五日前。
奈珠那が、消えた。地に落ちていた白百合の簪。それだけで彼女の身に何が起きたか悟るに十分だった。
印は沈黙したままだった。人間界では反応しない──のではなく、本当は人間界では上手く力が出せなかった。いや、力を失いかけていたのだ。
たった数時間、神域を離れ、人間の姿を借りていただけ。それだけなのに、今までにない疲労感と倦怠感が全身を襲った。奈珠那がいなくなったことで、それが顕著に現れる。
命が尽きかけている。そう理解するより先に、身体が答えを出していた。
「……あの」
不意に声をかけられた。見知らぬ女。年頃は、奈珠那とそう変わらない。
「急にお声をかけてしまい申し訳ございません。素敵な殿方だと思いまして、つい」
女は口元を扇子で隠しながら控えめに笑い、距離を詰めてきた。喉を焼くような甘ったるい桜の香りが鼻につく。視線は期待に満ちていた。
「……は?」
「今、おひとり様ですよね。もし、お時間よろしければ、私と……」
「失せろ」
一閃の稲光のような一言だった。
今すぐにでも奈珠那を見つけ出さねばならない。それなのに、視界を塞がれ、時間を無駄にされるのが極まりなく不愉快だった。
焦燥と苛立ちに任せて、女の記憶から自分という存在を削り取った。今の自分には、そんな些細な力でさえ命を削る行為になるが構わない。
女は目の色を失い、それ以上何も言わず、くるりと踵を返し立ち去った。
それから瓊環は、ひたすら奈珠那を探した。
村も、街も、山を越えながらも──神として手を伸ばせる限りを、何度も探り続けた。
しかし、奈珠那の気配は掴めずにいる。
──失うかもしれない。
その可能性が脳裏をよぎるたび、万年桜の枝が軋んだ。
⁂
そして、五日目の夜。
けたたましく鳴り響く笛や太鼓。年に一度、下俗な人間たちが上げる、祈りという名の叫び。神域を侵すその騒音を、瓊環は「うるさい」としか思っていなかった。
だが、それはふとした瞬間に訪れた。
『瓊環様』
あの声で、確かに呼ばれた。鼓膜よりも、心に直接触れたように響く。どくんと心臓が跳ねた。奈珠那につけた印が、かつてないほど激しく熱を帯びているようだった。
──奈珠那……!
ずっと探していた彼女の気配と、途切れ途切れの想いが万年桜から伝ってきた。
『私は……あなたのことを、お慕いしております』
それは、今まさに命を捨てようとしている者の、あまりにも清廉な告白だった。
──ふざけるな……。
一人で勝手にどこにも行くなと誓ったはずだったのに。どうして、こんな形で終わらそうとするのか。自分を犠牲にすれば救われると、本気でそう思っているのか。
奈珠那のいない世界で、自分だけが独り生きながらえることに何の意味があるというか。
怒りよりも身を震わせるのは、胸を焦がすほどの彼女への想い。それを「愛」と呼ぶのだと、瓊環はようやくその想いを自分に許した。
「この、救いようのない阿呆が」
縄を断ち切り、崩れ落ちるか細い身体に手を伸ばす。やっと、彼女を抱きしめることができた。
肩の震え。自分を呼ぶ掠れた吐息。生きて、腕の中にいる。その事実だけで、吹けば消えてしまいそうな彼の命の灯火が、凄まじい勢いで燃え上がった。
「奈珠那を拐ったのは、お前か」
金の双眸が射抜くような鋭さで千佳を捉えた。
「……言っている意味が、よくわかりませんわ」
千佳は一瞬言葉を詰まらせてから、無理に笑みを作る。
「私は、そこの祟り子と違って藤ノ宮の血を正当に引く者よ。桜を咲かせ、村を救うために舞っているの。あなたような化け物に、屈するはずが……」
「身の程をわきまえろ」
氷の礫を放ったような、冷淡な一喝。千佳だけでなく、周囲のどよめきさえも凍りついたように静まった。
「お前の舞で桜が咲く、だと? 滑稽だな。祟り子だの化け物だの、それはお前のほうだ」
瓊環が万年桜の幹に視線を配った瞬間。木の枝が、腐食されたようにみるみると黒ずんだ。
「あ……ああ……っ!?」
悪夢のような光景に、どこからともなく悲鳴が上がる。
