万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

「ひ……っ!?」
「な、なに……! 離して……!」

 逃げようと足掻く二人の脚に、影は執拗に絡みつく。

「助けて……! 誰か……!」

 影は底なし沼のように二人を引きずり込んでいく。恐怖に歪んだ叫びは影に飲まれ、瞬く間に全身を覆い尽くす。瞬きをする間もなく、二人は奉納台から姿を消した。
 一瞬の静寂が流れたあと。
 どさ、と鈍い衝撃音が奈珠那の前で鳴る。息を呑みながら奉納台を見つめていた彼女の前に、千佳と沙都子が文字通り“落ちてきた”のだ。

「千佳……沙都子叔母様……」

 困惑して声をかけても返事はなく、二人は地に身体をつけたまま動けないようだった。見えない重りに押さえつけられているかのように、強制的に奈珠那の足元で額を擦りつけている。
 いつの間にか奈珠那の隣に降り立っていた瓊環が、彼女の肩を抱き寄せた。腕の力は驚くほど強く、離すまいとする意思がはっきりと伝わってくる。
 
「お前たちは、神の逆鱗に触れた」

 恐ろしいほど冷酷な神の声に、奈珠那は自ずと肩を震わせた。そして、目の前で無様に這いつくばる二人の姿。自分を虐げていたはずの権威(けんい)は、今は見る影もなく泥にまみれている。
 奈珠那の心情は複雑だった。胸をすくような、純粋な晴朗(せいろう)だけで割り切れるものではなかったのだ。
 虐げられることを、呼吸をするのと同じ“当たり前”の日常として受け入れてきた。逆らうことも、逃げることも、いつしか想像すらしなくなっていた。その末に、「さっさと死んでいれば」と吐き捨てられた。
 しかし、怒りも悲しみも湧かずにいる。起きた事実だけが、空虚として胸を通り過ぎていった。

 奈珠那は肩を抱いている神に、無意識に視線を向ける。自分を救うために、迷いなく人を断罪する存在。守られているはずなのに、彼の腕の力は優しさと同時に底知れないほどの重さを孕んでいた。

「奈珠那以外の人間に桜が応えることなどない。浅ましい藤ノ宮の名も、信仰も、ここで終わりだ」

 瓊環の宣告が稲妻のように夜に轟く。そしてそれは、今や奈珠那を崇めることしか生き残る道がない人間たちには、絶対的な神のお告げに届いたようだった。

「そうだ……偽物なんて、いらない」
「奈珠那様さえ、いらっしゃれば」
「奈珠那様が桜神を祀ってくれる」

 縋るような声が地鳴りのように広まっていく。これまで奈珠那を「祟り子」と呼び、生贄として差し出すことに何の疑問も抱かなかった群衆。それが今は、救済を求めるように必死で彼女へ手を伸ばし、口々に祈りの言葉を並べ立てている。
 それは信心(しんじん)などではなかった。むき出しの生存本能と、責任を押し付けるための醜い欲。
 奈珠那はその光景を前にして生まれて初めて、人間の底意地というものに、ぞくりと身の毛がよだつのを感じた。

反吐(へど)が出る」

 奈珠那の代わりに吐き捨てたのは、瓊環だった。

「お前たちも同罪だ。なんと意地汚く、欲深い。だから人間は嫌いなんだ」

 瓊環が静かに手をかざす。その仕草ひとつで、空気がぴんと張り詰めた。何かが来る──直感した瞬間、奈珠那はたまらず瓊環の裾を掴んでいた。
 
「瓊環様……もう、十分です」

 このまま瓊環に手を下させれば、目の前の者たちは一瞬で消し去られてしまうだろう。しかし、そんなことのために彼の温かな手を汚してほしくなかった。

「これ以上、罰は与えないでください。この人たちは……もう、私にとって関係のない人たちですから」

 奈珠那の言葉にざわめきが走る。

「そんな、奈珠那様……!」
「これからは、この村の正統な巫女様として……」
「どうか、お救いを……!」

 縋りを増した声が絡みつくように伸びてくる。祈りや願いではなく、(おぞ)ましいほどの執着。
 奈珠那はそれを振り払うように、一歩前へ踏み出した。

「私は……あなたたちとは、生きません」

 きっぱりとした拒絶だった。

「誰かを犠牲にしなければ成り立たない村なんて、必要ありません。私は、あなたたちの巫女でも、崇められる対象でもない」

 言い切ると、人々は弾かれたように顔を上げた。彼らの表情に絶望が伝うのを、奈珠那は冷静に見据えている。

「これが私の答えです」

 桜の下に重い沈黙が広がった。人々は口を開きかけたが、力を失ったように膝をついたまま動かずにいる。救いを拒まれたという事実を、まだ理解しきれていない顔だ。
 ばっさりとした精悍(せいかん)な声が、沈黙を断ち切った。

