かつて漣が祀られていたのは、小さな村だった。山々に囲まれた、のどかな場所。人は多くなく、暮らしも豊とはいえなかったが、村人たちはよく笑い、よく祈った。
朝には山霧が立ちこめ、夕暮れには竈から細い煙が空へと伸びる。夜になれば星たちが煌々と輝くような、穏やかな場所だった。そんな日々の中で、いつしか村人たちは綺麗な藤の咲く場所に社を建て、ささやかな願いを捧げていた。
そして五百年ほど前。漣は、その祈りの中から生まれた。
時を同じくして、漣は瓊環と出会う。
同じく人の想いから生まれながら、決して人に寄り添おうとはしない孤高の神。
その本体は、永遠を象徴するように咲き続ける一本の桜だった。
春の終わりを告げることなく咲き続けるその木を、人々は奇跡と呼び、聖なるものとして崇めてきた。
何千、何万という人々が祈り、捧げてきた膨大な想いの結晶。それこそが、瓊環という神の正体だった。
瓊環と共に過ごす時間は、想像以上に楽しかった。
酒を酌み交わし、他愛もない話をする。同じ季節を司る花の神同士、漣は瓊環に特別な親近感を覚えていた。
それは瓊環にとっても同じだったのかもしれない。無愛想であまり感情を表に出さない神が、わざわざ神域を越えて、酒を持ち出し夜を明かすなど稀なことだったのだ。
だが、その反面で漣は自覚していた。自分と瓊環の間には、埋めようのない隔たりがある、と。
村の片隅で祈られる神と、幾千人もの願いを一身に受けてきた神。優劣ではなく、在り方そのものの違いだった。
漣は自分の在り方に不満を抱いていたわけではない。小さな村でも、人は祈り、感謝し、社を掃き清めてくれた。想いに応えるように、漣も人間たちを愛した。
それでも、盛大な儀式があり、祝詞があり、常に人の輪の中心にいる万年桜の神は、漣の目にはひどく眩しく映っていた。
それから、時は流れ──百年前の冬。
山火事が村を襲った。乾いた風に煽られた炎は、村全体を飲み込むように焼き尽くしていく。空は昼夜問わず赤に染まり、祈りの声は悲鳴に変わった。
しばらくして火は鎮まったが、村は元には戻らなかった。すでに人々は山を離れ、別の土地へ移っていったのだ。
社に手を合わせる者はいなくなった。やがて、村の名は語られなくなり、地図からも消える。ただ一人の神だけが、朽ちた社と共に取り残された──。
「愛は、恨みに変わったんだ」
漣は小さく息を吐く。落ちたのは、冷たい吐息。そして、他人事のように淡々とした口調。長い時間を言葉にしただけのように聞こえた。
「最初から恨んでたわけじゃないよ。きっと、いつか誰かが戻ってくる。また社に手を合わせてくれる人が現れるって、そう思ってた」
奈珠那は自分のことのように胸が締めつけられた。漣はずっと期待し、待っていたのだろう。神として存在する理由をもう一度、誰かに与えてほしかったと、そんなふうに感じてしまう。
「でも、何も戻らなかった」
ぽつりと呟いた彼から藤の香りが薄れ、輪郭がさらに曖昧になった気がした。
「そのうちね、自分でもわかったんだ。……ああ、僕はもう消えるんだなって」
奈珠那は瓊環の腕の中で漣を見つめていた。軽やかに笑っていた神の面影は、どこにも見当たらない。奈珠那たちの前に佇んでいるのは、すべて失ってもなお、愛おしかった日々を手放せずにいる孤独な神だった。
「消えたくなかった。だから僕は、誰彼かまわず愛を求めた。誰か僕を必要として、僕を愛して、って。でも……うまくいかなかった」
漣は苦笑する。最初から結果がわかっていたような自嘲にも見えた。
何か言わなければと思いながらも、奈珠那は言葉を見つけられずにいた。彼の話は、慰めや理解を求めているものではない。受け入れた結末を、ありのままに並べている。
初めて漣に会った日、「恋してみない?」と軽く口にされた言葉がよぎった。その奥には、もしかしたら救われたい気持ちがあったのかもしれない。
「当たり前だよね。僕だって、本当の愛を与えていたわけじゃないんだから」
乾いた笑いをひとつこぼす。もはや彼の中には、後悔すら残っていないのだろう。諦めというより、抗いようのない神の理に導かれた結論のようだった。
「誰からも必要とされなくなって、愛を恨みに変えた神……。そんなの、もう消えるしかないよ」
