万年桜の生贄婚〜咲かぬ桜の神と生贄乙女の一年契約〜

 季節は順繰りと巡っていた。屋敷の木々は色づき、風が運ぶ匂いも夏とは違う。
 瓊環は変わらず、色が移ろわない庭の桜とともにそこにあった。神としての務めも、日々の流れも、その桜のように動かぬものだと疑いもしなかった。
 
 庭の桜は、彼の力で咲き留めているだけのもの。命を刻む万年桜とは違い、時を止められた飾りのようなものに過ぎない。
 その静止した景色の中で、ひとつだけ確実に変わっているものがあった。
 瓊環の視線だ。気づけば、奈珠那がどこにいるかを先に探している。声をかけられる前に、その気配を拾っている。
 それを特別だと彼はまだ思っていなかった。思う必要がない、と判断していたのかもしれない。しかし瓊環は自分が止めている桜よりも、彼女との時間のほうがよほど眩しく映るような気がしていた。
 だからだろうか。庭に出るより先に、彼は奈珠那の姿を探していた。

 ──気配がないな。

 奈珠那の姿は屋敷の中にも、廊下にも見当たらない。ほんのわずかな違和感。それが胸の奥に引っかかる。奈珠那がいない──それだけのことが、これほど意識に上るようになったのは一体いつからだろう。
 
「……出かけた、か」

 自分で口にして、わずかに眉をひそめる。「勝手にいなくなるな」と言葉を交わしたのだ。奈珠那がそれを破るとは思えない。だから、気にすることなどない。放っておけばいい。
 そう思ったはずなのに、足は自然と門のほうへ向かっていた。
 
 門を出て奈珠那の居場所を探る。契約の印を結んでいる彼女の居場所は、意識を向ければすぐに辿れる。
 目を閉じ、かすかな感触が胸に触れた瞬間、瓊環ははっと目を開いた。奈珠那がいるのは屋敷の敷地を抜けて、かなり離れた場所だった。
 印から伝わる彼女の状態に異変はない。息も整い、恐怖や痛みも感じられない。それなのに胸の奥には小さなざわめきが残る。

 ──奈珠那……どこへ。

 夏の記憶が脳裏をかすめた。魂までも凍りついたかのような、あの冷え切った身体の感触。

 ──いや。

 必要以上に思い出すことではない。そう理屈で切り捨てながら、瓊環は奈珠那がいる方向へ歩き出す。彼女がそこにいると知っただけで、足が止まらなくなっていた。

 ⁂

 奈珠那がいたのは小さな花畑だった。辺り一面に秋桜(コスモス)が咲き乱れ、彩度の高い赤紫色の花弁が風に揺れている。
 その中心で、奈珠那がしゃがみ込んでいた。花々に囲まれた彼女の背中は、遠目では消えてしまいそうなほど小さく見える。

 ──具合でも悪いのか?

 嫌な予感がよぎり、瓊環は無意識に歩を早めていた。

「奈珠那」

 名を呼ぶと彼女の肩が小さく揺れた。

「あ……瓊環様」
 
 ゆっくりと立ち上がり、奈珠那が振り返る。顔色はよく、呼吸も乱れていない。あの夏の日のような危うさは、どこにも見当たらなった。
 
「どうかされましたか?」

 眉を下げ、わずかに微笑みながら小首を傾げる奈珠那を見て瓊環は小さく息を呑んだ。
 少し前の彼女なら、瓊環に見つかった瞬間に「申し訳ございません」と平伏し、怯えた緋い瞳で瓊環の顔色を窺っていたはずだ。だが今の彼女の瞳は、秋空のようにすっきりと澄み渡っていた。

「……いや」

 短く答えると、奈珠那は続きを待つようにさらに首を傾げた。
 言葉を待っているだけの無防備な仕草。瓊環は一瞬、視線を逸らした。探していた、などとは言えない。胸がざわめき、理由もなく居場所を辿った、なんてなおさらだ。
 ほんのわずかな間を置いて、彼は平静を装った。

「なぜ、こんな場所に?」
「以前……紅玉の果実を取りに行くとき、暗がりの中うっすらと目に入ったんです。そのときは、まだ咲いていませんでしたけれど」

 そう言って足元を見下ろす。そばには籠があり、中には手折られた秋桜が並んでいた。

「お屋敷の彩りになるかと思って……、少しだけ摘みに来ました」

 咎められることを恐れている様子はない。許可を乞うでも、言い訳をするでもなく、自分の考えを素直に言葉にしている。
 それが瓊環の意識をわずかに乱した。以前の奈珠那なら、こんなふうに話しただろうか。ここに来た理由を、こんなにも穏やかな表情で語っただろうか。
 秋桜の鮮明な色に紛れて、彼女は確かにここにいる。守られる存在としてではなく、自分の足で立っていた。

 ──変わったな。

 生死に関心がなく、感情を持たなかった壊れかけの少女はいま、自分が思う美しいものを愛でている。命令でも強制でもなく、奈珠那自身の意思でここに来たのだ。

「咲いたらきっと綺麗だろうなって思ってたんです。だから……瓊環様と一緒に見れて、よかったです」

 儚げに微笑む彼女の顔を前に、瓊環は返すべきものを失う。「一緒に」という響きは、熱を持ちながら深く胸に落ちた。
 それを悟られないようにしたかったのだろう。選んだ言葉は少しだけ棘を含んでいた。
 
「勝手に遠くへ行くな、と言ったはずだ」

 奈珠那の瞳がかすかに曇った。

「申し訳……ございません」

 目を伏せた彼女の顔から笑みが消えていく。

 ──違う……。

 こんな言葉を言いたかったのではない。謝罪の言葉を引き出したかったわけでも、暗い顔をさせたかったわけでもない。目が届かない場所へ行った彼女を案じ、焦り、心が乱れた自分を認めるのが恐ろしいだけだった。
 瓊環は近場にあった秋桜を一輪手折り、奈珠那との距離を縮めた。
 
「奈珠那」

 叱責を待つように彼女は小さく瞬きをする。緋い瞳が瓊環を映した。
 瓊環は何も言わず、そっと手を伸ばす。指先が触れたのは艶めく黒鳶色の髪と、ほのかな人の温度。花を挿すだけの、あまりにも些細な所作だった。

 何気なく触れた瞬間、瓊環の中で記憶が疼いた。出会ったばかり、組み伏せて着物に手をかけたときの記憶だ。恐怖に強張り、嗚咽をもらしながら泣いていた少女の姿。
 安易に触れて、また泣かせてしまうのではないか。そう思ったが──秋桜に囲まれている彼女は、そうではなかった。触れられても震えず、少しだけ頬を染めて困ったように笑っていた。
 
「……似合っている」

 ふとこぼれた言葉は、花に向けた言葉だったのか。それとも、彼女自身に向けたものだったのか。
 瓊環が答えを探すことはなかった。どちらなのか考えるまでもなく、今の彼の視界には奈珠那しか映っていなかったからだ。
 奈珠那は一瞬きょとんとしたあと、指先で(かんざし)代わりの秋桜に触れた。

「ありがとうございます」

 その声は思ったよりも近くて柔らかい。やがて彼女の頬が挿された秋桜よりも深く、ゆるやかに赤く染まっていく。
 彼女から視線を逸らせなかった。胸の奥に息づいたのは安堵と、名づけられない熱。
 かつて彼女を泣かせたこの手は、彼女の笑顔ひとつを失うことをひどく恐れていた。