それから数日が過ぎた。
奈珠那は、いつもと変わらぬ日々を過ごしている──ように見えた。
春先とはいえ、まだ冷たい井戸水は指先をじんと痺れさせる。冬から治らないひび割れは、水に触れるたび針が刺さるように傷んだ。
だからといって、手を止める理由にはならない。家事をすること十年、すでに身体は勝手に動くようになっている。だからこそ、少なくとも表面上は「変わらない日常」だと思い込もうとしていたし、そう振る舞うのが奈珠那の義務だと思い込んでいた。
だが、家の中の空気が明らかに変わってきたとこを自覚するようになる。
沙都子は奈珠那にほとんど声をかけなくなった。叱責どころではない。視線さえ向けられない。まるで、奈珠那という存在を認知していないかのような沈黙。それは怒号よりも重く、逆に胸をざわつかせた。
千佳は千佳で、いつになく機嫌がよく見える。鼻歌まじりに歩きながら、扇子をひらひらと揺らしている姿が増えた。
千佳の態度は、奉納の儀が近いからだと奈珠那は思っていた。花が咲かないとはいえ、村人の視線を一身に浴びる日。自尊心の高い千佳にとって、それだけで十分に愉悦なのだろう。
それに、咲かなければ咲かないで、あとは奈珠那のせいにでもすればいい。
──私の存在意義なんて、それしかないもの。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷えた。この役目から解放されるわずかな希望さえ、どこにも残されていないような気がした。
だが、それだけでは終わらなかった。
ふとした折に、千佳の視線が奈珠那の首すじや手首に落ちる。撫でるような、値踏みするような、ねっとりとした視線。嫌悪とも恐怖ともつかぬ寒気が、肌に薄く張りついた。
──なに? どうして、急に……?
問いは喉まで上がるのに、声にはできない。不吉なざわめきだけが広がっていった。
⁂
奉納の儀の三日前。
「ごきげんよう、奈珠那姉様」
井戸の前で水を汲んでいる奈珠那に、不意に背後から千佳が声をかけた。
「姉様も当日はちゃんと儀式へいらしてくださいね」
その声は親しい友人を誘うかのように、何の悪意も含まれていないようだった。不気味なくらいの猫撫で声に奈珠那は汲み上げた桶の手を止め、ゆっくりと振り向いた。
「……え? 私は今年も留守番では……?」
例年、巫女役を務めるのは千佳一人。奈珠那はその場に立ち会うことすら許されていなかった。
だが千佳は楽しげに笑う。
「ふふ。今年の姉様にはね、特別なお役目があるんですよ」
「……どういう意味?」
数日前からくすぶっていた不吉なざわめきが大きく波立った。
「あら、言ってませんでした? 姉様、今年は神様に一番近い場所に立つんですよ」
声色は煮詰めた砂糖のように甘いのに、ひと口舐めれば毒に犯されてしまいそうな邪気が混じっていた。
⁂
儀式当日の朝になっても、奈珠那はいつもと同じように家の掃除を続けていた。
箒を手に、土間の隅から隅まで丁寧に掃き清める。長い廊下には塵一つすら残さぬよう、何度も雑巾をかける。
普段は淡々と雑役をこなす彼女だったが、この日はどうにも手の動きが遅かった。千佳が告げた「特別なお役目」という言葉が気になっていたからだ。
それがどういう意味を持つのか、奈珠那はまだ沙都子にも千佳にも訊ねていない。問うたところで、真実が返ってくるとは思えなかった。
「あらあら、奈珠那姉様。朝から精が入りますこと」
廊下で雑巾を絞っている背のほうから、鈴を転がしたような千佳の声が響いた。こんなふうに話しかけられるのは、決まって嫌な予感のするときだけだ。
「ねえ、姉様。あなたの役目も最後ですし、せいぜい綺麗に磨き上げておいてくださいね」
千佳は扇子で口元を隠しながら、目だけをいらやしく細めた。
「姉様、まだ汚れがありますよ」
そう言うと、千佳は奈珠那のすぐ横に置いてあった桶に視線を落とした。すぐさま近づき、わざと足先で桶を蹴り倒す。
