万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

 千佳はなめらかに扇子を振り、雅やかな舞いを始めた。
 藤ノ宮家が何代も守ってきた、桜神を祀り、万年桜のような永劫の平穏を祈る演舞。千佳の足運びは美しく、その姿は松明の明かりに照らされて鮮やかに映える。
 人々は固唾を呑んで見守り、千佳の母である沙都子は満足そうな笑みを浮かべていた。
 
 ──だが。

 十分と経っても、万年桜に変化はない。それどころか空は不気味なほど闇を増し、枝先は目に見えてしおれ始めている。違和感や焦りを隠せないように笛の音がかすかに掠れ、太鼓の音も半拍ずれた。
 不穏な空気が流れていることに、千佳も気づいているはず。舞を止めることはなかったが、次第に扇子を振るう動きは大きく粗雑(そざつ)になっていき、先ほどまで見せていた雅さは影を潜めていった。
 ざわっと小さなどよめきが走る。人々は顔を見合わせ、沙都子の口元からは確信に満ちていたはずの笑みが消えた。
 
 奈珠那は、ずっと万年桜を見つめていた。
 身体中に不吉と恐怖が重く沈んでいく。起きている異変が、奈珠那の目には瓊環の命が削られていく光景にしか映らなかった。

 ──このまま会えずに消えてしまうの……?

 喉の奥がひりつき、視界が滲む。涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。
 すると千佳が突如、扇子を畳んだ。笛や太鼓の音色も、ぴたりと止まる。

「……ああ、そうよ。そうでしたわ」

 ふふっと乾いた笑いをこぼす。荒く肩で息をしながらも、その口元には不自然な笑みが貼りついていた。
 
「生贄が、まだでしたもの」

 人々の視線が一斉に奈珠那へと向けられる。

「ちゃんと捧げておかなければ、桜神がお応えになるはずがありませんわ」

 千佳の声は確信に満ちていた。いや、そう思い込もうとしているだけなのかもしれない。彼女の目には、拭いきれない焦りが浮かんでいる。

「姉様、あなたの出番ですよ。今度こそ、生贄の役目を果たしてくださいね」

 千佳が指を鳴らしたのを合図に、男たちが奈珠那を囲んだ。
 腕を掴まれ、無理やり引き起こされる。おぼつかない足取りのまま、万年桜のほうまで追い詰められた。
 背を幹に押し当てられるとすぐに、荒い縄が長襦袢越しに肌へ食い込んだ。息が詰まるほど強く幹に巻き付けられていく。
 奈珠那は一切の抵抗をしなかった。周囲には祈るように手を合わせる人たちと、満足げにそれを眺める千佳の姿。誰の目にも、奈珠那はすべてを諦め、逃げ出すことをやめた生贄に映っているのだろう。

 だが、今の奈珠那に「諦め」という感情はなかった。彼女の胸を満たすのは、ただひとつ。あの温かな神の姿。
 
 ──瓊環様……。

 恐怖も怯えも、その名を思うだけで遠ざかっていく。
 奈珠那は一年前の記憶を辿った。冷たい桜の下で、金の瞳に射抜かれながら告げられた言葉。

 “──一年以内に、俺を愛せ”

 あのときの奈珠那にとって、生きることも死ぬことも選ぶほどの意味を持っていなかった。だから頷いた理由ですら、よくわかっていなかった。
 けれど今なら、はっきりとわかる。

 ──私は……。

 たとえ、これが契約の終わりだとしても。たとえ、この身がここで尽き果てようとも。
 瓊環だけには、消えてほしくなかった。
 
 ──あなたのことを、お慕いしております。

 祈りとも、願いとも違う。ようやく気づいた、淡く純粋な彼への愛情。
 奈珠那はそっと目を閉じる。覚悟とともに最後に思い浮かべたのは、やさしい微笑みと手の温もりだった。
 もう一度、心の中で彼の名を呼んだとき。

「この、救いようのない阿呆が」

 一筋の風と共に響いたのは、聞き慣れた、けれど震えるほどに低い声だった。
 万年桜の枝が大きくざわめき、奈珠那を縛り付けていた縄が音もなく解け落ちる。

「勝手に死ぬ覚悟を決めるな」

 身体を押さえつけていた圧迫感が消える。代わりに、ずっと待ち続けていた温もりが全身を包み込んだ。

「……瓊環、様……」

 名を呼んだ声が彼の胸元に吸い込まれた瞬間。強張っていた瓊環の肩が一気に崩れ落ちた。自由になった細い身体を、壊れ物を繋ぎ止めるような切実さで強く抱き寄せる。

「奈珠那……無事でよかった」

 耳元で囁く声は、怒りよりも深い安堵を(たた)えていた。そしてそれはこの五日間、焦燥と恐怖を押し殺し続けてきた者だけにしか出せない限界の声だった。
 
「お前の想いは、確かに届いた」
「……はい」

 声にならない返事をする奈珠那の身体を、瓊環はもう一度強く抱きしめる。
 彼の体温が愛おしかった。目頭が熱くなる。堪えていた感情は、もう抑えきれるものではない。堰を切ったようにあふれた涙は、ぽろぽろと頬を伝い落ちる。
 奈珠那は、声を上げて泣くことはしなかった。瓊環の胸元に額を押しつけ、静かに肩を震わせた。

「……な、なんなのよ、あなた!? 神聖な儀式の邪魔をして、ただで済むと思っているの!?」

 千佳の甲高い叫びが、ようやく取り戻した二人だけの空気を裂いた。それを皮切りに、儀式の場にどよめきが広がる。
 忽然(こつぜん)と現れた、白銀の麗しい男。その身からあふれ出すのは、暴力的なまでの威圧感。
 神主のひとりは青ざめた顔で後ずさり、笛を取り落とした。松明の炎が風もないのに大きく揺らぐ。万年桜の枝が、瓊環に呼応するように激しくさざめいた。
 人ではない──言葉にせずとも、皆がそれを悟る。

 奈珠那を抱いたまま、瓊環はゆっくりと顔を上げた。

「奈珠那を(さら)ったのは、お前か」

 金の双眸が射抜くような鋭さで千佳を捉えた。