「見苦しい姿だ」
男は奈珠那の後ろ手に回された荒縄へ一瞥をくれた。その瞬間、縄は音もなく解ける。誰の手も触れていないのに勝手に緩み、地に落ちた。
「……あ、りがとう……ございます」
奈珠那は解放された自分の細い手首を見つめた。皮膚に食い込んだ跡は痛々しいはずなのに、不思議と痛みはない。
月光を受けて淡く輝く白銀の髪。この世の理から外れた力。目の前の存在が神であると奈珠那は確信する。
そして、気づけば口をついていた。
「……神様。どうして……桜は咲かなくなってしまったんですか……?」
正座の姿勢に身を正し、自然と頭を垂らす奈珠那。この男の前では、そうするしかないような圧があった。
奈珠那の問いに、男は一度だけ瞬きをした。
「なぜ、そんなことを聞く?」
「……私が、祟り子だから……ですか?」
「祟り子?」
「緋い目をしているから……祟り子だと……」
男は一瞬だけ黙り込む。奈珠那の緋い瞳をじっと見つめると、くっくっと喉の奥で冷笑した。
「実に、くだらない」
その一言だけ落とし、退屈そうに指先で空をなぞる。
風が止み、男が現れたときと同じ無数の淡い光が宙を舞った。地面が軋むような、世界が捻れるような感覚が奈珠那の足元から駆け上がる。強烈なめまいが彼女の意識を揺さぶった。
「来い」
「え……?」
答えを待つ暇もなく、視界がほどける。
万年桜も、松明の跡も、夜の匂いさえも遠ざかり、奈珠那の身体は糸で引かれるように男に吸い寄せられた。
光がすべてを塗りつぶす直前、男の低い声が耳元に落ちる。
「お前は、俺を愛せばいい」
世界が、ぱんと音を立てて切り替わった。
⁂
ふと意識が戻って、初めて奈珠那は気を失っていたのだと気づいた。
頭がくらりと揺れ、瞬きを繰り返す。どうやらほんの一瞬ではなく、しっかりと倒れていたらしい。
目覚めた場所は寒くもなく、硬く冷たい地面の上でもなさそうだった。背中に触れるのは、身を包むようなふかふかの布団。鼻先をくすぐるのは、山桜にも似た甘い香り。
「……ここは……?」
奈珠那はむくりと上半身を起こす。重いまぶたを開け、周囲を見渡した。
そこは柔らかな光に満ちた一室だった。
朝日を思わせる淡い金色の筋が差し込み、部屋全体がほのかに温まっている。木目の美しい磨きぬかれた床に、深い色合いの家具たちが落ち着いた雰囲気を醸しだしていた。どれも一見は普通の調度。しかし、よく見ると細工は驚くほど精密で、人の手では表現できない豪奢さがあった。
かつて自分が横になっていた薄い布一枚だけの寝床とは、比べものにならない場所だ。
「あ、気づきました?」
はっきりした幼なげな声がすぐ傍で響いた。
視線を向けた先にいたのは、小さな影。子どもかと思ったが、その容姿はどうにも人ではない。
白銅色の短く揃った髪から伸びている猫のような獣耳。その背からは同じ色をした量感のある尻尾が一本、ふわりと揺れている。
十に満たぬほどの幼い姿でありながら、青磁色の瞳だけは洗練された雰囲気をまとっていた。
「よかったあ。あの人、手加減ってものを知らないから。いつ目覚めるのか心配だったんです」
安堵に細められた瞳に幼さが宿る。ふわふわの耳と背後で揺れる尻尾がなければ、本当に可愛らしい男児にしか見えない容姿。
幻か夢でも見ているのだろうか。奈珠那の意識は、まだあの万年桜の下に残されているようだった。
「すみません……、あなたは……?」
「これは失礼しました。自己紹介が遅れましたね」
その子は慌てて、うやうやしく頭を下げた。
「オレは珀弥。あなたをここに連れてきた桜神に仕える狐の神使です」
狐の神使──聞き慣れない言葉に、奈珠那の思考が一瞬止まる。だが現実離れしたような空間と、目の前の少年の耳と尻尾を改めて見やり、決して冗談ではないのだと遅れて理解した。
「珀弥……様。あの……ここは……? 桜神って、いったい何なんですか……? 私、気がついたらここにいて……わからなくて」