「……っ!」
がしゃんと跳ねた水が奈珠那の裾を濡らし、磨き上げたばかりの廊下一面に広がっていった。
「まあ、姉様ったら。こんなところで水浴びだなんて」
薄手の着物はたちまち水を吸い、肌に張りついた。そこから伝う冷たさが、じわりと奈珠那の体温を奪っていく。
千佳はわざとらしく口元に手を当て、くすりと笑っていた。
「……千佳、どうして……」
「はあ? 私、汚れがあるって言いましたよね?」
ぱちりと扇子を鳴らし、千佳は奈珠那を見下ろした。
「それにしても、汚れってなかなか落ちないものね。まあ、仕方ありませんわ。だって、姉様が穢れそのものなんですもの」
あははと高笑いだけを残して、千佳は濡れた廊下とは反対のほうへと優雅に歩き去った。
⁂
昼過ぎ、奈珠那は千佳の命で買い出しに出た。
本来であれば、祟り子を隠したい藤ノ宮家は、奈珠那を家から出すことを好まない。人の目に触れるのは滅多にないことだった。
──やっぱり、最近おかしい……。
そう思いながらも、久々に吸った外の空気と眩しいくるいの陽光は身体に心地よく染み込んだ。
村の通りは普段よりずっとざわついていて、みんな浮き立ったように賑わっている。年に一度の、奉納の儀の日。その熱気が村全体を包んでいた。
その賑わいの中、ふと誰かの会話が耳に入る。
「今年こそ、桜神のお怒りが鎮まるように……」
「ああ。捧げものさえあれば、きっと咲くに違いない」
よくある万年桜の噂話だ。
桜が十七年間咲かぬままなのも、干ばつも、不作も、果ては嵐や雷までも──すべてが桜神の怒りだと結びつけられ、いつしか村人たちは疑うことさえやめていた。
「おい、緋の目の女だぞ……!」
こちらに気づいたようで、慌てた様子で距離を取る。奈珠那の姿、名前までは知らなくとも、その異質な緋色の瞳の存在だけは十分に知れ渡っていた。
「なんて不吉な目だ」
「本当、早く夜になればいいのに……」
そんな声は今に始まったことではない。奈珠那は俯き、自分の足元に視線を落とした。
一刻も早くこの場から立ち去ろうと、歩みを速める。見なければ、聞こえなければ、傷つかずに済む。そう覚え込むしかなかった十七年だった。
奈珠那は、いつもと変わらぬ日々を過ごしている──ように見えた。
春先とはいえ、まだ冷たい井戸水は指先をじんと痺れさせる。冬から治らないひび割れは、水に触れるたび針が刺さるように傷んだ。
だからといって、手を止める理由にはならない。家事をすること十年、すでに身体は勝手に動くようになっている。だからこそ、少なくとも表面上は「変わらない日常」だと思い込もうとしていたし、そう振る舞うのが奈珠那の義務だと思い込んでいた。
だが、家の中の空気が明らかに変わってきたとこを自覚するようになる。
沙都子は奈珠那にほとんど声をかけなくなった。叱責どころではない。視線さえ向けられない。まるで、奈珠那という存在を認知していないかのような沈黙。それは怒号よりも重く、逆に胸をざわつかせた。
千佳は千佳で、いつになく機嫌がよく見える。鼻歌まじりに歩きながら、扇子をひらひらと揺らしている姿が増えた。
千佳の態度は、奉納の儀が近いからだと奈珠那は思っていた。花が咲かないとはいえ、村人の視線を一身に浴びる日。自尊心の高い千佳にとって、それだけで十分に愉悦なのだろう。
それに、咲かなければ咲かないで、あとは奈珠那のせいにでもすればいい。
──私の存在意義なんて、それしかないもの。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷えた。この役目から解放されるわずかな希望さえ、どこにも残されていないような気がした。
だが、それだけでは終わらなかった。
ふとした折に、千佳の視線が奈珠那の首すじや手首に落ちる。撫でるような、値踏みするような、ねっとりとした視線。嫌悪とも恐怖ともつかぬ寒気が、肌に薄く張りついた。
──なに? どうして、急に……?
