目を覚ましたとき、目に映ったのは見知らぬ天井だった。湿った木の匂い。軋む板張りの冷たい感触。小さな格子窓から差し込む細い光。
──ここは……?
起き上がろうと身体を動かしたとき、手首に強い痛みが走った。たまらず息を詰める奈珠那。目を配れば、食い込むほど強く縄が両手首に巻き付かれていた。着ていたはずの着物もなく、長襦袢一枚だけの姿。
一年前の、あのときの自分の姿と重なり、ぞくりと背筋が凍りついた。
「……っ、いた」
後頭部に残った重さが、ずしりと鈍く響いた。
奈珠那は記憶を振り返る。連れ去られたのだと理解するのに、そう時間はかからなかった──。
「ごきげんよう」
顔を上げた奈珠那の視界に、見覚えのある女が映る。艶やかな着物。貼り付けたような歪んだ笑み。
「……千佳」
「ずいぶんとお元気そうだこと。いったい、どんな卑しい手を使ったのかしら」
千佳の視線が奈珠那の髪へと落ちる。白百合の簪を捉えた瞬間、彼女の瞳の奥に濃い嫉妬と怒りが滲んだ。
「……連れていきなさい」
苛立ちを滲み出したような命令。瞬時に、背後から伸びた男の手が奈珠那の口元を塞いだ。
驚きに息を呑んだ刹那、後頭部に鈍い衝撃が走った。視界が揺れ、音が遠ざかる。
──た、まき……さま……。
声にはならなかった。暗転する視界の隅で、白百合の簪がこぼれ落ちていった。
記憶はそこで途切れている。
奈珠那の意識は、きつく縛られた手首の痛みで徐々に現実へと引き戻された。彼と過ごしていた時間が、次々と脳裏を駆け巡る。並んで歩いた街。甘味の味。繋いだ手の感触。
先ほどまでの幸福感も、これまで積み重ねてきた日々も、すべてがあまりにも尊かった。
⁂
格子窓から差し込む光は、気づけば角度を変えている。ここに連れてこられてから、どれほどの時間が経ったのだろうか。
何十回目のため息をついたとき、重い扉がみしりと音を立てて開いた。
「あら、気づいてたのね」
耳障りなほど甘ったるい声。扇子を手にした千佳が姿を現した。
「本当、奈珠那姉様ってば生命力だけは強いのね。害虫みたい」
「……ここから出して」
「出すわけないじゃない。姉様、自分がどれだけのことをしたか、わかっています?」
千佳は一息もつかず言葉を重ねる。
「姉様が逃げ出したせいで、藤ノ宮家がどれほど迷惑被っているか。万年桜は咲かない、家の威光は落ちる一方……。全部、あなたのせいよ。なのに……どうして……!」
千佳は忌々しげに奈珠那の姿を睨みつける。
「なんで、そんなあんたが……幸せそうな顔をしているのよ!」
最後のほうは、もはや絶叫に近かった。
激しく罵倒されても、奈珠那は俯かない。じっと、凪いだ海のような瞳で千佳を見つめ返す。
「私は……もう以前の私じゃない」
その瞬間、ぱしり、と乾いた音が響く。千佳の扇子が、容赦なく奈珠那の頬を打った。
「……祟り子のくせに……!」
言うだけ言うと千佳は小さく息をつき、荒くなった呼吸を整え始めた。目の奥の怒りはまだ消えないが、少しずついつもの余裕を取り戻していく。
ふうと肩の力を無理やり抜いたあと、苛立ち混じりに口元を扇子で隠し、鼻で笑った。
「一年会わなかったうちに、えらく反抗的な目をするようになったんですね」
つい先ほどまでの激昂などなかったかのように、飄々と言ってのける。その仕草は、立場の差を改めて思い知らせるかのようだった。
「泣いても叫んでも無駄ですよ、誰も助けになんて来ないから。今度こそ、姉様に相応しい最後をご用意いたしますわ。奉納の儀が楽しみですわね」
言い放つと、千佳は扇子を軽く振って足早に部屋を後にした。
軋んだ音を立てて閉められた扉を見つめながら、奈珠那は大きく息を吐いた。頭の中に、彼の姿が浮かぶ。
──瓊環様……。
きっと、気づいている。あの白百合の簪を見つけて、助けに来てくれる──そう思ってしまう自分がいた。
けれど同時に、胸がちくりと痛んだ。また、自分のせいで彼を煩わせてしまった。契約の終わりが近いというのに、助けを待つような真似をしている。自分の無力さと不甲斐なさが、どうしようもなく胸を締めつけた。
