奈珠那の足音が遠ざかるのを、瓊環はしっかりと聞き取っていた。
彼女と漣を二人きりにさせたくなかった。昨日みたいに、奈珠那に向けて余計なことを言われる前に距離を取らせる。それから、漣は自分の視界に置いておくべきだ。
そう気づいたのは、奈珠那が障子を閉めてからだった。考えるよりも先に膳の片付けを命じていたのだと、瓊環はようやく理解する。
「ずいぶんわかりやすくなったね、瓊環」
「……何の話だ」
「またまた、とぼけちゃって」
漣はくすくすと肩を揺らし、囲炉裏の炭を細い指先で弄ぶ。
「いい子だね、奈珠那ちゃん」
軽く放たれたその言葉に瓊環は視線を伏せた。漣の声音からは奈珠那への純粋な評価が感じられる。それを否定する理由も、否定したい気持ちも見当たらず、瓊環は結局、沈黙を選んだ。
「あーあ。僕も奈珠那ちゃんみたいな子と出会えてたらなあ」
「お前だって、この百年くらい節操なく手を出しているそうじゃなかいか。なら、一人や二人くらい」
「いないよ。数があるだけで、どれも本物じゃないし」
瓊環の言葉を遮って、漣ははっと鼻で笑い飛ばした。その顔は冬の隙間風のように乾いている。自嘲にも見える笑みの真意を探る間もなく、漣はすぐに冗談めかした調子へと戻り、わざとらしく天井を仰いだ。
「一度でいいから、四人でデートとかしてみたかったなあ」
「興味ない」
「瓊環らしい」
あはは、と漣の小さな笑い声が囲炉裏に落ちた。
少しの沈黙。漣は火を見つめたまま、ぽつりと続ける。
「僕は瓊環と二人でも、全然、楽しかったけどね」
「……ああ」
瓊環は短く肯定した。素っ気ない相槌の中には、幾百の季節を越えてきた神同士にしかわからない時間の流れと、懐旧が滲んでいる。
桜が散れば藤が咲き、気が向けば夜通し二人で酒を酌み交わしていた頃。神である自分に、寿命など関係ない。季節が巡ることは呼吸をするのと同じ、永遠に続く螺旋のようなものだと信じて疑わなかった。
だが、そうではなかったらしい。愛を知らない神は、いずれ消える。その事実を知ったとき、瓊環はどこか冷めた心地で自らの終わりを甘受した。自分のような神に、愛など理解できるはずがない。だからこそ、自分の命が尽きることに今さら驚きも恐怖もなかった。
「お前、本当は何しに来たんだ?」
囲炉裏の火を挟んで瓊環は低く問いかける。
「別に、何も。僕たちの付き合いも五百年経ったし、久々に顔でも見たいなって」
紫の髪が輪郭に沿ってはらりと揺れた。何かを紛わせるように、漣は小さく笑う。
「瓊環は、大丈夫そうだね」
「何が?」
「元気そうだなって思っただけ」
軽く言った漣は、ひと呼吸分ほど口を閉ざす。その間が妙に長く感じた。
「ねえ、瓊環」
呼びかける声は、今までに聞いたことがないほど挑発的だった。
「奈珠那ちゃん、僕にくれない?」
唐突で、不敵ともいえる笑み。問いかけというより、こちらを試すような声音。沈黙をかき消すように、囲炉裏の火がぱちっと爆ぜる音を立てた。
「……は?」
「僕も、愛が欲しいんだ。奈珠那ちゃんみたいな子なら、僕を愛してくれる気がするんだよね」
「また昨日の冗談か」
「冗談じゃないよ」
笑みはそのままに、口調からからかいが抜け落ちる。
「あいつは俺の契約相手だ。手放す気はない」
「独占欲ってやつ? それとも、瓊環も奈珠那ちゃんのこと好きだったり?」
「……くだらない」
吐き捨てるように言うと、漣は「ふぅん」と楽しげに目を細めた。
「まあいいや。僕は僕のやりたいようにやらせてもらうから」
漣は肩をすくめる。怪しげな笑みから、やはり冗談ではないと瓊環は直感的に悟った。何かを企んでいる。単純に顔が見たかっただけではない。何百年も隣に立ってきた瓊環だからこそわかる、漣の違和感。それを瓊環は拭えなかった。
「瓊環様、漣様」
張りつめた空気を切り裂くように、柔らかな声が響いた。
「せっかくですので、お茶を淹れてまいりました」
湯呑みと菓子が乗った盆を抱えた奈珠那が、珀弥を伴って部屋に入ってくる。
「わあ、紅玉の果実まである。久々だなあ、この辺りの神域にしか実ってないんだよね」
