万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

 ──まだ昼前だっていうのに、相変わらず都市は人が多いわね。

 千佳は新調した着物の裾を気にしながら、苛立たしく雑踏を歩いていた。
 奉納の儀、五日前。その準備のため、千佳は従者を引き連れて都市へと買い出しにきている最中だった。
 長年、万年桜が咲かないせいて、藤ノ宮家の威光(いこう)も陰り始めている。生贄として奈珠那を差し出したのに、未だに桜は咲かない。だからこそ、今回の儀式には千佳も沙都子も気合が入っていた。

 ──新しい扇子でも調達しようかしら。

 理由は特にない。胸の奥に蓄積された苛立ちを何かで散らしたかっただけだ。
 金ならある。
 奈珠那が消え、いびる対象を失った千佳の鬱憤。その晴らし方は、金を使い込むことだった。
 そのせいで、ここ一年の買い物は例年以上に贅沢なものになっていた。だが、今さら節度を気にする気分にもならない。それに藤ノ宮の名を背負う以上、みすぼらしい身なりなど許されない──そう千佳は思い込んだ。
 馬車に乗り、大通りに面した馴染みの装飾品店へ向かった。

 ⁂

 店から少し離れた馬車止めに入り、千佳は従者の手を借りて馬車から降りた。荷物持ちと、万が一の護衛のために連れてきた数人が無言で後ろに控える。
 見慣れた店の外観が視界に入ったとき、千佳は思わず足を止めた。

 ──素敵……。

 扉の前に立っていたのは、息を呑むほど美しい男。白銀の長い髪を風になびかせ、感じたことがないほどの気品をまとっている。瞬時に魅了されてしまう圧倒的な存在感があった。
 そして、男の手に引かれるようにして、ひとりの女が立っている。後ろ姿しか見えないが、着ている着物が上質なのもだということは明らかだった。

 ──ああ、いいわね。私も早く、ああいう男と結婚したいわ。

 顔よし、財力あり。これ以上ない条件だ。
 男は女を伴い、店の中へ入っていく。その瞬間、女の横顔がわずかに覗いた。ほんの一瞬のはずなのに、その横顔は景色から切り取られたように鮮明に目に焼き付いた。

「……は?」

 まばたきすら忘れ、思考も止まる。しかし、すぐに胸の内で火花が散った。
 見間違いなはずがない。あの不吉な緋色の瞳。自分たちの名を汚し、生贄として捨てたはずの祟り子。

 ──なんで……生きてるのよ……!?

 衝撃はすぐに激しい怒りと嫉妬に変わる。藤ノ宮家が逼迫(ひっぱく)しているというのに──なぜあの女が自分より質のいい着物を着て、なぜ自分が出会ったこともない極上の男に愛でられているのか。

 ──許さない……。絶対に、許さないんだから……!
 
 千佳の瞳に狂気が宿る。
 桜が咲かないのも、村の不作も、藤ノ宮家の凋落(ちょうらく)も、何もかも全部、生贄が逃げ出したせいだ。
 あの女をもう一度、手の内に戻さなければならない。そして今度こそ、二度と逃げ出せないようにする。去年は甘すぎた。腕を縛るだけで済ませたのが、そもそもの間違いだったのだ。もっと確実に、もっと徹底的に、生贄として留めておく必要があった。
 奈珠那の正体を知れば、あの男も目を覚ますはずだ。忌々しい緋色の瞳に惑わされているだけに違いない。選ばれるべきなのは、奈珠那ではない。藤ノ宮の血を引き、神を祀る自分にこそ相応しい。
 
「……ねえ、あなたたち。あそこにいた女を捕らえなさい。逃げ出した祟り子よ。大人しくしないなら、少し乱暴にしても構わないわ」

 千佳は背後に控えていた男たちに冷酷な笑みを向けた。

 ⁂ ⁂ ⁂

 勘定場で代金の支払いを待つ間、瓊環は小さく息を吐いた。
 気づけば、感情を抑えることをやめている自分がいる。
 
 漣が消えてから、己の中で何かが変わった。何百年と変わらず在り続けることも、この命がいずれ消え去ることも、本来どちらにも意味などなかったはずだ。
 だが、藤の花が散り、旧友がこの世から消滅した日。瓊環の胸に残ったのは、耐えがたいほどの虚無感と、それ以上に強烈な「今」への渇望だった。

 以前の瓊環であれば、女に何を与えようが、どんな表情を見せようが、己の気分を害さぬ限り、どうでもいいものでしかなかっただろう。そもそもで、興味を持つことすらなかった。
 それなのに。
 奈珠那が菓子を食らった瞬間に見せる幸せそうな笑顔。寝起きの朝、眠い目を擦りがらも欠かさず礼をする仕草。たまに無茶をする健気な姿──どれも取るに足らない、些細な瞬間のはずだったのに。それらは、ゆっくりと氷を溶かすように瓊環の胸を温めていたのだった。

 ──愛を与える側になれ。

 消えゆく間際、あの男はそう遺した。その言葉が、今になって重く胸に沈む。

 原因は、奈珠那というひとりの女。
 
 契約の終わりが近づいている。しかし、もう手放したくない。この温かな感情も、自分を見て赤らむ頬も、奈珠那という存在を失いたくなかった。

 だからだろう。気づけば、形に残る簪を選んでいた。
 枯れることのない白百合のように自分たちの時間も凍らせて、どこにも行かぬよう閉じ込めてしまえたなら。そんな無意識の欲が、あの一本に宿っていたのかもしれない。

「旦那様、お待たせいたしました」

 店主の声に我に返り、瓊環は釣り銭を受け取って足早に店を出る。扉を押し開ければ、すぐそこには自分を待っているはずの姿がある──

「奈珠那、待たせた」

 はずなのに、呼びかけた声に応えはない。人混みは先ほどより増していて、群衆のざわめきだけが耳を打つ。
 嫌な感覚が背筋を走った。

「奈珠那?」

 もう一度呼ぶも、やはり返事はない。視線を巡らせたとき、地面でかすかな光が跳ねるのが見えた。
 手折られたように転がっている白百合。つい先ほど、自分が奈珠那の髪に挿したはずの簪だった。
 駆け寄った瓊環は、おもむろにそれを拾い上げる。

「……なぜ、外れている」

 落としたにしては不自然だった。彼女がこれを外す理由もない。
 胸の奥で、何かが音を立てて崩れる。

 ──奈珠那……!

 声にならない焦燥と怒り。彼女が奪われた──それだけが、はっきりとわかってしまった。