それでも願ってしまう。会いたいと思ってしまう。
奈珠那は俯き、縛られた指先を握りしめる。恐怖はある。不安だって。けれどそれ以上に胸にあったのは、彼を想う気持ちだった。
⁂
それからの五日間、奈珠那は薄暗い空間の中で過ごした。
与えられるのはわずかな水と、冷え切った握り飯だけ。外に出ることさえ許されず、陽の昇り沈みを格子越しの光で知るだけの時間。
千佳は時折姿を見せては、思い出したように言葉を投げつけて去っていった。
瓊環は、姿を現さなかった。
自分が窮地に追い込まれたとき、彼は必ず現れてくれた。そう信じてしまうほど、何度も助けられてきた。
けれど、今回は違う。理由は考えなくてもわかる。街へ出たとき、瓊環は言っていた。人間界では印が反応しない、と。
そうとわかっていながらも、奈珠那は毎日、彼まで届くようにと名を呼び続けた。
身体の痛みが増し、心がすり減っていく感覚に襲われる。だが決して、奈珠那は絶望しなかった。
奉納の儀──生贄として、あの万年桜のもとに行けるのなら。叱責されてもいい。嫌われてもいい。契約通り、この命を奪われたとしても構わない。
自分が望んでいるのは救いではない。ただもう一度、彼に会いたい。
それは奈珠那が生まれて初めて抱いた、あまりにも強欲で身勝手なわがままだった。
そして、運命のとき。
格子窓から差し込む月明かりを裂くように、重い扉が開かれる。巫女装束に身を包んだ千佳と、数人の男たちが押し入ってきた。
「姉様、お迎えにあがりましたわ」
千佳は冷たい光を宿した瞳で愉しげに微笑んでいる。
男たちはすぐに奈珠那の口に布を噛ませた。手首を縛られたまま無理やり立たされ、引きずられるように外へと歩き出す。奈珠那は一切、抵抗しなかった。
外に出て、初めて自分が囚われていた場所を知る。長く使われていない、蔵のような建物。木が生い茂った中にあるそれは、千佳が言っていた通り、助けを求めたところで誰も来ないような場所だった。
ふらつく足でたどり着いた万年桜は、一年前と同じように沈黙していた。
すでに準備は整っているようで、必死な形相をした神主や藤ノ宮の関係者たちが辺りを囲んでいる。去年にはなかった笛や太鼓も据えられており、まさに「儀式」という名の舞台に相応しい飾り立てだ。
しかし奈珠那の視界には、儀式に関するものは何も入っていないようだった。緋色の瞳は、まっすぐに万年桜だけを見つめている。
──今日が、瓊環様との……。
そう思った瞬間、背後から肩を押された。座れ、と言わんばかりの強さ。人々が茣蓙や椅子に腰を下ろしていく中、奈珠那だけが地面に直接膝をつかされた。
「昨年は生贄を置くだけだったから、だから逃げ出したよよ」
「桜神もお気持ちを損ねてしまった」
「今年こそ儀式をせねば。生贄のせいで……」
周囲から、ひそひそと囁き声がもれる。そのどれもが奈珠那を責め、縛りつけるような言葉だった。
そのざわめきを制するように、扇子をぱちんと閉じる音が響く。
「皆さま、あまり姉様を責めないで差し上げて」
千佳が柔らかな笑みを浮かべて言う。その慈悲深い声色に、周囲の人々は「ああ、なんと心優しい」と感嘆の吐息をもらした。
「この方は弱くて、卑しくて、愚かなだけですの。だからこそ……」
奈珠那へ向けられる視線が、途端に鋭くなる。千佳はゆっくりと奈珠那を見下ろした。
「今度は逃げ出せないように。きちんと、役目を果たしていただきましょう」
その言葉に周囲の空気がぴんと張り詰める。私語は消え、夜色すらも息を潜めたように感じられた。
千佳が巫女装束の裾をはらりとなびかせ、扇子を開く。それを合図に、細く長い笛の音が鳴り出した。
「では、はじめましょうか」
万年桜のそばに組まれた奉納台へ、千佳が一段ずつ上がる。彼女の足並みに揃えるように、太鼓がどんと腹の底に響く音を打ち鳴らした。
奉納の儀が、幕を開けた。
──ここは……?