つい数秒前まで親友を揺さぶっていたことなど忘れたかのように、漣はにこやかな笑みを浮かべて手を伸ばした。
「そうだったんですか」
奈珠那は少し目を丸くして、微笑みながら頷く。
「私は夏頃に初めて頂いたんですけど、とてと甘くて美味しいですよね」
「奈珠那様の好物なんですよ。定期的に瓊環様が摘みに行かれるんです」
「珀弥、余計なことは言わなくていい」
瓊環が窘めると、珀弥は「はぁい」といたずらっ子のような愛嬌で返した。幼い神使の隣にいる奈珠那は、くすりと笑っている。
瓊環はかつての奈珠那と、目の前で微笑んでいる彼女の姿を重ねて見ていた。自分の好みさえわからなかった奈珠那が、この赤い実を「美味しい」と言って頬張った瞬間。それは、あの夏の苦い出来事を塗り替えてしまうほど清純で、眩しいとさえ思えたほどだった。
「……へぇ。瓊環が、わざわざね」
「散歩のついでだ」
素っ気なく返した瓊環とは対照的に、漣は興味深そうに瓊環を一瞥する。そして、すぐに奈珠那へと視線を移し、愛想よく笑った。
「好物なのに、僕の分まで用意してくれてありがとうね」
奈珠那は「いえ」と小さく首を振り、
「美味しいものは、みなさんと食べたらもっと美味しくなりますから」
と、少し照れたように漣を見返して微笑んだ。その言葉に、漣は一瞬だけ言葉を失ったように見えた。
「やっぱり……奈珠那ちゃん、すごくいい子だね」
「そう、ですか? ありがとうございます」
奈珠那はさらに照れた笑みを深める。その様子を横目に、瓊環は面白くなさそうに眉を寄せていた。
「それ食べたら、もう帰れ」
「いやあ。居心地がよくて、ずっと居座ってたいくらいなんだけどなあ」
「お前のところだって、別に悪いわけじゃないだろう」
甘い藤の香りが記憶の底からよみがえった。かつて、漣の神域で何度も嗅いだ香り。花の下で杯を重ねた、終わりが来ることなど夢にも見ていなかった頃の、懐かしい匂いだ。
漣は「ま、そうなんだけどさ」と煮え切らない呟きをこぼす。残った果実を口に運び、大きく息を吐いた後、漣はおもむろに立ち上がった。
「じゃあね、瓊環、珀弥。それと奈珠那ちゃん、ご馳走様。またね」
「はい、またお待ちしております」
奈珠那がぺこりと頭を下げる。彼女の仕草を視界へ焼き付けるようにして、漣は姿を消した。
藤の空気が遠のいたとき、瓊環はようやく息を吐き、奈珠那を見やる。
「……奈珠那」
「はい」
「お前は、少し警戒心を持て」
「警戒心……ですか?」
「昨日といい、お前は隙がありすぎだ」
きょとんとした顔から一変、奈珠那の表情が瞬時に陰った。責められていると思ったのだろう。しかし、瓊環に咎めるつもりはなかった。
──まただ。
秋口、奈珠那が秋桜を積みに屋敷を出たときと同じ。本心とは違う言葉が口をついて出てしまっていた。
「お前が悪いわけじゃない。ただ……」
自分以外の存在に、無防備な笑みを向けてほしくなかった──そう気づいたとき、瓊環はわずかに自嘲した。胸を乱す感情の名前たちが、喉元まで迫る。
──くだらない……はずだったのに。
神が抱くには、あまりにも人間じみた感情。
それなのに、神として積み上げてきた矜持も、遠ざけていた命の価値も、一人の少女の存在の前では意味を成さないようだった。
「瓊環様」
俯きかけていた奈珠那が、意を決したように顔を上げた。その瞳には瓊環が恐れていた怯えではなく、彼をまっすぐに見つめる強い光が宿っている。
「私は……きっと、安心しているんだと思います」
「……なに?」
「ここは瓊環様の屋敷で……隣には、いつだって瓊環様がいてくださる。だから、何があっても絶対に大丈夫だって、そう思ってしまうんです」
瓊環に向けられた奈珠那の微笑みは、最大の信頼の表れだった。
「……そう思うなら、なおさらだ」
低く呟いて、瓊環は視線を逸らす。障子の隙間から差し込む、冬のまばゆい光が目に入った。
「だから……あんまり無防備なことをするな」
それは命令ではなく、ひどく歪んだ願いだった。
「……はい」
嫌な顔ひとつ見せず、奈珠那は頷く。銀世界に弾かれたような、細かに煌めく光をまとった微笑み。その顔を前に、瓊環はそれ以上何も言えなかった。
