万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

「そこまでだ、漣」

 低く、地面を震わせるような声が響いた。直後、神域の空気が一変する。藤の花が一斉にざわめき、淡い光が不安定に揺らぎだす。暴力的で凍てつくほどの冷気が神域を支配し、肌を突き刺すような圧が空間に叩きつけらた。

「その手を離せ」
「遅かったね、瓊環」

 漣はくすりと笑い、のらりと奈珠那から身を引く。最初から、こうなるのがわかっていたかのような口ぶりだった。

「間一髪ってところだよ。もう少し遅かったら、奈珠那ちゃん僕の手に堕ちちゃってたかも」
「黙れ」

 抑揚のない、感情を削ぎ落とした一言。瓊環の声は怒号よりも鋭く、どこまでも無慈悲だった。
 だが、漣は怯まない。むしろ面白いものを見つけた子どものように「はは」と小さく笑ってみせた。
 
「瓊環がここまで怒るなんてさ。よっぽど奈珠那ちゃんのことが……」

 言葉の途中で空気が裂けた。びゅうと唸るような音とともに、視界が白く染まる。よく見れば、桜の花びらが渦を巻くように舞い上がっていた。吹き荒れた風ではなく、瓊環の神威(しんい)に呼応した空気のうねりだった。
 
「……っ!」

 咄嗟に身を引いた漣の頬を、一枚の花弁が刃の如く(かす)めた。彼の白い肌に赤い線が走り、遅れて血が滲みだす。
 
「次はない」

 瓊環は一度だけ冷ややかな視線を投げ、奈珠那のほうへと踏み出した。

「瓊環さ……」
 
 名を呼ぶより早く腕を引かれる。そして、彼の胸の中へと抱き寄せられた。背中に回された腕は、守るというより奪われまいとするような力強いものだった。
 
「無事か」
「……はい」

 腕の中で小さく答える。張りつめていた恐怖が瓊環の体温に触れてほどけていった。喉が詰まり、今にも涙がこぼれそうになる。安堵と、彼にここまでさせてしまった後悔が一気に押し寄せた。
 
「ごめんなさい……私……」
「阿呆が……。勝手にいなくなるなと言っただろう」

 責める言葉のはずなのに、彼の声はかすかに震えていた。
 奈珠那を抱きしめる瓊環の指先は、もう離さないと誓うように彼女の背を抱いている。きつく抱きしめられて、ついに涙があふれた。

「やれやれ。相変わらず、瓊環は加減ってものを知らないなあ」

 ふう、と大きく息をついた漣の声が割り込んできた。頬を指でなぞり、滲んだ血を拭う。自嘲めいた笑みを浮かべる彼の言動は、怒りを剥き出しにする瓊環とは対照的に、どこか芝居染みていた。
 瓊環は奈珠那を抱いたまま金の双眸を細め、漣を見据えた。
 
「漣……お前、これが目的だったのか?」
「んー。半分正解で、半分違うかな」
「馬鹿にするのも大概にしろ」
「してないよ」

 漣は肩をすくめて穏やかに笑った。

「僕は、僕が最期にできることをしたかっただけ。あとは……二人に、ちゃんと見せたかったんだ」

 言葉の途中で漣の姿がふっと揺らいだ。輪郭がぼやけ、藤と入り混じったように淡い紫色の光をまとう。漣に組み敷かれる前に見たときよりも、確実に姿が薄らいでいた。

「漣……!?」
「奈珠那ちゃんには言ったんだけどね……。僕、もう消えるみたい」

 軽い口調で言い、乾いた笑いを見せた瞬間。庭一面に咲き乱れていた藤の花が、音もなく色を失った。紫は灰へと変わり、花弁が砂粒となって崩れ落ちていく。
 屋敷の柱に細かな亀裂が走った。壁が揺らぎ、床が(ひず)み、目に映っていた景色ぜんぶが硝子が割れたように砕け散った。

 変わり果てた風景に奈珠那は息を呑んだ。華やかだった藤の庭も、立派な屋敷も、幻のように消えたあと。代わりに現れたのは、一面の灰色だった。
 焼け焦げた大地。崩れ落ちた家々、地に伏せた大樹、壊れた井戸や生活の名残り、どれも真っ黒に(すす)け、無惨に転がっている。
 
「……どうなっている? お前の村は……」
「見ての通りだよ」

 漣は振り返らない。色褪せた景色を、懐かしいものでも眺めるように見つめている。
 
「ちゃんと説明しろ」
「ここは、もう残骸なんだ。祈りも、願いも、誰かの想いも……全部、なくなった」

 淡々とした口調だった。悲しみも、怒りも、すでに通り過ぎてしまったような声。
 
「人は忘れていく。神は、忘れられたら終わり。……それだけの話だよ」

 漣の口の端に、かすかな笑みが浮かぶ。その輪郭は藤の霞のように揺らいでいた。