漣は薄ら笑った。誰かに向けられたものではなく、自分自身を裁くためのものに見える。
そう気づいたとき、奈珠那の胸に鈍い痛みが走った。愛を求めて、消えたくなくて縋った結果、ますます孤独になっていった神の結末。漣の語るそれは、あまりにも人間的だった。
「なぜ……なにも言わなかった」
瓊環は奈珠那を背後に押しやるようにして、静かに一歩前へ出た。
彼の声と手は苦しげに震えている。漣がこれほどまでに追い詰められ、消えようとしていることに気づけなかった自分を激しく責めているようだった。
「瓊環にだけは、憐れまれるのも、同情されるのも嫌だった。だけどなにより、知られたくなかったんだ。本当は、何も言わずに消えるつもりだったんだよ」
「だからって……」
「姿を見せたのは、瓊環のことが心配だったから。でも……」
言葉を切り、漣は奈珠那をちらりと視界に入れる。
「大丈夫みたいだね」
そう言って、安心しきったように菫色の瞳を細めた。
「瓊環は僕と同じところに来ちゃ駄目だよ」
漣の身体は、すでに半身が淡い紫の光の粒となっていた。揺蕩うように宙へと浮かんで、少しずつ空気に溶けていく。
奈珠那も瓊環も言葉を挟めなかった。漣の最期の言葉だと、痛いほどに理解していたからだ。
「奈珠那ちゃん、怖がらせてごめんね。こうでもしないと、瓊環は気づかなそうだったから」
奈珠那は小さく首を横に振った。怖くなかったと言えば嘘になる。だがそれよりも、瓊環の旧友である一柱の神が消えゆく瞬間を前にしていることが、何よりも胸を刺した。
「瓊環のこと、よろしくね」
「……はい」
役目を終えた神に、すべてを託されたような言葉だった。
奈珠那の返事に満足そうに頷いた漣は、視線を瓊環へと戻す。そこには長い年月をともにしてきた、親友への慈しみが宿っていた。
「ねえ、瓊環。愛って、もらうだけじゃ愛にならないんだよ。与える側にもならないと。意味……わかるよね?」
「……ああ」
「なら、いいや。あーあ、まだ話したかったんだけどな」
「漣……!」
「瓊環はもう一人じゃない、でしょ」
笑った顔は、すでに霞の向こう側にある。
「じゃあ、最後に。二人とも……」
最後の一言は、藤の香りを湛えながら空へ消えていった。「ありがとう」という言葉の余韻が、色を失った世界に紫の光を滲ませる。風に揺れる藤の花弁が、確かにそこにあった。
「……漣」
神の名を呼んだ声は、ひどく小さいものだった。もう届かないとわかっていながらも、呼ばずにはいられなかったのだろう。
奈珠那は瓊環の背中を見つめながら立ち尽くしていた。親友を失った彼の胸中を思うだけで胸が縮む。だが、それよりも一層、胸を苦しませるものがあった。
こうやって、瓊環も目の前から消えてしまうのではないか──。
彼が桜の花弁と化して消えていく姿が、勝手に脳内に浮かんだ。ぞくりと寒気が走り、奈珠那は首を振る。
──そんなこと考えちゃ駄目……。
しかし、どうやっても不安と恐怖は消えてくれなかった。
言葉を見つけられない奈珠那のほうへ、ゆっくりと瓊環が振り返る。
「……奈珠那」
呼ばれただけなのに胸が詰まった。金色の瞳はいつもの冷ややかな光を失い、どこか心細そうに揺らめいている。
何か言わなければと思うのに、言葉がまとまらない。「あの……」と、かろうじて声を出したとき。
一瞬、息が止まる。視界を埋めたのは、彼の真白な衣。逃げられないほど強く抱き寄せられたのに、耳元に落ちる彼の吐息は驚くほど弱々しいものだった。
「……行くな」
掠れた声が奈珠那の心臓を激しく鼓動させた。背中に回された腕に、ますます力がこもる。
「誓え。一人で勝手に、どこにも行かないと」
言葉の端々には、隠しようのない焦燥が滲んでいた。
瓊環が恐れているのは、きっと自身の消滅ではない。彼の世界から“奈珠那“という存在が失われることを、何よりも恐れている。奈珠那を繋ぎ止めたい──そう感じてしまうほど、強い抱擁だった。
「……はい」
彼の胸に顔を埋めたまま小さく応えた。抱かれた胸元から鼓動が伝わってくる。神の身体が、今はわずかに熱を帯びていた。
──瓊環様……。
声にならない願いが胸に満ちていく。消えてほしくない。その想いが、とめどなくあふれた。
