万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

「瓊環様! 奈珠那様! 今日は一段と桜の機嫌が良いですよ!」

 神域にそびえる万年桜の下、花弁が舞う光の中に元気いっぱいの声が響き渡った。桜の太い枝をぴょんぴょんと跳ねるように駆けてくるのは、狐の耳と尻尾を揺らした少年──神使の珀弥。その手には、下界から持ち帰ったばかりの温かな香りのする包みが抱えられている。

「見てください、里で一番人気の饅頭です! 奈珠那様が好きそうだなって、こっそり並んで手に入れてきました」
「ありがとう、珀弥」

 奈珠那は黒鳶色の髪をさらり揺らし、微笑みながら珀弥を迎え入れた。その瞳は、あの日瓊環と誓い合ったときよりもずっと深く、鮮やかな黄金の輝きを緋色の中に宿している。立ち居振る舞いには、すでに神の伴侶としての気品と穏やかさが備わっていた。
 
「機嫌がいいのはお前だろ、珀弥」

 呆れながらも、どこか楽しげな声が隣から響く。神域の主であり、奈珠那の夫となる瓊環だ。彼は相変わらず凛とした美しさを(たた)えていたが、奈珠那の肩にそっと手を置く仕草は優しく、愛おしさにあふれていた。

「渡したなら、さっさと降りろ」
「ええっ、瓊環様ばっかりずるいですよ。オレだって、たまには奈珠那様とお話ししたいんですからね」

 珀弥が頬を膨らませて抗議すると、奈珠那はくすくすと笑ってみせた。
 かつて神の声ひとつに怯え、顔色をうかがうように震えていた日々の影は、いまや穏やかな笑い声に溶けきっている。奈珠那にとって、この神域は賑やかで温かな家となっていた。

「人間界でも、綺麗に咲いていましたよ」

 自分の分の饅頭を取り出した珀弥は満足そうに言い、奈珠那の隣へさりげなく腰掛けた。

「今は春ですもんね。大きな木ですから、花の香りもすごく遠くまで届きそうです」

 万年桜がこの丘に移ってから、何十回目の春だろう。
 下界では数十年という歳月が過ぎ去っていた。目まぐるしかった日々は、今は木漏れ日の落ちる昼下がりのように悠然と流れているように感じられる。奈珠那の魂が着実に神へと馴染みつつある証拠だった。

 三人で並んで饅頭を食べ終えると、ほのかな甘さと温かさが口の中に残る。珀弥はにこにこと笑い、瓊環も奈珠那も顔を見ながら互いの時間を享受していた。

「あの、瓊環様」

 奈珠那は口の端に微笑みを浮かべ、食べ終わった包みを膝の上に置いた。

「久しぶりに、()の桜も見てみませんか?」

 奈珠那の提案に瓊環はわずかに目を開いた。だがすぐに目を細め、尊重するように彼女の望みを受け入れる。

「お前がそう言うなら、構わん」

 瓊環は短く応え、奈珠那の髪を指先ですくった。その仕草一つにも、隠しようのない慈愛が滲んでいる。

「ええ、またオレは置いてけぼりですか!?」

 二つ目の饅頭を頬張りながら、珀弥が慌てた声を上げる。
 
「珀弥も一緒に行きます?」

 奈珠那が優しく問いかけると、珀弥は一瞬だけ目を輝かせた。しかし、間髪を入れずに「いえ、大丈夫です!」と胸を張って首を振る。

「こう見えて、オレにもちゃんと矜持がありますから! お二人の逢瀬の邪魔をするほど、野暮な狐じゃありません」

 珀弥は茶目っ気たっぷりに笑い、奈珠那の黄金混じりの瞳を見つめた。

「お二人が夫婦(めおと)になる日を心待ちにしています」

 珀弥の真摯なまでの言葉に、二人は同時に顔を見合わせる。陽だまりのような光が舞う神域の桜の中で、三人の影がひとつに溶けているようだった。

「行くぞ」

 照れ隠しのように奈珠那の手を取った瓊環は、万年桜の太い枝から静かに降り立った。

「いってらっしゃいませ!」

 上から珀弥の明るい声が弾む。狐の耳を揺らしながら大きく手を振る姿が見えた。
 
「土産はカステラでいいですからねー!」
「調子に乗るな」

 素っ気なく返しながらも、その声音は柔らかい。奈珠那も微笑みながら珀弥に向かって軽く手を振り返した。

 瓊環が幹に手を触れた瞬間、桜の光がふっと揺らいた。万年桜の内側に満ちていた淡い輝きが霧のように薄れていき、視界がゆるやかに切り替わる。足元の感触も、冷たい土と柔らかな草のものへ変わっていった。