起き上がろうと身体を動かしたとき、手首に強い痛みが走った。たまらず息を詰める奈珠那。目を配れば、食い込むほど強く縄が両手首に巻き付かれていた。着ていたはずの着物もなく、長襦袢一枚だけの姿。
一年前の、あのときの自分の姿と重なり、ぞくりと背筋が凍りついた。
「……っ、いた」
後頭部に残った重さが、ずしりと鈍く響いた。
奈珠那は記憶を振り返る。連れ去られたのだと理解するのに、そう時間はかからなかった──。
「ごきげんよう」
顔を上げた奈珠那の視界に、見覚えのある女が映る。艶やかな着物。貼り付けたような歪んだ笑み。
「……千佳」
「ずいぶんとお元気そうだこと。いったい、どんな卑しい手を使ったのかしら」
千佳の視線が奈珠那の髪へと落ちる。白百合の簪を捉えた瞬間、彼女の瞳の奥に濃い嫉妬と怒りが滲んだ。
「……連れていきなさい」
苛立ちを滲み出したような命令。瞬時に、背後から伸びた男の手が奈珠那の口元を塞いだ。
驚きに息を呑んだ刹那、後頭部に鈍い衝撃が走った。視界が揺れ、音が遠ざかる。
──た、まき……さま……。
声にはならなかった。暗転する視界の隅で、白百合の簪がこぼれ落ちていった。
記憶はそこで途切れている。
奈珠那の意識は、きつく縛られた手首の痛みで徐々に現実へと引き戻された。彼と過ごしていた時間が、次々と脳裏を駆け巡る。並んで歩いた街。甘味の味。繋いだ手の感触。
先ほどまでの幸福感も、これまで積み重ねてきた日々も、すべてがあまりにも尊かった。
⁂
格子窓から差し込む光は、気づけば角度を変えている。ここに連れてこられてから、どれほどの時間が経ったのだろうか。
何十回目のため息をついたとき、重い扉がみしりと音を立てて開いた。
「あら、気づいてたのね」
耳障りなほど甘ったるい声。扇子を手にした千佳が姿を現した。
「本当、奈珠那姉様ってば生命力だけは強いのね。害虫みたい」
「……ここから出して」
「出すわけないじゃない。姉様、自分がどれだけのことをしたか、わかっています?」
千佳は一息もつかず言葉を重ねる。
「姉様が逃げ出したせいで、藤ノ宮家がどれほど迷惑被っているか。万年桜は咲かない、家の威光は落ちる一方……。全部、あなたのせいよ。なのに……どうして……!」
千佳は忌々しげに奈珠那の姿を睨みつける。
「なんで、そんなあんたが……幸せそうな顔をしているのよ!」
最後のほうは、もはや絶叫に近かった。
激しく罵倒されても、奈珠那は俯かない。じっと、凪いだ海のような瞳で千佳を見つめ返す。
「私は……もう以前の私じゃない」
その瞬間、ぱしり、と乾いた音が響く。千佳の扇子が、容赦なく奈珠那の頬を打った。
「……祟り子のくせに……!」
言うだけ言うと千佳は小さく息をつき、荒くなった呼吸を整え始めた。目の奥の怒りはまだ消えないが、少しずついつもの余裕を取り戻していく。
ふうと肩の力を無理やり抜いたあと、苛立ち混じりに口元を扇子で隠し、鼻で笑った。
「一年会わなかったうちに、えらく反抗的な目をするようになったんですね」
つい先ほどまでの激昂などなかったかのように、飄々と言ってのける。その仕草は、立場の差を改めて思い知らせるかのようだった。
「泣いても叫んでも無駄ですよ、誰も助けになんて来ないから。今度こそ、姉様に相応しい最後をご用意いたしますわ。奉納の儀が楽しみですわね」
言い放つと、千佳は扇子を軽く振って足早に部屋を後にした。
軋んだ音を立てて閉められた扉を見つめながら、奈珠那は大きく息を吐いた。頭の中に、彼の姿が浮かぶ。
──瓊環様……。
きっと、気づいている。あの白百合の簪を見つけて、助けに来てくれる──そう思ってしまう自分がいた。
けれど同時に、胸がちくりと痛んだ。また、自分のせいで彼を煩わせてしまった。契約の終わりが近いというのに、助けを待つような真似をしている。自分の無力さと不甲斐なさが、どうしようもなく胸を締めつけた。