問いは喉まで上がるのに、声にはできない。不吉なざわめきだけが広がっていった。
⁂
奉納の儀の三日前。
「ごきげんよう、奈珠那姉様」
井戸の前で水を汲んでいる奈珠那に、不意に背後から千佳が声をかけた。
「姉様も当日はちゃんと儀式へいらしてくださいね」
その声は親しい友人を誘うかのように、何の悪意も含まれていないようだった。不気味なくらいの猫撫で声に奈珠那は汲み上げた桶の手を止め、ゆっくりと振り向いた。
「……え? 私は今年も留守番では……?」
例年、巫女役を務めるのは千佳一人。奈珠那はその場に立ち会うことすら許されていなかった。
だが千佳は楽しげに笑う。
「ふふ。今年の姉様にはね、特別なお役目があるんですよ」
「……どういう意味?」
数日前からくすぶっていた不吉なざわめきが大きく波立った。
「あら、言ってませんでした? 姉様、今年は神様に一番近い場所に立つんですよ」
声色は煮詰めた砂糖のように甘いのに、ひと口舐めれば毒に犯されてしまいそうな邪気が混じっていた。
⁂
儀式当日の朝になっても、奈珠那はいつもと同じように家の掃除を続けていた。
箒を手に、土間の隅から隅まで丁寧に掃き清める。長い廊下には塵一つすら残さぬよう、何度も雑巾をかける。
普段は淡々と雑役をこなす彼女だったが、この日はどうにも手の動きが遅かった。千佳が告げた「特別なお役目」という言葉が気になっていたからだ。
それがどういう意味を持つのか、奈珠那はまだ沙都子にも千佳にも訊ねていない。問うたところで、真実が返ってくるとは思えなかった。
「あらあら、奈珠那姉様。朝から精が入りますこと」
廊下で雑巾を絞っている背のほうから、鈴を転がしたような千佳の声が響いた。こんなふうに話しかけられるのは、決まって嫌な予感のするときだけだ。
「ねえ、姉様。あなたの役目も最後ですし、せいぜい綺麗に磨き上げておいてくださいね」
千佳は扇子で口元を隠しながら、目だけをいらやしく細めた。
「姉様、まだ汚れがありますよ」
そう言うと、千佳は奈珠那のすぐ横に置いてあった桶に視線を落とした。すぐさま近づき、わざと足先で桶を蹴り倒す。
「……っ!」
がしゃんと跳ねた水が奈珠那の裾を濡らし、磨き上げたばかりの廊下一面に広がっていった。
「まあ、姉様ったら。こんなところで水浴びだなんて」
薄手の着物はたちまち水を吸い、肌に張りついた。そこから伝う冷たさが、じわりと奈珠那の体温を奪っていく。
千佳はわざとらしく口元に手を当て、くすりと笑っていた。
「……千佳、どうして……」
「はあ? 私、汚れがあるって言いましたよね?」
ぱちりと扇子を鳴らし、千佳は奈珠那を見下ろした。
「それにしても、汚れってなかなか落ちないものね。まあ、仕方ありませんわ。だって、姉様が穢れそのものなんですもの」
あははと高笑いだけを残して、千佳は濡れた廊下とは反対のほうへと優雅に歩き去った。
⁂
昼過ぎ、奈珠那は千佳の命で買い出しに出た。
本来であれば、祟り子を隠したい藤ノ宮家は、奈珠那を家から出すことを好まない。人の目に触れるのは滅多にないことだった。
──やっぱり、最近おかしい……。
そう思いながらも、久々に吸った外の空気と眩しいくるいの陽光は身体に心地よく染み込んだ。
村の通りは普段よりずっとざわついていて、みんな浮き立ったように賑わっている。年に一度の、奉納の儀の日。その熱気が村全体を包んでいた。
その賑わいの中、ふと誰かの会話が耳に入る。
「今年こそ、桜神のお怒りが鎮まるように……」
「ああ。捧げものさえあれば、きっと咲くに違いない」
よくある万年桜の噂話だ。
桜が十七年間咲かぬままなのも、干ばつも、不作も、果ては嵐や雷までも──すべてが桜神の怒りだと結びつけられ、いつしか村人たちは疑うことさえやめていた。
「おい、緋の目の女だぞ……!」
こちらに気づいたようで、慌てた様子で距離を取る。奈珠那の姿、名前までは知らなくとも、その異質な緋色の瞳の存在だけは十分に知れ渡っていた。
「なんて不吉な目だ」
「本当、早く夜になればいいのに……」
そんな声は今に始まったことではない。奈珠那は俯き、自分の足元に視線を落とした。
一刻も早くこの場から立ち去ろうと、歩みを速める。見なければ、聞こえなければ、傷つかずに済む。そう覚え込むしかなかった十七年だった。



