翌朝、奈珠那はいつもより少し早く目を覚ました。
今日は炊事当番。奈珠那が台所に立つことは、もう特別なことではなくなっていた。
水で冷えた指先をすり合わせながら、米を研ぐ。白く濁った水を何度か替え、土鍋に移して水に浸す。その間に竈へ火を入れ、野菜を刻み、味噌汁用の鍋を用意する。
薪がぱちぱちと弾ける音と、まな板に包丁が触れる小気味よい音が、雪の舞う静かな朝に溶け込んでいった。
火が落ち着いたところで、土鍋の水加減を確かめる。蓋を閉め、火にかけること数十分。炊き始めの米の匂いがふうわりと台所に広がった。
味噌汁の鍋からも、ほのかな湯気が立ちのぼる。切った野菜を入れながら、奈珠那はふと昨日のことを思い出していた。
“──俺がお前を離すことも、ない”
瓊環の言葉が胸に残ったまま離れない。あの低い声も、金の瞳の色も、囲炉裏の火に照らされた横顔も、鮮明に浮かび上がる。
意識してしまう自分が恥ずかしくて、奈珠那は鍋の中に視線を落とした。湯気に紛れれば、熱のせいにできる。そう思ったのに、胸のざわめきは手を動かしても火加減を気にしても、少しも収まってはくれない。
調理器具を握る指に力を込める。今は目の前の炊事に集中しよう。そう言い聞かせるように、奈珠那は味噌を溶き入れた。
「いい匂いですね、奈珠那様」
目を向けると、珀弥が耳を揺らしながら顔を覗かせていた。
「もうすぐできますよ」
「やった! 今日は何ですか?」
「焼き魚にしてみようかと」
「オレも手伝います」
ぱたぱたと忙しなく動く尻尾に、小さく笑みがこぼれた。
やがて囲炉裏の前に膳を並べ終えた頃、瓊環がいつものように姿を見せた。
「瓊環様、おはようございます」
「今朝は魚か」
短い応答。それでも、瓊環の視線はきちんと膳に向けられていた。
当たり前の朝。火を囲み、他愛のない会話をしながら、穏やかな時間が過ぎていく。
「ごちそうさまでした」
奈珠那と珀弥が手を合わせたときだった。ふわりと空気が甘く揺れた。昨日も感じた香り。季節外れの、藤の花。
「おはよう。美味しそうな朝食だったね」
にこりと笑った漣が、いつの間にか当然のように火を囲っていた。
「漣様……!」
一番に声を上げたのは珀弥だった。張りつめかけた空気を察したのだろう。ぴりっと電気が走るような神気を放った瓊環と、戸惑いに身を固くした奈珠那との間に、さりげなく割って入る。
「漣様の分までは、ご用意がございませんよ!」
「僕は別につまみ食いしに来たわけじゃないし」
飄々と返す漣に、瓊環は深いため息をつき、眉間を指先で押さえた。怒りもあったのかもしれないが、それよりも腐れ縁の旧友に向ける呆れに似た感情のほうが強いかもしれない。
「二度と来るなと言ったはずだ」
「僕は同意した覚えないもん。それに、ご飯が終わるまでは待ってたんだから、そこは褒めてほしいなあ」
空になった膳を見回して、漣はまたにこりと笑う。
「今日の当番は奈珠那ちゃんなんだね」
「え、ええ、はい」
「さぞ美味しいんだろうなあ」
言いながら、漣はちらりと瓊環を見やる。その視線には、先ほどまでの軽さがなかった。何かを確かめ、そして納得したような色が一瞬だけ滲む。春光のように穏やかで、どこか儚い眼差し。
なぜそんな目を瓊環に向けたのか、奈珠那にはわからない。しかし、その一瞬が妙に印象に残った。
「それはもう、奈珠那様の腕前は折り紙つきですよ。瓊環様だって、いつもより箸が進んでいましたから」
「そうなんだ。僕もいつかご一緒させてもらいたいな」
「来るな」
吐き捨てるような瓊環の拒絶。だが漣は傷つく様子もなく、「瓊環は相変わらずだなあ」と、彼の頑なさを愛おしむように目を細めた。
「奈珠那、片付けを頼む」
「はい」
奈珠那は一礼して膳を下げ始める。
二人分の視線が重なっているのがわかった。目を向けていけない気がして、目を落とし続ける。その仕草のまま障子に触れ、音を立てないよう静かに閉めた。
