万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

 季節は静かに冬へと移ろっていた。
 朝の空気は凛として、部屋の障子を開けると庭一面が白に覆われている。何度目かの雪が、音を吸い込むように積もっていく。結晶が重なり合い、世界を無垢に染めているようだった。

 景色と反して、屋敷の中はそれほど寒くはなかった。神域の空気は一年を通して穏やかで、汗ばむような暑さも、凍えるほどの冷えもない。それでも季節が巡っていることは肌でわかる。
 最近になって、奈珠那はそれが瓊環の力によるものだと知った。神域には、本来四季など存在しないらしい。しかし長い時を生きる神は、人間と違い季節や時間の流れが曖昧になってしまう。だから神はこうしてわずかな変化をつけるのだと、瓊環は言っていた。

 奈珠那は上着を羽織り、縁側へと向かう。
 屋敷での暮らしにも、すっかり慣れた。この時期の朝は珀弥が騒がしく雪を踏みしめ、昼や夜には囲炉裏の火を囲んで食事をとる。奈珠那は日々縫い物をしたり、書を読んだり、ときどき庭を眺めたりする。
 特別なことは何もない。けれど、退屈ではなかった。

 瓊環はいつも少し離れた場所にいた。声をかければ応えてくれるし、視線が合えば静かに頷く。必要以上に触れ合うことはない。そんな生活の中だったが彼の存在は常に隣にあって、いつの間にかそれが当たり前になっていた。
 
 冬になってから、瓊環は庭に出ることが増えた。白く積もる雪の中、色を失わない桜のそばに立つ背中を奈珠那は縁側から何も言わずに見つめている。
 ふと脳裏をよぎるのは、珀弥の言葉だった。

 ──愛を知らなければ……消えてしまう。

 もし瓊環が消えてしまったとしたら、助けてもらった自分はどうなるのだろう。元いた家に戻れるわけでもなく、この神域に一人取り残されてしまうのだろうか。それとも、契約通り瓊環は自分の命を奪っていくのだろうか。
 だが、そんな先のことを考えるよりも胸に迫ってくるのは、もっと単純な感情だった。

 ──いなくならいでほしい。

 そう思ってしまうのは、助けてもらったからでも居場所を与えられたからでもなかった。瓊環という存在がこの世界から消えてしまうことが、どうしようもなく怖かったのだ。
 
 彼は愛を知らないまま神として在り続けている。だからこそ、命が尽きかけている。自分が愛せば、瓊環は消えずに済むのかもしれない。そう理屈ではわかっている。
 しかし果たして、瓊環と同じように愛を知らない奈珠那の想いが、彼をつなぎ留めるほどのものになり得るのだろうか。

 ──こんな賭けみたいなことに……どうして私なんかを……。
 
 答えの出ない数々の問いが胸をよぎり、奈珠那は小さく首を振る。問いただす勇気も、受け止める覚悟も彼女にはまだ足りない。瓊環の背を見つめながら、悠然と流れる時間に身を委ねていた。

「奈珠那」
「はい」

 名を呼ばれて縁側から下りる。雪が草履の裏でさくりと音を立てた。

「寒くないか?」
「はい、大丈夫です」
「そうか」

 瓊環はわずかに目を細める。吐く息が白く染まる景色の中、かつて冷え切っていたはずの金の瞳は、雪解け水のようにやわらかな光を(たた)えていた。

「瓊環様! 奈珠那様!」

 甲高い声とともに、珀弥が雪を蹴散らしながら駆け寄ってくる。

「見てください、雪だるまです!」

 両手にちょこんと乗せられたそれは、歪で今にも崩れそうなもの。だが珀弥が精いっぱいの思いを込めて作ったものだと誇らしげな顔を見てすぐにわかった。

「かわいいですね」
「下手くそめ」

 奈珠那の賞賛と、瓊環の容赦ない一言が重なる。珀弥は瓊環の言葉に反応したようで、「ひどい!」と大袈裟に肩を落としてみせた。
 
「もう一回、作り直してきます。次は度肝を抜くような立派なやつを作りますから!」

 そう宣言して、雪を踏みしめながら庭の奥へ駆けていく。
 
「本当に、珀弥は子どもみたいですね」
「お前が来てから、なおうるさくなったな」

 言葉とは裏腹に、瓊環の声には棘がない。そんな彼の横顔を盗み見て、奈珠那は小さく笑った。
 そのとき、ふと風向きが変わった。ひんやりとした空気に、わずかな違和感が混じる。桜が散ったあとにやってくる、甘くて、どこか人を酔わせるような花の香りが鼻先をくすぐった。

「……近頃、来客が多いな」
「え?」

 奈珠那が戸惑いながら顔を上げると、雪を踏みしめる音もなく、聞いたことのない低い声が庭に落ちた。

「やあ。久しいね、瓊環。百五十年ぶりかな」

 現れたのは、薄紫色の髪を顎の辺りで真っ直ぐに切り揃えた中性的な容姿の男だった。
 雪景色の中にあっても浮かない佇まい。足音も気配もほとんどなく、気づけばそこに立っている。口元には人懐こい笑みを浮かべ、場の空気を自分の色に染めてしまう軽さがあった。
 
(れん)
「もっと驚いてくれてもいいんじゃない? せっかく旧友が遊びにきたっていうのに」

 男は軽く笑い、肩をすくめる。

「瓊環様……この方は?」

 奈珠那が恐る恐る訊ねると、漣は彼女の目の前でぴたりと足を止めた。
 
「君が最近、瓊環が拾ったっていう女の子か」

 言いながら、ぐいと興味深そうに奈珠那へ顔を寄せた。その瞳は宵のうちを思わせる(すみれ)色をしていて、表情こそ柔らかいのにまったく底が見えなかった。

「僕は漣。瓊環とは腐れ縁ってやつかな。天寧から散々愚痴を聞かされてさ、どんなもんかなって見にきたんだけど……」

 漣は白く細い指を奈珠那へ伸ばした。

「思ったより、ずっと可愛いね」
「え……」

 蓮の指先が彼女の頬に触れるかという瞬間、横から伸びてきた腕が奈珠那の肩を抱き寄せ、力任せに引き寄せた。
 
「離れろ」

 瓊環の低い声がすぐ背後から響いた。
 
「冗談だよ」

 蓮はあっさりと手を引く。どこか面白がっているような仕草だ。

「こいつは俺の契約相手だ。気安く触れるな」
「珍しいね、瓊環がそんな顔するなんて。天寧が嫉くのもわかるなあ」

 肩を抱く彼の手に、わずかに力がこもったのがわかった。

「奈珠那ちゃん、だよね。僕は、藤の神なんだ。これからよろしくね」

 ふわりと甘い香りが風に乗った。
 ああ、と奈珠那は気づく。先ほど感じた違和感の正体は、この香りだったのだ。
 雪の庭に紛れ込んだ、季節外れの花の匂い。それは、漣という神から感じた藤の花の香りだった。