言葉にする代わりに、奈珠那は腕を伸ばす。離れないと告げるように、瓊環の背を抱き返した。
朝には山霧が立ちこめ、夕暮れには竈から細い煙が空へと伸びる。夜になれば星たちが煌々と輝くような、穏やかな場所だった。そんな日々の中で、いつしか村人たちは綺麗な藤の咲く場所に社を建て、ささやかな願いを捧げていた。
そして五百年ほど前。漣は、その祈りの中から生まれた。
時を同じくして、漣は瓊環と出会う。
同じく人の想いから生まれながら、決して人に寄り添おうとはしない孤高の神。
その本体は、永遠を象徴するように咲き続ける一本の桜だった。
春の終わりを告げることなく咲き続けるその木を、人々は奇跡と呼び、聖なるものとして崇めてきた。
何千、何万という人々が祈り、捧げてきた膨大な想いの結晶。それこそが、瓊環という神の正体だった。
瓊環と共に過ごす時間は、想像以上に楽しかった。
酒を酌み交わし、他愛もない話をする。同じ季節を司る花の神同士、漣は瓊環に特別な親近感を覚えていた。
それは瓊環にとっても同じだったのかもしれない。無愛想であまり感情を表に出さない神が、わざわざ神域を越えて、酒を持ち出し夜を明かすなど稀なことだったのだ。
だが、その反面で漣は自覚していた。自分と瓊環の間には、埋めようのない隔たりがある、と。
村の片隅で祈られる神と、幾千人もの願いを一身に受けてきた神。優劣ではなく、在り方そのものの違いだった。
漣は自分の在り方に不満を抱いていたわけではない。小さな村でも、人は祈り、感謝し、社を掃き清めてくれた。想いに応えるように、漣も人間たちを愛した。
それでも、盛大な儀式があり、祝詞があり、常に人の輪の中心にいる万年桜の神は、漣の目にはひどく眩しく映っていた。
それから、時は流れ──百年前の冬。
山火事が村を襲った。乾いた風に煽られた炎は、村全体を飲み込むように焼き尽くしていく。空は昼夜問わず赤に染まり、祈りの声は悲鳴に変わった。
しばらくして火は鎮まったが、村は元には戻らなかった。すでに人々は山を離れ、別の土地へ移っていったのだ。
社に手を合わせる者はいなくなった。やがて、村の名は語られなくなり、地図からも消える。ただ一人の神だけが、朽ちた社と共に取り残された──。
「愛は、恨みに変わったんだ」
漣は小さく息を吐く。落ちたのは、冷たい吐息。そして、他人事のように淡々とした口調。長い時間を言葉にしただけのように聞こえた。
「最初から恨んでたわけじゃないよ。きっと、いつか誰かが戻ってくる。また社に手を合わせてくれる人が現れるって、そう思ってた」
奈珠那は自分のことのように胸が締めつけられた。漣はずっと期待し、待っていたのだろう。神として存在する理由をもう一度、誰かに与えてほしかったと、そんなふうに感じてしまう。
「でも、何も戻らなかった」
ぽつりと呟いた彼から藤の香りが薄れ、輪郭がさらに曖昧になった気がした。
「そのうちね、自分でもわかったんだ。……ああ、僕はもう消えるんだなって」
奈珠那は瓊環の腕の中で漣を見つめていた。軽やかに笑っていた神の面影は、どこにも見当たらない。奈珠那たちの前に佇んでいるのは、すべて失ってもなお、愛おしかった日々を手放せずにいる孤独な神だった。
「消えたくなかった。だから僕は、誰彼かまわず愛を求めた。誰か僕を必要として、僕を愛して、って。でも……うまくいかなかった」
漣は苦笑する。最初から結果がわかっていたような自嘲にも見えた。
何か言わなければと思いながらも、奈珠那は言葉を見つけられずにいた。彼の話は、慰めや理解を求めているものではない。受け入れた結末を、ありのままに並べている。
初めて漣に会った日、「恋してみない?」と軽く口にされた言葉がよぎった。その奥には、もしかしたら救われたい気持ちがあったのかもしれない。
「当たり前だよね。僕だって、本当の愛を与えていたわけじゃないんだから」
乾いた笑いをひとつこぼす。もはや彼の中には、後悔すら残っていないのだろう。諦めというより、抗いようのない神の理に導かれた結論のようだった。
「誰からも必要とされなくなって、愛を恨みに変えた神……。そんなの、もう消えるしかないよ」
漣は薄ら笑った。誰かに向けられたものではなく、自分自身を裁くためのものに見える。
