万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

 春の足音が屋敷の隅まで忍び込んできていた。庭の木々も若葉が萌え始め、枯れずにいた桜も景色に馴染んできている。

 生贄として差し出されたあの夜から、もうすぐ一年が経とうとしていた。

 奈珠那は縁側に座り、隣に立つ瓊環の横顔を盗み見る。距離は以前よりも確実に近い。けれど触れ合うほどではなく、言葉も必要以上には交わさない。その微妙な間が心地よかった。
 消えゆく神を見送った記憶は、まだ胸の奥に残っている。藤の香りとともに消えた漣の姿を思い出すたび、奈珠那は無意識に隣にいる存在を確かめてしまう。

 ──あと五日も経てば、奉納の儀……。

 それは、奈珠那と瓊環を繋いでいた契約の節目でもあった。
 瓊環は何も言わずにいた。奈珠那もまた、口には出せずにいる。
 契約が終わったとき、この関係はどうなってしまうのだろう。神と生贄として結ばれた絆が、形を変えてもなお続くのか。それとも、彼が消えるのか、彼に殺められるのか。考えるたび、胸がひやりと冷えた。

「お二人とも、なんだかお顔が暗いですよ」

 不意にかけられた声のほうへ顔を向ける。
 
「珀弥」
「こういうときは気晴らしするのが一番です。久々に、人間界へ行かれてみてはどうでしょう」

 彼はぴょこりと耳を揺らした。思いつきの提案のように、珀弥は明るく言う。奈珠那はその声音から、わずかな気遣いを感じ取っていた。
 契約の節目が近いことは珀弥も知っている。知ったうえで、重たい沈黙を破ろうとしているのだ。
 瓊環はしばし黙り込み、やがて短く息を吐いた。
 
「街にでも出るか」
「ですが……緋い瞳の人間がいたら……」

 奈珠那の戸惑いに一瞬の逡巡(しゅんじゅん)を見せたあと、瓊環は小さく首を振った。
 
「村からは離れている。お前を知る人間など、誰もいない」
「そうですよ、奈珠那様! 瓊環様にいろいろ買ってもらってください!」
「おい、また勝手に」
「いいじゃないですか。たまには奈珠那様を労ってあげなきゃですよ」

 瓊環は何かを言い返しかけたが、諦めたようにため息をついた。奈珠那へ向けた視線がわずかに柔らぐ。

「奈珠那、支度を」

 正直言ってしまえば、人間界に行くのは少し怖い。だが、断れなかった。というよりも、断りたくなかった。隣に並んで歩ける時間が、嬉しいと思ってしまったのだ。
 
「……はい」

 わずかに頬を赤らめた微笑みで奈珠那は頷いた。

 ⁂

 降り立ったその場所は、奈珠那が生まれ育った村とは何もかもが違っていた。
 石を敷き詰めた道の両脇には、建物がずらりと並んでいる。木造の家々の間に煉瓦造りの洋館が混じり、硝子窓は賑わう景色と春の日差しを反射させていた。軋む音とともに、たくさんの人を乗せた路面電車がゆっくりと通り過ぎていく。

「……すごい」
 
 呟きは街中の喧騒に紛れ混んでいった。村では見かけないほどの人が行き交っている。店先から漂う甘味の香りや、香ばしい匂い。どこかで鳴る聞き慣れない楽器の音。すべてが目新しくて、少しだけ眩しかった。

「街は初めてか?」
「はい、家から出たことがなくて……。あっても近場の商店でしたし……」
「そうか」
「都市ってすごいんですね。感動しています」

 奈珠那の感嘆(かんたん)に、小さく息を吐く瓊環。

「ほら」
「……え」
「人間界だと、お前につけた印が反応しない」

 不意に、目の前に大きな掌が差し出された。ぱちくりと瞬きをする奈珠那に、瓊環はどこか言い訳をするような、ぶっきらぼうな口調で告げる。

「はぐれるな」

 命令のような冷たさはない。不器用ながらも、奈珠那を守ろうとする意思の表れのように思えた。

「……はい」

 そっと手を重ねただけで、彼の温もりが伝わってくる。瓊環はためらいなく、その小さな手を包み込んだ。
 人の流れに押されるように、二人はそのまま人混みの中を歩き出す。目を輝かせていた奈珠那だったが、歩みを進めるごとに、その視線が足元へと落ちていった。

「なぜ(うつむ)いている?」

 しばらく進んだ先で、瓊環は奈珠那の顔を覗き込むように訊ねた。
 
「……すみません。やっぱり、人と目が合うのが怖くて……」
「緋色の瞳だからか?」

 問われても奈珠那は俯いたままでいる。
 その沈黙が答えだった。村では、この緋色の瞳のせいで「祟り」と罵られた。石を投げられたことだってある。街の華やかさに心を躍らせながらも、深層心理に刻まれた恐怖が彼女の身体を(すく)ませたのだ。

「くだらない」

 歩みを止めた瓊環は奈珠那と向かい合う。空いているほうの手を彼女の頬に添え、視線を逃さないように上向かせた。
 
「お前の瞳は、何よりも綺麗だ」

 思いがけない言葉に奈珠那の目が見開かれた。
 心臓が大きく跳ねる。間近で見つめ返してくる金色の瞳に、冗談や戯れの色はない。彼は、本気でそう思っている。
 そう気づいたとき、奈珠那の瞳がわずかに潤んだ。緋色の瞳が、初めて意味を持った気がしたのだ。呪いでも、祟りでもなく──この人に見つけてもらうための色。
 胸を焦がしてしまいそうになるほど、そう思えて仕方がなかった。
 
「俺がいる。せっかく気晴らしに来たんだ。楽しめ」

 瓊環がいたずらに笑う。

 ──ああ……。
 
 世界中の誰に否定されても、この強大な神が「綺麗だ」と言ってくれる。それだけで、過去のつらい記憶が光に浄化されていくようだった。
 
「……ありがとうございます。私、楽しいです。すごく」
「行くぞ」

 繋いだ手を離さぬまま、二人はさらに賑わう大通りへと足を向けた。