのものが奈珠那を囲い込んだようだった。

「こっちへ」

 短く発せられた言葉には、「来い」という命令の匂いを孕んでいる。
 奈珠那の身体は何を考えるよりも先に、瓊環のほうへと動いていた。逆らわないほうが身のためだ、という感覚が骨の髄まで染み込んでいたからだ。自分の意志より相手の言葉に従うほうが波風も立たず、心も身体もすり減らずに済む。そうやって生きてきた記憶が彼女の背を押した。
 
 奈珠那は恐る恐る瓊環の隣へ膝をつく。桜の香りを含んだ甘い空気が肌を撫でた。
 瓊環は、その金色の瞳で奈珠那を見つめた。正面から受け止めるには、あまりにも強い瞳。

「……神様……こんな上等な着物を、ありがとうございます」

 目を逸らすように、奈珠那は両手を膝の前に揃えて深く頭を下げた。
 
「あのままの格好でいられても見苦しいだけだ」
「……お部屋まで、ご用意していただき……なんとお礼を申せばいいか……」
「礼もいらない」
「ですが……」

 か細い声で続けようとした奈珠那のあご先に、瓊環の白い指が添えられた。指先は逃げるように伏せた彼女の顔を、ゆっくりと上向かせる。
 視界いっぱいに、金色の瞳が迫っていた。

「言っただろ」

 奈珠那の背が畳に触れる。押し倒されたのだと、一瞬遅れて気がついた。桜の香りが、息ができないほど近い。

「俺を愛せばいい、と」

 淡く甘い声。けれど、奈珠那から選択肢を奪うような強さが潜んでいた。