そう気づいたとき、奈珠那の胸に鈍い痛みが走った。愛を求めて、消えたくなくて縋った結果、ますます孤独になっていった神の結末。漣の語るそれは、あまりにも人間的だった。
「なぜ……なにも言わなかった」
瓊環は奈珠那を背後に押しやるようにして、静かに一歩前へ出た。
彼の声と手は苦しげに震えている。漣がこれほどまでに追い詰められ、消えようとしていることに気づけなかった自分を激しく責めているようだった。
「瓊環にだけは、憐れまれるのも、同情されるのも嫌だった。だけどなにより、知られたくなかったんだ。本当は、何も言わずに消えるつもりだったんだよ」
「だからって……」
「姿を見せたのは、瓊環のことが心配だったから。でも……」
言葉を切り、漣は奈珠那をちらりと視界に入れる。
「大丈夫みたいだね」
そう言って、安心しきったように菫色の瞳を細めた。
「瓊環は僕と同じところに来ちゃ駄目だよ」
漣の身体は、すでに半身が淡い紫の光の粒となっていた。揺蕩うように宙へと浮かんで、少しずつ空気に溶けていく。
奈珠那も瓊環も言葉を挟めなかった。漣の最期の言葉だと、痛いほどに理解していたからだ。
「奈珠那ちゃん、怖がらせてごめんね。こうでもしないと、瓊環は気づかなそうだったから」
奈珠那は小さく首を横に振った。怖くなかったと言えば嘘になる。だがそれよりも、瓊環の旧友である一柱の神が消えゆく瞬間を前にしていることが、何よりも胸を刺した。
「瓊環のこと、よろしくね」
「……はい」
役目を終えた神に、すべてを託されたような言葉だった。
奈珠那の返事に満足そうに頷いた漣は、視線を瓊環へと戻す。そこには長い年月をともにしてきた、親友への慈しみが宿っていた。
「ねえ、瓊環。愛って、もらうだけじゃ愛にならないんだよ。与える側にもならないと。意味……わかるよね?」
「……ああ」
「なら、いいや。あーあ、まだ話したかったんだけどな」
「漣……!」
「瓊環はもう一人じゃない、でしょ」
笑った顔は、すでに霞の向こう側にある。
「じゃあ、最後に。二人とも……」
最後の一言は、藤の香りを湛えながら空へ消えていった。「ありがとう」という言葉の余韻が、色を失った世界に紫の光を滲ませる。風に揺れる藤の花弁が、確かにそこにあった。
「……漣」
神の名を呼んだ声は、ひどく小さいものだった。もう届かないとわかっていながらも、呼ばずにはいられなかったのだろう。
奈珠那は瓊環の背中を見つめながら立ち尽くしていた。親友を失った彼の胸中を思うだけで胸が縮む。だが、それよりも一層、胸を苦しませるものがあった。
こうやって、瓊環も目の前から消えてしまうのではないか──。
彼が桜の花弁と化して消えていく姿が、勝手に脳内に浮かんだ。ぞくりと寒気が走り、奈珠那は首を振る。
──そんなこと考えちゃ駄目……。
しかし、どうやっても不安と恐怖は消えてくれなかった。
言葉を見つけられない奈珠那のほうへ、ゆっくりと瓊環が振り返る。
「……奈珠那」
呼ばれただけなのに胸が詰まった。金色の瞳はいつもの冷ややかな光を失い、どこか心細そうに揺らめいている。
何か言わなければと思うのに、言葉がまとまらない。「あの……」と、かろうじて声を出したとき。
一瞬、息が止まる。視界を埋めたのは、彼の真白な衣。逃げられないほど強く抱き寄せられたのに、耳元に落ちる彼の吐息は驚くほど弱々しいものだった。
「……行くな」
掠れた声が奈珠那の心臓を激しく鼓動させた。背中に回された腕に、ますます力がこもる。
「誓え。一人で勝手に、どこにも行かないと」
言葉の端々には、隠しようのない焦燥が滲んでいた。
瓊環が恐れているのは、きっと自身の消滅ではない。彼の世界から“奈珠那“という存在が失われることを、何よりも恐れている。奈珠那を繋ぎ止めたい──そう感じてしまうほど、強い抱擁だった。
「……はい」
彼の胸に顔を埋めたまま小さく応えた。抱かれた胸元から鼓動が伝わってくる。神の身体が、今はわずかに熱を帯びていた。
──瓊環様……。
声にならない願いが胸に満ちていく。消えてほしくない。その想いが、とめどなくあふれた。
言葉にする代わりに、奈珠那は腕を伸ばす。離れないと告げるように、瓊環の背を抱き返した。



