万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

 はっと気づいたとき、奈珠那はひっそりとした静寂の中に立っていた。
 耳に届くのは、夜風に揺れる葉擦(はず)れの音。目の前にあるのは、月明かりを浴びて淡く煌めく満開の万年桜。
 夜の闇を温めように咲き誇る桜は、この世のものとは思えないほどに美しかった。先ほどまでの村の喧騒と憎悪、それから必死に伸ばされた手も、すべてが遠い夢だったかのように現実感を失っていく。

「……綺麗」

 自然と呟きがこぼれ落ちた。
 
「そうだな」

 穏やかな返事が聞こえる。顔を向けると、すぐ隣に瓊環が立っていた。奈珠那と同じように万年桜を見上げている。

「瓊環様、ここは……?」
「あの村から少し離れた丘の上だ」
「離れた場所……」

 万年桜が物理的に移されたのだと、頭では理解できた。しかし、胸の奥にはまだ拭いきれない違和感が残っている。

「あの……皆さんの様子が急に変わったのって……」

 言葉を選びながら奈珠那は続ける。

「私が舞ったこととか、桜が咲いた理由とか……。村の人たちの中から、そういうことだけが抜け落ちた気がして……」

 自分の記憶は、はっきりとしている。舞ったことも、万年桜が応えた瞬間も忘れてなどいない。だが去り際に見た人々の顔だけが、どうにも噛み合わずにいる。
 辻褄の合わない悪夢に放り出されたような、怒りと恐怖がないまぜになった表情。その感情がどこから生まれたものなのか、奈珠那は掴めずにいた。

「忘却の力だ」

 瓊環は声色ひとつ変えずに答えた。

「忘却……?」

 小さく問い返す奈珠那に、瓊環は頷く。視線は奈珠那ではなく、月光に照らされた万年桜へと向けられたままだ。
 奈珠那は瓊環の語る言葉に耳を傾けた。

 瓊環は力を使い、人々の記憶から奈珠那という存在と彼自身の存在、そして万年桜が咲いた理由そのものを切り離したらしい。
 残されたのは、千佳が万年桜を枯らしたという記憶と、万年桜が消え失せたという事実だけ。だから人々は何が起きたのか理解できないまま、感情の矛先を千佳たちに向けることしかできなかったのだという。
 
“──これが俺からの慈悲だ”

 瓊環の言葉を思い出す。彼ならきっと、あの村を焼き払うこともできたはずだ。それをしなかったのが瓊環なりの慈悲だったのだと、奈珠那は遅れて理解した。
 命だけは助け、心の()り所を奪う。何故これほど不幸なのかもわからず、祈る神ですらもういない。互いを呪い合って、腐敗するように衰退していく。
 ある意味、死よりも残酷な結末。それが奈珠那に向けられてきた悪意すべてに等しく与えられた末路だった。

 瓊環の話を聞いても、奈珠那の心にはさざ波すら立たなかった。快感も、憐れみさえも抱けない。
 でもどこか、自分を縛り付けていた鎖が砂となって崩れ落ちていった感覚がした。

「瓊環様は……もう消えずに済むんですよね」

 その言葉が自身の口からこぼれたことに、奈珠那は少しだけ驚いた。
 村がどうなろうと、人々がどんな結末を辿ろうと──そんなことよりも、いま目の前にいる存在のほうが、どうしようもなく気にかかっていた。
 薄情だと思う。人でなしだと責められても仕方がない。そうとわかっていても、奈珠那の胸を占めていたのは瓊環がこの先もここに在るのか、という不安だけだった。

 奈珠那の問いに、瓊環は意外そうに目を細めた。自分の消失を気にかけるような問いを投げかけられるとは思っていなかったのだろう。金の瞳に、わずかな揺らぎが差した気がした。
 瓊環は「ああ」と短く頷いた。

「本来なら、消えていた」

 そう告げた唇が、わずかに弧を描く。表情は凪いでいて、奈珠那を見つめる目つきは、桜を見るときのものとはほんのわずかに違っていた。
 
「お前と出会わなければな」
「……私と?」
「ああ」

 瓊環は自嘲気味にひとつ笑みをこぼすと、少し目を伏せて独り言のように続けた。
 
「俺は、自分が消えることに何の抵抗もなかった。生も死も興味がない。愛なんてくだらない。だから、運命を受け入れていた」

 一歩、瓊環が奈珠那に歩み寄る。

「そんなところへ、お前が来た」

 金の瞳がまっすぐに奈珠那を映した。

「同じように生死に興味のなさそうな、濁った緋色の目をした生贄。面白いと思った」
「面白い……ですか?」
「ああ。最初は、ただの気まぐれだった。残りの一年、適当に暇つぶしに付き合わせて……目障りだと判断したら、そこで終わらせればいい。その程度のつもりでいた」

 隠すこともなく告げられた神の本音。それは酷薄(こくはく)なようで、けれど不思議と冷たくはなかった。

「だが、お前は俺が思っていたよりもずっと素直で、強くて、優しかった。気づけば目が離せなくなっていたし、いなくなったときには妙に胸が騒がしくなって理由もなく苛立った。そして……守りたいとも思った」

 視線を重ねた瞬間、心臓が大きく跳ねた。誰からも必要とされず切り捨てられてきた自分を、この神だけは選んでくれた。胸に熱が帯びていく。誰かに守られるということ──それが他ならぬ瓊環だという事実が、やさしく心を揺らしていた。
 
「いつの間にか、終わらせる理由はどこにも見当たらなくなっていた」

 瓊環は奈珠那の頬を手のひらで包み込んだ。

「この意味がわかるか、奈珠那」

 わからないはずがない。金色の瞳は「共に生きよう」と告げられたときと何一つ変わらない、真剣な眼差しだった。

「……はい、もちろんです」

 奈珠那は彼の手のひらに、ふうわりと自分の手を重ねる。終わらせたくないのは、自分も同じだ。それを証明するように奈珠那は自ら一歩踏み出し、瓊環へと近づいた。

「一年以内に俺を愛せ。できなければ殺してやると、そう契約したな」
「はい」
「期限は、今日だ」
「……はい」

 どちらからともなく、ゆっくりと距離が詰まる。

「人間としての奈珠那は、今日で終わりだ。これからは俺の隣で生きろ。永遠に俺を愛し、俺もまた永遠にお前を手放さない」

 唇が触れそうなほどの距離で瓊環は低く告げる。

「覚悟があるなら、俺を受け入れろ」

 吐息に混じって、甘い桜の香りが触れた。

「これは……二度と人へは戻れぬ契約だ」

 返事の代わりに奈珠那は静かにまぶたを閉じた。重ねた手に、ぎゅっと力を込める。
 柔らかな唇が触れた瞬間──この世との境界線を越えた気がした。