枝先から何かがはらはらと落ちだした。漆黒の花弁だ。終末を告げるようにしんしんと降り積もる花弁が、周囲が黒く闇に染め上げる。
「どうして……この私が舞ったよ!? こんなことって……!」
千佳の叫びが場違いに響く中、瓊環の嘲笑がひとつ落ちた。
「お前が舞ったからだ。桜が応えるのは、お前のような人間ではない」
瓊環は視線を胸元にいる奈珠那へと移す。千佳たちに向けていた凄みはなく、腕の中の少女を守るための眼差しだった。
「瓊環様……このまま、消えてしまうのですか?」
衣を掴む奈珠那の指先は、わずかに震えていた。不安に潤んだ緋色の瞳で恐る恐るこちらを仰ぐ。変わり果てた万年桜は、彼女の目には自分が消える前兆にしか映らなかったのだろう。
「こんなにも闇に染まって……もう、間に合わないのですか……? 私は、どうしたら……」
「違う。終わりではない」
瓊環は大きな手のひらで奈珠那の頬を包み込んだ。指先に伝わるのは、儚くも愛おしい彼女の体温。
「お前以外の祈りなんて、俺には必要ない」
気まぐれでも、思いつきでも、独占欲とも違う。最初から、彼にとって答えはひとつしかなかった。
「舞え、奈珠那」
「……私が、ですか?」
驚きに揺れる表情から目を逸らさずに、瓊環は「そうだ」と力を込めたように頷く。
「桜が応えるのは、お前だけだ」
「私に……できるでしょうか」
「できる。俺が、ここにいる」
腕の中で奈珠那の震えが収まるのを感じた。緋の目にかかっていた霞が、ゆっくりと晴れていく。自分を捉え直した瞳は、他の何ものにも代えがたい美しい光彩を添えていた。
「共に生きよう」
それは契約や命令なんて類のものではなく、未来への誓いだった。
言葉を置いた瓊環は、奈珠那の額にやさしく口づけを落とした。
奈珠那が、消えた。地に落ちていた白百合の簪。それだけで彼女の身に何が起きたか悟るに十分だった。
印は沈黙したままだった。人間界では反応しない──のではなく、本当は人間界では上手く力が出せなかった。いや、力を失いかけていたのだ。
たった数時間、神域を離れ、人間の姿を借りていただけ。それだけなのに、今までにない疲労感と倦怠感が全身を襲った。奈珠那がいなくなったことで、それが顕著に現れる。
命が尽きかけている。そう理解するより先に、身体が答えを出していた。
「……あの」
不意に声をかけられた。見知らぬ女。年頃は、奈珠那とそう変わらない。
「急にお声をかけてしまい申し訳ございません。素敵な殿方だと思いまして、つい」
女は口元を扇子で隠しながら控えめに笑い、距離を詰めてきた。喉を焼くような甘ったるい桜の香りが鼻につく。視線は期待に満ちていた。
「……は?」
「今、おひとり様ですよね。もし、お時間よろしければ、私と……」
「失せろ」
一閃の稲光のような一言だった。
今すぐにでも奈珠那を見つけ出さねばならない。それなのに、視界を塞がれ、時間を無駄にされるのが極まりなく不愉快だった。
焦燥と苛立ちに任せて、女の記憶から自分という存在を削り取った。今の自分には、そんな些細な力でさえ命を削る行為になるが構わない。
女は目の色を失い、それ以上何も言わず、くるりと踵を返し立ち去った。
それから瓊環は、ひたすら奈珠那を探した。
村も、街も、山を越えながらも──神として手を伸ばせる限りを、何度も探り続けた。
しかし、奈珠那の気配は掴めずにいる。
──失うかもしれない。
その可能性が脳裏をよぎるたび、万年桜の枝が軋んだ。
⁂
そして、五日目の夜。
けたたましく鳴り響く笛や太鼓。年に一度、下俗な人間たちが上げる、祈りという名の叫び。神域を侵すその騒音を、瓊環は「うるさい」としか思っていなかった。
だが、それはふとした瞬間に訪れた。
『瓊環様』
あの声で、確かに呼ばれた。鼓膜よりも、心に直接触れたように響く。どくんと心臓が跳ねた。奈珠那につけた印が、かつてないほど激しく熱を帯びているようだった。
──奈珠那……!