「奈珠那は俺が貰い受ける」

 瓊環は奈珠那を抱きかかえ、高らかに宣言してみせた。
 不意に身体が宙に浮いた奈珠那は、思わず小さく息を呑む。驚きに目を見開いたまま瓊環を見上げた。
 端正な横顔には、先ほどまで人々を震え上がらせていた鋭さはなく、神の決意だけが宿っている。
 ああ、と奈珠那の胸に言葉にならない感情が落ちた。彼の言葉が深く心に沁みていく。拒む理由など、どこにもない。手を伸ばし、「ついていきます」と答えるように、きゅっと瓊環の衣を掴んだ。

 (ひざまず)く人間たちに背を向けた瓊環に、「お待ちください……!」と悲壮感に満ちた叫びが投げられた。

「その力、その佇まい……あなたは、桜神なのでは……!?」
「でしたら、どうか……! 我々にも慈悲を……!」

 縋る声が重なり、夜を汚していく。
 
「慈悲、か」

 瓊環は半身を返し、くすりと笑う。不敵な笑みに、奈珠那の胸の奥がひやりと冷えた。
 彼が何をしようとしているのかはわからない。だが、彼をまとう神気が、目の前の人々を跡形もなく消し去りかねないほどに膨れ上がっている。

「瓊環様……本当に、これ以上は……」
「安心しろ、殺しはしない。その代わり、望み通りの慈悲を与えてやる」

 瓊環の身体が、かすかに熱を帯びた気がした。万年桜が一度、ざわりと鳴る。枝が揺れ、淡い光を宿した花弁が人々の頭上へと降り注いだ。

「奈珠那とお前たちの縁を、ここで断つ」

 はらはらと舞い落ちる花弁を人々は放心したように目で追っている。
 やがて、すべての花弁が地に吸い込まれ、幻想が途切れた瞬間。

「……桜が……咲いてる」
「藤ノ宮の娘が枯らしたはずじゃ……」
「誰が舞を舞ったんだ?」

 人々の戸惑いだけが場に取り残されていた。

「これが俺からの慈悲だ」

 瓊環が口端を吊り上げながら囁くと、轟音とともに凄まじい風が吹き抜けた。視界を覆い尽くすほどの桜吹雪が渦を巻き、世界を真っ白な光で塗りつぶした。
 しゃらん──と凛とした音を合図に、光が弱まる。眩しさに目をつむった人々が恐る恐る目を開けると、そこには残酷なまでの闇が広がっていた。
 
「万年桜が……消えた!?」

 先ほどまで薄桃の輝きを放っていた神木は、影も形もなく消え去っていた。切り株のひとつ、枝の一本さえ残っていない。そこには寒々とした夜の闇と、ぽっかりと空いた広大な空地(くうち)があるだけだった。
 信仰していたものの消失。悪夢のような現実を突きつけられた人々の顔から血の気が引いていく。
 
「……藤ノ宮のせいだ! この一族が不浄な真似をしたから、桜神がお怒りになられた!」
「お前たちが桜を消したんだ!」

 群衆の目が一斉に千佳と沙都子へと向けられた。何が起きたのか理解できぬまま、神に見捨てられた恐怖と怒りの捌け口として罵声を浴びせる。

「私たちは何も……!」
「あなたたちこそ、桜神の逆鱗に触れるようなことでもしたんじゃなくて……!?」

 身に覚えのない罪を負わさた二人の叫びが、次第に遠ざかっていく。

「行こう、奈珠那」

 奈珠那は自分を抱き上げる瓊環の胸に深く顔を埋め、静かに目を閉じた。永遠の春を失った村を背に、二人は光の彼方へと消えていく。
 月光に照らされた丘の上は、はじめから何もなかったかのような荒涼(こうりょう)とした景色が広がっていた。