彼女と漣を二人きりにさせたくなかった。昨日みたいに、奈珠那に向けて余計なことを言われる前に距離を取らせる。それから、漣は自分の視界に置いておくべきだ。
そう気づいたのは、奈珠那が障子を閉めてからだった。考えるよりも先に膳の片付けを命じていたのだと、瓊環はようやく理解する。
「ずいぶんわかりやすくなったね、瓊環」
「……何の話だ」
「またまた、とぼけちゃって」
漣はくすくすと肩を揺らし、囲炉裏の炭を細い指先で弄ぶ。
「いい子だね、奈珠那ちゃん」
軽く放たれたその言葉に瓊環は視線を伏せた。漣の声音からは奈珠那への純粋な評価が感じられる。それを否定する理由も、否定したい気持ちも見当たらず、瓊環は結局、沈黙を選んだ。
「あーあ。僕も奈珠那ちゃんみたいな子と出会えてたらなあ」
「お前だって、この百年くらい節操なく手を出しているそうじゃなかいか。なら、一人や二人くらい」
「いないよ。数があるだけで、どれも本物じゃないし」
瓊環の言葉を遮って、漣ははっと鼻で笑い飛ばした。その顔は冬の隙間風のように乾いている。自嘲にも見える笑みの真意を探る間もなく、漣はすぐに冗談めかした調子へと戻り、わざとらしく天井を仰いだ。
「一度でいいから、四人でデートとかしてみたかったなあ」
「興味ない」
「瓊環らしい」
あはは、と漣の小さな笑い声が囲炉裏に落ちた。
少しの沈黙。漣は火を見つめたまま、ぽつりと続ける。
「僕は瓊環と二人でも、全然、楽しかったけどね」
「……ああ」
瓊環は短く肯定した。素っ気ない相槌の中には、幾百の季節を越えてきた神同士にしかわからない時間の流れと、懐旧が滲んでいる。
桜が散れば藤が咲き、気が向けば夜通し二人で酒を酌み交わしていた頃。神である自分に、寿命など関係ない。季節が巡ることは呼吸をするのと同じ、永遠に続く螺旋のようなものだと信じて疑わなかった。
だが、そうではなかったらしい。愛を知らない神は、いずれ消える。その事実を知ったとき、瓊環はどこか冷めた心地で自らの終わりを甘受した。自分のような神に、愛など理解できるはずがない。だからこそ、自分の命が尽きることに今さら驚きも恐怖もなかった。
「お前、本当は何しに来たんだ?」
囲炉裏の火を挟んで瓊環は低く問いかける。
「別に、何も。僕たちの付き合いも五百年経ったし、久々に顔でも見たいなって」
紫の髪が輪郭に沿ってはらりと揺れた。何かを紛わせるように、漣は小さく笑う。
「瓊環は、大丈夫そうだね」
「何が?」
「元気そうだなって思っただけ」
軽く言った漣は、ひと呼吸分ほど口を閉ざす。その間が妙に長く感じた。
「ねえ、瓊環」
呼びかける声は、今までに聞いたことがないほど挑発的だった。
「奈珠那ちゃん、僕にくれない?」
唐突で、不敵ともいえる笑み。問いかけというより、こちらを試すような声音。沈黙をかき消すように、囲炉裏の火がぱちっと爆ぜる音を立てた。
「……は?」
「僕も、愛が欲しいんだ。奈珠那ちゃんみたいな子なら、僕を愛してくれる気がするんだよね」
「また昨日の冗談か」
「冗談じゃないよ」
笑みはそのままに、口調からからかいが抜け落ちる。
「あいつは俺の契約相手だ。手放す気はない」
「独占欲ってやつ? それとも、瓊環も奈珠那ちゃんのこと好きだったり?」
「……くだらない」
吐き捨てるように言うと、漣は「ふぅん」と楽しげに目を細めた。
「まあいいや。僕は僕のやりたいようにやらせてもらうから」
漣は肩をすくめる。怪しげな笑みから、やはり冗談ではないと瓊環は直感的に悟った。何かを企んでいる。単純に顔が見たかっただけではない。何百年も隣に立ってきた瓊環だからこそわかる、漣の違和感。それを瓊環は拭えなかった。
「瓊環様、漣様」
張りつめた空気を切り裂くように、柔らかな声が響いた。
「せっかくですので、お茶を淹れてまいりました」
湯呑みと菓子が乗った盆を抱えた奈珠那が、珀弥を伴って部屋に入ってくる。
「わあ、紅玉の果実まである。久々だなあ、この辺りの神域にしか実ってないんだよね」
つい数秒前まで親友を揺さぶっていたことなど忘れたかのように、漣はにこやかな笑みを浮かべて手を伸ばした。