震える声ながらも頭に浮かんだ疑問を言葉にしたことで、ようやく不安が形を持つ。そして気絶から目覚めた直後よりも、はっきりと戸惑いや恐れが押し寄せた。
奈珠那の様子を察したのか、珀弥は少し困ったように眉を寄せ「本当に、あの人は」と小さくため息を落とした。
「いきなり知らない場所に連れてこられて、混乱されるのも無理はないですよね」
こくりと頷く奈珠那。怖かった。けれど、目覚めて最初に向けられたこの少年の明るい表情に、心が軽くなったのも確かだった。
「ここは神域です」
「神域……?」
「はい。ひとまず、ご安心ください。ここは奈珠那様に害を加える者はいませんから」
柔らかく告げられた言葉に、胸のつっかかりがわずかに緩む。状況は飲み込めないままだというのに、珀弥の声音は不思議と恐怖をほどいてくれた。
「……そう、なんですね」
「本当は、オレが全部説明できればいいんですけど……勝手に言ってしまうと叱られちゃいそうですし。奈珠那様が目覚めたら、まずお会いするようにって言われてるんです」
あははと苦い笑いをこぼしたあと、青磁の瞳がまっすぐ奈珠那を見つめた。どこまでも澄んでいる瞳。やはり彼もまた、人ならざる者なのだ。
「怖がらせるつもりはありません。あの人は……少し不器用なところはありますけど、奈珠那様に危害を加えるお方ではありませんから」
そう言って、珀弥は奈珠那へ手を差し出す。小さな手は、先ほどまで尻尾を揺らしていた子どもじみた仕草から想像できなかったほど、丁寧で端然な姿勢だった。
「奈珠那様がよろしければ、ご案内させていただきます。我が主、瓊環様のところへ」
彼の言動に怯えを煽るようなところは一つもない。あるのは主への忠誠心と、見知らぬ場所に放り込まれた奈珠那を気遣うような思いやり。
奈珠那は自分でも気づかぬうちに伸びそうになっていた指先を見つめながら、かすかに喉を鳴らした。
男は奈珠那の後ろ手に回された荒縄へ一瞥をくれた。その瞬間、縄は音もなく解ける。誰の手も触れていないのに勝手に緩み、地に落ちた。
「……あ、りがとう……ございます」
奈珠那は解放された自分の細い手首を見つめた。皮膚に食い込んだ跡は痛々しいはずなのに、不思議と痛みはない。
月光を受けて淡く輝く白銀の髪。この世の理から外れた力。目の前の存在が神であると奈珠那は確信する。
そして、気づけば口をついていた。
「……神様。どうして……桜は咲かなくなってしまったんですか……?」
正座の姿勢に身を正し、自然と頭を垂らす奈珠那。この男の前では、そうするしかないような圧があった。
奈珠那の問いに、男は一度だけ瞬きをした。
「なぜ、そんなことを聞く?」
「……私が、祟り子だから……ですか?」
「祟り子?」
「緋い目をしているから……祟り子だと……」
男は一瞬だけ黙り込む。奈珠那の緋い瞳をじっと見つめると、くっくっと喉の奥で冷笑した。
「実に、くだらない」
その一言だけ落とし、退屈そうに指先で空をなぞる。
風が止み、男が現れたときと同じ無数の淡い光が宙を舞った。地面が軋むような、世界が捻れるような感覚が奈珠那の足元から駆け上がる。強烈なめまいが彼女の意識を揺さぶった。
「来い」
「え……?」
答えを待つ暇もなく、視界がほどける。
万年桜も、松明の跡も、夜の匂いさえも遠ざかり、奈珠那の身体は糸で引かれるように男に吸い寄せられた。
光がすべてを塗りつぶす直前、男の低い声が耳元に落ちる。
「お前は、俺を愛せばいい」
世界が、ぱんと音を立てて切り替わった。
⁂
ふと意識が戻って、初めて奈珠那は気を失っていたのだと気づいた。
頭がくらりと揺れ、瞬きを繰り返す。どうやらほんの一瞬ではなく、しっかりと倒れていたらしい。
目覚めた場所は寒くもなく、硬く冷たい地面の上でもなさそうだった。背中に触れるのは、身を包むようなふかふかの布団。鼻先をくすぐるのは、山桜にも似た甘い香り。