ずっと探していた彼女の気配と、途切れ途切れの想いが万年桜から伝ってきた。
『私は……あなたのことを、お慕いしております』
それは、今まさに命を捨てようとしている者の、あまりにも清廉な告白だった。
──ふざけるな……。
一人で勝手にどこにも行くなと誓ったはずだったのに。どうして、こんな形で終わらそうとするのか。自分を犠牲にすれば救われると、本気でそう思っているのか。
奈珠那のいない世界で、自分だけが独り生きながらえることに何の意味があるというか。
怒りよりも身を震わせるのは、胸を焦がすほどの彼女への想い。それを「愛」と呼ぶのだと、瓊環はようやくその想いを自分に許した。
「この、救いようのない阿呆が」
縄を断ち切り、崩れ落ちるか細い身体に手を伸ばす。やっと、彼女を抱きしめることができた。
肩の震え。自分を呼ぶ掠れた吐息。生きて、腕の中にいる。その事実だけで、吹けば消えてしまいそうな彼の命の灯火が、凄まじい勢いで燃え上がった。
「奈珠那を拐ったのは、お前か」
金の双眸が射抜くような鋭さで千佳を捉えた。
「……言っている意味が、よくわかりませんわ」
千佳は一瞬言葉を詰まらせてから、無理に笑みを作る。
「私は、そこの祟り子と違って藤ノ宮の血を正当に引く者よ。桜を咲かせ、村を救うために舞っているの。あなたような化け物に、屈するはずが……」
「身の程をわきまえろ」
氷の礫を放ったような、冷淡な一喝。千佳だけでなく、周囲のどよめきさえも凍りついたように静まった。
「お前の舞で桜が咲く、だと? 滑稽だな。祟り子だの化け物だの、それはお前のほうだ」
瓊環が万年桜の幹に視線を配った瞬間。木の枝が、腐食されたようにみるみると黒ずんだ。
「あ……ああ……っ!?」
悪夢のような光景に、どこからともなく悲鳴が上がる。
枝先から何かがはらはらと落ちだした。漆黒の花弁だ。終末を告げるようにしんしんと降り積もる花弁が、周囲が黒く闇に染め上げる。
「どうして……この私が舞ったよ!? こんなことって……!」
千佳の叫びが場違いに響く中、瓊環の嘲笑がひとつ落ちた。
「お前が舞ったからだ。桜が応えるのは、お前のような人間ではない」
瓊環は視線を胸元にいる奈珠那へと移す。千佳たちに向けていた凄みはなく、腕の中の少女を守るための眼差しだった。
「瓊環様……このまま、消えてしまうのですか?」
衣を掴む奈珠那の指先は、わずかに震えていた。不安に潤んだ緋色の瞳で恐る恐るこちらを仰ぐ。変わり果てた万年桜は、彼女の目には自分が消える前兆にしか映らなかったのだろう。
「こんなにも闇に染まって……もう、間に合わないのですか……? 私は、どうしたら……」
「違う。終わりではない」
瓊環は大きな手のひらで奈珠那の頬を包み込んだ。指先に伝わるのは、儚くも愛おしい彼女の体温。
「お前以外の祈りなんて、俺には必要ない」
気まぐれでも、思いつきでも、独占欲とも違う。最初から、彼にとって答えはひとつしかなかった。
「舞え、奈珠那」
「……私が、ですか?」
驚きに揺れる表情から目を逸らさずに、瓊環は「そうだ」と力を込めたように頷く。
「桜が応えるのは、お前だけだ」
「私に……できるでしょうか」
「できる。俺が、ここにいる」
腕の中で奈珠那の震えが収まるのを感じた。緋の目にかかっていた霞が、ゆっくりと晴れていく。自分を捉え直した瞳は、他の何ものにも代えがたい美しい光彩を添えていた。
「共に生きよう」
それは契約や命令なんて類のものではなく、未来への誓いだった。
言葉を置いた瓊環は、奈珠那の額にやさしく口づけを落とした。