それでも願ってしまう。会いたいと思ってしまう。
奈珠那は俯き、縛られた指先を握りしめる。恐怖はある。不安だって。けれどそれ以上に胸にあったのは、彼を想う気持ちだった。
⁂
それからの五日間、奈珠那は薄暗い空間の中で過ごした。
与えられるのはわずかな水と、冷え切った握り飯だけ。外に出ることさえ許されず、陽の昇り沈みを格子越しの光で知るだけの時間。
千佳は時折姿を見せては、思い出したように言葉を投げつけて去っていった。
瓊環は、姿を現さなかった。
自分が窮地に追い込まれたとき、彼は必ず現れてくれた。そう信じてしまうほど、何度も助けられてきた。
けれど、今回は違う。理由は考えなくてもわかる。街へ出たとき、瓊環は言っていた。人間界では印が反応しない、と。
そうとわかっていながらも、奈珠那は毎日、彼まで届くようにと名を呼び続けた。
身体の痛みが増し、心がすり減っていく感覚に襲われる。だが決して、奈珠那は絶望しなかった。
奉納の儀──生贄として、あの万年桜のもとに行けるのなら。叱責されてもいい。嫌われてもいい。契約通り、この命を奪われたとしても構わない。
自分が望んでいるのは救いではない。ただもう一度、彼に会いたい。
それは奈珠那が生まれて初めて抱いた、あまりにも強欲で身勝手なわがままだった。
そして、運命のとき。
格子窓から差し込む月明かりを裂くように、重い扉が開かれる。巫女装束に身を包んだ千佳と、数人の男たちが押し入ってきた。
「姉様、お迎えにあがりましたわ」
千佳は冷たい光を宿した瞳で愉しげに微笑んでいる。
男たちはすぐに奈珠那の口に布を噛ませた。手首を縛られたまま無理やり立たされ、引きずられるように外へと歩き出す。奈珠那は一切、抵抗しなかった。
外に出て、初めて自分が囚われていた場所を知る。長く使われていない、蔵のような建物。木が生い茂った中にあるそれは、千佳が言っていた通り、助けを求めたところで誰も来ないような場所だった。
ふらつく足でたどり着いた万年桜は、一年前と同じように沈黙していた。
すでに準備は整っているようで、必死な形相をした神主や藤ノ宮の関係者たちが辺りを囲んでいる。去年にはなかった笛や太鼓も据えられており、まさに「儀式」という名の舞台に相応しい飾り立てだ。
しかし奈珠那の視界には、儀式に関するものは何も入っていないようだった。緋色の瞳は、まっすぐに万年桜だけを見つめている。
──今日が、瓊環様との……。
そう思った瞬間、背後から肩を押された。座れ、と言わんばかりの強さ。人々が茣蓙や椅子に腰を下ろしていく中、奈珠那だけが地面に直接膝をつかされた。
「昨年は生贄を置くだけだったから、だから逃げ出したよよ」
「桜神もお気持ちを損ねてしまった」
「今年こそ儀式をせねば。生贄のせいで……」
周囲から、ひそひそと囁き声がもれる。そのどれもが奈珠那を責め、縛りつけるような言葉だった。
そのざわめきを制するように、扇子をぱちんと閉じる音が響く。
「皆さま、あまり姉様を責めないで差し上げて」
千佳が柔らかな笑みを浮かべて言う。その慈悲深い声色に、周囲の人々は「ああ、なんと心優しい」と感嘆の吐息をもらした。
「この方は弱くて、卑しくて、愚かなだけですの。だからこそ……」
奈珠那へ向けられる視線が、途端に鋭くなる。千佳はゆっくりと奈珠那を見下ろした。
「今度は逃げ出せないように。きちんと、役目を果たしていただきましょう」
その言葉に周囲の空気がぴんと張り詰める。私語は消え、夜色すらも息を潜めたように感じられた。
千佳が巫女装束の裾をはらりとなびかせ、扇子を開く。それを合図に、細く長い笛の音が鳴り出した。
「では、はじめましょうか」
万年桜のそばに組まれた奉納台へ、千佳が一段ずつ上がる。彼女の足並みに揃えるように、太鼓がどんと腹の底に響く音を打ち鳴らした。
奉納の儀が、幕を開けた。