「……ここは……?」
奈珠那はむくりと上半身を起こす。重いまぶたを開け、周囲を見渡した。
そこは柔らかな光に満ちた一室だった。
朝日を思わせる淡い金色の筋が差し込み、部屋全体がほのかに温まっている。木目の美しい磨きぬかれた床に、深い色合いの家具たちが落ち着いた雰囲気を醸しだしていた。どれも一見は普通の調度。しかし、よく見ると細工は驚くほど精密で、人の手では表現できない豪奢さがあった。
かつて自分が横になっていた薄い布一枚だけの寝床とは、比べものにならない場所だ。
「あ、気づきました?」
はっきりした幼なげな声がすぐ傍で響いた。
視線を向けた先にいたのは、小さな影。子どもかと思ったが、その容姿はどうにも人ではない。
白銅色の短く揃った髪から伸びている猫のような獣耳。その背からは同じ色をした量感のある尻尾が一本、ふわりと揺れている。
十に満たぬほどの幼い姿でありながら、青磁色の瞳だけは洗練された雰囲気をまとっていた。
「よかったあ。あの人、手加減ってものを知らないから。いつ目覚めるのか心配だったんです」
安堵に細められた瞳に幼さが宿る。ふわふわの耳と背後で揺れる尻尾がなければ、本当に可愛らしい男児にしか見えない容姿。
幻か夢でも見ているのだろうか。奈珠那の意識は、まだあの万年桜の下に残されているようだった。
「すみません……、あなたは……?」
「これは失礼しました。自己紹介が遅れましたね」
その子は慌てて、うやうやしく頭を下げた。
「オレは珀弥。あなたをここに連れてきた桜神に仕える狐の神使です」
狐の神使──聞き慣れない言葉に、奈珠那の思考が一瞬止まる。だが現実離れしたような空間と、目の前の少年の耳と尻尾を改めて見やり、決して冗談ではないのだと遅れて理解した。
「珀弥……様。あの……ここは……? 桜神って、いったい何なんですか……? 私、気がついたらここにいて……わからなくて」
震える声ながらも頭に浮かんだ疑問を言葉にしたことで、ようやく不安が形を持つ。そして気絶から目覚めた直後よりも、はっきりと戸惑いや恐れが押し寄せた。
奈珠那の様子を察したのか、珀弥は少し困ったように眉を寄せ「本当に、あの人は」と小さくため息を落とした。
「いきなり知らない場所に連れてこられて、混乱されるのも無理はないですよね」
こくりと頷く奈珠那。怖かった。けれど、目覚めて最初に向けられたこの少年の明るい表情に、心が軽くなったのも確かだった。
「ここは神域です」
「神域……?」
「はい。ひとまず、ご安心ください。ここは奈珠那様に害を加える者はいませんから」
柔らかく告げられた言葉に、胸のつっかかりがわずかに緩む。状況は飲み込めないままだというのに、珀弥の声音は不思議と恐怖をほどいてくれた。
「……そう、なんですね」
「本当は、オレが全部説明できればいいんですけど……勝手に言ってしまうと叱られちゃいそうですし。奈珠那様が目覚めたら、まずお会いするようにって言われてるんです」
あははと苦い笑いをこぼしたあと、青磁の瞳がまっすぐ奈珠那を見つめた。どこまでも澄んでいる瞳。やはり彼もまた、人ならざる者なのだ。
「怖がらせるつもりはありません。あの人は……少し不器用なところはありますけど、奈珠那様に危害を加えるお方ではありませんから」
そう言って、珀弥は奈珠那へ手を差し出す。小さな手は、先ほどまで尻尾を揺らしていた子どもじみた仕草から想像できなかったほど、丁寧で端然な姿勢だった。
「奈珠那様がよろしければ、ご案内させていただきます。我が主、瓊環様のところへ」
彼の言動に怯えを煽るようなところは一つもない。あるのは主への忠誠心と、見知らぬ場所に放り込まれた奈珠那を気遣うような思いやり。
奈珠那は自分でも気づかぬうちに伸びそうになっていた指先を見つめながら、かすかに喉を鳴らした。