 ⁂

 奈珠那が顔を上げると、そこには見慣れた春の空が広がっていた。澄んだ青の下、丘の上に一本だけ立つ大きな桜の木。満開の花たちは穏やかな風に身を任せている。

「珀弥が言っていた通り、綺麗に咲いてますね」

 神域の万年桜と同じはずなのに、まるで別物のようだった。花弁はひとひらずつ重みを持ち、はらりと地に落ちていく。
 奈珠那は花弁を一枚拾い上げて、手のひらに乗せた。

「ここでは、ただの桜にしか見えん」

 瓊環はそう言って、丘の下を見渡した。遠くでは行き交う人々が足を止め桜を見上げている。「綺麗だね」という声があちこちで響く。

 四季を通して薄桃色の花を咲かせていたそのかみの万年桜は、春の陽に煌めき、夏の光に緑の葉を揺らし、秋の風に枝を踊らせ、冬の結晶を積もらせる桜の木として丘の上に根を張っていた。
 神秘さを失い、ひとつの樹木として佇むそれは、人々を繋ぎ止める絆の象徴として四季を巡らせている。
 家族連れが笑い、恋人たちが愛を語らう。すべてが昔の奈珠那が焦がれ、決して手に入らないと諦めていた幸せの形だった。

「……綺麗ですね。この桜も、そこに集う人たちの心も」
「そうかもな」

 人間嫌いだった神も、今では奈珠那が愛おしむものを同じように愛おしむようになっていた。それは彼がこの数十年で手に入れた、最も人間らしく、そして尊い感情だった。

「私、こうして外の桜を見るのも好きです」
「そうか」

 瓊環は微笑みを浮かべ、目の端で奈珠那を見つめる。金の瞳には、何十年の時を経ても変わらぬ深い慈しみが宿っていた。

「また来年も見に来るか」
「はい」

 奈珠那は短く答えて、彼の腕に自分の腕を絡めた。春だけに見せる刹那の輝きが二人を包む。
 すぐそばでは、人々の笑い声や楽しむ足音。瓊環の手の温もりと重なるその声は、奈珠那の胸に安らぎをもたらした。

「来年もきっと、綺麗に咲くんでしょうね」

 見上げた先で薄紅の花弁が風に舞う。散るからこそ美しい、人々の世界の桜。それは神域で咲き誇り続ける万年桜とは違う、今この瞬間にしか出会えない儚い美しさだ。

「人間たちがこの木を囲む理由が、少しだけわかった」

 瓊環も空を仰ぎ、舞い散る花弁を静かに見送る。

「限りがあるからこそ、今を愛おしむ……。お前がそう教えてくれた」
「ええ」

 花弁の揺れる音が春の空気に溶けていく。ひとひらの花びらが地に着いたとき、「だが」と口を開いた瓊環が、ゆっくりと奈珠那の方を向いた。

「俺の愛は朽ちることはない。永遠に、お前だけだ」

 迷いのない言葉は、どんな神の(ことわり)よりも強く奈珠那の胸を貫いた。
 瓊環は柔らかな笑みを浮かべ、奈珠那の額にこつんと自分の額を重ねる。目が合うと、ふふっと、どちらからともなく笑みがこぼれた。
 
「愛しているよ、奈珠那」
「私も愛しています、瓊環様」


 かつて孤独だった生贄の少女は、もうどこにもいない。そこにあるのは最愛の神に守られ、その隣で終わらない春を共に生きる、ひとりの幸福な女神の姿だった。

 
 丘の上では今日も人々が大樹を見上げ、笑い、語らい、季節の移ろいを楽しんでいる。
 神の存在を知らずとも、その木の下に流れる時間は、誰かの記憶や想いとなって受け継がれていくのだろう。

 そして数百年後も、数千年後も、二人は寄り添い、変わりゆく世界と変わらない想いを何度も確かめ合っていく。
 咲き誇る万年桜の下。生贄になった夜に動き出した運命は、永遠の愛へと形を変えて、いつまでも鮮やかに輝き続けているのだった。