「そうだったんですか」
奈珠那は少し目を丸くして、微笑みながら頷く。
「私は夏頃に初めて頂いたんですけど、とてと甘くて美味しいですよね」
「奈珠那様の好物なんですよ。定期的に瓊環様が摘みに行かれるんです」
「珀弥、余計なことは言わなくていい」
瓊環が窘めると、珀弥は「はぁい」といたずらっ子のような愛嬌で返した。幼い神使の隣にいる奈珠那は、くすりと笑っている。
瓊環はかつての奈珠那と、目の前で微笑んでいる彼女の姿を重ねて見ていた。自分の好みさえわからなかった奈珠那が、この赤い実を「美味しい」と言って頬張った瞬間。それは、あの夏の苦い出来事を塗り替えてしまうほど清純で、眩しいとさえ思えたほどだった。
「……へぇ。瓊環が、わざわざね」
「散歩のついでだ」
素っ気なく返した瓊環とは対照的に、漣は興味深そうに瓊環を一瞥する。そして、すぐに奈珠那へと視線を移し、愛想よく笑った。
「好物なのに、僕の分まで用意してくれてありがとうね」
奈珠那は「いえ」と小さく首を振り、
「美味しいものは、みなさんと食べたらもっと美味しくなりますから」
と、少し照れたように漣を見返して微笑んだ。その言葉に、漣は一瞬だけ言葉を失ったように見えた。
「やっぱり……奈珠那ちゃん、すごくいい子だね」
「そう、ですか? ありがとうございます」
奈珠那はさらに照れた笑みを深める。その様子を横目に、瓊環は面白くなさそうに眉を寄せていた。
「それ食べたら、もう帰れ」
「いやあ。居心地がよくて、ずっと居座ってたいくらいなんだけどなあ」
「お前のところだって、別に悪いわけじゃないだろう」
甘い藤の香りが記憶の底からよみがえった。かつて、漣の神域で何度も嗅いだ香り。花の下で杯を重ねた、終わりが来ることなど夢にも見ていなかった頃の、懐かしい匂いだ。
漣は「ま、そうなんだけどさ」と煮え切らない呟きをこぼす。残った果実を口に運び、大きく息を吐いた後、漣はおもむろに立ち上がった。
「じゃあね、瓊環、珀弥。それと奈珠那ちゃん、ご馳走様。またね」
「はい、またお待ちしております」
奈珠那がぺこりと頭を下げる。彼女の仕草を視界へ焼き付けるようにして、漣は姿を消した。
藤の空気が遠のいたとき、瓊環はようやく息を吐き、奈珠那を見やる。
「……奈珠那」
「はい」
「お前は、少し警戒心を持て」
「警戒心……ですか?」
「昨日といい、お前は隙がありすぎだ」
きょとんとした顔から一変、奈珠那の表情が瞬時に陰った。責められていると思ったのだろう。しかし、瓊環に咎めるつもりはなかった。
──まただ。
秋口、奈珠那が秋桜を積みに屋敷を出たときと同じ。本心とは違う言葉が口をついて出てしまっていた。
「お前が悪いわけじゃない。ただ……」
自分以外の存在に、無防備な笑みを向けてほしくなかった──そう気づいたとき、瓊環はわずかに自嘲した。胸を乱す感情の名前たちが、喉元まで迫る。
──くだらない……はずだったのに。
神が抱くには、あまりにも人間じみた感情。
それなのに、神として積み上げてきた矜持も、遠ざけていた命の価値も、一人の少女の存在の前では意味を成さないようだった。
「瓊環様」
俯きかけていた奈珠那が、意を決したように顔を上げた。その瞳には瓊環が恐れていた怯えではなく、彼をまっすぐに見つめる強い光が宿っている。
「私は……きっと、安心しているんだと思います」
「……なに?」
「ここは瓊環様の屋敷で……隣には、いつだって瓊環様がいてくださる。だから、何があっても絶対に大丈夫だって、そう思ってしまうんです」
瓊環に向けられた奈珠那の微笑みは、最大の信頼の表れだった。
「……そう思うなら、なおさらだ」
低く呟いて、瓊環は視線を逸らす。障子の隙間から差し込む、冬のまばゆい光が目に入った。
「だから……あんまり無防備なことをするな」
それは命令ではなく、ひどく歪んだ願いだった。
「……はい」
嫌な顔ひとつ見せず、奈珠那は頷く。銀世界に弾かれたような、細かに煌めく光をまとった微笑み。その顔を前に、瓊環はそれ以上何も言えなかった。