今日は炊事当番。奈珠那が台所に立つことは、もう特別なことではなくなっていた。
水で冷えた指先をすり合わせながら、米を研ぐ。白く濁った水を何度か替え、土鍋に移して水に浸す。その間に竈へ火を入れ、野菜を刻み、味噌汁用の鍋を用意する。
薪がぱちぱちと弾ける音と、まな板に包丁が触れる小気味よい音が、雪の舞う静かな朝に溶け込んでいった。
火が落ち着いたところで、土鍋の水加減を確かめる。蓋を閉め、火にかけること数十分。炊き始めの米の匂いがふうわりと台所に広がった。
味噌汁の鍋からも、ほのかな湯気が立ちのぼる。切った野菜を入れながら、奈珠那はふと昨日のことを思い出していた。
“──俺がお前を離すことも、ない”
瓊環の言葉が胸に残ったまま離れない。あの低い声も、金の瞳の色も、囲炉裏の火に照らされた横顔も、鮮明に浮かび上がる。
意識してしまう自分が恥ずかしくて、奈珠那は鍋の中に視線を落とした。湯気に紛れれば、熱のせいにできる。そう思ったのに、胸のざわめきは手を動かしても火加減を気にしても、少しも収まってはくれない。
調理器具を握る指に力を込める。今は目の前の炊事に集中しよう。そう言い聞かせるように、奈珠那は味噌を溶き入れた。
「いい匂いですね、奈珠那様」
目を向けると、珀弥が耳を揺らしながら顔を覗かせていた。
「もうすぐできますよ」
「やった! 今日は何ですか?」
「焼き魚にしてみようかと」
「オレも手伝います」
ぱたぱたと忙しなく動く尻尾に、小さく笑みがこぼれた。
やがて囲炉裏の前に膳を並べ終えた頃、瓊環がいつものように姿を見せた。
「瓊環様、おはようございます」
「今朝は魚か」
短い応答。それでも、瓊環の視線はきちんと膳に向けられていた。
当たり前の朝。火を囲み、他愛のない会話をしながら、穏やかな時間が過ぎていく。
「ごちそうさまでした」
奈珠那と珀弥が手を合わせたときだった。ふわりと空気が甘く揺れた。昨日も感じた香り。季節外れの、藤の花。
「おはよう。美味しそうな朝食だったね」
にこりと笑った漣が、いつの間にか当然のように火を囲っていた。
「漣様……!」
一番に声を上げたのは珀弥だった。張りつめかけた空気を察したのだろう。ぴりっと電気が走るような神気を放った瓊環と、戸惑いに身を固くした奈珠那との間に、さりげなく割って入る。
「漣様の分までは、ご用意がございませんよ!」
「僕は別につまみ食いしに来たわけじゃないし」
飄々と返す漣に、瓊環は深いため息をつき、眉間を指先で押さえた。怒りもあったのかもしれないが、それよりも腐れ縁の旧友に向ける呆れに似た感情のほうが強いかもしれない。
「二度と来るなと言ったはずだ」
「僕は同意した覚えないもん。それに、ご飯が終わるまでは待ってたんだから、そこは褒めてほしいなあ」
空になった膳を見回して、漣はまたにこりと笑う。
「今日の当番は奈珠那ちゃんなんだね」
「え、ええ、はい」
「さぞ美味しいんだろうなあ」
言いながら、漣はちらりと瓊環を見やる。その視線には、先ほどまでの軽さがなかった。何かを確かめ、そして納得したような色が一瞬だけ滲む。春光のように穏やかで、どこか儚い眼差し。
なぜそんな目を瓊環に向けたのか、奈珠那にはわからない。しかし、その一瞬が妙に印象に残った。
「それはもう、奈珠那様の腕前は折り紙つきですよ。瓊環様だって、いつもより箸が進んでいましたから」
「そうなんだ。僕もいつかご一緒させてもらいたいな」
「来るな」
吐き捨てるような瓊環の拒絶。だが漣は傷つく様子もなく、「瓊環は相変わらずだなあ」と、彼の頑なさを愛おしむように目を細めた。
「奈珠那、片付けを頼む」
「はい」
奈珠那は一礼して膳を下げ始める。
二人分の視線が重なっているのがわかった。目を向けていけない気がして、目を落とし続ける。その仕草のまま障子に触れ、音を立てないよう静かに閉めた。



